2024/11/01(金) - 19:30
初出場のリオデジャネイロ五輪後、窪木一茂はその後の選手人生を左右する大きな決断を迫られた。そして8年の歳月を経て、再び五輪出場を果たした。ロードからトラックに転向した理由、次のロサンゼルス五輪に向けて揺れる想いを語ってもらった。
(前編からつづき)
東京五輪を前にロードからトラックへ
リオ五輪を終え、東京五輪はロードでの出場を目指した窪木だったが、ここで転機が訪れた。
窪木「欧州で選手をやりたいという気持ちもあったし、欧州拠点のNIPPOに所属して東京五輪を目指すつもりでした。でも東京五輪のロードレースが富士山周辺を廻る登りの厳しいコースに決まり、それは厳しすぎると考えてしまった…諦めてしまったんです。そこにブリヂストンが東京五輪に向けて僕を獲得したいという話がありました」
それまで「チームブリヂストン・アンカー」としてロードをメインに活動してきたチームは、2018年から東京五輪に向けてトラック競技メインのチームに方針転換し、「チームブリヂストンサイクリング」と名称を変えることが決まっていた。そのオファーを受け、窪木は再びトラックで東京五輪を目指す覚悟を決めて帰国した。
しかし事は順調に進まなかった。東京五輪は2年後に迫っており、準備に十分な時間があったとは言えなかった。加えて当時の代表チームコーチとの考え方の相違などから、窪木は大会のメンバーから外されたこともあった。結局最大の目標としていたチームパーシュートでの出場枠は取れず、中距離はオムニアムの1枠確保にとどまり、橋本英也が日本代表に決まった。
「今でも覚えていますけれど、代表チームの中にいて時に怒りが態度に出てしまうこともあったりしましたね…。結局東京五輪は橋本英也選手に決まりましたが、当時は不公平に感じていた部分もありました。でも結果を残していた橋本選手は選ばれて当然だと。それが勝負の世界だと自分の中で消化した感じです」と、当時の苦悩を滲ませる。
東京五輪を諦めず競輪選手養成所へ
2020年3月、新型コロナウィルスの世界的流行により東京五輪の延期が決まった。その直後、窪木の競輪選手養成所への入所が発表された。その際のコメントには、「日本の競輪選手ならではの世界と戦える力を養いたい」とあった。
その決断の理由を改めて聞くと、「短距離代表チームが記録も結果も伸ばしているのを見て、その練習法を知りたくて競輪選手養成所に入所することを決めました」と説明するが、実は東京五輪出場への少ない可能性にも賭けていた。
窪木「五輪が延期されたことで種目によっては代表メンバーが入れ替わっている例もあったから、もしかしたらまだチャンスがあるかもと考えていました。メンバーやリザーブ選手の変更があれば、養成所に所属しながら五輪に出る可能性もあると。強くなるための環境が整っているし、他のことに煩わされることもないし、五輪が開催される8月まで集中すれば…と考えていました」
しかし窪木が考えるようにはならず、五輪代表の再選考は行われなかった。その時点ではパリ五輪を目指す気は無く、翌年に競輪養成所を卒業してチームブリヂストンサイクリングに復帰した。そこで改めてパリ五輪を目指そうと思い直したと言う。
2023年から中距離代表コーチにダニエル・ギジガー氏が就任したことも、窪木にとってパリ五輪への追い風となった。
「ダニエルコーチはロード出身で、考え方や方向性が合ってすごく良い関係を築けました。共通のコーチの知り合いもいて、トレーニングや食事についてもロードの延長線上で、僕がこれまでやってきたことと重なる部分が多数ありました。それが自分の中では大きかったですね」
1kmタイムトライアル1分1秒が示すメッセージ
紆余曲折ありながらも8年ぶりの五輪出場を果たした窪木。そんな窪木にとって五輪とは?と漠然とした質問を投げると、すこし考えてこう続けた。
窪木「1回じゃ満足しないもの、ですね。かと言って何度も出られるものでもないけれど…僕にとっては成長する場を提供してくれる場所かなと。五輪は選ばれたメンバーでしか共有出来ないけれど、子供の頃、花火大会とかお祭りを楽しんでいたのと同じように、時間と労力とお金をかけた花火大会みたいなものかな、と思っています。カラフルな五輪のマークとか雰囲気を味わいたいとか、そういうところに僕は取り憑かれたのかなと思います」
