2016/10/28(金) - 08:10
ジャパンカップクリテリウムを最後のレースに選び、宇都宮で競技人生を終えたファビアン・カンチェラーラ(トレック・セガフレード)。フランドルやパリ〜ルーベの勝利、そしてツールのマイヨジョーヌ、リオ五輪金メダルなど輝かしい戦績を残し去るスイス人スターに、その心境を語ってもらった。
ー リオ五輪タイムトライアルで金メダルを獲得したあと、ビッグレースに出ること無くいたと思うのですが、どのようにすごしていたのですか?
そのとおり、ベルギーでのクリテリウムなどには出ましたが、真剣に勝利を狙うレースはリオが最後でした。その後はいろいろなイベントにアテンドするために世界各地を旅しました。ライドもしていましたが、トレーニングというものではありません。機会を設けてくれた方のため、連盟のため、チーム、スポンサーのため、すべて異なっていますが、それらを通じて未来につながるための活動です。幕を閉じるのと同時に、将来のためのアクティビティです。
でも、それらが少々忙しすぎました。リタイアを選択したというのに、リオ以降は選手活動よりもずっと忙しかったのです!。それは私自身のマネジメントミスです。本当に忙しかった(笑)。もしリオで勝たなかったらこれほど忙しいものになったとは思いません。勝ったことでリクエストも多かったのでしょう。でもそれは悪くない。いいことですね(笑)。
ー ベルンでツール・ド・フランスを終えてリオ五輪に備えたと思います。それがうまくいったのでしょうか?
そうです。ベルンでツールを終えて、リオにフォーカスしました。
ー 最初からリオでのメダルを狙っていたんですか? もともとの年間のプランではどうだったのでしょうか?
いいえ。年間プランで言えばシーズンのいちばん大きな目標は春のクラシック。まずそれが第1でした。他はジロ・デ・イタリアも、ツール・ド・スイスも重要でした。
ー やはりクラシック、ロンド・ファン・フラーンデレンとパリ〜ルーベで勝利することが最大目標だったということですね。
クラシックが一番大事な理由は、もっとも愛しているレースだからです。クラシックは私の情熱の在り処でした。とくに今年は100周年記念のフランダース(ロンド)でした。そしてジロ・デ・イタリア。なぜならマリアローザをまだ着たことがなかったから、その可能性があるジロも狙っていたのです。ツール・ド・スイスは我が母国でのレースということと、歴史上とても大事な年でした。そしてスイスの我が故郷ベルンに立ち寄るツール・ド・フランスで活躍すること。それらが重要でした。
ベルンでのステージを最後にツール・ド・フランスを去ることは、ツールなかばですでに考えていました。次の大事なゴールがリオだったからです。その準備のためにはそこでリタイアすべきだと。春のクラシックのときにはリオのことなど考えていませんでした。レーススケジュールを進めるうちに、組み直していくのです。
ー リオ五輪での金メダルは失礼ながら我々にとってサプライズでした。この数年、あなたはタイムトライアルにそれほどフォーカスしていないように思えました。誰もあなたが最有力候補だと思っては居なかった。
そのとおり、タイムトライアルに対して近年は以前と同じモチベーションは持っていませんでした。おそらく2013年のフィレンツェでの世界選手権タイムトライアルで銅メダルを獲ったのを最後に、グランツールでのプロローグやタイムトライアルでの勝利を狙わなくなりました。そのころからトレックのバイク開発を手伝うようになりましたが、ディテールにこだわるようになると、またタイムトライアルの勝利が戻ってきたのです。
私はタイムトライアルとともに生まれ、タイムトライアルの勝利で競技人生を終えるのです。すべてが回る車輪のようではないですか? 私の序章は2004年ツール・ド・フランスでのプロローグの勝利でした。そして私は最終章を五輪のタイムトライアルの勝利で終えるのです。TTに始まり、TTに終わる。まさにグラン・ブークル(ツール・ド・フランスの別名:「大きな輪」の意味)、そしてジ・エンドです。
ー その2004年、リエージュでのツール・ド・フランスのプロローグでの勝利。そのときの気持ちを覚えているようでしたら教えてください。
そう、私はすごく若かった。前年の2003年にはツール・ド・スイスとロマンディでもプロローグの勝利を獲っていたけど、世界の誰もカンチェラーラの名前は知らなかったと言って良いでしょう。表彰台に登るまで、「ワォ! フー・イズ・カンチェラーラ!?」だったのです。あの勝利はすべてを変える特別な一日になりました。私は一気に有名になったのです。
ー 選手としての人生を終えて、第2の人生が始まります。これからは何をするのですか?
宇都宮から東京に行って楽しんで、火曜に家に帰って、水曜にベルギーに行きます。でもまだホリデーではありません。今は将来のための準備をしているのです。新たなスケジュールで動くために、新しい仕事のベース作りをしています。16年に及ぶ自転車競技生活の後でも、まだ私の情熱は自転車界にあります。トレックとも新しい仕事を始めます。他にもいくつもの新しいプロジェクトに関わるでしょう。
例えば新しいスピードメーターの「Omata(オマタ)」はそのひとつです。
ー そのメーターは知っています。アナログ時計のような。
そう、中身はデジタル、外観は針のアナログ時計のような。なぜならもう私はパワーメーターは不要だし、ハートレート、ストップウォッチ機能は要らないのです。私はツーリストです(笑)。それがこのプロジェクトにジョインした理由です。(Omataウェブサイト」)
トレックは私の会社ではありません。今後はアンバサダーのような存在で、製品開発に関わる様々な協力やアドバイスを行います。チームとの関わりももちろん続きます。Omataは私も会社経営側のひとりとなっています。ほかにも自転車連盟の仕事や、子どもたちのためのプロジェクトなどにも関わることになります。そうした様々なことを仕事、あるいは関わりとしながら、今までとは違う人生を生きていきます。
ファビアン・カンチェラーラ 過去のシーンより
interview&photo:Makoto.AYANO
ー リオ五輪タイムトライアルで金メダルを獲得したあと、ビッグレースに出ること無くいたと思うのですが、どのようにすごしていたのですか?
