2010/09/04(土) - 15:53
8月31日に他界したローラン・フィニョンの屍は9月3日、パリの墓地に葬られた。フランスの英雄を悼む声をヨーロッパからグレゴー・ブラウンが伝える。
モレノ・アルジェンティン
(イタリア、1986年世界選手権優勝、1985~1987・1991年リエージュ~バストーニュ~リエージュ優勝他)
我々は真の自転車競技の男を失った。あんな男はそうそういない。運が悪かったけれど、彼は多くのレースに勝利した。
こんなにも早く彼が死に急ぐとは思っても見なかった。ローランとは今年のジロ・デ・イタリアで話をしたんだ。彼はしっかりとしていて、病気と闘っていた。正直、彼は大丈夫だと思った。彼と会うのはそれが最後になるなんて、信じられない。
1984年のジロで、僕はモゼールとフィニョンを相手に闘っていた。最終日、ヴェローナの円形劇場へのレースで僕は総合3位を死守しようとしていた。フィニョンはモゼールに首位を譲った。そして僕はレース後のドーピング検査で、彼がアレーナの柱の影で小便をしようとしているのを見た。しかし彼はすべての力を出し切っていて、小便を出す力さえ残していなかったんだ。
そのときの彼の目はうつろで、柱に寄りかかっていた。多くのことは忘れても、その光景は僕の脳裏から離れないんだ。力を出し切る男だった。そしてレモンとの激闘...。
マウリツィオ・フォンドリエスト
(1988年世界選手権優勝、1991年UCIワールドカップ総合優勝、1993年ミラノ~サンレモ、フレーシュ・ワロンヌ、チューリッヒ選手権優勝・ティレーノ~アドリアティコ総合優勝他)
彼のことはひとりのレーサーとして記憶していたい。それは1988年のことだった。僕は世界チャンピオンのアルカンシェルジャージを着ていた。ジロ・ディ・ロンバルディアのあと、パリでのクリテリウムに招待されたんだ。
そしてローランが僕を家に招待してくれた。キッチンからパリの街がよく見える彼のアパルトマン(アパート)のことを良く覚えている。
彼は「何か飲むかい?」と僕に聞いて、シャンパンを空けたんだ。でも僕はそのとき飲めなかったから、僕のワイングラスに彼はミルクを注いでくれたんだ。ちょっと可笑しな事だけど、そのことはずっと覚えているんだ。
彼のことは有名なレーサーである以上に、偉大な人物として覚えておきたい。
フランチェスコ・モゼール
(1984年ジロ・デ・イタリア総合優勝、1978~1981年パリ~ルーベ3連覇他)
彼は自分を表に出さないタイプの人間で、チームメイトにだけ自分を、そしてレースに対する自信をさらけ出した。そして彼は大きなことを成し遂げた。
ヘリコプターの話(1984年ジロの最終日の個人タイムトライアルで、モゼールが走っている時はヘリコプターが後ろから撮影して追い風となり、フィニョンが走った時は前から撮影して向かい風になったという逸話)は私を不愉快にさせるだけ。ただそれだけだ。
今年のジロ・デ・イタリアでは彼に会えなかった。彼が到着したとき、僕がちょうどジロを離れたんだ。
1984年のジロは毎日が闘いだった。彼のようなライバルを負かせたのは、名誉なことだった。彼は前年にツールに勝っていたから。しかしその闘いとパリでレモンに8秒差で負けたことで彼を記憶するのは間違っている。彼は多くのメジャーレースで勝ったし、真のチャンピオンなんだ。メガネとロングへアの風貌にもかかわらず...。
彼が負けた闘い。それは癌との闘いだ。その闘いには幸運が必要だったが、彼はそれを持ちあわせていなかったんだ。
ダヴィデ・カッサーニ
(元名選手・イタリア国営放送テレビ解説者)
彼とはツール・ド・フランスでよく会った(カッサーニはTVのコメンテーターとしてツールに帯同している)。彼が病気だったのは知っているけれど、僕を悲しませるのはその若さだ。僕よりいくつか若いのにあの世に旅立ってしまった。
