2011/04/05(火) - 08:25
「週末はロンドらしい荒れた天気になる」そう言われて迎えた日曜日。ブルージュはあやしげな曇空に包まれていた。しかし寒さを感じさせない生暖かい空気。朝から詰めかける人、人、人...。
マルクト広場にはベルギーじゅうから自転車ファンが大集結!
ブルージュのマルクト広場には大きなメインステージが設けられ、アコーディオン演奏とともに、自転車競技専門のラジオジャーナリストが務める司会で主だった選手が紹介されていく。軽妙な掛け合いに場がなごむが、選手たちの集中しきった表情がこのレースに賭ける意気込みをひしひしと感じさせてくれる。
この日の観客は1万5千人とも2万人とも言われる。
ロンド・ファン・フラーンデレンはワンデイクラシックにおける最高峰のレ-ス。自転車競技を国技とする国にあって、自転車競技の中心地フランドル地方を舞台とする伝統と格式のモニュメントとしてのレースだ。記念碑であり、受け継がれる生きた遺産としてのレースだ。集まった万の観客たちのまなざしが鋭い。その眼のすべてが熱狂的な自転車ファンの瞳をもっている。
カンチェラーラが絶対的な優勝候補。近年これほどまで絶対的に勝つだろうと言われた選手はいない。強さを誇った2005・6年のボーネンも、ここまで高い次元にある優勝候補とは認識されなかったと思う。
しかしすべての選手がカンチェラーラを封じることを考える。レースはどう動くのか。
自信たっぷりなオーラを発しながら静かに集中するカンチェラーラ。肉体的に一段と逞しさを増したジルベール。そしてラインナップを見れば、チーム力ではガーミン・サーヴェロが強力。しかしナイエンスへのインタビューはなく、スルー状態。
フミも屈託の無い笑顔でにこやかに登場。昨夜インタビューで語ってくれた強い意気込みと、身体と心の充実を感じるいい笑顔だ。このあまりに厳しいレースでは、日本人初の完走者となることも、ひとつの立派な目標になる。
シャバネルは記者たちに囲まれて甲高い声で愛想をふりまいていた。ヘント~ウェヴェルヘムで評価を戻したフランドルのヒーローであるボーネンをアシストする大役。しかしプレッシャーはなさそうだ。
もう何回目だろう、今年もまた同じ質問。初めてロンドを制したスペイン人になりたい?」と聞かれたフレチャは「大事なのは良いレースをすること。楽しんで走るよ」といい笑顔。
フミが「注目すべきかも」と言うBMCレーシングも、運に見放されてきた2年間を送ったバッランを支える強力な布陣だ。
9時半。華のあるマルクト広場から選手たちが走りだして行った。同時に蜘蛛の子を散らすように万の観客たちが次の目的地へ向けて一斉に走りだす!
