2025年ジャパンカップ直前に引退を公表した入部正太朗。それを聞いて驚きよりも「あぁやっぱり」という感想を持った方も少なくないのではなかろうか。後編は引退を決めて走った2025年と、ラストレースを終えての今の心境を語ってもらった。
引退を胸に臨んだ2025年

ツアー・オブ・ジャパン2024年、中井唯晶(左)が山岳賞、寺田吉騎がポイント賞を獲得した photo:Satoru Kato 
Jプロツアーではチームランキング連覇を達成 photo:Satoru Kato

2024年ツール・ド・九州最終ステージでは、逃げに乗って個人総合を23位から6位にジャンプアップに成功 photo:Satoru Kato
(前編からつづき)2024年、シマノはさらに躍進を見せた。ツアー・オブ・ジャパンでは中井が山岳賞、寺田吉騎がポイント賞を獲得。さらに寺田はJプロツアーでU23賞を獲得。チームランキング2連覇を達成した。入部自身もツール・ド・九州で個人総合6位となり、UCIポイントを獲得した。

2025年Jクリテリウムツアーではスプリンターとなった中井唯晶が2勝を挙げた photo:Satoru Kato
2025年は中井がスプリンターに転向し、新たに始まったJクリテリウムツアーで2勝を挙げた。スプリンターのエースが存在したことで、「チームとしても『列車』を学ぶ良い機会になったと思います。勝てる選手を後ろにつけて牽引するのはやる気も違うし、楽しかったですよね」と、チームに良い影響があったと振り返る。
さらに入部は、滋賀県で開催された国民スポーツ大会(旧国体)に開催地滋賀県の代表として出場。ポイントレースで3位表彰台に立った。
「前年の佐賀大会で7年ぶりにトラックを走ったのですが、久々に表彰台争いが出来て楽しかったです。元々トラックの方が得意だったので、高強度のインターバルやきれいなペダリングを意識するとか、トラック特有の動きを研ぎ澄ましたことがロードにも活かせた気がします。」

2025年おおいたアーバンクラシックで3位はとなり、アジア最優秀選手賞を獲得 photo:Satoru Kato
その言葉を裏付けるように、国民スポーツ大会後のおおいたアーバンクラシックでは3位となり、UCIレースでは久々の表彰台に乗った。
そのレース前、入部自身から「今年で引退します」と聞かされたが、驚きはなかった。それは2023年にシマノに復帰が決まった時、「いよいよか…」と感じていたからかもしれない。そのことを入部に話すと「その通りですね」と笑って話す。
「やはり最後はシマノレーシングで終わりたいと考えていました。シマノに戻った時点で何年やるかは考えていなかったし、まだやれるとは思っていたけれど、レースで何も出来ない状態になるのは嫌だと思っていたので、まだ勝負できるというところで辞めたいと考えていました。
新城(幸也)さんや増田(成幸)さんは40歳を過ぎてもまだまだ強いけれど、NTTから日本に戻って30歳を過ぎて、ターニングポイントとして35歳前後を意識していたので、どうなるだろうと思っていましたね」

入部正太朗と野寺監督(2019年) photo:Satoru Kato
2024年末、翌年の契約を更新する際、チームは入部に2025年いっぱいでの引退を勧めた。入部と面談した野寺監督は「厳しい言い方をすれば、選手として契約するつもりは無いと伝えたことになりますね」と言う。
(野寺監督)「シマノに戻る際、入部は五輪を目指すと宣言していましたが、そこには到達出来なかった。だから選手として区切りをつけてスタッフとしてどうかと話しました。
私自身も30歳を過ぎて引退がチラついていた時に来年から監督になれと言われ、漠然と感じていた引退をチームが後押ししてくれたので決断しました。選手を続けることは肉体的にはめちゃくちゃキツいけれど、自転車選手以外にやることを想像出来ないから状況に甘えてそのまま続けてしまいたくなる。ある意味依存ですよね。だから、入部にも同じように伝えました」
選手を続けるなら他チームへ移籍する選択肢もあったし、野寺監督も入部の判断に任せた。でも入部はそれを受け入れ、2025年での引退を決めた。
「移籍してシマノを出るという考えは無かったです。むしろ翌年のことだけでなく再来年の席も用意してくれるというなら、やらせてくださいという気持ちでしたね。シマノに戻ってから3年の準備期間があって、選手としてやり切ったと思っていたので、そこは迷いはなかったです」
まだやれる、は最高の褒め言葉

