2019/06/05(水) - 18:55
5月30日から6月2日にかけて開催されたツール・ド・熊野。キナンサイクリングチームのゼネラルマネージャーの加藤康則氏に、ツール・ド・熊野にホームチームとして臨む難しさと、大会にかける想いを語って頂いた。
ツール・ド・熊野のプロローグと第1ステージの舞台となる和歌山県新宮市。ここに本拠地を置くのがキナンサイクリングチームだ。2015年に発足し、ツール・ド・熊野での個人総合優勝を最大の目標として活動してきたが、今年もその目標には届かず。4日間を振り返ってもらった。
−キナンサイクリングチームとして5回目のツール・ド・熊野が終わりましたが、振り返っていかがでしたか?
「個人総合優勝を目指していたので、今回も残念ながら悔しい結果となってしまいました。それでも第2ステージでトマ・ルバが優勝し、マルコス・ガルシアが山岳賞を獲得してくれました。最低限ですが表彰台の一角を確保できたという意味では良かったし、肩の荷が下りた感じです。
惜しかったのは、山本大喜ですね。個人総合で17秒差の8位で最終日を迎え、そのままレースを終えていればUCIポイントを獲得できる位置でしたが、落車でリタイアとなってしまいました。
でも第1ステージの結果、大喜がリーダーを任されたのは大きな経験だし、その重圧に耐えながらレースを走ることは、なかなか経験できることではないです。ホームレースの重圧もありながら、その役を担うということがどれだけのものか理解してもらえたと思います。こういう経験がその後の飛躍につながることをこれまでも見てきているので、良い方向に向いて欲しいです」
−やはり熊野の個人総合優勝は難しいですか?
「ツール・ド・熊野は難しいです。初日のタイムトライアルでついた秒差を最終日まで引きずることになるので、激しいレース展開が続く。観客目線で見たら国内レースでこれ以上面白いレースは無いと思っています。手前味噌になりますが(笑)。それゆえ、簡単に勝つことが出来ないレースでもあります。マトリックス(パワータグ)さんは、我々がチームを創設した2015年以来、今回も含めて3回も勝ってる。安原さんすごいなと。悔しい気持ちが大きいですね。
選手達はこの大会には前のめりになるので、最終日の大喜の落車もその結果なのかもしれません。それだけ意気込んでいるとも言えるのですが、コースのことなどは他のチームよりも我々がよく知っているので、まだ甘い部分があると言われればそうなのかもしれません」
ターニングポイントを迎えたツール・ド・熊野と、将来にかける想い
21回目の今年の大会は、色々な部分で変わったことがあった。第1ステージのコース追加・変更、第2ステージのパレード区間の変更などもそうだが、昨年まで併催されていたJBCF(一般社団法人日本実業団自転車競技連盟)のレースが無くなった。これは開催・運営の体制が変わったことが原因と加藤GMは説明する。
−21回目の開催は色々と変わったことがありましたね
「まず昨年の20回大会を終えた時点で、第2ステージを従来の方法で開催することが難しくなっていました。昨年までは開催地の三重県熊野市で実行委員会を組織し、第2ステージの開催・運営をしていました。地元のみなさんが先頭をきって、立哨やってくださる人達を集めたり、コースの草刈りや札立峠の下りの苔を掃除して頂いたり・・・でも年を重ねて、関わって頂いた方々の高齢化や仕事での立場の変化ということがあり、人手を確保することが難しくなりました。
一時は第2ステージの開催そのものが危ぶまれる状況でしたが、ツール・ド・熊野のクイーンステージを無くしたくないという想いもあり、大会を主催するスポーツプロデュース熊野が実行委員会ごと引き受けることにしました。大会の全てをスポーツプロデュース熊野が取り仕切ることになったのは今回が初めてなのですが、人員や時間に余裕があるわけでなく、JBCFのレース出場を楽しみにされていた皆さんには申し訳ないとしか言えないのですが、今回はUCIレースの開催に集中させて頂くことにしました。