今回の現地取材行きは一週間前に決めたため、オートバイと運転手の雇用手配ができなかった。レンタカーをアシに撮影スポットを回らなくてはいけない。通行証となるプレスの証のステッカーを貼ってはいるものの、移動それ自体
が難儀を極めることは、このレースを現地で体感した人なら分かるだろう。
このマルクト広場に集まった人の多くも、レースがスタートすれば名所のパヴェへと移動していく。ベルギーじゅうの自転車ファンがレースと共に動く一日。地理に不案内な海外ジャーナリストはその動きに翻弄されてしまうのが関の山、というのが実情だ。正直、数度取材を重ねた程度ではレースの動きに合わせて人やクルマが群れをなして動く流れのなかでうまく立ち回れる自信と技術は持ちあわせていない。
コッペンベルグへ
ブルージュが陥る渋滞からの早めの脱出のために、リング(市街を囲む道路)の外にクルマを停め、レースのスタートを見送ったらすぐに(昨日の市民シクロで乗った)マイ自転車で脱出。一路コッペンベルグを目指す。
天気がめまぐるしく変わることが特徴的なフランドル地方。天気予報によって悪天候が予想されたのに、昼過ぎには青空が広がりだし、暑くさえなっていた。いったい雨は何処にいった?。
コッペンベルグの麓では、ベルギー名物ビールの露店スタンドがたち、モニター観戦で大いに盛り上がっている。
パヴェのなかでもオウデ・クワレモントからの勝負どころとなるパヴェは完全ドライ。コッペンベルグは例年になくいい状態だ。しかしだからと言って滑らないというわけでなく、ところどころに乾いた泥と土埃が浮き、枯れ枝や草のゴミが落ちている。
各チームのスタッフがスペアホイールを抱えて待機する。カペルミュールとコッペンベルグはチームカーの通行が制限されているため、迂回せざるをえないためだ。2年前、カンチェラーラはここでチェーンを切ってレースを諦めた。「僕らには苦い思い出がある」そう言うレオパード・トレックのスタッフのひとりは、かつてサクソバンクで働いていた人物だった。
コッペンベルグの中腹、もっとも斜度の高くなる箇所のすぐ先の道端に陣取って集団が来るのを待つ。道端といっても、草の斜面のわずかな窪みに身を避け、落ちないように木の根っこを脚に絡ませての撮影待機だ。
シャヴァネルを先頭に、選手たちがなだれ込むように最大勾配22%の激坂に挑む。バイクの軋む音、激しい息遣いが間近に聞こえる。ラインを主張するために鋭い怒鳴り声を挙げる選手たち。例年足を着く選手が続出するが、今回は誰ひとり足を着かず、シクロクロススタイルは見られなかった。フミも集団中ほどで難なく通過した。
ニノーヴへ
撮影後にコッペンベルグを脱出するとき、ジルベールのためのスペアバイクだけを積んだオメガファーマ・ロットの関係車両と一緒になった。備えるチームはそこまでしているのか。
渋滞のリスクを避けるため、あえて大きく迂回するルートをとってニノーヴのゴール地点に入った。ジャイアントスクリーンが映しだすラスト30kmの展開に、息を呑んだ。ゴールに詰めかけた観客たちが沸き立つ。スーパーマンの圧勝かと思いきや、フィナーレで振り出しに戻るレース。力の限りを出してぶつかり合う選手たちの姿は文字通りの死闘。これほどまでにエキサイティングな展開のレースは久しく覚えがない。
カンチェラーラの強さが際立ってなお、最後まで諦めなかった12人の誰もが勝てるチャンスがあった。
ナイエンス、シャヴァネル、カンチェラーラの逃げきり
ナイエンスの勝利はサプライズだが、カンチェラーラとのマッチスプリントに持ち込むという自分の勝ちパターンの展開に持ち込んだのは、最初から目指したことだという。
スプリントしながら「背後に何か青いものが見えた」が、それは“ホステのデジャヴ"(2007年ロンドでレイフ・ホステが早めのスプリントを掛けたが、アレッサンドロ・バッランにフィニッシュライン寸前で交わされた)のようだった。シャヴァネルを前に出さないラインをとり続けたナイエンス。
シャヴァネルはライン取り2度に失敗して脚を止めたことで、ナイエンスを抜くことができなかった。しかし審判に対してナイエンスのとったラインに対してのクレームはつけなかった。
