2015/08/27(木) - 18:16
今年のシマノ鈴鹿には海外招待選手として、中国人として初めてツール・ド・フランスに出場したジ・チェンが来日した。献身的な働きから「エスケープ・キラー」と呼ばれ、チーム唯一のアジア人として活躍を続ける彼へインタビューを行った。
ジ・チェン(计成)、28歳。2006年にプロ入りし、翌年には当時のスキル・シマノへと加入。以来一貫して同チームに所属しながら頭角を表し、2012年にはブエルタ・ア・エスパーニャでグランツアー初出場・完走。2014年にはかねての目標だったツール・ド・フランスへの出場を決めた選手だ。
2014ツールでは献身的に集団牽引を務める姿から「エスケープ・キラー」と呼ばれ、最終ステージのパリで落車し、単独となりながらも完走。今年はジロ・デ・イタリアを完走し、中国人選手としての記録を塗り替え続ける様は、アジアをはじめ、ヨーロッパからも注目されている。そんな彼に、鈴鹿サーキットのパドックで話を聞いた。
— 今回はシマノ鈴鹿の招待選手として来日したわけですが、日本は何度目ですか?
これで3度目の来日。また日本に呼ばれて嬉しく思っているよ。一度目は2008年のシマノ鈴鹿で、二度目は2009年のジャパンカップに中国ナショナルチームのメンバーとして走った。だからシマノ鈴鹿は今回が二回目だけど、前回よりとても華やかになったように感じるね。
— プロ入り以降、一貫して現チームに所属しているんですね。
そう。2007年に当時スキル・シマノだった今のチームに加入し、それからアルゴス・シマノ、ジャイアント・シマノ、そしてジャイアント・アルペシンと名前を変えるチームにずっと所属している。
最初チームが自分に声を掛けてくれたのは、メインスポンサーにシマノがついていたから。日本はもちろんだけれど、中国の選手をヨーロッパで走らせ、後々にはツール・ド・フランスを走らせるという目標がチームにはあったんだ。僕もその目標を共有していたし、何としても、どんな苦労を重ねたとしても世界最高峰の舞台に立ちたいと思っていた。
— そして昨年、その夢が叶ったんですね。
本当に嬉しかったね。でも今振り返ればすごく厳しいレースでもあった。周りからも「ツールはキツい、ツールは別物だ」と聞いていたけれど、実際に体感してようやくその凄さを知った。本当に、本当に消耗したよ。なぜなら世界屈指のチームがそれぞれ最強のメンバーを揃えてくる。平坦、登り、下り。一切そんなものは関係無くレースは全力で進むんだ。他のレースなら緩んだり、チャンスを諦めることもあるが、ツールは一切の余地がない。コースではなく、選手自身がレースをタフにするんだ。
— ツールでは献身的に集団牽引をこなす姿から「エスケープキラー」と呼ばれるようになりました。
光栄に思っているよ。ヨーロッパでは仕事をこなし、一定の評価を受けないとニックネームすら付けられない。昨年ツールはキッテルのために与えられた仕事を全力でこなしたよ。
思い出深かったのが最終ステージのシャンゼリゼで遅れてしまったことかな。3週間を通して落車も怪我もしなかったのに、最終ステージで転倒してしまった。変速やホイールも壊れてしまい、バイクを交換するのにすごく時間が掛かってしまった。一人で走らざるを得なくなってしまったけれど、逆に言えばシャンゼリゼの熱狂的な応援は全部僕のものだった。みんなが名前を呼んでくれたし、フィニッシュラインでもそうだった。とても嬉しかったし、素敵な瞬間だったよ。
— 中国人として初のツール・ド・フランスでしたが、プレッシャーは感じていましたか?
いや、不思議なくらい全くプレッシャーは無かった。レースの走り方や振る舞い方も知っているし、日々の仕事を全力でこなすだけだったから。もちろん自分自身でプレッシャーを掛けてはいたし、ツール出場を叶えるために過酷な練習を積んできた。でも最終日まで落車をしなかったことも手伝って、精神的に追われることは一切なかった。でも国が注目してくれたことはもちろん知っていたし、それには応えたいと思っていた。
— もっと多くのアジア人選手がトップチームやトップレースで活躍する可能性はあると思いますか?
