2019/05/23(木) - 14:50
アドリア海からアルプス山脈まで一直線に進むジロ・デ・イタリア。前日に続いて平穏で平坦なステージは往年の名選手ファウスト・コッピが暮らした邸宅の横でフィニッシュを迎えた。嵐の前の静けさとなったジロ第11ステージを振り返ります。
昨日からずっとイタリアメディアはニキ・ラウダの死去と彼の功績を繰り返し報じている。イタリアナショナルチームに近い存在の「赤い跳ね馬」フェラーリを駆って1975年と1977年にF1ドライバーズチャンピオンに輝いている(マクラーレン時代の1984年に3回目)ラウダはイタリア人にとって大きな存在。若い頃にラウダの走りに熱狂したというイタリア人の大会関係者がいっぱいいる。
第10ステージのフィニッシュ地点モデナと、この第11ステージのスタート地点カルピの近くにはフェラーリだけでなくマセラティやランボルギーニ、パガーニなど、イタリアを代表する自動車メーカーが乱立している。ちなみに最大手フィアットとランチアはトリノ、アルファロメオはミラノに拠点を置く。何れにしても自動車産業は北イタリアに集中している。
車ネタとして後学のために書いておくと、イタリアの車のナンバープレートを見ると、その車が新しいのか古いのかがある程度わかる。イタリアを表す「I」の隣、大きな英数字の最初の2文字がアルファベット順なので、それを見るだけで登録した年代が大体わかってしまう(特殊車両や大型車両を除く)。
1994年1月12日に始まったこの「アルファベット順」のナンバープレート。例えば1994年の導入時の車は「AA」で始まり、その後ろの数字を使い切ると次は「AB」に。IとOとQとUを除くアルファベット22文字が使用されており、「AZ」まで行ったところで次は「BA」となる。そして「BZ」の次が「CA」。「CZ」の次が「DA」。自分が2004年に1年間留学していた頃は「C時代」から「D時代」で、現在は「F時代」。大会主催者が使用している真新しいトヨタ車は「FV」や「FW」が多く、現在は「FX」が最新。参考までに。
エミリア=ロマーニャ州からロンバルディア州を経てピエモンテ州へ。アドリア海沿いのリミニ近郊で休息日を過ごしたジロが、2日間かけて直線的にアルプス山脈の近くまで移動した。第11ステージの大部分は、ポー平原の南端を走るエミリア街道、またの名をエミリア美食街道。その中でも前半に通過したパルマの街は、その名の通りパルマハムやパルミジャーノレッジャーノの産地として知られ、実際にコース脇にはハムとチーズの直売所がいくつかあった。
ピエモンテ州のノーヴィリグーレと言えば、新城幸也(当時Bboxブイグテレコム)が逃げ切って3位に入った2010年ジロ第5ステージの記憶が鮮明に焼き付いている。当時のレースレポートや、今より日記色の強い当時の現地レポートを読むと今でもグッとくるものがある。
街中にフィニッシュした9年前とは異なり、この日のフィニッシュラインはノーヴィリグーレ郊外の直線路に引かれた。チームバス駐車場となった大通りには立派な門構えの邸宅があり、その門には「COPPI」の文字が。ジロ・デ・イタリア5勝、ツール・ド・フランス2勝、ミラノ〜サンレモ3勝、ロンバルディア5勝、パリ〜ルーベ1勝、フレーシュ・ワロンヌ1勝、ロード世界選手権1勝、アワーレコード樹立という途方もない記録を残し、イタリア史上最高のロードレーサーとして讃えられるファウスト・コッピが引退後に暮らした邸宅がそこにあった。
コッピが生きていれば今年で100歳。「カンピオニッシモ(チャンピオンの最上級)」の生誕100年を記念して、ジロがコッピに所縁のある場所を訪れた。今年、コッピが生まれ育った山あいの小さな村カステッラーニアは正式にカステッラーニア・コッピに名称変更している。
第12ステージのクーネオからピネローロというレイアウトは、内容こそ違えど、コッピを思い起こさせるもの。1949年6月10日、クーネオからピネローロまで、マッダレーナ峠やヴァルス峠、イゾアール峠、モンジネヴロ、セストリエールを含む254kmで行われたジロ第17ステージで192kmもの単独逃げを成功させたコッピ。ライバルのジーノ・バルタリに12分近い差をつけてステージ優勝したことは、イタリア人(少なくともピエモンテ人)なら誰でも知っているほどの伝説となっている。宿泊ホテルの主人が「明日はクーネオからピネローロだな、あれは確か60年前(正確には70年前)にコッピが逃げたステージだ」と嬉しそうに長話を始めるほどに。