この大会は和歌山県と三重県で開催し、県をまたぐ上に会場が4ヶ所もあります。和歌山県側でOKなことが三重県側ではダメと言われることザラですし、それらを個々に調整して開催にこぎ着けているのです。まずはUCIレースを継続する方向を模索した結果であることをご理解頂きたいと思います」
−人的な問題は、他の国内大会にも通じる共通した今後の課題だと思います
「ご存知かもしれませんが、和歌山県は他の都道府県に比べて人口減少が最も進んでいる地域でもあるのです。それでも他の大会と同様に人員は揃えないといけない。開催を続けていくにも、こういうエリアで続けるには難しい側面もあります。
ツール・ド・熊野は、10年区切りでターニングポイントが来ていて、1999年に3Days熊野からツール・ド・熊野となり、2008年からUCIレースとなりました。そして今年は開催・運営体制が変わり、どのように次の世代につなげていくかを、大会に関わる方々と話し合っています。
今年は例年以上に協賛を頂けてありがたかったです。とは言え、ツアー・オブ・ジャパンやジャパンカップに比べれば予算規模は小さいし、人海戦術でなんとか運営しています。キナンサイクリングチームとしても、大会に出場するチームとしてファンを増やし、我々を見にきてくれる人を増やしていきたい。それが地域活性化につながり、ツール・ド・熊野を無くしてはいけないという流れになってくれれば、より良い方向に向かうのではないかと考えています」
加藤GM自身、ツール・ド・熊野の前身の大会である「3Day's Road 熊野」の計画段階から関わり、選手として第1回大会に出場した経験を持つ。第2ステージでトマ・ルバが優勝した際、ストリーミング中継の解説中の絶叫も、この大会にかける人一倍強い想いの表れだろう。
一方で、大会開催に関わる人員の問題は、これから全ての国内レースが確実に直面する問題。ツール・ド・熊野に限らず、他のローカル大会でも大会運営に必要な人数が以前ほど集まらなくなっているという話を聞く。今は毎週どこかでレースやイベントが開催されているが、それが当たり前ではないことをツール・ド・熊野の現状が示している。
日本有数のロケーションを誇るレースが今後も続くことを願いたい。
text:Satoru Kato
ツール・ド・熊野のプロローグと第1ステージの舞台となる和歌山県新宮市。ここに本拠地を置くのがキナンサイクリングチームだ。2015年に発足し、ツール・ド・熊野での個人総合優勝を最大の目標として活動してきたが、今年もその目標には届かず。4日間を振り返ってもらった。
−キナンサイクリングチームとして5回目のツール・ド・熊野が終わりましたが、振り返っていかがでしたか?
「個人総合優勝を目指していたので、今回も残念ながら悔しい結果となってしまいました。それでも第2ステージでトマ・ルバが優勝し、マルコス・ガルシアが山岳賞を獲得してくれました。最低限ですが表彰台の一角を確保できたという意味では良かったし、肩の荷が下りた感じです。
惜しかったのは、山本大喜ですね。個人総合で17秒差の8位で最終日を迎え、そのままレースを終えていればUCIポイントを獲得できる位置でしたが、落車でリタイアとなってしまいました。
でも第1ステージの結果、大喜がリーダーを任されたのは大きな経験だし、その重圧に耐えながらレースを走ることは、なかなか経験できることではないです。ホームレースの重圧もありながら、その役を担うということがどれだけのものか理解してもらえたと思います。こういう経験がその後の飛躍につながることをこれまでも見てきているので、良い方向に向いて欲しいです」
−やはり熊野の個人総合優勝は難しいですか?