9月初めに行われたトラックの全日本選手権では、次のロサンゼルス五輪についての質問も出た。窪木は目指すとは明言しなかったが、モチベーションはあると言う。
窪木「競輪では僕よりも年上の人たちが頑張っているし、それを考えたら自分はまだ甘いなと思いました。自転車に対するモチベーションはまだまだ燃えているし、それは競技に対しても競輪に対しても変わりません。強くなるために努力するだけです。そのために来年以降の環境づくりを考えているところで、それが整えばまた五輪を目指したいという気持ちはあります。
200mフライングタイムトライアルで9秒9、1kmタイムトライアルで59秒台、4kmパーシュートで4分7秒ないし8秒台。これがロサンゼルスを目指すための自分の目標です。やってみたい練習法は色々あるので、増やすところや時間をかけるところなどもう一度取り組み方を考え直していきたいと思ってます。4年間はあっという間だから、時間を大切にしなければいけませんね」
事実、トラック全日本選手権では、松田祥位と共に1kmタイムトライアルに出場して1分1秒台をマーク。競輪選手や短距離専門の選手でもなかなか出せないタイムだ。「五輪前なら1分0秒台を出せた」と窪木は言うが、目標として挙げたタイムが非現実的なものではないことを証明している。
「限界?気のせいだよ」
トラック全日本選手権の際、窪木がムービーカメラに向かって放った言葉。1kmタイムトライアルの記録とあわせ、これから五輪を目指す者への強烈なメッセージと感じたのは筆者だけだろうか。
自身の将来への問いかけ
その一方で、窪木は競輪選手としても続けていきたいと考える。それが次の五輪を目指すか否か悩む要因のひとつでもあると言う。
窪木「強くなることにエネルギーを注ぐことは競技も競輪も変わりはありません。最近は一番上のグレード(S級)で走るので、歯が立たずボコボコにされてしまう。でもそれが悔しいから勝ちたいという気持ちもあります。だから、次の五輪を目指すのか悩むところでもありますね。35歳の今、方向性を変えるのか、39歳で変えるのかは大きな違いですから」
実は大学生の時には自転車でプロになると考えていなかったと言う窪木。卒業前に将来設計を考え、23歳で初優勝、25歳で全日本優勝、26歳で五輪出場、27歳でヨーロッパの選手…と、28歳になるまでの目標を書き出した。自転車競技と改めて向かい合ったことがプロとして競技を続けるキッカケになり、実際ほぼその通りに目標を達成し、ヨーロッパで選手活動するところまで辿り着いていた。
35歳となった今、その時描いていた将来とは違う道を進む。
窪木「ヨーロッパで走りたいという気持ちはずっと持っていました。実際にNIPPOでヨーロッパを走って、結果を出せなかったことで現実を知らされましたが、その経験を出来たことは大きいし、選手としての幅を広げられたとは思います。
でも僕の人生設計の中で、ヨーロッパで何を目指すのかをハッキリさせていませんでした。ツール・ド・フランスで優勝するのか、世界選手権で優勝するのか、10年間ヨーロッパで選手を続けるのか、もっと具体的な目標を自分に課すことが出来ていたらどうなったんだろう?と。それは分からないですけどね。
五輪代表になったことにかまけて28歳以降の将来と向き合うことを避けてしまったこともありますが」
ここまでは世界選手権前に聞いた話。アルカンシェルを獲った今、ロサンゼルス五輪に向けてのモチベーションに変化はあったのか?改めて窪木に聞くと、こんな答えが返ってきた。
「優勝したことによるモチベーションの変化は少しだけですね。来年は環境が大きく変わる予定なので、その準備と心境の変化により自動的にモチベーションは上がってくれると考えています。ただ、優勝したことにより積み上げてきた努力の自信にはなっています。今後が楽しみです」
その視線の先に、ロサンゼルスは見えているのか?
