2009/06/23(火) - 13:19
着々と力を伸ばしていった石井、藤田の両選手は07年11月、コロンビアでそれぞれ未公認ながら世界新をマーク、その確かな力は世界が認めるところとなった。それぞれが着実に目標に近づいていく手応えの中、チームにはより高いところを目指し切磋琢磨する空気が育まれてゆく。チーム班目ジャパンは、選手たちを心身ともに支える確かな母艦となっていった。
■2007年11月 コロンビア・カリ、オープンアメリカン選手権
石井雅史、藤田征樹が未公認の世界新!
――ボルドー大会の3カ月後です。1kmTTでは石井さん[CP4]が1分8秒247、藤田さん[LC3]が1分16秒236と、未公認ながらそれぞれの障害クラスの世界新に相当する、素晴らしいタイムを出しましたね。
栗原「コロンビアの大会にはもっと参加できればよかったのですが、ボルドー大会の直後とあって仕事を休めず、費用の問題もあって、参加選手は石井、藤田の2名となりました。現地に行ったスタッフからレース直後に日本に報告が来るのですが、これがびっくりするようないいタイムで。ボルドーで足りなかったポイントを、目標以上に補ってくれました。」
――藤田さんがボルドーでの1分18秒811から縮めたタイムは2秒近く。機材になにか仕掛けがあるのではと疑って見にきた外国チームがあったそうですね。「普通、たった3カ月で2秒もタイムが縮むなんであり得ないから。こっちがトラックを始めたばかりなんて思わないさ」と班目監督は笑っておられました。
北京では藤田さんは更にタイムを縮め、1分17秒314。しかし、英国の伏兵・サイモン・リチャードソンが1分14秒936のショッキングな世界新を叩きだし、藤田さんは無念の銀となりましたが……。
さて、この大会後2007年末の段階で、北京出場枠を決めるUCIのポイントが決定しました。
栗原「ランキングポイントから算出すると日本は5でしたが、枠を割り振る段階になって算出基準値が変更されました。上位国の本来の枠数が減って下位の国が増え、日本は4となりました。そのため、国内選考ではメダリストなどを考慮して、人選はすんなりと決まりました。」
■08北京への強化
栗原「2007年までの狙いはポイント獲得でしたが、2008年の目標はメダル獲得です。冬場は各自で個人練習、3月から月に1~2回の代表選手強化合宿を始めました。ただ合宿がすべてではなく、個人で普段のトレーニングを積み重ねて貯金を作って、合宿でのプロの指導でガーンと伸ばす考え方です。毎週合宿ではかえってマイナスになる面もあります。選手たちには仕事もあるので、早朝や夜間に工夫して練習したりしていました。」
――合宿ではどんな練習を。
栗原「修善寺の250mバンクでは、スタート練習、バイク誘導、高負荷、インターバルトレーニングなど。ロードでは車誘導、レースを想定した追走等と、自転車のトレーニングとしてはごく一般的な内容です。監督のメニューは五輪でも実証済みです。負荷をかけた運動の例としては、自転車のダウンチューブに重りをつけ、選手の体にも重りをつけてトラックを走るトレーニングなども行いました。」
――選手いわく「金メダル養成ギブス」ですね。
栗原「トレーニングでは、それぞれの選手のメインとサブの種目に狙いを絞りました。1種目だけでなく、石井は1kmTTと3km個人追抜、藤田も同じ2種目、大城・高橋ペアが1kmTTとスプリントです。三輪の小川はトラック種目がないので、ロードレースを狙っていきました。」
――北京の出場選手に対する強化費などはありましたか?