エースのボーネンが追いつくことを信じて最後まで待ち続けたシャヴァネル。カンチェラーラは言う。「もしシャヴァネルが自分の勝利のために協調して先頭を引いてくれたら、僕らは勝利を分かちあえた。僕が勝てて彼が2位になれた」。
最終局面まで逃げた末に、カンチェラーラがシャヴァネルに握手を求めた。フェアープレイの末のスプリントは、最後まで紙一重のフェアープレイが保たれた。しかしシャヴァネルにはライン取りの運がなかった。
厳しい260kmを走りきってなお、それぞれの思惑が絡みあうぎりぎりのスプリント。「もっとも強い選手が勝つと限らないというのが自転車レース」とは、ナイエンスとカンチェラーラのふたりともが話した言葉だ。
ドワーズ・ドア・フラーンデレンに勝って尚、優勝候補に挙げられなかったナイエンスの勝利は驚きを持って迎えられた。しかしドワーズでの劇的な逃げきり勝利は、ロンドという最高の舞台での勝利として再現された。
ゴールしてしばらくしても、カンチェラーラは歩くことができず、脚を攣らせたまま。バイクに乗ったまま左足をいびつに上げた状態でポディウムに向かった。
ナイエンス「今日は僕の日じゃなかった」
勝ってなお「今日は自分の日じゃなかった」と言うナイエンス。この日、序盤から調子が出ず苦しんでいたという。集団後方にいたことでトラブルが続き、位置取り争いの激しくなる前にクノクテベルグのパヴェで落車に巻き込まれ、先頭100人の後方に取り残された。同じく巻きぞえをくったデヴォルデルらの引きにも助けられ、コッペンベルグまでに集団先頭への復帰を果たすが、コース外で立ち止まった時は「自分のレースは終わったと思った」という。
ナイエンスは今日のキーワードを「ネバー・ギブアップ」と言い表した。昨年のロンドでの途中リタイアが頭をよぎったという。「道端でチームカーに乗るのを待つときのあの悲惨な気持ち。あれはキャリアのなかでもっとも厳しい瞬間だった」。
そして集団に復帰しても、落車時に生じたシューズの問題=クリートがずれて位置が変わってしまった=は引きずっていた。走りながら直すことはできないと諦め、残り70kmをそのまま走ることにした。
ナイエンスはこの日のスタートの朝、リース監督に「カンチェラーラとのスプリントに持ち込むことができれば勝てるチャンスがあるだろう」と指示されていたという。そして面会に来た父に「カンチェラーラとのスプリントならお前が勝てる。お前のほうが速い」と言い聞かされた。その言葉を信じて走ったという。しかしシャヴァネルのスプリントの強さは計りかねていた。
不振の3年間を返上
ナイエンスは地元ベルギーはアントワープに近いリール(Lier)出身。つまりフランドル出身のフレミッシュだ。八重歯の見える笑顔が愛くるしいが、性格は大人しく、華がないためスター性には乏しい面がある。
ナイエンスにとってロンドでの成績は、U23時代の勝利、2007年の7位と、デヴォルデルが勝った2008年に後続集団のスプリントを制しての2位がある。昨年はE3プライス・フラーンデレンで落車したケガの影響が残り、200kmを越えた時点で途中棄権している。最近3シーズンの不振が続いたが、ロンド制覇のステップは確実に刻んできている。
2005年のオムロープ・ヘットフォルク(現在のオムロープ・ヘットニューズブラッド)において独走勝利を飾る。同年グランプリ・ド・ワロニーに勝利。2006年にはクールネ~ブリュッセル~クールネに優勝。自国ベルギーのセミクラシックを得意としてきたが、当時所属したクイックステップ(~2006年)では最高峰のメジャークラシックにおけるエースはチームメイトだったボーネンの役割だった。
チャンスを求めて移籍した2007年のコフィディスでは、フランス式のチーム方針に馴染めなかった。
2009年に移籍したラボバンクでは、移籍早々に患った病気のため、レースに対応できなかった。加えて子供が生まれたことによる生活の変化に対応できず、選手生活に影響が出た面があった。2009年はアムステルゴールドレースの8位が最高で、勝ち星はGPワロニーのみ。
2010年はツアー・オブ・オーストリアのステージ1勝にとどまった。成績不振で、自転車競技を見る目の厳しいベルギーでの人気は低かった。このメジャー勝利で、ナイエンスはクラシックハンターとしてステイタスをあげた。ビッグネームの仲間入りを果たしたと言えそうだ。