text:Satoru Kato
(前編からつづき)
東京五輪を前にロードからトラックへ
リオ五輪を終え、東京五輪はロードでの出場を目指した窪木だったが、ここで転機が訪れた。
窪木「欧州で選手をやりたいという気持ちもあったし、欧州拠点のNIPPOに所属して東京五輪を目指すつもりでした。でも東京五輪のロードレースが富士山周辺を廻る登りの厳しいコースに決まり、それは厳しすぎると考えてしまった…諦めてしまったんです。そこにブリヂストンが東京五輪に向けて僕を獲得したいという話がありました」
それまで「チームブリヂストン・アンカー」としてロードをメインに活動してきたチームは、2018年から東京五輪に向けてトラック競技メインのチームに方針転換し、「チームブリヂストンサイクリング」と名称を変えることが決まっていた。そのオファーを受け、窪木は再びトラックで東京五輪を目指す覚悟を決めて帰国した。
しかし事は順調に進まなかった。東京五輪は2年後に迫っており、準備に十分な時間があったとは言えなかった。加えて当時の代表チームコーチとの考え方の相違などから、窪木は大会のメンバーから外されたこともあった。結局最大の目標としていたチームパーシュートでの出場枠は取れず、中距離はオムニアムの1枠確保にとどまり、橋本英也が日本代表に決まった。
「今でも覚えていますけれど、代表チームの中にいて時に怒りが態度に出てしまうこともあったりしましたね…。結局東京五輪は橋本英也選手に決まりましたが、当時は不公平に感じていた部分もありました。でも結果を残していた橋本選手は選ばれて当然だと。それが勝負の世界だと自分の中で消化した感じです」と、当時の苦悩を滲ませる。
東京五輪を諦めず競輪選手養成所へ
2020年3月、新型コロナウィルスの世界的流行により東京五輪の延期が決まった。その直後、窪木の競輪選手養成所への入所が発表された。その際のコメントには、「日本の競輪選手ならではの世界と戦える力を養いたい」とあった。
その決断の理由を改めて聞くと、「短距離代表チームが記録も結果も伸ばしているのを見て、その練習法を知りたくて競輪選手養成所に入所することを決めました」と説明するが、実は東京五輪出場への少ない可能性にも賭けていた。
窪木「五輪が延期されたことで種目によっては代表メンバーが入れ替わっている例もあったから、もしかしたらまだチャンスがあるかもと考えていました。メンバーやリザーブ選手の変更があれば、養成所に所属しながら五輪に出る可能性もあると。強くなるための環境が整っているし、他のことに煩わされることもないし、五輪が開催される8月まで集中すれば…と考えていました」
しかし窪木が考えるようにはならず、五輪代表の再選考は行われなかった。その時点ではパリ五輪を目指す気は無く、翌年に競輪養成所を卒業してチームブリヂストンサイクリングに復帰した。そこで改めてパリ五輪を目指そうと思い直したと言う。
2023年から中距離代表コーチにダニエル・ギジガー氏が就任したことも、窪木にとってパリ五輪への追い風となった。
「ダニエルコーチはロード出身で、考え方や方向性が合ってすごく良い関係を築けました。共通のコーチの知り合いもいて、トレーニングや食事についてもロードの延長線上で、僕がこれまでやってきたことと重なる部分が多数ありました。それが自分の中では大きかったですね」
1kmタイムトライアル1分1秒が示すメッセージ
紆余曲折ありながらも8年ぶりの五輪出場を果たした窪木。そんな窪木にとって五輪とは?と漠然とした質問を投げると、すこし考えてこう続けた。
窪木「1回じゃ満足しないもの、ですね。かと言って何度も出られるものでもないけれど…僕にとっては成長する場を提供してくれる場所かなと。五輪は選ばれたメンバーでしか共有出来ないけれど、子供の頃、花火大会とかお祭りを楽しんでいたのと同じように、時間と労力とお金をかけた花火大会みたいなものかな、と思っています。カラフルな五輪のマークとか雰囲気を味わいたいとか、そういうところに僕は取り憑かれたのかなと思います」
