2020/04/10(金) - 15:10
コロナの影響で開催が延期された北のクラシック。ロンド・ファン・フラーンデレンとパリ〜ルーベの2レースについて、取材を予定していた綾野真(CW編集長/フォトジャーナリスト)が思いを綴ります。本来なら、9年ぶりに日本人選手が北の地獄を走ることを楽しみにしていた。
例年なら今週は北のクラシックの”Holy Week”(神聖なる一週間)だった。先の日曜がロンド・ファン・フラーンデレン(ベルギー)、そして今週日曜がパリ〜ルーベ(フランス)。クラシックの王様(ロンド)と女王(ルーベ)が続き週末で開催され、北フランスおよびフランドル地方は熱く燃え上がる日々を迎えるはずだった。
言うまでもない、新型コロナウィルス(COVID-19)によるパンデミック(感染拡大)の前に、両レースは延期。現在も先の見えない状況が続く。世界的な危機の前に、楽しみは奪われた。この記事ではその2レースの話題に触れたいと思うが、そんな状況にない方々も多いだろう。まずこの場をお借りして、命を落とされた方々に深く追悼の意を表したいと思う。そして今、命を救うために闘っている医療従事者に感謝し、心からその働きにエールを贈りたい。
プロサイクリングにとってシーズン前半の一大イベントである春のクラシック。ロンドとルーベの2つのモニュメントレースは、選手たちにとっても一大目標とするレースだった。目標を失った選手たちの落胆は想像に難くない。
レースが無くなった今、過去のレースを振り返る記事をつくりたいと思っていたのだが、100年を超える歴史のレースから、そのごく一部を振り返る記事に何かの「軸」を見出すのは難しく、どうページにすべきか思い悩んでいた。だからここでは、今春の取材ができなかったことの「心残り」を記したいと思う。
私が北のクラシック取材に通い始めたのは2005年から。数えればあれから15年、何度か行けなかった年はあるものの、ロンド、水曜のシュヘルデプライス、そしてルーベ取材をセットに春のルーティーンとしてきた(以前はヘント〜ウェヴェルヘムが水曜にあった)。
今年の北のクラシック取材において、ひとつキーになると思っていたこと。それは別府史之の9年ぶりのパリ〜ルーベ参戦だった。
今季、トレック・セガフレードからNIPPOデルコ・ワンプロヴァンスに移籍した別府は、2011年に日本人として初めてのパリ〜ルーベ完走を果たしている。リザルトを遡れば、2007年(ディスカバリー)、2009年(スキル・シマノ)にリタイヤ、2010年(レディオシャック)には走り切るも制限時間オーバー、そして2011年に71位で初完走にこぎつけている。
別府が今年チームを移籍したのには、五輪代表を狙うためということもあるだろうが、北のクラシック、とりわけパリ〜ルーベへの想いがそれなりに大きなものだったのではないかと思っている。別府はU23時代にパリ〜ルーベ・エスポワールで13位という好成績を収めていることで、とくに石畳のクラシックを得意としてきた。得意以上に「情熱を持っている」と、いつも話す。
2011年のルーベ。別府はレース中に3回の落車に見舞われ、膝を負傷しながら走りきった。前週の日曜にはロンド・ファン・フラーンデレンにも完走しており、このルーベは3年連続4度目の出場だった。
日本人初めての完走に、レース直後のコメントは「まずはここからですね。ここから次、頑張れるようにしたいです」と、埃にまみれた笑顔で語った。つまりそれがゴールではなく、出発点。
ちなみにこのルーベ完走で、別府は日本人初となるモニュメントレース全完走(2011年ロンド・ファン・フラーンデレン120位、2010年ミラノ〜サンレモ113位、2008年リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ123位、2006年ジロ・ディ・ロンバルディア72位)を成し遂げている(当時の記事)。
2009年にシクロワイアードは創設されたため、そのパリ〜ルーベ2011の記事すべては現在もバックナンバーで見ることができる。それに加えて、2007年にパリ〜ルーベに初挑戦したときの、ディスカバリーチャンネル時代の写真をここに掲載しておく。
日本チャンピオンの証である白と赤のジャージで走った別府。2005年に同チームでプロデビューし、3年目の春だった。パリ〜ルーベいちの難所パヴェ「アランヴェール」において発生した落車に巻き込まれ、その紅白のジャージを土で汚し、膝には深い傷を負い、流血しながら走った。しかしその日はフィニッシュにたどり着くことはできなかった。
普通のレースなら、アシストの役割を終えれば、あるいは負傷すれば、次のレースに響かないように早めに自転車を降りるのがプロだ。しかしパリ〜ルーベは完走に意義のある唯一のワンデイレースと言える。この写真のフミの燃えるような眼の険しい表情からは、レースを諦めない強い意志が感じられる。ルーベはそういったレースだ。
その後の別府は、所属チーム内において北のクラシック組からアルデンヌクラシック組へと編成が変わったことで、レースプログラム上、北のクラシック出場が遠のいてしまう。しかし、今年は新チームのNIPPOデルコ・ワンプロヴァンスで、ルーベにじつに9年ぶりに出場する予定だった。しかも経験上、チームがフミに寄せる期待からは、エースに近い立場でオーダーが組まれる予定だったことだろう。
コロナウイルス問題の終息はまだ見えないものの、主催者フランダースクラシックスはロンド・ファン・フラーンデレンの秋頃の開催を目指して調整に入ったという報がある。ツール・ド・フランスの開催期間変更を最優先に調整しているA.S.O(アモリー・スポール・オルガニザシヨン)も、ツールの次にはパリ〜ルーベの開催時期調整にかかるはずだ。
