2010/04/27(火) - 10:28
ベルギーチームに所属するベルギー人選手、フィリップ・ジルベールは、地元レースであるリエージュ〜バストーニュ〜リエージュで敗北を喫した。そんなジルベールの次なる目標は、世界王者を決めるロード世界選手権だ。
今から1週間前、ジルベールはカウベルグで強烈なアタックを成功させて、アムステル・ゴールドレース初制覇を達成した。フレーシュ・ワロンヌでも有力グループ内で「ユイの壁」に挑み、元チームメイトであるカデル・エヴァンス(オーストラリア、BMCレーシングチーム)の後方、6番手でゴールラインを切った。
そして迎えたアルデンヌ第3戦、ベルギー・ワロン地域を駆け抜けるリエージュ〜バストーニュ〜リエージュ。ジルベールの生家はゴール地点から30kmしか離れていない。正真正銘の地元レース。
沿道には地元のファンが大勢駆けつけ、路上には「PHIL(フィリップ)」のペイントがぎっしり。ジルベールもシーズン前半の大一番として、モチヴェーション高くレースに挑んだ。
しかし、ジルベールの野望を打ち砕いたのは、アレクサンドル・ヴィノクロフ(カザフスタン、アスタナ)のアタックだった。不本意な3位争いのスプリントに絡んだジルベールを迎えたのは、優勝者ヴィノクロフの何倍ものボリュームの大声援。しかし結果はアレハンドロ・バルベルデ(スペイン、ケースデパーニュ)に敗れての4位。昨年と結果は変わらなかった。
「フィリップにとってリエージュは地元レース。何としても勝ちたいと思っているレースだ。しかし彼はナーバスになりすぎることもなく、比較的落ち着いていた。フィリップは目を閉じても走れるほどコースの隅々まで知っているんだ。地元の利があるだけに、アムステル・ゴールドレース直前より落ち着いていたように思える」。スタート前にそう語ったのはオメガファーマ・ロットのマルク・セルジャン監督。
「フィリップのコンディションはおそらく過去最高だろう。勝つ準備は整った」。
ジルベールがコースを知り尽くしているように、セルジャン監督はジルベールのことを知り尽くしている。今から10年以上も前、ベルギーのジュニアナショナルチームの監督を務めていたセルジャン氏は、ワロン地域出身のジルベールの能力に驚いた。それ以降、チームは違えど、セルジャン監督は片時も目を離さずジルベールを見守り続けた。
「(ワロン地域はフランス語圏だが)いつでも彼はフラマン語でインタビューに答えようと努力していた。たとえインタビュアーがフランス語で話しかけても、フィリップはフラマン語を貫いた。そんな選手は彼しかいなかったよ」。
ジュニア時代から存在感を見せたジルベールだったが、セルジャン監督のロットチームには加わらず、フランスのフランセーズデジューでプロデビューを果たす。ジルベールが20歳の時だった。
1998年にロードレース界を激震させたフェスティナ・ドーピングスキャンダル以降、フランスは若手育成に力を注いでいた。どのチームも選手に過度なプレッシャーを与えないよう努め、ドーピング根絶を第一に考えた。たとえそれがレース成績に結びつかなくても。
「フランスチームを選んだのは彼の判断。ベルギーチームに入ることで受ける大きなプレッシャーを拒んだのだろう。ベルギーチームでプロデビューすると、必然的に結果が求められるんだ」。
「数年後、ある時期を境に、フィリップは『クラシックレースで結果を残すためにはチームを移籍する必要がある』と考え始めた。何故なら、フランスチームはツール・ド・フランスに代表されるフランスレースに傾倒しているから」。
「フィリップとは常に連絡を取り合っていたよ。ロットチームがフランスレースからベルギーに戻る時は、彼をよくチームバスに乗せて家まで送り届けた。彼が飛行機に乗る時も、バイクや荷物をチームのトラックに載せたり。彼とは長年に渡っていい関係を築いていたんだ」。
「彼とフランセーズデジューの契約が切れることを知って、私はかなり早い段階から連絡を取り始めた。まずは『チームが彼を必要としていること』を伝え、彼の要望を聞き、一緒に移籍するチームメイトのことや目標レースについて話し合った。彼にとって契約金云々の話は問題じゃなかった」。
セルジャン監督の努力が実り、ジルベールは2009年シーズン開幕前にロットチーム(当時サイレンス・ロット)と契約。同年ジルベールは目覚ましい活躍を見せることになる。
まずはジロ・デ・イタリアでステージ優勝を飾ると、シーズン後半にかけてコッパ・サバティーニ、パリ〜トゥール、ジロ・デル・ピエモンテ、ジロ・ディ・ロンバルディアで怒濤の連勝を飾る。
しばしばジルベールはパオロ・ベッティーニ(イタリア)と比較される。アムステル・ゴールドレースで優勝した今、ますますその流れは加速した。