サクソバンクとの契約は「まるで新しいスタート」
ナイエンスは昨シーズン末、ラボバンクからサクソバンクに移籍を決めた。リース監督から代理人に声がかかったが、契約金の交渉話はとくにしなかったという。レオパード・トレックへの大量移籍で人材を失ったサクソバンクが、クラシックの主要選手として穴埋めのために欲した選手がナイエンスだった。
ナイエンスにはクイックステップとコフィディスもオファーしたが、リース監督が代理人に伝えた「君と一緒に仕事がしたい」という熱いコールに応え、サクソバンクへの移籍を決めた。その移籍については、カンチェラーラにもリース監督のもとで走ることを助言されたという。そのナイエンスがカンチェラーラを打倒したというのは、なんとも皮肉な話だ。
もっとも、何が何でもレオパード・トレックVSサクソバンクの「因縁のリベンジマッチ」という構図の闘いを描きたいメディアに対して、ナイエンスはチーム内で復讐戦のようなことが口にされることはまったくないときっぱりと否定した。
リースが選手を奮い立たせ、団結を高める力に長けているのはお馴染みのところだ。
「説明するのは難しいけれど...。たくさんの言葉をもらうわけじゃないが、リースの言葉は自信を与えてくれる。トレーニングキャンプのときにかけてもらったひとことが、自信になっている。チームの哲学が好きだ。正しい選択をしたと思う。サクソバンクとの契約は、新しいスタートのように思える」とナイエンス。
モチベーションを上げる「リースの魔法」は、選手が入れ替わっても健在だ。
別府史之、日本人初のロンド完走という着実なワンステップ
フミこと別府史之は、+17分51秒遅れの120位完走。完走よりも何をしたかが問われるプロチームの選手にとって、完走はさほど意味のあることとは思えないかもしれない。しかしロンドは260kmの長丁場のタフなレース。あるプロ選手のデータでも、消費カロリーは6500kcalに迫る厳しさだ。だからこそのステイタスの高さがある。過去2回の出走は不運続きで完走を逃してきたフミ。最終集団でのゴールだが、日本人にとってのロンド初完走という結果には、惜しみない拍手を贈りたい。
そしてフミ「クラシックの女王」「北の地獄」と異名を取るパリ~ルーベでも完走を狙う。昨年はルーベ競技場にたどり着くも、タイムアウトでリザルトには名を残せなかった。28歳の誕生日をパリ~ルーベ当日控えるフミ。もうひとつの過酷なパヴェのモニュメントレースを完走できたなら、素晴らしい誕生日プレゼントになるはずだ。
日本の震災被害への支援を呼びかけた橋川健さん夫妻
ベルギーはコルトレイク在住の橋川健(ダンジェロ&アンティヌッチィ・株式会社NIPPOコーチ)さん夫妻とボランティアスタッフ一行が、ロンドで震災支援のチャリティー活動「Cyclists Pray For JAPANのアピールを繰り広げた。
レース数日前から準備を始め、チームのホテルを訪ね、監督などに説明をしてきた。レースの朝はスタートに備える選手たちにバナーへのサインを求め、ステッカーを自転車に貼ってもらうようにチームに交渉した。BMCレーシングやランドバウクレジットはこの日、全員の選手が「ガンバレ東日本!」のメッセージが書かれたステッカーを貼って走ってくれたという。
「選手も監督も好意的で、大事なレースの直前のタイミングだというのに協力を惜しまずサインに応じてくれた。トップ3選手、ナイエンス、カンチェラーラ、シャヴァネルの他にも、ボーネンやデヴォルデル、そしてヨハン・ムセーウなどのサインもバナーに集めることができました」と橋川さん。
その後橋川さんら一行はオウデ・クワレモントとボスベルグに向かい、コース脇にバナーを掲出してアピール。残念ながらすれ違いで会えなかったが、その活動は写真でも紹介したい。サインを集めたバナーはオークションにかけるなどして支援の形に変えていきたいと話す。
「被災地ではまだ厳しい状況が続いていますが、皆さんに本当の笑顔が戻るまで、活動を続けて行きたいと思います。ガンバレ東日本!」と橋川さん。
photo&text Makoto.AYANO
マルクト広場にはベルギーじゅうから自転車ファンが大集結!
