GIIサマーナイトフェスティバルの3日目、偉大な選手の訃報が競輪界に流れた。S級1班の伏見俊昭選手(福島、75期)が、7月18日(土)の松阪競輪(FI)第12レース・S級決勝における、落車を起因とした頸髄損傷のため死去。JKAのプレスリリースによると、事故発生後、松阪市内の病院に緊急搬送され、治療を続けていたが、翌7月19日(日)午前10時15分、逝去したとの報が入ったと言う。
伏見選手は1976年2月4日生まれの50歳。1995年3月に選手登録後、同年4月15日伊東競輪場にてデビューし、5月6日四日市競輪場で初勝利を挙げると、同年8月20日の西武園で初優勝。
2000年代に入るとその実力をさらに伸ばしてオールスター競輪で2度(2001、2008)、KEIRINグランプリでも2度の優勝(2001、2007)を遂げるなど、競輪界のトップレーサーとして活躍。2004年のアテネオリンピックでは日本ナショナルチームの一員として長塚智広、井上昌己とともにチームスプリントに出場し、銀メダルを獲得した。
この日、サマーナイトフェスティバル準決勝終了後の高知競輪場では、同県の弟弟子でもある新田祐大(福島)(ともに師匠が班目秀雄さん(福島、元24期))、アテネ五輪チームスプリントで共に銀メダルを獲得した井上昌己(長崎)の2名が会見に応じ、時に涙をこらえ、言葉を詰まらせながらコメントを残した。

静かに伏見選手への想いを語った新田祐大(福島)。会見の最後には涙で言葉を詰まらせる場面も photo: Yuichiro Hosoda
新田祐大:(今回の訃報を聞き)驚きです。昨日のレースを見ていて、落ち方が危ないなと言う話はしていました。ただ、今朝の新聞には何も出ていなかったので、怪我は何かしらあるにせよ、命は別状なかったんだろうと言う話はしていました。一部ではAEDを使ったかどうかと言うくらいの落ち方をした、と言う話も聞いていたんですけど、それも情報がないのでわからなかったです。それでレース後に(訃報を)聞いて…本当に驚きました。
――ナショナルチームでも一緒で、同県の先輩でもありました。思い出はどんなものがありますか。
新田:思い出は沢山ありますね。これ一つと言うことではないんですけど、直近で言うと前開催の函館で1日目は3番手、2日目は一緒に並んで、と言うのがあった中で、ここ最近はコロナの関係もあった中で、打ち上げとかそういうのがなかったので「人数も少ないし、打ち上げしましょう」と言うことで「(山崎)歩夢がいたおかげで優勝出来たんだ」と言う話を4人でワイワイしながら「もっとみんなで高め合って行きましょう」と言って終わった開催だった。
それが終わって今開催で走って……すごく複雑……です。綺麗な言葉でまとめる事は出来ないんですけど、以前オールスター競輪(2008)で内田(慶)さんが亡くなった時も、内田さんと清水さんと僕でナショナルチームで一緒のタイミングで大会行ったりもあって、ああいう残念な事があったと言うのが記憶に残っている。今回は(伏見さんと)開催は一緒じゃないんですけど、まさかこんな近い存在の人の、こういう残念な訃報を受けて……言葉に表すのは難しいです。
選手になる前から存在は知っていて、高校生の時に初めて伏見さんの存在を知って。その時には伏見さんはすでに競輪界ではトップ選手でしたし、自転車競技の競技者としても――オリンピックへ行く前の壮絶な争いをしていたのも後に知ることになったんですけど――オリンピックと言うものが目の前にあって、それが掴み取れるものだと言うことを教えてもらいました。競輪でも伏見さんはグランプリを2回、もちろんGIも獲ってるんですけど、競輪選手として戦っていく上で、どういった立ち居振る舞いをすれば良いのか、教えてもらった先輩でした。
(伏見さんに)かける言葉と言うのは特に……何かを伝えるって言う感じにはならないし、僕としては言葉を伝えるとかそういうのはなくて……自分の中で学んだことを、おそらく結果をずっと求め続けて来た人だと思うので……僕達は結果で応えて行くことが、一番喜んでもらえる事なのかなと思います。
続いて井上昌己が会見に応じ、現在の心境を語った。

言葉を選びながら、沈痛な面持ちで会見に応じた井上昌己(長崎) photo: Yuichiro Hosoda
井上昌己:(今の心境は)信じられないと言う感じです。
――ナショナルチームでも一緒に走られてきて、これまでのレースなどで思い出せる事などはありますか。
井上:若くしてナショナルチームに入ったんですけど、やはりずっと背中を追っていた。彼はすごい真面目で、しっかりした考えを持っていたので、気にしていた部分はあります。
――同じ競輪選手としてこういった形でお別れすることになり、複雑な気持ちもあると思いますが、改めて伏見さんにかける言葉があれば教えてください。
井上:やっぱり残された人が、しっかり頑張ることしか出来ないんですけど、そういう姿を見せるしかないですね。
競輪選手の競走中の事故による死亡事例は、2012年7月7日、小田原競輪場第9レースA級特予選での坂本照雄選手(神奈川、73期、A級2班)以来だと言う。写真判定用の緩衝用マットに衝突後、病院へ搬送も外傷性心不全のため逝去した。
伏見選手は、昨年オールスター競輪[GI]の5日目のS級特一般で1着、直近では5月の日本選手権競輪[GI]の2戦目でも1着に入るなど、40代後半〜50代に入ってなおグレード最高位のレースでその強さの片鱗を見せており、また、2024年地元いわき平開催の日本選手権競輪で先頭誘導員を務めるなど、今後も競輪界やトラック競技において競技者の範囲に留まらぬ活躍が期待されていた。
ここに改めて、亡くなられた伏見俊昭選手に謹んで哀悼の意を表するとともに、ご遺族の皆様に対し、心よりお悔やみ申し上げます。

