2011/02/03(木) - 16:34
アルベルト・コンタドール(スペイン、サクソバンク・サンガード)は、キャリアの岐路に立たされている。1年間の出場停止処分を受け入れて前に進むか。それとも異議を申し立て、身の潔白を証明する長い闘いに挑むのか。マドリードの南に位置するピントを飛び出した28歳は、いずれにしても今年のツール・ド・フランスを欠場する可能性が高い。
昨年ツール・ド・フランスの第2休息日に行なわれたドーピング検査で、一般に気管支拡張剤として処方されるクレンブテロールがコンタドールの検体から検出された。UCI(国際自転車競技連合)が検査結果を9月に公表したことで明るみになった。
コンタドールにまつわるドーピング疑惑はこれが初めてではない。彼のキャリアはドーピング疑惑との闘いでもあった。それはグランツールレーサーとしての宿命なのかもしれない。
2004年、スペインのステージレースに出場していた21歳のコンタドールは、レース中に気を失い、落車し、瀕死の状態に陥った。
懐疑的な人間はドーピングが落車の原因であると主張したが、それは医師によって否定されている。診断の結果、コンタドールは脳幹部海綿状血管腫を患っていることが判明。生死に関わる難手術を経て復活した。今でも馬蹄のような手術痕が頭に残っている。
2006年、コンタドールの前に再び障害物が立ちはだかった。当時所属していたマノロ・サイス監督率いるリバティーセグロスがツール・ド・フランス直前に突然の停止。多くのチームメンバーの名前がオペラシオン・プエルト(スペインの大規模ドーピング捜査)の捜査線上に挙がった。UCIは後にコンタドールの無罪を認めたが、チームメイトの何名かは出場停止処分を受けている。
コンタドールのツール3勝はどれもドーピングの話題から切り離せないものばかり。2007年のツール制覇はミカエル・ラスムッセン(デンマーク)のトラブルに助けられた部分がある。ラスムッセンはツール開幕前に実施された3回のドーピング検査を故意に逃れたとして、チームの判断でレースを離脱。シャンゼリゼまで僅か4日を残して、リタイアしたラスムッセンに代わってマイヨジョーヌを着たコンタドールが初優勝を飾った。
2009年のツール後には、アスタナチームの廃棄物の中から注射器や輸血を疑わせる医療器具が発見されたとフランスのル・モンド紙がすっぱ抜いた。当時のチームメイトであるランス・アームストロング(アメリカ)に対して現在ドーピング捜査が進められており、アメリカ食品医薬品局のジェフ・ノヴィツキー捜査官は、フランス当局に医療器具の提出を求めたとされている。
そして2010年ツールで発覚したクレンブテロールの陽性反応。審査を行なっていたスペイン自転車競技連盟(RFEC)は先月26日、コンタドールに対して1年間の出場停止処分とツールのタイトル剥奪を求めることを本人側に通知した。
コンタドールは同月28日にサクソバンク・サンガードのキャンプ先であるマヨルカ島で会見を開き、改めて自身の潔白を主張。処分に対して異議申し立てをすることを明らかにした。コンタドールはCAS(スポーツ仲裁裁判所)に控訴することになる。
しかしCASの判決は数日や数週間のうちに出るものではない。史上初めてドーピングによるマイヨジョーヌ剥奪を受けたフロイド・ランディス(アメリカ)の例を見てみると、CASが最終的な判決を出すまでに23ヶ月もかかった。
昨年ツールでコンタドールを総合優勝に導いたジュゼッペ・マルティネッリ監督は、ガゼッタ・デッロ・スポルト紙のインタビューの中でこう語っている。「人間には決断を迫られる時がある。ゴムの壁にタックルして跳ね返される道を選ぶか、それとも再スタートを切る道を選ぶか。後者には勇気が必要だ。アルベルトは周囲の人間に惑わされることなく、自分の頭で何をすべきかを判断しなければならない。マルコ・パンターニと同じ過ちを犯すべきではない」
マルティネッリ監督の門下生の一人であるパンターニは、1998年のツールで総合優勝。しかし1999年のジロ・デ・イタリアで、血液値に異常が見つかったとして、マリアローザを着ながら失格処分を受けた。その年、パンターニは半年に渡ってレースを離れ、メディアから姿を消した。マルティネッリ監督はその長期離脱がパンターニの崩壊を招いたと分析する。その5年後、2004年、パンターニは自ら命を絶った。
「アルベルトは非合法的なことを何もしていない。でもそれを証明するのは大変なことだ。アルベルトはスキャンダルの対応ではなく、レースへの復帰について考えるべきだ。1年間の出場停止処分を受け入れたとしても、処分は今年の8月に明ける。彼は前に進む必要がある」