ブルージュのマルクト広場には大きなメインステージが設けられ、アコーディオン演奏とともに、自転車競技専門のラジオジャーナリストが務める司会で主だった選手が紹介されていく。軽妙な掛け合いに場がなごむが、選手たちの集中しきった表情がこのレースに賭ける意気込みをひしひしと感じさせてくれる。
この日の観客は1万5千人とも2万人とも言われる。
ロンド・ファン・フラーンデレンはワンデイクラシックにおける最高峰のレ-ス。自転車競技を国技とする国にあって、自転車競技の中心地フランドル地方を舞台とする伝統と格式のモニュメントとしてのレースだ。記念碑であり、受け継がれる生きた遺産としてのレースだ。集まった万の観客たちのまなざしが鋭い。その眼のすべてが熱狂的な自転車ファンの瞳をもっている。
カンチェラーラが絶対的な優勝候補。近年これほどまで絶対的に勝つだろうと言われた選手はいない。強さを誇った2005・6年のボーネンも、ここまで高い次元にある優勝候補とは認識されなかったと思う。
しかしすべての選手がカンチェラーラを封じることを考える。レースはどう動くのか。
自信たっぷりなオーラを発しながら静かに集中するカンチェラーラ。肉体的に一段と逞しさを増したジルベール。そしてラインナップを見れば、チーム力ではガーミン・サーヴェロが強力。しかしナイエンスへのインタビューはなく、スルー状態。
フミも屈託の無い笑顔でにこやかに登場。昨夜インタビューで語ってくれた強い意気込みと、身体と心の充実を感じるいい笑顔だ。このあまりに厳しいレースでは、日本人初の完走者となることも、ひとつの立派な目標になる。
シャバネルは記者たちに囲まれて甲高い声で愛想をふりまいていた。ヘント~ウェヴェルヘムで評価を戻したフランドルのヒーローであるボーネンをアシストする大役。しかしプレッシャーはなさそうだ。
もう何回目だろう、今年もまた同じ質問。初めてロンドを制したスペイン人になりたい?」と聞かれたフレチャは「大事なのは良いレースをすること。楽しんで走るよ」といい笑顔。
フミが「注目すべきかも」と言うBMCレーシングも、運に見放されてきた2年間を送ったバッランを支える強力な布陣だ。
9時半。華のあるマルクト広場から選手たちが走りだして行った。同時に蜘蛛の子を散らすように万の観客たちが次の目的地へ向けて一斉に走りだす!
今回の現地取材行きは一週間前に決めたため、オートバイと運転手の雇用手配ができなかった。レンタカーをアシに撮影スポットを回らなくてはいけない。通行証となるプレスの証のステッカーを貼ってはいるものの、移動それ自体
が難儀を極めることは、このレースを現地で体感した人なら分かるだろう。
このマルクト広場に集まった人の多くも、レースがスタートすれば名所のパヴェへと移動していく。ベルギーじゅうの自転車ファンがレースと共に動く一日。地理に不案内な海外ジャーナリストはその動きに翻弄されてしまうのが関の山、というのが実情だ。正直、数度取材を重ねた程度ではレースの動きに合わせて人やクルマが群れをなして動く流れのなかでうまく立ち回れる自信と技術は持ちあわせていない。
コッペンベルグへ
ブルージュが陥る渋滞からの早めの脱出のために、リング(市街を囲む道路)の外にクルマを停め、レースのスタートを見送ったらすぐに(昨日の市民シクロで乗った)マイ自転車で脱出。一路コッペンベルグを目指す。
天気がめまぐるしく変わることが特徴的なフランドル地方。天気予報によって悪天候が予想されたのに、昼過ぎには青空が広がりだし、暑くさえなっていた。いったい雨は何処にいった?。
コッペンベルグの麓では、ベルギー名物ビールの露店スタンドがたち、モニター観戦で大いに盛り上がっている。