アジアの可能性は絶対にあると感じている。でもその上で必要なのは精神的なサポートだ。長い間両親や妻、ガールフレンド、友人と離れ、遠いヨーロッパで生活するのは本当に大変なこと。向こうでは誰も助けてくれないし、大きな怪我をした時には精神的にも参ってしまう。そういうことが2,3回と続いてしまえば、夢を諦めざるを得なくなってしまう。アジアの選手はそれだけでヨーロピアンよりも過酷なんだ。僕は結婚して、子供もいる。それが凄く心の支えになっているよ。
それに加えて、ヨーロッパで戦うのであれば、ヨーロッパのスタイルや風習に合わせることが必要不可欠だ。郷に入っては郷に従え。レースプログラムに身体を合わせることはもちろん、一度中国に戻って休暇を取ると、2,3週間はリズムが戻ってこない。ヨーロッパのシーズンは1月から10月まで続き、一度スケジュールやリズムを壊してしまうと、取り戻すのが本当に難しいんだ。
— 中国には有望な若手選手が多くいるのですか?
個人的な意見だけれど、タレント性のある選手はたくさんいる。でも問題は、彼らが走るレースがそれほど多くないこと。実際にヨーロッパのレースを走らせても体力面では問題無く、登りだったらヨーロッパの選手についていける。でも下りになると経験差が露呈して、一気に遅れてしまう。だから絶対的な経験値を上げていかないと、活路は見えてこないだろう。これは中国だけでなく、アジア諸国に言えることだと思う。
— 分かりました。ありがとうございます。最後の質問ですが、今後の目標を教えて下さい。
良い父親になることかな(笑)。プロ選手としては、チームでの仕事をこなしながら、中国の若手選手にヨーロッパでの走り方、自分の経験値を伝える役になりたいと思っている。自分はスプリンターではないし、タイムトライアルは嫌い。登りで戦えるクライマーでもないけれど、ツール・ド・フランスという舞台に立ち、そして完走できた。自分のやり方を見つけ、そこで勝負する。僕のやり方を後に続く若手に繋げたいと思う。
text:So.Isobe
ジ・チェン(计成)、28歳。2006年にプロ入りし、翌年には当時のスキル・シマノへと加入。以来一貫して同チームに所属しながら頭角を表し、2012年にはブエルタ・ア・エスパーニャでグランツアー初出場・完走。2014年にはかねての目標だったツール・ド・フランスへの出場を決めた選手だ。
2014ツールでは献身的に集団牽引を務める姿から「エスケープ・キラー」と呼ばれ、最終ステージのパリで落車し、単独となりながらも完走。今年はジロ・デ・イタリアを完走し、中国人選手としての記録を塗り替え続ける様は、アジアをはじめ、ヨーロッパからも注目されている。そんな彼に、鈴鹿サーキットのパドックで話を聞いた。
— 今回はシマノ鈴鹿の招待選手として来日したわけですが、日本は何度目ですか?