彼は物静かな男だったけど、生きることに執着していた。癌に冒されているにもかかわらず常にポジティブだった。
彼が化学療法を受けるためにツール中も度々家に帰っていたことは知っていた。でも、あれからわずか1ヶ月で死んでしまうなんて...。
私が初めて出場したジロ・デ・イタリアで、我々はいずれもプロ入り1年生で一緒だったんだ。ブロンドの髪をなびかせた、銀ブチメガネをかけた若者がいたことをよく覚えている。彼はベルナール・イノーのアシストだった。彼はコルトナで2位になると、マリアローザを獲得してしまった。たった22歳だというのに。そして次の年、彼はツール・ド・フランスに優勝してしまった。
1988年の世界選手権で、イタリアチームは彼のことを警戒した。我々がマウリツィオ・フォンドリエストで世界チャンピオンを狙おうとするには、フィニョンの動きに目を光らせておく必要があったんだ。私の仕事は彼をブロックすることだった。3度追いかけたよ。
2年前、僕とローランはアスパンとペイルスルード峠を自転車で一緒に登ったんだ。彼は自転車に再び乗り始めたばかりだった。そのとき僕は彼が癌だとは知らなかったんだ!
僕は普段から自転車によく乗っていたから、前を走った。彼はなんとか付いてきたよ。フィニョンと一緒に山岳を走るのは美しい思い出だ。僕らの最初の年を思い出させてくれた。
彼が荒れた声でTVのコメンテーターをしていたとき、彼はすでに最期を生きていたんだ。
しかしそれでも彼はしゃべり続けようとした。サイクリングの世界にいつまでも生きようとしていたんだろう。僕は彼の身体の中がすでに病魔に侵されていることを悟っていた。でも、彼が良くなることを願っていた。
今年のツール・ド・フランスで、彼が馬のようにしゃがれた声で働き続けようとしたことを、いつまでも忘れないだろう。
text:GregorBrown
translation:Makoto.AYANO
photo:(c)CorVos
モレノ・アルジェンティン
(イタリア、1986年世界選手権優勝、1985~1987・1991年リエージュ~バストーニュ~リエージュ優勝他)
我々は真の自転車競技の男を失った。あんな男はそうそういない。運が悪かったけれど、彼は多くのレースに勝利した。
こんなにも早く彼が死に急ぐとは思っても見なかった。ローランとは今年のジロ・デ・イタリアで話をしたんだ。彼はしっかりとしていて、病気と闘っていた。正直、彼は大丈夫だと思った。彼と会うのはそれが最後になるなんて、信じられない。
1984年のジロで、僕はモゼールとフィニョンを相手に闘っていた。最終日、ヴェローナの円形劇場へのレースで僕は総合3位を死守しようとしていた。フィニョンはモゼールに首位を譲った。そして僕はレース後のドーピング検査で、彼がアレーナの柱の影で小便をしようとしているのを見た。しかし彼はすべての力を出し切っていて、小便を出す力さえ残していなかったんだ。
そのときの彼の目はうつろで、柱に寄りかかっていた。多くのことは忘れても、その光景は僕の脳裏から離れないんだ。力を出し切る男だった。そしてレモンとの激闘...。
マウリツィオ・フォンドリエスト
(1988年世界選手権優勝、1991年UCIワールドカップ総合優勝、1993年ミラノ~サンレモ、フレーシュ・ワロンヌ、チューリッヒ選手権優勝・ティレーノ~アドリアティコ総合優勝他)
彼のことはひとりのレーサーとして記憶していたい。それは1988年のことだった。僕は世界チャンピオンのアルカンシェルジャージを着ていた。ジロ・ディ・ロンバルディアのあと、パリでのクリテリウムに招待されたんだ。
そしてローランが僕を家に招待してくれた。キッチンからパリの街がよく見える彼のアパルトマン(アパート)のことを良く覚えている。