栗原「厳しい状況の中でしたが、2008年に関しては、出場人数に対して割り当てられる、日本障害者スポーツ協会からの助成金がありました。強化合宿の交通費、宿泊費はすべてJCADが出して、選手にはトレーニングに集中してもらいました。そのほかに選手・役員の職場の関係者からのご支援など、いろいろな方からのご協力もあり、そのお気持ちが大変ありがたく感謝しています。」
――合宿にも、プロのスタッフの皆さんがいらしていましたが。
栗原「メカニックまたはトレーナーに、ほぼ毎回来ていただいていました。全力で、選手にはできるだけのことはしました。」
――強化合宿での手応えは。
栗原「石井は安定した力を見せ、練習で世界記録と同等のタイムを出しています。藤田は、疲労はたまっていましたが、やはり練習で世界記録のタイムを出しています。大城ペアは、なかなか調子が上がらず苦労していましたが、途中から自転車のフレームを新しいものに変え、だんだん良くなっていきました。バイク誘導で感触をつかみ、自信が芽生えた様子でした。小川はメカトラブルもありましたが、良かったアテネ大会の時をはるかに超える走りを見せていました。猛暑の中で、それぞれがしっかりと手応えを感じていました。」
――合宿を重ねるごとにチームが力を積み上げていく感触は、端で見ていても感じました。
栗原「タイム向上も、チーム全体としてモチベーションが高く、時には助け合い励まし合い、仲はいいけれどライバルとして切磋琢磨していくようないい形に、チームがなっていったと思います。」
――競輪選手だった石井さんや、プロ選手だったタンデムパイロットの高橋さんの持つ、自転車競技に対する思いや姿勢、知識も、チームに対していい影響となったのでは。世界大会でいい結果が出て、信頼関係と和がチームに少しずつ生まれていって、いろいろなタイミングが噛み合う幸運も働きました。この時期日本チームは、運を呼び込む準備ができていたというべきでしょうか。
栗原「JCFさんにも理解していただいて、五輪選手と一緒に動く機会もありました。選手たちはいい刺激を受け、発奮するきっかけにもなりました。6月に東京ドームで行われた自転車選手北京壮行会イベントの『サイクルフェスタ2008』は、史上初の五輪選手とパラリンピック選手の合同壮行会となりました。大勢の観客の前で、五輪選手と同じ舞台でデモンストレーション走行を行い、一緒に並んでインタビューを受け、壇上で記念撮影。7月末にはJCFさん主催の五輪・パラリンピック合同の壮行会も開催していただきました。JCF会長、強化委員長、強化部長を初めとする皆様のご理解のおかげと感謝しています。受け入れられた感があって、以前では考えられない信じられないような日が来たような、非常に感慨深い思いです。」
――8月の五輪では、永井清史選手がケイリンで銅メダルを獲得し、自転車が注目を集めましたね。
栗原「ちょうど修善寺での合宿中に、永井選手のメダル獲得のニュースを受けて、選手たちにはおおいに刺激になったと思います。」
いい風をしっかりとらえ、上昇気流に乗った班目ジャパン。北京大会では、石井の金・銀・銅3冠をはじめメダル6個を獲得、全員が入賞を果たす。各方面から「チームがきちんと機能していて素晴らしかった」と、高い評価も受けた。しかし、栗原理事はチームマネージャーの立場から「北京のメダルは良かったですが、ここで油断したり安心できる要素はない。課題はたくさんある」と、あえて厳しい視線を注ぐ。
<vol.5に続く>
text:佐藤有子/フォトジャーナリスト。2006、07年のパラサイクリング世界選手権及び08年の北京パラリンピックにてUCIのオフィシャルフォトグラファーを務める。
■2007年11月 コロンビア・カリ、オープンアメリカン選手権
石井雅史、藤田征樹が未公認の世界新!
――ボルドー大会の3カ月後です。1kmTTでは石井さん[CP4]が1分8秒247、藤田さん[LC3]が1分16秒236と、未公認ながらそれぞれの障害クラスの世界新に相当する、素晴らしいタイムを出しましたね。
栗原「コロンビアの大会にはもっと参加できればよかったのですが、ボルドー大会の直後とあって仕事を休めず、費用の問題もあって、参加選手は石井、藤田の2名となりました。現地に行ったスタッフからレース直後に日本に報告が来るのですが、これがびっくりするようないいタイムで。ボルドーで足りなかったポイントを、目標以上に補ってくれました。」
――藤田さんがボルドーでの1分18秒811から縮めたタイムは2秒近く。機材になにか仕掛けがあるのではと疑って見にきた外国チームがあったそうですね。「普通、たった3カ月で2秒もタイムが縮むなんであり得ないから。こっちがトラックを始めたばかりなんて思わないさ」と班目監督は笑っておられました。
北京では藤田さんは更にタイムを縮め、1分17秒314。しかし、英国の伏兵・サイモン・リチャードソンが1分14秒936のショッキングな世界新を叩きだし、藤田さんは無念の銀となりましたが……。
さて、この大会後2007年末の段階で、北京出場枠を決めるUCIのポイントが決定しました。
栗原「ランキングポイントから算出すると日本は5でしたが、枠を割り振る段階になって算出基準値が変更されました。上位国の本来の枠数が減って下位の国が増え、日本は4となりました。そのため、国内選考ではメダリストなどを考慮して、人選はすんなりと決まりました。」
■08北京への強化
栗原「2007年までの狙いはポイント獲得でしたが、2008年の目標はメダル獲得です。冬場は各自で個人練習、3月から月に1~2回の代表選手強化合宿を始めました。ただ合宿がすべてではなく、個人で普段のトレーニングを積み重ねて貯金を作って、合宿でのプロの指導でガーンと伸ばす考え方です。毎週合宿ではかえってマイナスになる面もあります。選手たちには仕事もあるので、早朝や夜間に工夫して練習したりしていました。」
――合宿ではどんな練習を。
栗原「修善寺の250mバンクでは、スタート練習、バイク誘導、高負荷、インターバルトレーニングなど。ロードでは車誘導、レースを想定した追走等と、自転車のトレーニングとしてはごく一般的な内容です。監督のメニューは五輪でも実証済みです。負荷をかけた運動の例としては、自転車のダウンチューブに重りをつけ、選手の体にも重りをつけてトラックを走るトレーニングなども行いました。」
――選手いわく「金メダル養成ギブス」ですね。
栗原「トレーニングでは、それぞれの選手のメインとサブの種目に狙いを絞りました。1種目だけでなく、石井は1kmTTと3km個人追抜、藤田も同じ2種目、大城・高橋ペアが1kmTTとスプリントです。三輪の小川はトラック種目がないので、ロードレースを狙っていきました。」
――北京の出場選手に対する強化費などはありましたか?