そのとおり、ベルギーでのクリテリウムなどには出ましたが、真剣に勝利を狙うレースはリオが最後でした。その後はいろいろなイベントにアテンドするために世界各地を旅しました。ライドもしていましたが、トレーニングというものではありません。機会を設けてくれた方のため、連盟のため、チーム、スポンサーのため、すべて異なっていますが、それらを通じて未来につながるための活動です。幕を閉じるのと同時に、将来のためのアクティビティです。
でも、それらが少々忙しすぎました。リタイアを選択したというのに、リオ以降は選手活動よりもずっと忙しかったのです!。それは私自身のマネジメントミスです。本当に忙しかった(笑)。もしリオで勝たなかったらこれほど忙しいものになったとは思いません。勝ったことでリクエストも多かったのでしょう。でもそれは悪くない。いいことですね(笑)。
ー ベルンでツール・ド・フランスを終えてリオ五輪に備えたと思います。それがうまくいったのでしょうか?
そうです。ベルンでツールを終えて、リオにフォーカスしました。
ー 最初からリオでのメダルを狙っていたんですか? もともとの年間のプランではどうだったのでしょうか?
いいえ。年間プランで言えばシーズンのいちばん大きな目標は春のクラシック。まずそれが第1でした。他はジロ・デ・イタリアも、ツール・ド・スイスも重要でした。
ー やはりクラシック、ロンド・ファン・フラーンデレンとパリ〜ルーベで勝利することが最大目標だったということですね。
クラシックが一番大事な理由は、もっとも愛しているレースだからです。クラシックは私の情熱の在り処でした。とくに今年は100周年記念のフランダース(ロンド)でした。そしてジロ・デ・イタリア。なぜならマリアローザをまだ着たことがなかったから、その可能性があるジロも狙っていたのです。ツール・ド・スイスは我が母国でのレースということと、歴史上とても大事な年でした。そしてスイスの我が故郷ベルンに立ち寄るツール・ド・フランスで活躍すること。それらが重要でした。
ベルンでのステージを最後にツール・ド・フランスを去ることは、ツールなかばですでに考えていました。次の大事なゴールがリオだったからです。その準備のためにはそこでリタイアすべきだと。春のクラシックのときにはリオのことなど考えていませんでした。レーススケジュールを進めるうちに、組み直していくのです。
ー リオ五輪での金メダルは失礼ながら我々にとってサプライズでした。この数年、あなたはタイムトライアルにそれほどフォーカスしていないように思えました。誰もあなたが最有力候補だと思っては居なかった。
そのとおり、タイムトライアルに対して近年は以前と同じモチベーションは持っていませんでした。おそらく2013年のフィレンツェでの世界選手権タイムトライアルで銅メダルを獲ったのを最後に、グランツールでのプロローグやタイムトライアルでの勝利を狙わなくなりました。そのころからトレックのバイク開発を手伝うようになりましたが、ディテールにこだわるようになると、またタイムトライアルの勝利が戻ってきたのです。
私はタイムトライアルとともに生まれ、タイムトライアルの勝利で競技人生を終えるのです。すべてが回る車輪のようではないですか? 私の序章は2004年ツール・ド・フランスでのプロローグの勝利でした。そして私は最終章を五輪のタイムトライアルの勝利で終えるのです。TTに始まり、TTに終わる。まさにグラン・ブークル(ツール・ド・フランスの別名:「大きな輪」の意味)、そしてジ・エンドです。
ー その2004年、リエージュでのツール・ド・フランスのプロローグでの勝利。そのときの気持ちを覚えているようでしたら教えてください。
そう、私はすごく若かった。前年の2003年にはツール・ド・スイスとロマンディでもプロローグの勝利を獲っていたけど、世界の誰もカンチェラーラの名前は知らなかったと言って良いでしょう。表彰台に登るまで、「ワォ! フー・イズ・カンチェラーラ!?」だったのです。あの勝利はすべてを変える特別な一日になりました。私は一気に有名になったのです。
ー 選手としての人生を終えて、第2の人生が始まります。これからは何をするのですか?
宇都宮から東京に行って楽しんで、火曜に家に帰って、水曜にベルギーに行きます。でもまだホリデーではありません。今は将来のための準備をしているのです。新たなスケジュールで動くために、新しい仕事のベース作りをしています。16年に及ぶ自転車競技生活の後でも、まだ私の情熱は自転車界にあります。トレックとも新しい仕事を始めます。他にもいくつもの新しいプロジェクトに関わるでしょう。
例えば新しいスピードメーターの「Omata(オマタ)」はそのひとつです。
ー そのメーターは知っています。アナログ時計のような。
そう、中身はデジタル、外観は針のアナログ時計のような。なぜならもう私はパワーメーターは不要だし、ハートレート、ストップウォッチ機能は要らないのです。私はツーリストです(笑)。それがこのプロジェクトにジョインした理由です。(Omataウェブサイト」)
トレックは私の会社ではありません。今後はアンバサダーのような存在で、製品開発に関わる様々な協力やアドバイスを行います。チームとの関わりももちろん続きます。Omataは私も会社経営側のひとりとなっています。ほかにも自転車連盟の仕事や、子どもたちのためのプロジェクトなどにも関わることになります。そうした様々なことを仕事、あるいは関わりとしながら、今までとは違う人生を生きていきます。
ファビアン・カンチェラーラ 過去のシーンより
interview&photo:Makoto.AYANO
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