スペイン車連は遅くとも2月9日にコンタドールの処分を正式に発表する予定だ。
text:Gregor Brown
translation:Kei Tsuji
昨年ツール・ド・フランスの第2休息日に行なわれたドーピング検査で、一般に気管支拡張剤として処方されるクレンブテロールがコンタドールの検体から検出された。UCI(国際自転車競技連合)が検査結果を9月に公表したことで明るみになった。
コンタドールにまつわるドーピング疑惑はこれが初めてではない。彼のキャリアはドーピング疑惑との闘いでもあった。それはグランツールレーサーとしての宿命なのかもしれない。
2004年、スペインのステージレースに出場していた21歳のコンタドールは、レース中に気を失い、落車し、瀕死の状態に陥った。
懐疑的な人間はドーピングが落車の原因であると主張したが、それは医師によって否定されている。診断の結果、コンタドールは脳幹部海綿状血管腫を患っていることが判明。生死に関わる難手術を経て復活した。今でも馬蹄のような手術痕が頭に残っている。
2006年、コンタドールの前に再び障害物が立ちはだかった。当時所属していたマノロ・サイス監督率いるリバティーセグロスがツール・ド・フランス直前に突然の停止。多くのチームメンバーの名前がオペラシオン・プエルト(スペインの大規模ドーピング捜査)の捜査線上に挙がった。UCIは後にコンタドールの無罪を認めたが、チームメイトの何名かは出場停止処分を受けている。
コンタドールのツール3勝はどれもドーピングの話題から切り離せないものばかり。2007年のツール制覇はミカエル・ラスムッセン(デンマーク)のトラブルに助けられた部分がある。ラスムッセンはツール開幕前に実施された3回のドーピング検査を故意に逃れたとして、チームの判断でレースを離脱。シャンゼリゼまで僅か4日を残して、リタイアしたラスムッセンに代わってマイヨジョーヌを着たコンタドールが初優勝を飾った。
2009年のツール後には、アスタナチームの廃棄物の中から注射器や輸血を疑わせる医療器具が発見されたとフランスのル・モンド紙がすっぱ抜いた。当時のチームメイトであるランス・アームストロング(アメリカ)に対して現在ドーピング捜査が進められており、アメリカ食品医薬品局のジェフ・ノヴィツキー捜査官は、フランス当局に医療器具の提出を求めたとされている。
そして2010年ツールで発覚したクレンブテロールの陽性反応。審査を行なっていたスペイン自転車競技連盟(RFEC)は先月26日、コンタドールに対して1年間の出場停止処分とツールのタイトル剥奪を求めることを本人側に通知した。
コンタドールは同月28日にサクソバンク・サンガードのキャンプ先であるマヨルカ島で会見を開き、改めて自身の潔白を主張。処分に対して異議申し立てをすることを明らかにした。コンタドールはCAS(スポーツ仲裁裁判所)に控訴することになる。
しかしCASの判決は数日や数週間のうちに出るものではない。史上初めてドーピングによるマイヨジョーヌ剥奪を受けたフロイド・ランディス(アメリカ)の例を見てみると、CASが最終的な判決を出すまでに23ヶ月もかかった。
昨年ツールでコンタドールを総合優勝に導いたジュゼッペ・マルティネッリ監督は、ガゼッタ・デッロ・スポルト紙のインタビューの中でこう語っている。「人間には決断を迫られる時がある。ゴムの壁にタックルして跳ね返される道を選ぶか、それとも再スタートを切る道を選ぶか。後者には勇気が必要だ。アルベルトは周囲の人間に惑わされることなく、自分の頭で何をすべきかを判断しなければならない。マルコ・パンターニと同じ過ちを犯すべきではない」
マルティネッリ監督の門下生の一人であるパンターニは、1998年のツールで総合優勝。しかし1999年のジロ・デ・イタリアで、血液値に異常が見つかったとして、マリアローザを着ながら失格処分を受けた。その年、パンターニは半年に渡ってレースを離れ、メディアから姿を消した。マルティネッリ監督はその長期離脱がパンターニの崩壊を招いたと分析する。その5年後、2004年、パンターニは自ら命を絶った。
「アルベルトは非合法的なことを何もしていない。でもそれを証明するのは大変なことだ。アルベルトはスキャンダルの対応ではなく、レースへの復帰について考えるべきだ。1年間の出場停止処分を受け入れたとしても、処分は今年の8月に明ける。彼は前に進む必要がある」
スペイン車連は遅くとも2月9日にコンタドールの処分を正式に発表する予定だ。
text:Gregor Brown
translation:Kei Tsuji
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