第10ステージの平均心拍が88bpmだったチャド・ハガ(アメリカ、サンウェブ)のこの日の平均心拍は98bpm。確実に選手たちはこの平穏&平坦な2日間で体も心も休めることができたはず。むしろ休息日を含めると3日間休みすぎた影響で第12ステージに強度を上げることができない選手も出てくるのではという声もある。初山翔(NIPPOヴィーニファンティーニ・ファイザネ)は「1回目の逃げの次の日と比べるとずっと楽だった」と、リカバリーに充てることができた様子だ。
ピュアスプリンターたちが帰宅する。前半平坦ばっかり、後半山ばっかりというレイアウトは、多くのピュアスプリンターを誘惑し、そして突き放す。カレブ・ユアン(オーストラリア、ロット・スーダル)とエリア・ヴィヴィアーニ(イタリア、ドゥクーニンク・クイックステップ)という、今大会明暗を分けた2人のスピード自慢があっさりと帰宅する。
ヴィヴィアーニは第3ステージのスプリントで先着しながらも、イレギュラースプリントとして降格処分を受けた。この処分がヴィヴィアーニの走りに影響を与え続けた。「自分のスプリントができなくなった。これは脚の問題ではなく頭の問題。自信を取り戻すためには時間がかかるかもしれない。これ以上ジロを走っていても解決策は見えてこないと思った。一旦スイッチを切って、勝つために再び動き出したい」。1年前にステージ4勝を飾ってマリアチクラミーノを獲得したヴィヴィアーニが1勝もできないままリタイア。ガゼッタ紙はステージ優勝者よりも大きくイタリアチャンピオンの低迷を扱った。
右手でハンドルをしっかり握るのも辛そうなパスカル・アッカーマン(ドイツ、ボーラ・ハンスグローエ)は、マリアチクラミーノを守るために中間スプリントで動いたことからも3週間を走りきるつもり。しかし集団スプリントでここまで欠かさず上位に入っているアルノー・デマール(フランス、グルパマFDJ)の安定感は抜群。グルパマFDJが引き続き中間スプリントを狙う動きを見せるならば、マリアチクラミーノの本命はデマールということになる。逆に、デマールとアッカーマンがリタイアしてしまうと、マリアチクラミーノ争いはすごく寂しいものになる。
text&photo:Kei Tsuji in Novi Ligure, Italy
昨日からずっとイタリアメディアはニキ・ラウダの死去と彼の功績を繰り返し報じている。イタリアナショナルチームに近い存在の「赤い跳ね馬」フェラーリを駆って1975年と1977年にF1ドライバーズチャンピオンに輝いている(マクラーレン時代の1984年に3回目)ラウダはイタリア人にとって大きな存在。若い頃にラウダの走りに熱狂したというイタリア人の大会関係者がいっぱいいる。
第10ステージのフィニッシュ地点モデナと、この第11ステージのスタート地点カルピの近くにはフェラーリだけでなくマセラティやランボルギーニ、パガーニなど、イタリアを代表する自動車メーカーが乱立している。ちなみに最大手フィアットとランチアはトリノ、アルファロメオはミラノに拠点を置く。何れにしても自動車産業は北イタリアに集中している。
車ネタとして後学のために書いておくと、イタリアの車のナンバープレートを見ると、その車が新しいのか古いのかがある程度わかる。イタリアを表す「I」の隣、大きな英数字の最初の2文字がアルファベット順なので、それを見るだけで登録した年代が大体わかってしまう(特殊車両や大型車両を除く)。
1994年1月12日に始まったこの「アルファベット順」のナンバープレート。例えば1994年の導入時の車は「AA」で始まり、その後ろの数字を使い切ると次は「AB」に。IとOとQとUを除くアルファベット22文字が使用されており、「AZ」まで行ったところで次は「BA」となる。そして「BZ」の次が「CA」。「CZ」の次が「DA」。自分が2004年に1年間留学していた頃は「C時代」から「D時代」で、現在は「F時代」。大会主催者が使用している真新しいトヨタ車は「FV」や「FW」が多く、現在は「FX」が最新。参考までに。
エミリア=ロマーニャ州からロンバルディア州を経てピエモンテ州へ。アドリア海沿いのリミニ近郊で休息日を過ごしたジロが、2日間かけて直線的にアルプス山脈の近くまで移動した。第11ステージの大部分は、ポー平原の南端を走るエミリア街道、またの名をエミリア美食街道。その中でも前半に通過したパルマの街は、その名の通りパルマハムやパルミジャーノレッジャーノの産地として知られ、実際にコース脇にはハムとチーズの直売所がいくつかあった。