これで3度目の来日。また日本に呼ばれて嬉しく思っているよ。一度目は2008年のシマノ鈴鹿で、二度目は2009年のジャパンカップに中国ナショナルチームのメンバーとして走った。だからシマノ鈴鹿は今回が二回目だけど、前回よりとても華やかになったように感じるね。
— プロ入り以降、一貫して現チームに所属しているんですね。
そう。2007年に当時スキル・シマノだった今のチームに加入し、それからアルゴス・シマノ、ジャイアント・シマノ、そしてジャイアント・アルペシンと名前を変えるチームにずっと所属している。
最初チームが自分に声を掛けてくれたのは、メインスポンサーにシマノがついていたから。日本はもちろんだけれど、中国の選手をヨーロッパで走らせ、後々にはツール・ド・フランスを走らせるという目標がチームにはあったんだ。僕もその目標を共有していたし、何としても、どんな苦労を重ねたとしても世界最高峰の舞台に立ちたいと思っていた。
— そして昨年、その夢が叶ったんですね。
本当に嬉しかったね。でも今振り返ればすごく厳しいレースでもあった。周りからも「ツールはキツい、ツールは別物だ」と聞いていたけれど、実際に体感してようやくその凄さを知った。本当に、本当に消耗したよ。なぜなら世界屈指のチームがそれぞれ最強のメンバーを揃えてくる。平坦、登り、下り。一切そんなものは関係無くレースは全力で進むんだ。他のレースなら緩んだり、チャンスを諦めることもあるが、ツールは一切の余地がない。コースではなく、選手自身がレースをタフにするんだ。
— ツールでは献身的に集団牽引をこなす姿から「エスケープキラー」と呼ばれるようになりました。
光栄に思っているよ。ヨーロッパでは仕事をこなし、一定の評価を受けないとニックネームすら付けられない。昨年ツールはキッテルのために与えられた仕事を全力でこなしたよ。
思い出深かったのが最終ステージのシャンゼリゼで遅れてしまったことかな。3週間を通して落車も怪我もしなかったのに、最終ステージで転倒してしまった。変速やホイールも壊れてしまい、バイクを交換するのにすごく時間が掛かってしまった。一人で走らざるを得なくなってしまったけれど、逆に言えばシャンゼリゼの熱狂的な応援は全部僕のものだった。みんなが名前を呼んでくれたし、フィニッシュラインでもそうだった。とても嬉しかったし、素敵な瞬間だったよ。
— 中国人として初のツール・ド・フランスでしたが、プレッシャーは感じていましたか?
いや、不思議なくらい全くプレッシャーは無かった。レースの走り方や振る舞い方も知っているし、日々の仕事を全力でこなすだけだったから。もちろん自分自身でプレッシャーを掛けてはいたし、ツール出場を叶えるために過酷な練習を積んできた。でも最終日まで落車をしなかったことも手伝って、精神的に追われることは一切なかった。でも国が注目してくれたことはもちろん知っていたし、それには応えたいと思っていた。
— もっと多くのアジア人選手がトップチームやトップレースで活躍する可能性はあると思いますか?
アジアの可能性は絶対にあると感じている。でもその上で必要なのは精神的なサポートだ。長い間両親や妻、ガールフレンド、友人と離れ、遠いヨーロッパで生活するのは本当に大変なこと。向こうでは誰も助けてくれないし、大きな怪我をした時には精神的にも参ってしまう。そういうことが2,3回と続いてしまえば、夢を諦めざるを得なくなってしまう。アジアの選手はそれだけでヨーロピアンよりも過酷なんだ。僕は結婚して、子供もいる。それが凄く心の支えになっているよ。
それに加えて、ヨーロッパで戦うのであれば、ヨーロッパのスタイルや風習に合わせることが必要不可欠だ。郷に入っては郷に従え。レースプログラムに身体を合わせることはもちろん、一度中国に戻って休暇を取ると、2,3週間はリズムが戻ってこない。ヨーロッパのシーズンは1月から10月まで続き、一度スケジュールやリズムを壊してしまうと、取り戻すのが本当に難しいんだ。
— 中国には有望な若手選手が多くいるのですか?
個人的な意見だけれど、タレント性のある選手はたくさんいる。でも問題は、彼らが走るレースがそれほど多くないこと。実際にヨーロッパのレースを走らせても体力面では問題無く、登りだったらヨーロッパの選手についていける。でも下りになると経験差が露呈して、一気に遅れてしまう。だから絶対的な経験値を上げていかないと、活路は見えてこないだろう。これは中国だけでなく、アジア諸国に言えることだと思う。
— 分かりました。ありがとうございます。最後の質問ですが、今後の目標を教えて下さい。
良い父親になることかな(笑)。プロ選手としては、チームでの仕事をこなしながら、中国の若手選手にヨーロッパでの走り方、自分の経験値を伝える役になりたいと思っている。自分はスプリンターではないし、タイムトライアルは嫌い。登りで戦えるクライマーでもないけれど、ツール・ド・フランスという舞台に立ち、そして完走できた。自分のやり方を見つけ、そこで勝負する。僕のやり方を後に続く若手に繋げたいと思う。
text:So.Isobe
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