パヴェのなかでもオウデ・クワレモントからの勝負どころとなるパヴェは完全ドライ。コッペンベルグは例年になくいい状態だ。しかしだからと言って滑らないというわけでなく、ところどころに乾いた泥と土埃が浮き、枯れ枝や草のゴミが落ちている。
各チームのスタッフがスペアホイールを抱えて待機する。カペルミュールとコッペンベルグはチームカーの通行が制限されているため、迂回せざるをえないためだ。2年前、カンチェラーラはここでチェーンを切ってレースを諦めた。「僕らには苦い思い出がある」そう言うレオパード・トレックのスタッフのひとりは、かつてサクソバンクで働いていた人物だった。
コッペンベルグの中腹、もっとも斜度の高くなる箇所のすぐ先の道端に陣取って集団が来るのを待つ。道端といっても、草の斜面のわずかな窪みに身を避け、落ちないように木の根っこを脚に絡ませての撮影待機だ。
シャヴァネルを先頭に、選手たちがなだれ込むように最大勾配22%の激坂に挑む。バイクの軋む音、激しい息遣いが間近に聞こえる。ラインを主張するために鋭い怒鳴り声を挙げる選手たち。例年足を着く選手が続出するが、今回は誰ひとり足を着かず、シクロクロススタイルは見られなかった。フミも集団中ほどで難なく通過した。
ニノーヴへ
撮影後にコッペンベルグを脱出するとき、ジルベールのためのスペアバイクだけを積んだオメガファーマ・ロットの関係車両と一緒になった。備えるチームはそこまでしているのか。
渋滞のリスクを避けるため、あえて大きく迂回するルートをとってニノーヴのゴール地点に入った。ジャイアントスクリーンが映しだすラスト30kmの展開に、息を呑んだ。ゴールに詰めかけた観客たちが沸き立つ。スーパーマンの圧勝かと思いきや、フィナーレで振り出しに戻るレース。力の限りを出してぶつかり合う選手たちの姿は文字通りの死闘。これほどまでにエキサイティングな展開のレースは久しく覚えがない。
カンチェラーラの強さが際立ってなお、最後まで諦めなかった12人の誰もが勝てるチャンスがあった。
ナイエンス、シャヴァネル、カンチェラーラの逃げきり
ナイエンスの勝利はサプライズだが、カンチェラーラとのマッチスプリントに持ち込むという自分の勝ちパターンの展開に持ち込んだのは、最初から目指したことだという。
スプリントしながら「背後に何か青いものが見えた」が、それは“ホステのデジャヴ"(2007年ロンドでレイフ・ホステが早めのスプリントを掛けたが、アレッサンドロ・バッランにフィニッシュライン寸前で交わされた)のようだった。シャヴァネルを前に出さないラインをとり続けたナイエンス。
シャヴァネルはライン取り2度に失敗して脚を止めたことで、ナイエンスを抜くことができなかった。しかし審判に対してナイエンスのとったラインに対してのクレームはつけなかった。
エースのボーネンが追いつくことを信じて最後まで待ち続けたシャヴァネル。カンチェラーラは言う。「もしシャヴァネルが自分の勝利のために協調して先頭を引いてくれたら、僕らは勝利を分かちあえた。僕が勝てて彼が2位になれた」。
最終局面まで逃げた末に、カンチェラーラがシャヴァネルに握手を求めた。フェアープレイの末のスプリントは、最後まで紙一重のフェアープレイが保たれた。しかしシャヴァネルにはライン取りの運がなかった。
厳しい260kmを走りきってなお、それぞれの思惑が絡みあうぎりぎりのスプリント。「もっとも強い選手が勝つと限らないというのが自転車レース」とは、ナイエンスとカンチェラーラのふたりともが話した言葉だ。
ドワーズ・ドア・フラーンデレンに勝って尚、優勝候補に挙げられなかったナイエンスの勝利は驚きを持って迎えられた。しかしドワーズでの劇的な逃げきり勝利は、ロンドという最高の舞台での勝利として再現された。
ゴールしてしばらくしても、カンチェラーラは歩くことができず、脚を攣らせたまま。バイクに乗ったまま左足をいびつに上げた状態でポディウムに向かった。