「逃げ屋の自分らしいレースが出来た」と言うラストレースのツール・ド・おきなわ photo:Satoru Kato
選手としてやり切ったと言えるのは、自分のポテンシャルの中でやれることはやれたと思えているからだと入部は言う。
「五輪は届かなかったし、ヨーロッパも見たと言えるほとのレベルじゃなかった。トレーニングをしていても、金子(宗平)やマリノ(小林海)は僕からすればとんでもない数値を出していて、少しでも追いつきたいと思ってやってきたけれどそれは厳しいという答えに辿り着きました。
それなら逃げに乗るとかインターバルに強いとか、自分の長所を活かして勝負してどこまで行けるかと考えて比較したら、到達できるところは見えてきます。そう考えたら、もっと行けたと言うよりは、よくこの能力でいけたね、という方が近いかなと。諦めているだけと言われるかもしれないけれど、そう考えるとやり切れたと思えるんです」

おおいたアーバンクラシックではレース中盤以降逃げに乗り続けた photo:Satoru Kato
とは言え、まだ出来るかもしれないという想いがまったく無いわけではない。
「大分で3位になってパフォーマンス的には悪くなかったし、これならまだやれる力があるとも思えました。数値的にもピークアウトはしていませんからね。でも、これで2026年も選手を続けたとして、今年以上の2位、1位を目指すとなったら、レースの全てが自分のパターンにハマった上で勝てるかどうかとなるし、確率で言えばそんな状況は1%も無いでしょう。それでダメだったらまた来年も…ってズルズル続けてしまう。だからこれで十分でしょ!と、思えたんです」

ジャパンカップ・アフターパーティーで胴上げされる入部正太朗 photo:Satoru Kato
そして10月、ジャパンカップ直前に選手引退を公表した。「ファンの方には『そんな気がしてた』って言われ、選手からは『まだ続けると思ってた』と驚かれたのは意外でしたね」と、苦笑いする。
2026年はシマノレーシングのスタッフになる予定の入部。まだ詳細は決まってないと言うが、今はスタッフとしてやることを学んでいる最中だと言う。

ジャパンカップ・アフターパーティー名物居酒屋栗村は入部正太朗が引き継ぐとか…? photo:Satoru Kato 「今まで自分が好き勝手やってこれたのは万全のサポートがあったから。その感謝をもって自分がしてもらってきたことを今度は自分がやって、選手がストレスなく結果を出せる環境にしてあげたいです」と意気込みを語る。
と、ここまで話を聞いても、まだまだ行けるでしょ?、と言いたくなる。
「それが最高の褒め言葉です。もう、ちょうど良いです」
text:Satoru Kato
引退を胸に臨んだ2025年



(前編からつづき)2024年、シマノはさらに躍進を見せた。ツアー・オブ・ジャパンでは中井が山岳賞、寺田吉騎がポイント賞を獲得。さらに寺田はJプロツアーでU23賞を獲得。チームランキング2連覇を達成した。入部自身もツール・ド・九州で個人総合6位となり、UCIポイントを獲得した。

2025年は中井がスプリンターに転向し、新たに始まったJクリテリウムツアーで2勝を挙げた。スプリンターのエースが存在したことで、「チームとしても『列車』を学ぶ良い機会になったと思います。勝てる選手を後ろにつけて牽引するのはやる気も違うし、楽しかったですよね」と、チームに良い影響があったと振り返る。
さらに入部は、滋賀県で開催された国民スポーツ大会(旧国体)に開催地滋賀県の代表として出場。ポイントレースで3位表彰台に立った。
「前年の佐賀大会で7年ぶりにトラックを走ったのですが、久々に表彰台争いが出来て楽しかったです。元々トラックの方が得意だったので、高強度のインターバルやきれいなペダリングを意識するとか、トラック特有の動きを研ぎ澄ましたことがロードにも活かせた気がします。」