「ツール・ド・熊野は難しいです。初日のタイムトライアルでついた秒差を最終日まで引きずることになるので、激しいレース展開が続く。観客目線で見たら国内レースでこれ以上面白いレースは無いと思っています。手前味噌になりますが(笑)。それゆえ、簡単に勝つことが出来ないレースでもあります。マトリックス(パワータグ)さんは、我々がチームを創設した2015年以来、今回も含めて3回も勝ってる。安原さんすごいなと。悔しい気持ちが大きいですね。
選手達はこの大会には前のめりになるので、最終日の大喜の落車もその結果なのかもしれません。それだけ意気込んでいるとも言えるのですが、コースのことなどは他のチームよりも我々がよく知っているので、まだ甘い部分があると言われればそうなのかもしれません」
ターニングポイントを迎えたツール・ド・熊野と、将来にかける想い
21回目の今年の大会は、色々な部分で変わったことがあった。第1ステージのコース追加・変更、第2ステージのパレード区間の変更などもそうだが、昨年まで併催されていたJBCF(一般社団法人日本実業団自転車競技連盟)のレースが無くなった。これは開催・運営の体制が変わったことが原因と加藤GMは説明する。
−21回目の開催は色々と変わったことがありましたね
「まず昨年の20回大会を終えた時点で、第2ステージを従来の方法で開催することが難しくなっていました。昨年までは開催地の三重県熊野市で実行委員会を組織し、第2ステージの開催・運営をしていました。地元のみなさんが先頭をきって、立哨やってくださる人達を集めたり、コースの草刈りや札立峠の下りの苔を掃除して頂いたり・・・でも年を重ねて、関わって頂いた方々の高齢化や仕事での立場の変化ということがあり、人手を確保することが難しくなりました。
一時は第2ステージの開催そのものが危ぶまれる状況でしたが、ツール・ド・熊野のクイーンステージを無くしたくないという想いもあり、大会を主催するスポーツプロデュース熊野が実行委員会ごと引き受けることにしました。大会の全てをスポーツプロデュース熊野が取り仕切ることになったのは今回が初めてなのですが、人員や時間に余裕があるわけでなく、JBCFのレース出場を楽しみにされていた皆さんには申し訳ないとしか言えないのですが、今回はUCIレースの開催に集中させて頂くことにしました。
この大会は和歌山県と三重県で開催し、県をまたぐ上に会場が4ヶ所もあります。和歌山県側でOKなことが三重県側ではダメと言われることザラですし、それらを個々に調整して開催にこぎ着けているのです。まずはUCIレースを継続する方向を模索した結果であることをご理解頂きたいと思います」
−人的な問題は、他の国内大会にも通じる共通した今後の課題だと思います
「ご存知かもしれませんが、和歌山県は他の都道府県に比べて人口減少が最も進んでいる地域でもあるのです。それでも他の大会と同様に人員は揃えないといけない。開催を続けていくにも、こういうエリアで続けるには難しい側面もあります。
ツール・ド・熊野は、10年区切りでターニングポイントが来ていて、1999年に3Days熊野からツール・ド・熊野となり、2008年からUCIレースとなりました。そして今年は開催・運営体制が変わり、どのように次の世代につなげていくかを、大会に関わる方々と話し合っています。
今年は例年以上に協賛を頂けてありがたかったです。とは言え、ツアー・オブ・ジャパンやジャパンカップに比べれば予算規模は小さいし、人海戦術でなんとか運営しています。キナンサイクリングチームとしても、大会に出場するチームとしてファンを増やし、我々を見にきてくれる人を増やしていきたい。それが地域活性化につながり、ツール・ド・熊野を無くしてはいけないという流れになってくれれば、より良い方向に向かうのではないかと考えています」
加藤GM自身、ツール・ド・熊野の前身の大会である「3Day's Road 熊野」の計画段階から関わり、選手として第1回大会に出場した経験を持つ。第2ステージでトマ・ルバが優勝した際、ストリーミング中継の解説中の絶叫も、この大会にかける人一倍強い想いの表れだろう。
一方で、大会開催に関わる人員の問題は、これから全ての国内レースが確実に直面する問題。ツール・ド・熊野に限らず、他のローカル大会でも大会運営に必要な人数が以前ほど集まらなくなっているという話を聞く。今は毎週どこかでレースやイベントが開催されているが、それが当たり前ではないことをツール・ド・熊野の現状が示している。
日本有数のロケーションを誇るレースが今後も続くことを願いたい。
text:Satoru Kato
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