ナイエンス「今日は僕の日じゃなかった」
勝ってなお「今日は自分の日じゃなかった」と言うナイエンス。この日、序盤から調子が出ず苦しんでいたという。集団後方にいたことでトラブルが続き、位置取り争いの激しくなる前にクノクテベルグのパヴェで落車に巻き込まれ、先頭100人の後方に取り残された。同じく巻きぞえをくったデヴォルデルらの引きにも助けられ、コッペンベルグまでに集団先頭への復帰を果たすが、コース外で立ち止まった時は「自分のレースは終わったと思った」という。
ナイエンスは今日のキーワードを「ネバー・ギブアップ」と言い表した。昨年のロンドでの途中リタイアが頭をよぎったという。「道端でチームカーに乗るのを待つときのあの悲惨な気持ち。あれはキャリアのなかでもっとも厳しい瞬間だった」。
そして集団に復帰しても、落車時に生じたシューズの問題=クリートがずれて位置が変わってしまった=は引きずっていた。走りながら直すことはできないと諦め、残り70kmをそのまま走ることにした。
ナイエンスはこの日のスタートの朝、リース監督に「カンチェラーラとのスプリントに持ち込むことができれば勝てるチャンスがあるだろう」と指示されていたという。そして面会に来た父に「カンチェラーラとのスプリントならお前が勝てる。お前のほうが速い」と言い聞かされた。その言葉を信じて走ったという。しかしシャヴァネルのスプリントの強さは計りかねていた。
不振の3年間を返上
ナイエンスは地元ベルギーはアントワープに近いリール(Lier)出身。つまりフランドル出身のフレミッシュだ。八重歯の見える笑顔が愛くるしいが、性格は大人しく、華がないためスター性には乏しい面がある。
ナイエンスにとってロンドでの成績は、U23時代の勝利、2007年の7位と、デヴォルデルが勝った2008年に後続集団のスプリントを制しての2位がある。昨年はE3プライス・フラーンデレンで落車したケガの影響が残り、200kmを越えた時点で途中棄権している。最近3シーズンの不振が続いたが、ロンド制覇のステップは確実に刻んできている。
2005年のオムロープ・ヘットフォルク(現在のオムロープ・ヘットニューズブラッド)において独走勝利を飾る。同年グランプリ・ド・ワロニーに勝利。2006年にはクールネ~ブリュッセル~クールネに優勝。自国ベルギーのセミクラシックを得意としてきたが、当時所属したクイックステップ(~2006年)では最高峰のメジャークラシックにおけるエースはチームメイトだったボーネンの役割だった。
チャンスを求めて移籍した2007年のコフィディスでは、フランス式のチーム方針に馴染めなかった。
2009年に移籍したラボバンクでは、移籍早々に患った病気のため、レースに対応できなかった。加えて子供が生まれたことによる生活の変化に対応できず、選手生活に影響が出た面があった。2009年はアムステルゴールドレースの8位が最高で、勝ち星はGPワロニーのみ。
2010年はツアー・オブ・オーストリアのステージ1勝にとどまった。成績不振で、自転車競技を見る目の厳しいベルギーでの人気は低かった。このメジャー勝利で、ナイエンスはクラシックハンターとしてステイタスをあげた。ビッグネームの仲間入りを果たしたと言えそうだ。
サクソバンクとの契約は「まるで新しいスタート」
ナイエンスは昨シーズン末、ラボバンクからサクソバンクに移籍を決めた。リース監督から代理人に声がかかったが、契約金の交渉話はとくにしなかったという。レオパード・トレックへの大量移籍で人材を失ったサクソバンクが、クラシックの主要選手として穴埋めのために欲した選手がナイエンスだった。