その言葉を裏付けるように、国民スポーツ大会後のおおいたアーバンクラシックでは3位となり、UCIレースでは久々の表彰台に乗った。
そのレース前、入部自身から「今年で引退します」と聞かされたが、驚きはなかった。それは2023年にシマノに復帰が決まった時、「いよいよか…」と感じていたからかもしれない。そのことを入部に話すと「その通りですね」と笑って話す。
「やはり最後はシマノレーシングで終わりたいと考えていました。シマノに戻った時点で何年やるかは考えていなかったし、まだやれるとは思っていたけれど、レースで何も出来ない状態になるのは嫌だと思っていたので、まだ勝負できるというところで辞めたいと考えていました。
新城(幸也)さんや増田(成幸)さんは40歳を過ぎてもまだまだ強いけれど、NTTから日本に戻って30歳を過ぎて、ターニングポイントとして35歳前後を意識していたので、どうなるだろうと思っていましたね」

2024年末、翌年の契約を更新する際、チームは入部に2025年いっぱいでの引退を勧めた。入部と面談した野寺監督は「厳しい言い方をすれば、選手として契約するつもりは無いと伝えたことになりますね」と言う。
(野寺監督)「シマノに戻る際、入部は五輪を目指すと宣言していましたが、そこには到達出来なかった。だから選手として区切りをつけてスタッフとしてどうかと話しました。
私自身も30歳を過ぎて引退がチラついていた時に来年から監督になれと言われ、漠然と感じていた引退をチームが後押ししてくれたので決断しました。選手を続けることは肉体的にはめちゃくちゃキツいけれど、自転車選手以外にやることを想像出来ないから状況に甘えてそのまま続けてしまいたくなる。ある意味依存ですよね。だから、入部にも同じように伝えました」
選手を続けるなら他チームへ移籍する選択肢もあったし、野寺監督も入部の判断に任せた。でも入部はそれを受け入れ、2025年での引退を決めた。
「移籍してシマノを出るという考えは無かったです。むしろ翌年のことだけでなく再来年の席も用意してくれるというなら、やらせてくださいという気持ちでしたね。シマノに戻ってから3年の準備期間があって、選手としてやり切ったと思っていたので、そこは迷いはなかったです」
まだやれる、は最高の褒め言葉

選手としてやり切ったと言えるのは、自分のポテンシャルの中でやれることはやれたと思えているからだと入部は言う。
「五輪は届かなかったし、ヨーロッパも見たと言えるほとのレベルじゃなかった。トレーニングをしていても、金子(宗平)やマリノ(小林海)は僕からすればとんでもない数値を出していて、少しでも追いつきたいと思ってやってきたけれどそれは厳しいという答えに辿り着きました。
それなら逃げに乗るとかインターバルに強いとか、自分の長所を活かして勝負してどこまで行けるかと考えて比較したら、到達できるところは見えてきます。そう考えたら、もっと行けたと言うよりは、よくこの能力でいけたね、という方が近いかなと。諦めているだけと言われるかもしれないけれど、そう考えるとやり切れたと思えるんです」

とは言え、まだ出来るかもしれないという想いがまったく無いわけではない。
「大分で3位になってパフォーマンス的には悪くなかったし、これならまだやれる力があるとも思えました。数値的にもピークアウトはしていませんからね。でも、これで2026年も選手を続けたとして、今年以上の2位、1位を目指すとなったら、レースの全てが自分のパターンにハマった上で勝てるかどうかとなるし、確率で言えばそんな状況は1%も無いでしょう。それでダメだったらまた来年も…ってズルズル続けてしまう。だからこれで十分でしょ!と、思えたんです」

そして10月、ジャパンカップ直前に選手引退を公表した。「ファンの方には『そんな気がしてた』って言われ、選手からは『まだ続けると思ってた』と驚かれたのは意外でしたね」と、苦笑いする。
2026年はシマノレーシングのスタッフになる予定の入部。まだ詳細は決まってないと言うが、今はスタッフとしてやることを学んでいる最中だと言う。

と、ここまで話を聞いても、まだまだ行けるでしょ?、と言いたくなる。
「それが最高の褒め言葉です。もう、ちょうど良いです」
text:Satoru Kato
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