2017/07/02(日) - 15:26
ほぼ降水量ゼロの乾いたジロ・デ・イタリアの反動か、ツール・ド・フランスは初日から雨降り。ヨーロッパの中で最も高い日本人比率を誇る雨のデュッセルドルフでツールが動き出した。現地の様子をフォトグラファーの辻啓がお届けします。
デュッセルドルフはロンドン(約23,000人)とパリ(約15,000人)に次いでヨーロッパで3番目に日本人が多く住む街。数で言うと二大都市には及ばないものの日本人の人口密度は間違いなくヨーロッパナンバーワン。人口60万人の街におよそ約6,000人が住んでいるので、人口の1%が日本人ということになる(ロンドン=0.3%、パリ=0.7%)。街ですれ違う100人に1人が日本人という確率は相当なもの。実際に今まで経験したことがないほど多くの日本人観客をコース脇で目にした。
デュッセルドルフはドイツ北西部、ヨーロッパを代表するルール工業地帯の真ん中に位置している。第二次世界大戦後に重工業の日本輸出の拠点となったことが日本人コミュニティ形成の発端となり、大手商社をはじめとする日本企業がヨーロッパ進出の際にまずデュッセルドルフに拠点を置くことが定番パターンとなった。
1972年にシマノが現地法人シマノヨーロッパを設立したのもデュッセルドルフ(現在の拠点はオランダ)。現在も400社弱の日本企業がここデュッセルドルフにあり、ドイツ国内に住む日本人の4分の1が市内に住むと言われる。市内には寿司やラーメンなどの日本料理店が立ち並び、もちろんその味は日本そのもの。他の街にありがちな中国人経営の日本料理店のそれとは異なる。
1997年ツール総合優勝者のヤン・ウルリッヒがグランデパールに招待されなかったことについてドイツでは議論が巻き起こっている。かつてのライバルであるランス・アームストロングが「(他のドーピング違反者がASOで働いていたりVIPとして招待されているのに)ウルリッヒだけが呼ばれていないのはおかしい」とツイートしたことでますますウルリッヒの欠席に注目が集まった。
2006年前後に勃発したオペラシオンプエルトなどのドーピングスキャンダルによって、一時的にロードレース離れが加速したドイツだったが、ここ数年のマルセル・キッテル(クイックステップフロアーズ)やトニー・マルティン(カチューシャ・アルペシン)らの活躍によって新時代に突入している感がある。このデュッセルドルフでのグランデパールでその勢いが強まっている印象。過去のドーピング時代のイメージを払拭するためにもツール主催者はウルリッヒを招待しなかったと単純に理解できる。
おそらくプロ選手の中で最も今年のツール・ド・フランス出場を切望していたのはデュッセルドルフ出身のルーベン・ゼプントケ(ドイツ)だろう。2015年から2年間キャノンデール・ドラパックに所属し、ジャパンカップにも参戦しているゼプントケ。なんといっても母親のクラウディア・ゼプントケはデュッセルドルフ市の市長(さらにその上に上級市長という役職もあるのでいわゆる日本の市長とは異なる)であり、グランデパールの招致にも携わったという。しかししかし、ゼプントケは現在UCIワールドチームではなく格下のUCIコンチネンタルチームであるサンウェブ・デヴェロップメントチームに所属。地元で開幕するツール出場の夢は潰えている。
ツール出場を果たしたドイツ人選手は合計16名(2015年は10名、2016年は12名)。その中で最も大きな声援を受けたのはマルティンだった。ドイツのアルペシン社がスポンサーにつくチームで、ドイツのクラフトワークとコラボしたドイツのキャニオンバイクに乗り、世界チャンピオンとして14kmコースを走ったマルティン。しかし雨に濡れたコースに悩まされ、8秒差でマイヨジョーヌ獲得を逃している。マルティンは「声援が大きくて無線の声が聞こえなかった。開催国の声援がこれほど大きいとは。とにかくこれがスポーツであり、結果は受け入れるしかない」と声援に応えることができない悔しさを飲み込んだ。