9月初めに行われたトラックの全日本選手権では、次のロサンゼルス五輪についての質問も出た。窪木は目指すとは明言しなかったが、モチベーションはあると言う。
窪木「競輪では僕よりも年上の人たちが頑張っているし、それを考えたら自分はまだ甘いなと思いました。自転車に対するモチベーションはまだまだ燃えているし、それは競技に対しても競輪に対しても変わりません。強くなるために努力するだけです。そのために来年以降の環境づくりを考えているところで、それが整えばまた五輪を目指したいという気持ちはあります。
200mフライングタイムトライアルで9秒9、1kmタイムトライアルで59秒台、4kmパーシュートで4分7秒ないし8秒台。これがロサンゼルスを目指すための自分の目標です。やってみたい練習法は色々あるので、増やすところや時間をかけるところなどもう一度取り組み方を考え直していきたいと思ってます。4年間はあっという間だから、時間を大切にしなければいけませんね」
事実、トラック全日本選手権では、松田祥位と共に1kmタイムトライアルに出場して1分1秒台をマーク。競輪選手や短距離専門の選手でもなかなか出せないタイムだ。「五輪前なら1分0秒台を出せた」と窪木は言うが、目標として挙げたタイムが非現実的なものではないことを証明している。
「限界?気のせいだよ」
トラック全日本選手権の際、窪木がムービーカメラに向かって放った言葉。1kmタイムトライアルの記録とあわせ、これから五輪を目指す者への強烈なメッセージと感じたのは筆者だけだろうか。
自身の将来への問いかけ
その一方で、窪木は競輪選手としても続けていきたいと考える。それが次の五輪を目指すか否か悩む要因のひとつでもあると言う。
窪木「強くなることにエネルギーを注ぐことは競技も競輪も変わりはありません。最近は一番上のグレード(S級)で走るので、歯が立たずボコボコにされてしまう。でもそれが悔しいから勝ちたいという気持ちもあります。だから、次の五輪を目指すのか悩むところでもありますね。35歳の今、方向性を変えるのか、39歳で変えるのかは大きな違いですから」
実は大学生の時には自転車でプロになると考えていなかったと言う窪木。卒業前に将来設計を考え、23歳で初優勝、25歳で全日本優勝、26歳で五輪出場、27歳でヨーロッパの選手…と、28歳になるまでの目標を書き出した。自転車競技と改めて向かい合ったことがプロとして競技を続けるキッカケになり、実際ほぼその通りに目標を達成し、ヨーロッパで選手活動するところまで辿り着いていた。
35歳となった今、その時描いていた将来とは違う道を進む。
窪木「ヨーロッパで走りたいという気持ちはずっと持っていました。実際にNIPPOでヨーロッパを走って、結果を出せなかったことで現実を知らされましたが、その経験を出来たことは大きいし、選手としての幅を広げられたとは思います。
でも僕の人生設計の中で、ヨーロッパで何を目指すのかをハッキリさせていませんでした。ツール・ド・フランスで優勝するのか、世界選手権で優勝するのか、10年間ヨーロッパで選手を続けるのか、もっと具体的な目標を自分に課すことが出来ていたらどうなったんだろう?と。それは分からないですけどね。
五輪代表になったことにかまけて28歳以降の将来と向き合うことを避けてしまったこともありますが」
ここまでは世界選手権前に聞いた話。アルカンシェルを獲った今、ロサンゼルス五輪に向けてのモチベーションに変化はあったのか?改めて窪木に聞くと、こんな答えが返ってきた。
「優勝したことによるモチベーションの変化は少しだけですね。来年は環境が大きく変わる予定なので、その準備と心境の変化により自動的にモチベーションは上がってくれると考えています。ただ、優勝したことにより積み上げてきた努力の自信にはなっています。今後が楽しみです」
その視線の先に、ロサンゼルスは見えているのか?
text:Satoru Kato
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