今秋に北のクラシックが開催されることを願っている。そして、9年ぶりに北の地獄を走る日本人選手が観られることを。(綾野 真)
photo&text:Makoto.AYANO
例年なら今週は北のクラシックの”Holy Week”(神聖なる一週間)だった。先の日曜がロンド・ファン・フラーンデレン(ベルギー)、そして今週日曜がパリ〜ルーベ(フランス)。クラシックの王様(ロンド)と女王(ルーベ)が続き週末で開催され、北フランスおよびフランドル地方は熱く燃え上がる日々を迎えるはずだった。
言うまでもない、新型コロナウィルス(COVID-19)によるパンデミック(感染拡大)の前に、両レースは延期。現在も先の見えない状況が続く。世界的な危機の前に、楽しみは奪われた。この記事ではその2レースの話題に触れたいと思うが、そんな状況にない方々も多いだろう。まずこの場をお借りして、命を落とされた方々に深く追悼の意を表したいと思う。そして今、命を救うために闘っている医療従事者に感謝し、心からその働きにエールを贈りたい。
プロサイクリングにとってシーズン前半の一大イベントである春のクラシック。ロンドとルーベの2つのモニュメントレースは、選手たちにとっても一大目標とするレースだった。目標を失った選手たちの落胆は想像に難くない。
レースが無くなった今、過去のレースを振り返る記事をつくりたいと思っていたのだが、100年を超える歴史のレースから、そのごく一部を振り返る記事に何かの「軸」を見出すのは難しく、どうページにすべきか思い悩んでいた。だからここでは、今春の取材ができなかったことの「心残り」を記したいと思う。
私が北のクラシック取材に通い始めたのは2005年から。数えればあれから15年、何度か行けなかった年はあるものの、ロンド、水曜のシュヘルデプライス、そしてルーベ取材をセットに春のルーティーンとしてきた(以前はヘント〜ウェヴェルヘムが水曜にあった)。
今年の北のクラシック取材において、ひとつキーになると思っていたこと。それは別府史之の9年ぶりのパリ〜ルーベ参戦だった。
今季、トレック・セガフレードからNIPPOデルコ・ワンプロヴァンスに移籍した別府は、2011年に日本人として初めてのパリ〜ルーベ完走を果たしている。リザルトを遡れば、2007年(ディスカバリー)、2009年(スキル・シマノ)にリタイヤ、2010年(レディオシャック)には走り切るも制限時間オーバー、そして2011年に71位で初完走にこぎつけている。
別府が今年チームを移籍したのには、五輪代表を狙うためということもあるだろうが、北のクラシック、とりわけパリ〜ルーベへの想いがそれなりに大きなものだったのではないかと思っている。別府はU23時代にパリ〜ルーベ・エスポワールで13位という好成績を収めていることで、とくに石畳のクラシックを得意としてきた。得意以上に「情熱を持っている」と、いつも話す。
2011年のルーベ。別府はレース中に3回の落車に見舞われ、膝を負傷しながら走りきった。前週の日曜にはロンド・ファン・フラーンデレンにも完走しており、このルーベは3年連続4度目の出場だった。
日本人初めての完走に、レース直後のコメントは「まずはここからですね。ここから次、頑張れるようにしたいです」と、埃にまみれた笑顔で語った。つまりそれがゴールではなく、出発点。
ちなみにこのルーベ完走で、別府は日本人初となるモニュメントレース全完走(2011年ロンド・ファン・フラーンデレン120位、2010年ミラノ〜サンレモ113位、2008年リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ123位、2006年ジロ・ディ・ロンバルディア72位)を成し遂げている(当時の記事)。
2009年にシクロワイアードは創設されたため、そのパリ〜ルーベ2011の記事すべては現在もバックナンバーで見ることができる。それに加えて、2007年にパリ〜ルーベに初挑戦したときの、ディスカバリーチャンネル時代の写真をここに掲載しておく。
日本チャンピオンの証である白と赤のジャージで走った別府。2005年に同チームでプロデビューし、3年目の春だった。パリ〜ルーベいちの難所パヴェ「アランヴェール」において発生した落車に巻き込まれ、その紅白のジャージを土で汚し、膝には深い傷を負い、流血しながら走った。しかしその日はフィニッシュにたどり着くことはできなかった。
普通のレースなら、アシストの役割を終えれば、あるいは負傷すれば、次のレースに響かないように早めに自転車を降りるのがプロだ。しかしパリ〜ルーベは完走に意義のある唯一のワンデイレースと言える。この写真のフミの燃えるような眼の険しい表情からは、レースを諦めない強い意志が感じられる。ルーベはそういったレースだ。
その後の別府は、所属チーム内において北のクラシック組からアルデンヌクラシック組へと編成が変わったことで、レースプログラム上、北のクラシック出場が遠のいてしまう。しかし、今年は新チームのNIPPOデルコ・ワンプロヴァンスで、ルーベにじつに9年ぶりに出場する予定だった。しかも経験上、チームがフミに寄せる期待からは、エースに近い立場でオーダーが組まれる予定だったことだろう。
コロナウイルス問題の終息はまだ見えないものの、主催者フランダースクラシックスはロンド・ファン・フラーンデレンの秋頃の開催を目指して調整に入ったという報がある。ツール・ド・フランスの開催期間変更を最優先に調整しているA.S.O(アモリー・スポール・オルガニザシヨン)も、ツールの次にはパリ〜ルーベの開催時期調整にかかるはずだ。
今秋に北のクラシックが開催されることを願っている。そして、9年ぶりに北の地獄を走る日本人選手が観られることを。(綾野 真)
photo&text:Makoto.AYANO
Amazon.co.jp