2019/06/03(月) - 14:48
エクアドル国旗で溢れかえったアレーナ・ディ・ヴェローナ。そこに響いた初山コールと、3週間にわたって走り続けた142人を称える大声援。リチャル・カラパス(モビスター)が栄光をつかんだジロ・デ・イタリア最終ステージを振り返ります。
3週間前にボローニャで開幕したジロ・デ・イタリアがヴェローナで閉幕を迎える。郊外の登りを経てヴェローナ市内に戻ってくる17kmコースは2004年の世界選手権が行われたコースであり、2010年の最終ステージでも使用されている。
悪天候&低温続きだったジロを締めくくるのは気温30度に達する暑い一日だった。世界遺産に登録された旧市街や『ロミオとジュリエット』に登場するバルコニーを見にきた大勢の観光客は、今年最初の夏日と言われるほどの暑さの中、街中を駆け抜ける142名に声援を送る。
フィニッシュライン通過後に選手たちは『アレーナ・ディ・ヴェローナ』へと入っていく。ローマ帝国初代皇帝のアウグストゥス(紀元前63年〜紀元14年!!)の時代に作られたとされる大理石の円形闘技場で、有名なローマのコロッセオよりも少しばかり古く、サイズは一回り小さい。
築2000年以上という驚くべき古さだが、今でもオペラやライブコンサートなどに使用されている現役のアレーナ。そのアレーナのアリーナ席は招待客や関係者に確保されたが、周囲をぐるりと回る外野席は入場無料で誰でも入場可能。入り口で手荷物検査を受けた観客たちが、3週間を走り終えた選手たち一人一人に労いの声援を送った。
イタリアに住んでいるエクアドル人は80,000人。そのほとんどがヴェローナに集まっているんじゃないかというほど、エクアドル国旗があちこちに掲げられていた。パッと見てコロンビアと間違えてしまいそうな黄色、青色、赤色で構成された国旗には、同国の最高峰チンボラソ山と太陽、商船、黄道帯、コンドルが描かれた紋章が入る。
本国の人口を比較するとエクアドル(1,400万人)よりもコロンビア(4,900万人)のほうがずっと大きいが、イタリアに住んでいるコロンビア人は意外にも少なくて、エクアドル人の1/4以下の18,000人しかいない。ちなみにイタリアには514万人の海外出身者が住んでおり、トップスリーはルーマニア(119万人)、アルバニア(44万人)、モロッコ(42万人)。言語が似ていることもありルーマニア人はイタリアに住みやすい。参考までにイタリアに住んでいる日本人は8,000人弱。
2017年に初めてブエルタ・ア・エスパーニャを走ったエクアドル人となったリチャル・カラパス(エクアドル、モビスター)。2018年のジロでは、雨降る第8ステージ:モンテヴェルジネ・ディ・メルコリアーノ山頂フィニッシュで優勝して総合4位。当時は「将来、グランツールで勝つ選手になる」と言われていたが、わずか1年でそれを達成してみせた。
今思えば、第4ステージ:フラスカーティ山頂フィニッシュでカラパスの好調ぶりは光っていた。カラパスは第1ステージのボローニャ個人タイムトライアルをログリッチェから47秒遅れで終え、第3ステージの終盤に発生した落車の影響でさらに46秒タイムロス。第9ステージのサンマリノ個人タイムトライアルではログリッチェから1分55秒遅れに終わっている。
しかしカラパスは第13ステージ:1級山岳チェレソーレ・レアーレ山頂フィニッシュで牽制するニバリとログリッチェの隙をついてアタックして1分19秒を稼ぎ、さらに第14ステージ:アオスタ難関山岳コースで1分54秒差をつける独走勝利で首位に立つ。そこからヴェローナまで、安定感ある走りでライバルたちを寄せ付けなかった。