「先週までずっと良い天気だったのに、この週末だけ雨が降るとはね」と地元の観客が苦笑いしてしまうほど、ツールに合わせたように雨が降った。しとしと降る雨、横殴りの雨、ミストのような霧雨のインターバルがレース中ずっと続いた。前半と後半どちらが有利だったかと問われれば前半だったのかもしれないが、その差は微々たるもの。デュッセルドルフのランドマークであるライン川を見下ろすラインタワー(高さ234m)は時折灰色の雲にすっぽりと覆われた。
路面はスムーズで凹凸が少ないものの、意外にも濡れるとかなり滑りやすくなった。試しにランニングでダッシュしてスライディングすると、制動距離3〜4mでようやく止まるぐらいのイメージ。落車した選手を押し出すメカニックが足を滑らせてしまうほど、局所的にめちゃくちゃ滑る。前日の記者会見でファビオ・アル(イタリア、アスタナ)が「難しいコーナーはない」と言っていたが、それはドライだった状態の話で、濡れると途端にタイヤのグリップ力が低下した。
雨に泣いたのはスペイン勢。アレハンドロ・バルベルデ(スペイン、モビスター)とヨン・イサギレ(スペイン、バーレーン・メリダ)という2人のオールラウンダーがレース開始から10kmも走らないうちにデュッセルドルフの地面に叩きつけられ、レースリタイアを強いられれた。デュッセルドルフの大学病院に搬送されたバルベルデは左脚の膝蓋骨(膝の皿)と距骨の骨折と、脛骨に達する裂傷。イサギレは腰椎の骨折の診断を受けている。ブエルタ・ア・アンダルシア総合優勝、ブエルタ・ア・カタルーニャ総合優勝、ブエルタ・アル・パイスバスコ総合優勝、そしてラ・フレーシュ・ワロンヌとリエージュ〜バストーニュ〜リエージュ連勝という破竹の活躍を見せていた37歳のバルベルデは長期戦線離脱することになる。
「今日はチームにとって最悪なスタートとなってしまった。チームのエース、イザギレを失った」と悲痛なコメントを残す新城幸也(バーレーン・メリダ)。イサギレのリタイアによりチームはエーススプリンターのソニー・コルブレッリ(イタリア)を勝たせることが第一目標となるが、集団スプリント以外の山岳ステージでは逃げでチャンスを切り開くしかない。新城にとって例年以上に大きな役割を託されるツール・ド・フランスになりそうだ。
text&photo:Kei Tsuji in Dusseldorf, Germany
デュッセルドルフはロンドン(約23,000人)とパリ(約15,000人)に次いでヨーロッパで3番目に日本人が多く住む街。数で言うと二大都市には及ばないものの日本人の人口密度は間違いなくヨーロッパナンバーワン。人口60万人の街におよそ約6,000人が住んでいるので、人口の1%が日本人ということになる(ロンドン=0.3%、パリ=0.7%)。街ですれ違う100人に1人が日本人という確率は相当なもの。実際に今まで経験したことがないほど多くの日本人観客をコース脇で目にした。
デュッセルドルフはドイツ北西部、ヨーロッパを代表するルール工業地帯の真ん中に位置している。第二次世界大戦後に重工業の日本輸出の拠点となったことが日本人コミュニティ形成の発端となり、大手商社をはじめとする日本企業がヨーロッパ進出の際にまずデュッセルドルフに拠点を置くことが定番パターンとなった。
1972年にシマノが現地法人シマノヨーロッパを設立したのもデュッセルドルフ(現在の拠点はオランダ)。現在も400社弱の日本企業がここデュッセルドルフにあり、ドイツ国内に住む日本人の4分の1が市内に住むと言われる。市内には寿司やラーメンなどの日本料理店が立ち並び、もちろんその味は日本そのもの。他の街にありがちな中国人経営の日本料理店のそれとは異なる。
1997年ツール総合優勝者のヤン・ウルリッヒがグランデパールに招待されなかったことについてドイツでは議論が巻き起こっている。かつてのライバルであるランス・アームストロングが「(他のドーピング違反者がASOで働いていたりVIPとして招待されているのに)ウルリッヒだけが呼ばれていないのはおかしい」とツイートしたことでますますウルリッヒの欠席に注目が集まった。