ナイエンスにはクイックステップとコフィディスもオファーしたが、リース監督が代理人に伝えた「君と一緒に仕事がしたい」という熱いコールに応え、サクソバンクへの移籍を決めた。その移籍については、カンチェラーラにもリース監督のもとで走ることを助言されたという。そのナイエンスがカンチェラーラを打倒したというのは、なんとも皮肉な話だ。
もっとも、何が何でもレオパード・トレックVSサクソバンクの「因縁のリベンジマッチ」という構図の闘いを描きたいメディアに対して、ナイエンスはチーム内で復讐戦のようなことが口にされることはまったくないときっぱりと否定した。
リースが選手を奮い立たせ、団結を高める力に長けているのはお馴染みのところだ。
「説明するのは難しいけれど...。たくさんの言葉をもらうわけじゃないが、リースの言葉は自信を与えてくれる。トレーニングキャンプのときにかけてもらったひとことが、自信になっている。チームの哲学が好きだ。正しい選択をしたと思う。サクソバンクとの契約は、新しいスタートのように思える」とナイエンス。
モチベーションを上げる「リースの魔法」は、選手が入れ替わっても健在だ。
別府史之、日本人初のロンド完走という着実なワンステップ
フミこと別府史之は、+17分51秒遅れの120位完走。完走よりも何をしたかが問われるプロチームの選手にとって、完走はさほど意味のあることとは思えないかもしれない。しかしロンドは260kmの長丁場のタフなレース。あるプロ選手のデータでも、消費カロリーは6500kcalに迫る厳しさだ。だからこそのステイタスの高さがある。過去2回の出走は不運続きで完走を逃してきたフミ。最終集団でのゴールだが、日本人にとってのロンド初完走という結果には、惜しみない拍手を贈りたい。
そしてフミ「クラシックの女王」「北の地獄」と異名を取るパリ~ルーベでも完走を狙う。昨年はルーベ競技場にたどり着くも、タイムアウトでリザルトには名を残せなかった。28歳の誕生日をパリ~ルーベ当日控えるフミ。もうひとつの過酷なパヴェのモニュメントレースを完走できたなら、素晴らしい誕生日プレゼントになるはずだ。
日本の震災被害への支援を呼びかけた橋川健さん夫妻
ベルギーはコルトレイク在住の橋川健(ダンジェロ&アンティヌッチィ・株式会社NIPPOコーチ)さん夫妻とボランティアスタッフ一行が、ロンドで震災支援のチャリティー活動「Cyclists Pray For JAPANのアピールを繰り広げた。
レース数日前から準備を始め、チームのホテルを訪ね、監督などに説明をしてきた。レースの朝はスタートに備える選手たちにバナーへのサインを求め、ステッカーを自転車に貼ってもらうようにチームに交渉した。BMCレーシングやランドバウクレジットはこの日、全員の選手が「ガンバレ東日本!」のメッセージが書かれたステッカーを貼って走ってくれたという。
「選手も監督も好意的で、大事なレースの直前のタイミングだというのに協力を惜しまずサインに応じてくれた。トップ3選手、ナイエンス、カンチェラーラ、シャヴァネルの他にも、ボーネンやデヴォルデル、そしてヨハン・ムセーウなどのサインもバナーに集めることができました」と橋川さん。
その後橋川さんら一行はオウデ・クワレモントとボスベルグに向かい、コース脇にバナーを掲出してアピール。残念ながらすれ違いで会えなかったが、その活動は写真でも紹介したい。サインを集めたバナーはオークションにかけるなどして支援の形に変えていきたいと話す。
「被災地ではまだ厳しい状況が続いていますが、皆さんに本当の笑顔が戻るまで、活動を続けて行きたいと思います。ガンバレ東日本!」と橋川さん。
photo&text Makoto.AYANO
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