リエージュで2勝したベッティーニは、2008年のロード世界選手権で引退を迎えるまで、名立たるワンディクラシックのタイトルを総なめ。世界最強のクラシックレーサーの称号を得た。ベッティーニが2006年と2007年に優勝したロード世界選手権が、ジルベールの次なる目標だ。
「春のクラシックレースで1勝も出来なかったら、ツール・ド・フランスに出場する。それが今シーズンのプログラムだった。フィリップはアムステルで優勝したので第一目標をクリア。ツールには出場しない。その代わりにロード世界選手権に向けてスケジュールを組み直す」。
ジルベールは4月27日に開幕するツール・ド・ロマンディに出場。そのスイスレース終了後、束の間の休息期間に入る。ブエルタ・ア・エスパーニャは最後まで走る予定で、その後はオーストラリア・メルボルンに飛ぶ。ロード世界選手権はブエルタ最終日の2週間後に行なわれる。
「プロロード選手のスケジュールは数ヶ月前から周到に組む必要がある。フィリップ曰く、オーストラリアへの長時間のフライトは問題ない。フランセーズデジュー時代に(ツアー・ダウンアンダーで)何度も経験したそうだ。『リカバリーに努め、調子をマックスに持って行く』。フィリップはそう意気込んでいたよ」。
スプリンター有利と言われる今年のロード世界選手権。トム・ボーネン(ベルギー、クイックステップ)というエーススプリンターを擁するベルギーチームは、ジルベールを最前線に送り込んでレースをかき回してくるだろう。ゴール前の上りでジルベールのアタックが炸裂するはずだ。
text:Gregor Brown in Ans
photo:Cor Vos
translation:Kei Tsuji
Gregor.Brown (グレゴー・ブラウン)
イタリア・レッコ在住のアメリカ人プロサイクリング・ジャーナリスト。2005、2006年ジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランス、春のクラシック等で綾野 真(シクロワイアード編集長/フォトジャーナリスト)に帯同し、取材活動を行う。2007年よりサイクリングニュース(イギリス)の主筆ジャーナリストとして活躍後、フリーランスに。2009年12月よりシクロワイアード契約ジャーナリストとなる。今後、主にイタリア・英語圏プロサイクリングメディアに活動の舞台を移す。
今から1週間前、ジルベールはカウベルグで強烈なアタックを成功させて、アムステル・ゴールドレース初制覇を達成した。フレーシュ・ワロンヌでも有力グループ内で「ユイの壁」に挑み、元チームメイトであるカデル・エヴァンス(オーストラリア、BMCレーシングチーム)の後方、6番手でゴールラインを切った。
そして迎えたアルデンヌ第3戦、ベルギー・ワロン地域を駆け抜けるリエージュ〜バストーニュ〜リエージュ。ジルベールの生家はゴール地点から30kmしか離れていない。正真正銘の地元レース。
沿道には地元のファンが大勢駆けつけ、路上には「PHIL(フィリップ)」のペイントがぎっしり。ジルベールもシーズン前半の大一番として、モチヴェーション高くレースに挑んだ。
しかし、ジルベールの野望を打ち砕いたのは、アレクサンドル・ヴィノクロフ(カザフスタン、アスタナ)のアタックだった。不本意な3位争いのスプリントに絡んだジルベールを迎えたのは、優勝者ヴィノクロフの何倍ものボリュームの大声援。しかし結果はアレハンドロ・バルベルデ(スペイン、ケースデパーニュ)に敗れての4位。昨年と結果は変わらなかった。
「フィリップにとってリエージュは地元レース。何としても勝ちたいと思っているレースだ。しかし彼はナーバスになりすぎることもなく、比較的落ち着いていた。フィリップは目を閉じても走れるほどコースの隅々まで知っているんだ。地元の利があるだけに、アムステル・ゴールドレース直前より落ち着いていたように思える」。スタート前にそう語ったのはオメガファーマ・ロットのマルク・セルジャン監督。
「フィリップのコンディションはおそらく過去最高だろう。勝つ準備は整った」。
ジルベールがコースを知り尽くしているように、セルジャン監督はジルベールのことを知り尽くしている。今から10年以上も前、ベルギーのジュニアナショナルチームの監督を務めていたセルジャン氏は、ワロン地域出身のジルベールの能力に驚いた。それ以降、チームは違えど、セルジャン監督は片時も目を離さずジルベールを見守り続けた。
「(ワロン地域はフランス語圏だが)いつでも彼はフラマン語でインタビューに答えようと努力していた。たとえインタビュアーがフランス語で話しかけても、フィリップはフラマン語を貫いた。そんな選手は彼しかいなかったよ」。