オールスター競輪2025、5日目第5レースS級特一般を9番車で走り、1着となった伏見俊昭選手(福島) photo: Yuichiro Hosoda

伏見俊昭選手(福島)(オールスター競輪2025・S級特一般勝利時の記念撮影にて) photo: Yuichiro Hosoda
text&photo: Yuichiro Hosoda
伏見選手は1976年2月4日生まれの50歳。1995年3月に選手登録後、同年4月15日伊東競輪場にてデビューし、5月6日四日市競輪場で初勝利を挙げると、同年8月20日の西武園で初優勝。
2000年代に入るとその実力をさらに伸ばしてオールスター競輪で2度(2001、2008)、KEIRINグランプリでも2度の優勝(2001、2007)を遂げるなど、競輪界のトップレーサーとして活躍。2004年のアテネオリンピックでは日本ナショナルチームの一員として長塚智広、井上昌己とともにチームスプリントに出場し、銀メダルを獲得した。
この日、サマーナイトフェスティバル準決勝終了後の高知競輪場では、同県の弟弟子でもある新田祐大(福島)(ともに師匠が班目秀雄さん(福島、元24期))、アテネ五輪チームスプリントで共に銀メダルを獲得した井上昌己(長崎)の2名が会見に応じ、時に涙をこらえ、言葉を詰まらせながらコメントを残した。

新田祐大:(今回の訃報を聞き)驚きです。昨日のレースを見ていて、落ち方が危ないなと言う話はしていました。ただ、今朝の新聞には何も出ていなかったので、怪我は何かしらあるにせよ、命は別状なかったんだろうと言う話はしていました。一部ではAEDを使ったかどうかと言うくらいの落ち方をした、と言う話も聞いていたんですけど、それも情報がないのでわからなかったです。それでレース後に(訃報を)聞いて…本当に驚きました。
――ナショナルチームでも一緒で、同県の先輩でもありました。思い出はどんなものがありますか。
新田:思い出は沢山ありますね。これ一つと言うことではないんですけど、直近で言うと前開催の函館で1日目は3番手、2日目は一緒に並んで、と言うのがあった中で、ここ最近はコロナの関係もあった中で、打ち上げとかそういうのがなかったので「人数も少ないし、打ち上げしましょう」と言うことで「(山崎)歩夢がいたおかげで優勝出来たんだ」と言う話を4人でワイワイしながら「もっとみんなで高め合って行きましょう」と言って終わった開催だった。
それが終わって今開催で走って……すごく複雑……です。綺麗な言葉でまとめる事は出来ないんですけど、以前オールスター競輪(2008)で内田(慶)さんが亡くなった時も、内田さんと清水さんと僕でナショナルチームで一緒のタイミングで大会行ったりもあって、ああいう残念な事があったと言うのが記憶に残っている。今回は(伏見さんと)開催は一緒じゃないんですけど、まさかこんな近い存在の人の、こういう残念な訃報を受けて……言葉に表すのは難しいです。
選手になる前から存在は知っていて、高校生の時に初めて伏見さんの存在を知って。その時には伏見さんはすでに競輪界ではトップ選手でしたし、自転車競技の競技者としても――オリンピックへ行く前の壮絶な争いをしていたのも後に知ることになったんですけど――オリンピックと言うものが目の前にあって、それが掴み取れるものだと言うことを教えてもらいました。競輪でも伏見さんはグランプリを2回、もちろんGIも獲ってるんですけど、競輪選手として戦っていく上で、どういった立ち居振る舞いをすれば良いのか、教えてもらった先輩でした。
(伏見さんに)かける言葉と言うのは特に……何かを伝えるって言う感じにはならないし、僕としては言葉を伝えるとかそういうのはなくて……自分の中で学んだことを、おそらく結果をずっと求め続けて来た人だと思うので……僕達は結果で応えて行くことが、一番喜んでもらえる事なのかなと思います。
続いて井上昌己が会見に応じ、現在の心境を語った。

井上昌己:(今の心境は)信じられないと言う感じです。
――ナショナルチームでも一緒に走られてきて、これまでのレースなどで思い出せる事などはありますか。
井上:若くしてナショナルチームに入ったんですけど、やはりずっと背中を追っていた。彼はすごい真面目で、しっかりした考えを持っていたので、気にしていた部分はあります。
――同じ競輪選手としてこういった形でお別れすることになり、複雑な気持ちもあると思いますが、改めて伏見さんにかける言葉があれば教えてください。
井上:やっぱり残された人が、しっかり頑張ることしか出来ないんですけど、そういう姿を見せるしかないですね。
競輪選手の競走中の事故による死亡事例は、2012年7月7日、小田原競輪場第9レースA級特予選での坂本照雄選手(神奈川、73期、A級2班)以来だと言う。写真判定用の緩衝用マットに衝突後、病院へ搬送も外傷性心不全のため逝去した。
伏見選手は、昨年オールスター競輪[GI]の5日目のS級特一般で1着、直近では5月の日本選手権競輪[GI]の2戦目でも1着に入るなど、40代後半〜50代に入ってなおグレード最高位のレースでその強さの片鱗を見せており、また、2024年地元いわき平開催の日本選手権競輪で先頭誘導員を務めるなど、今後も競輪界やトラック競技において競技者の範囲に留まらぬ活躍が期待されていた。
ここに改めて、亡くなられた伏見俊昭選手に謹んで哀悼の意を表するとともに、ご遺族の皆様に対し、心よりお悔やみ申し上げます。


text&photo: Yuichiro Hosoda