ピエモンテ州のノーヴィリグーレと言えば、新城幸也(当時Bboxブイグテレコム)が逃げ切って3位に入った2010年ジロ第5ステージの記憶が鮮明に焼き付いている。当時のレースレポートや、今より日記色の強い当時の現地レポートを読むと今でもグッとくるものがある。
街中にフィニッシュした9年前とは異なり、この日のフィニッシュラインはノーヴィリグーレ郊外の直線路に引かれた。チームバス駐車場となった大通りには立派な門構えの邸宅があり、その門には「COPPI」の文字が。ジロ・デ・イタリア5勝、ツール・ド・フランス2勝、ミラノ〜サンレモ3勝、ロンバルディア5勝、パリ〜ルーベ1勝、フレーシュ・ワロンヌ1勝、ロード世界選手権1勝、アワーレコード樹立という途方もない記録を残し、イタリア史上最高のロードレーサーとして讃えられるファウスト・コッピが引退後に暮らした邸宅がそこにあった。
コッピが生きていれば今年で100歳。「カンピオニッシモ(チャンピオンの最上級)」の生誕100年を記念して、ジロがコッピに所縁のある場所を訪れた。今年、コッピが生まれ育った山あいの小さな村カステッラーニアは正式にカステッラーニア・コッピに名称変更している。
第12ステージのクーネオからピネローロというレイアウトは、内容こそ違えど、コッピを思い起こさせるもの。1949年6月10日、クーネオからピネローロまで、マッダレーナ峠やヴァルス峠、イゾアール峠、モンジネヴロ、セストリエールを含む254kmで行われたジロ第17ステージで192kmもの単独逃げを成功させたコッピ。ライバルのジーノ・バルタリに12分近い差をつけてステージ優勝したことは、イタリア人(少なくともピエモンテ人)なら誰でも知っているほどの伝説となっている。宿泊ホテルの主人が「明日はクーネオからピネローロだな、あれは確か60年前(正確には70年前)にコッピが逃げたステージだ」と嬉しそうに長話を始めるほどに。
第10ステージの平均心拍が88bpmだったチャド・ハガ(アメリカ、サンウェブ)のこの日の平均心拍は98bpm。確実に選手たちはこの平穏&平坦な2日間で体も心も休めることができたはず。むしろ休息日を含めると3日間休みすぎた影響で第12ステージに強度を上げることができない選手も出てくるのではという声もある。初山翔(NIPPOヴィーニファンティーニ・ファイザネ)は「1回目の逃げの次の日と比べるとずっと楽だった」と、リカバリーに充てることができた様子だ。
ピュアスプリンターたちが帰宅する。前半平坦ばっかり、後半山ばっかりというレイアウトは、多くのピュアスプリンターを誘惑し、そして突き放す。カレブ・ユアン(オーストラリア、ロット・スーダル)とエリア・ヴィヴィアーニ(イタリア、ドゥクーニンク・クイックステップ)という、今大会明暗を分けた2人のスピード自慢があっさりと帰宅する。
ヴィヴィアーニは第3ステージのスプリントで先着しながらも、イレギュラースプリントとして降格処分を受けた。この処分がヴィヴィアーニの走りに影響を与え続けた。「自分のスプリントができなくなった。これは脚の問題ではなく頭の問題。自信を取り戻すためには時間がかかるかもしれない。これ以上ジロを走っていても解決策は見えてこないと思った。一旦スイッチを切って、勝つために再び動き出したい」。1年前にステージ4勝を飾ってマリアチクラミーノを獲得したヴィヴィアーニが1勝もできないままリタイア。ガゼッタ紙はステージ優勝者よりも大きくイタリアチャンピオンの低迷を扱った。
右手でハンドルをしっかり握るのも辛そうなパスカル・アッカーマン(ドイツ、ボーラ・ハンスグローエ)は、マリアチクラミーノを守るために中間スプリントで動いたことからも3週間を走りきるつもり。しかし集団スプリントでここまで欠かさず上位に入っているアルノー・デマール(フランス、グルパマFDJ)の安定感は抜群。グルパマFDJが引き続き中間スプリントを狙う動きを見せるならば、マリアチクラミーノの本命はデマールということになる。逆に、デマールとアッカーマンがリタイアしてしまうと、マリアチクラミーノ争いはすごく寂しいものになる。
text&photo:Kei Tsuji in Novi Ligure, Italy