ジュニア時代から存在感を見せたジルベールだったが、セルジャン監督のロットチームには加わらず、フランスのフランセーズデジューでプロデビューを果たす。ジルベールが20歳の時だった。
1998年にロードレース界を激震させたフェスティナ・ドーピングスキャンダル以降、フランスは若手育成に力を注いでいた。どのチームも選手に過度なプレッシャーを与えないよう努め、ドーピング根絶を第一に考えた。たとえそれがレース成績に結びつかなくても。
「フランスチームを選んだのは彼の判断。ベルギーチームに入ることで受ける大きなプレッシャーを拒んだのだろう。ベルギーチームでプロデビューすると、必然的に結果が求められるんだ」。
「数年後、ある時期を境に、フィリップは『クラシックレースで結果を残すためにはチームを移籍する必要がある』と考え始めた。何故なら、フランスチームはツール・ド・フランスに代表されるフランスレースに傾倒しているから」。
「フィリップとは常に連絡を取り合っていたよ。ロットチームがフランスレースからベルギーに戻る時は、彼をよくチームバスに乗せて家まで送り届けた。彼が飛行機に乗る時も、バイクや荷物をチームのトラックに載せたり。彼とは長年に渡っていい関係を築いていたんだ」。
「彼とフランセーズデジューの契約が切れることを知って、私はかなり早い段階から連絡を取り始めた。まずは『チームが彼を必要としていること』を伝え、彼の要望を聞き、一緒に移籍するチームメイトのことや目標レースについて話し合った。彼にとって契約金云々の話は問題じゃなかった」。
セルジャン監督の努力が実り、ジルベールは2009年シーズン開幕前にロットチーム(当時サイレンス・ロット)と契約。同年ジルベールは目覚ましい活躍を見せることになる。
まずはジロ・デ・イタリアでステージ優勝を飾ると、シーズン後半にかけてコッパ・サバティーニ、パリ〜トゥール、ジロ・デル・ピエモンテ、ジロ・ディ・ロンバルディアで怒濤の連勝を飾る。
しばしばジルベールはパオロ・ベッティーニ(イタリア)と比較される。アムステル・ゴールドレースで優勝した今、ますますその流れは加速した。
リエージュで2勝したベッティーニは、2008年のロード世界選手権で引退を迎えるまで、名立たるワンディクラシックのタイトルを総なめ。世界最強のクラシックレーサーの称号を得た。ベッティーニが2006年と2007年に優勝したロード世界選手権が、ジルベールの次なる目標だ。
「春のクラシックレースで1勝も出来なかったら、ツール・ド・フランスに出場する。それが今シーズンのプログラムだった。フィリップはアムステルで優勝したので第一目標をクリア。ツールには出場しない。その代わりにロード世界選手権に向けてスケジュールを組み直す」。
ジルベールは4月27日に開幕するツール・ド・ロマンディに出場。そのスイスレース終了後、束の間の休息期間に入る。ブエルタ・ア・エスパーニャは最後まで走る予定で、その後はオーストラリア・メルボルンに飛ぶ。ロード世界選手権はブエルタ最終日の2週間後に行なわれる。
「プロロード選手のスケジュールは数ヶ月前から周到に組む必要がある。フィリップ曰く、オーストラリアへの長時間のフライトは問題ない。フランセーズデジュー時代に(ツアー・ダウンアンダーで)何度も経験したそうだ。『リカバリーに努め、調子をマックスに持って行く』。フィリップはそう意気込んでいたよ」。
スプリンター有利と言われる今年のロード世界選手権。トム・ボーネン(ベルギー、クイックステップ)というエーススプリンターを擁するベルギーチームは、ジルベールを最前線に送り込んでレースをかき回してくるだろう。ゴール前の上りでジルベールのアタックが炸裂するはずだ。
text:Gregor Brown in Ans
photo:Cor Vos
translation:Kei Tsuji
Gregor.Brown (グレゴー・ブラウン)
イタリア・レッコ在住のアメリカ人プロサイクリング・ジャーナリスト。2005、2006年ジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランス、春のクラシック等で綾野 真(シクロワイアード編集長/フォトジャーナリスト)に帯同し、取材活動を行う。2007年よりサイクリングニュース(イギリス)の主筆ジャーナリストとして活躍後、フリーランスに。2009年12月よりシクロワイアード契約ジャーナリストとなる。今後、主にイタリア・英語圏プロサイクリングメディアに活動の舞台を移す。