彼は「何か飲むかい?」と僕に聞いて、シャンパンを空けたんだ。でも僕はそのとき飲めなかったから、僕のワイングラスに彼はミルクを注いでくれたんだ。ちょっと可笑しな事だけど、そのことはずっと覚えているんだ。
彼のことは有名なレーサーである以上に、偉大な人物として覚えておきたい。
フランチェスコ・モゼール
(1984年ジロ・デ・イタリア総合優勝、1978~1981年パリ~ルーベ3連覇他)
彼は自分を表に出さないタイプの人間で、チームメイトにだけ自分を、そしてレースに対する自信をさらけ出した。そして彼は大きなことを成し遂げた。
ヘリコプターの話(1984年ジロの最終日の個人タイムトライアルで、モゼールが走っている時はヘリコプターが後ろから撮影して追い風となり、フィニョンが走った時は前から撮影して向かい風になったという逸話)は私を不愉快にさせるだけ。ただそれだけだ。
今年のジロ・デ・イタリアでは彼に会えなかった。彼が到着したとき、僕がちょうどジロを離れたんだ。
1984年のジロは毎日が闘いだった。彼のようなライバルを負かせたのは、名誉なことだった。彼は前年にツールに勝っていたから。しかしその闘いとパリでレモンに8秒差で負けたことで彼を記憶するのは間違っている。彼は多くのメジャーレースで勝ったし、真のチャンピオンなんだ。メガネとロングへアの風貌にもかかわらず...。
彼が負けた闘い。それは癌との闘いだ。その闘いには幸運が必要だったが、彼はそれを持ちあわせていなかったんだ。
ダヴィデ・カッサーニ
(元名選手・イタリア国営放送テレビ解説者)
彼とはツール・ド・フランスでよく会った(カッサーニはTVのコメンテーターとしてツールに帯同している)。彼が病気だったのは知っているけれど、僕を悲しませるのはその若さだ。僕よりいくつか若いのにあの世に旅立ってしまった。
彼は物静かな男だったけど、生きることに執着していた。癌に冒されているにもかかわらず常にポジティブだった。
彼が化学療法を受けるためにツール中も度々家に帰っていたことは知っていた。でも、あれからわずか1ヶ月で死んでしまうなんて...。
私が初めて出場したジロ・デ・イタリアで、我々はいずれもプロ入り1年生で一緒だったんだ。ブロンドの髪をなびかせた、銀ブチメガネをかけた若者がいたことをよく覚えている。彼はベルナール・イノーのアシストだった。彼はコルトナで2位になると、マリアローザを獲得してしまった。たった22歳だというのに。そして次の年、彼はツール・ド・フランスに優勝してしまった。
1988年の世界選手権で、イタリアチームは彼のことを警戒した。我々がマウリツィオ・フォンドリエストで世界チャンピオンを狙おうとするには、フィニョンの動きに目を光らせておく必要があったんだ。私の仕事は彼をブロックすることだった。3度追いかけたよ。
2年前、僕とローランはアスパンとペイルスルード峠を自転車で一緒に登ったんだ。彼は自転車に再び乗り始めたばかりだった。そのとき僕は彼が癌だとは知らなかったんだ!
僕は普段から自転車によく乗っていたから、前を走った。彼はなんとか付いてきたよ。フィニョンと一緒に山岳を走るのは美しい思い出だ。僕らの最初の年を思い出させてくれた。
彼が荒れた声でTVのコメンテーターをしていたとき、彼はすでに最期を生きていたんだ。
しかしそれでも彼はしゃべり続けようとした。サイクリングの世界にいつまでも生きようとしていたんだろう。僕は彼の身体の中がすでに病魔に侵されていることを悟っていた。でも、彼が良くなることを願っていた。
今年のツール・ド・フランスで、彼が馬のようにしゃがれた声で働き続けようとしたことを、いつまでも忘れないだろう。
text:GregorBrown
translation:Makoto.AYANO
photo:(c)CorVos
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