栗原「厳しい状況の中でしたが、2008年に関しては、出場人数に対して割り当てられる、日本障害者スポーツ協会からの助成金がありました。強化合宿の交通費、宿泊費はすべてJCADが出して、選手にはトレーニングに集中してもらいました。そのほかに選手・役員の職場の関係者からのご支援など、いろいろな方からのご協力もあり、そのお気持ちが大変ありがたく感謝しています。」
――合宿にも、プロのスタッフの皆さんがいらしていましたが。
栗原「メカニックまたはトレーナーに、ほぼ毎回来ていただいていました。全力で、選手にはできるだけのことはしました。」
――強化合宿での手応えは。
栗原「石井は安定した力を見せ、練習で世界記録と同等のタイムを出しています。藤田は、疲労はたまっていましたが、やはり練習で世界記録のタイムを出しています。大城ペアは、なかなか調子が上がらず苦労していましたが、途中から自転車のフレームを新しいものに変え、だんだん良くなっていきました。バイク誘導で感触をつかみ、自信が芽生えた様子でした。小川はメカトラブルもありましたが、良かったアテネ大会の時をはるかに超える走りを見せていました。猛暑の中で、それぞれがしっかりと手応えを感じていました。」
――合宿を重ねるごとにチームが力を積み上げていく感触は、端で見ていても感じました。
栗原「タイム向上も、チーム全体としてモチベーションが高く、時には助け合い励まし合い、仲はいいけれどライバルとして切磋琢磨していくようないい形に、チームがなっていったと思います。」
――競輪選手だった石井さんや、プロ選手だったタンデムパイロットの高橋さんの持つ、自転車競技に対する思いや姿勢、知識も、チームに対していい影響となったのでは。世界大会でいい結果が出て、信頼関係と和がチームに少しずつ生まれていって、いろいろなタイミングが噛み合う幸運も働きました。この時期日本チームは、運を呼び込む準備ができていたというべきでしょうか。
栗原「JCFさんにも理解していただいて、五輪選手と一緒に動く機会もありました。選手たちはいい刺激を受け、発奮するきっかけにもなりました。6月に東京ドームで行われた自転車選手北京壮行会イベントの『サイクルフェスタ2008』は、史上初の五輪選手とパラリンピック選手の合同壮行会となりました。大勢の観客の前で、五輪選手と同じ舞台でデモンストレーション走行を行い、一緒に並んでインタビューを受け、壇上で記念撮影。7月末にはJCFさん主催の五輪・パラリンピック合同の壮行会も開催していただきました。JCF会長、強化委員長、強化部長を初めとする皆様のご理解のおかげと感謝しています。受け入れられた感があって、以前では考えられない信じられないような日が来たような、非常に感慨深い思いです。」
――8月の五輪では、永井清史選手がケイリンで銅メダルを獲得し、自転車が注目を集めましたね。
栗原「ちょうど修善寺での合宿中に、永井選手のメダル獲得のニュースを受けて、選手たちにはおおいに刺激になったと思います。」
いい風をしっかりとらえ、上昇気流に乗った班目ジャパン。北京大会では、石井の金・銀・銅3冠をはじめメダル6個を獲得、全員が入賞を果たす。各方面から「チームがきちんと機能していて素晴らしかった」と、高い評価も受けた。しかし、栗原理事はチームマネージャーの立場から「北京のメダルは良かったですが、ここで油断したり安心できる要素はない。課題はたくさんある」と、あえて厳しい視線を注ぐ。
<vol.5に続く>
text:佐藤有子/フォトジャーナリスト。2006、07年のパラサイクリング世界選手権及び08年の北京パラリンピックにてUCIのオフィシャルフォトグラファーを務める。
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