2006年前後に勃発したオペラシオンプエルトなどのドーピングスキャンダルによって、一時的にロードレース離れが加速したドイツだったが、ここ数年のマルセル・キッテル(クイックステップフロアーズ)やトニー・マルティン(カチューシャ・アルペシン)らの活躍によって新時代に突入している感がある。このデュッセルドルフでのグランデパールでその勢いが強まっている印象。過去のドーピング時代のイメージを払拭するためにもツール主催者はウルリッヒを招待しなかったと単純に理解できる。
おそらくプロ選手の中で最も今年のツール・ド・フランス出場を切望していたのはデュッセルドルフ出身のルーベン・ゼプントケ(ドイツ)だろう。2015年から2年間キャノンデール・ドラパックに所属し、ジャパンカップにも参戦しているゼプントケ。なんといっても母親のクラウディア・ゼプントケはデュッセルドルフ市の市長(さらにその上に上級市長という役職もあるのでいわゆる日本の市長とは異なる)であり、グランデパールの招致にも携わったという。しかししかし、ゼプントケは現在UCIワールドチームではなく格下のUCIコンチネンタルチームであるサンウェブ・デヴェロップメントチームに所属。地元で開幕するツール出場の夢は潰えている。
ツール出場を果たしたドイツ人選手は合計16名(2015年は10名、2016年は12名)。その中で最も大きな声援を受けたのはマルティンだった。ドイツのアルペシン社がスポンサーにつくチームで、ドイツのクラフトワークとコラボしたドイツのキャニオンバイクに乗り、世界チャンピオンとして14kmコースを走ったマルティン。しかし雨に濡れたコースに悩まされ、8秒差でマイヨジョーヌ獲得を逃している。マルティンは「声援が大きくて無線の声が聞こえなかった。開催国の声援がこれほど大きいとは。とにかくこれがスポーツであり、結果は受け入れるしかない」と声援に応えることができない悔しさを飲み込んだ。
「先週までずっと良い天気だったのに、この週末だけ雨が降るとはね」と地元の観客が苦笑いしてしまうほど、ツールに合わせたように雨が降った。しとしと降る雨、横殴りの雨、ミストのような霧雨のインターバルがレース中ずっと続いた。前半と後半どちらが有利だったかと問われれば前半だったのかもしれないが、その差は微々たるもの。デュッセルドルフのランドマークであるライン川を見下ろすラインタワー(高さ234m)は時折灰色の雲にすっぽりと覆われた。
路面はスムーズで凹凸が少ないものの、意外にも濡れるとかなり滑りやすくなった。試しにランニングでダッシュしてスライディングすると、制動距離3〜4mでようやく止まるぐらいのイメージ。落車した選手を押し出すメカニックが足を滑らせてしまうほど、局所的にめちゃくちゃ滑る。前日の記者会見でファビオ・アル(イタリア、アスタナ)が「難しいコーナーはない」と言っていたが、それはドライだった状態の話で、濡れると途端にタイヤのグリップ力が低下した。
雨に泣いたのはスペイン勢。アレハンドロ・バルベルデ(スペイン、モビスター)とヨン・イサギレ(スペイン、バーレーン・メリダ)という2人のオールラウンダーがレース開始から10kmも走らないうちにデュッセルドルフの地面に叩きつけられ、レースリタイアを強いられれた。デュッセルドルフの大学病院に搬送されたバルベルデは左脚の膝蓋骨(膝の皿)と距骨の骨折と、脛骨に達する裂傷。イサギレは腰椎の骨折の診断を受けている。ブエルタ・ア・アンダルシア総合優勝、ブエルタ・ア・カタルーニャ総合優勝、ブエルタ・アル・パイスバスコ総合優勝、そしてラ・フレーシュ・ワロンヌとリエージュ〜バストーニュ〜リエージュ連勝という破竹の活躍を見せていた37歳のバルベルデは長期戦線離脱することになる。
「今日はチームにとって最悪なスタートとなってしまった。チームのエース、イザギレを失った」と悲痛なコメントを残す新城幸也(バーレーン・メリダ)。イサギレのリタイアによりチームはエーススプリンターのソニー・コルブレッリ(イタリア)を勝たせることが第一目標となるが、集団スプリント以外の山岳ステージでは逃げでチャンスを切り開くしかない。新城にとって例年以上に大きな役割を託されるツール・ド・フランスになりそうだ。
text&photo:Kei Tsuji in Dusseldorf, Germany
Amazon.co.jp