カラパスは標高2,980mの高地出身。これは歴代のグランツール覇者の中でおそらく最も高い。カラパスの活躍でロードレース人気に火がつけば、5年後10年後にエクアドル がコロンビアに並ぶ強国の一つになるかもしれない。
グランツールの総合最下位の選手のことを、ツール・ド・フランスではランタンルージュ、ジロ・デ・イタリアではマリアネーラと呼ぶ。イタリア語で「黒いジャージ」を意味するマリアネーラは1946年から6年間と、50回記念大会となった1967年に実際に特別賞ジャージとして設定されている。というより、1940年代はマリアローザ、山岳賞ジャージ(色不明)、そしてマリアネーラしか設定されていなかった。ポイント賞ジャージが登場したのは1967年で、ヤングライダー賞ジャージが登場したのは1976年(1995年〜2006年は代わりに複合賞)。
ちなみに総合最下位の選手に賞を与える仕組みは2008年に『ヌーメロネーロ(黒いゼッケン)』として復活したが、最下位を目指すあまり山岳ステージでわざと遅れる選手が出るなど、あまりスポーツとして美しくない行為が出たのでわずか1年で無くなった。
総合最下位のため最初にスタートし、2人に追い抜かれて3番手でフィニッシュした初山翔(NIPPOヴィーニファンティーニ・ファイザネ)を待っていたのは、MCと観客があらかじめ練習していた「ア・ツ・ヤ・マ!ア・ツ・ヤ・マ!ア・ツ・ヤ・マ!」の盛大なコール。初山はフィニッシュ後にステージに戻り、主催者が特別に用意したマリアネーラに袖を通した。
ジロを完走した日本人は初山が6人目で、グランツール完走も6人目。日本人によるグランツール完走は23回目となった。
歴代日本人グランツール完走者(総合成績)
1990年 ジロ・デ・イタリア 市川雅敏(50位)
2002年 ジロ・デ・イタリア 野寺秀徳(139位)
2009年 ツール・ド・フランス 新城幸也(129位)
2009年 ツール・ド・フランス 別府史之(112位)
2010年 ジロ・デ・イタリア 新城幸也(93位)
2010年 ツール・ド・フランス 新城幸也(112位)
2011年 ジロ・デ・イタリア 別府史之(67位)
2011年 ブエルタ・ア・エスパーニャ 土井雪広(150位)
2012年 ジロ・デ・イタリア 別府史之(121位)
2012年 ツール・ド・フランス 新城幸也(84位)
2012年 ブエルタ・ア・エスパーニャ 土井雪広(139位)
2013年 ツール・ド・フランス 新城幸也(99位)
2014年 ジロ・デ・イタリア 新城幸也(127位)
2014年 ジロ・デ・イタリア 別府史之(82位)
2014年 ツール・ド・フランス 新城幸也(65位)
2015年 ジロ・デ・イタリア 別府史之(117位)
2015年 ブエルタ・ア・エスパーニャ 新城幸也(65位)
2016年 ジロ・デ・イタリア 山本元喜(151位)
2016年 ツール・ド・フランス 新城幸也(116位)
2016年 ブエルタ・ア・エスパーニャ 別府史之(120位)
2015年 ブエルタ・ア・エスパーニャ 新城幸也(106位)
2017年 ツール・ド・フランス 新城幸也(109位)
2019年 ジロ・デ・イタリア 初山翔(142位)
初山が完走率80%のジロを走り終えた。別人とは言わないまでも、開幕時よりも明らかに痩けた頬と、「こんな絞れていたことは今までない」と本人も驚く血管の浮き出た脚。ここまであまり見せることがなかった柔らかい笑顔を浮かべたマリアネーラがイタリア国内外のインタビューを受ける。
「やっと終わった、という感じです。明日は自転車に乗らなくていいし、パスタばかり食べる生活じゃなくなる」。本人が常々「完走が目的ではない」と言っていたように、達成感というよりも解放感の色が強い。「3週間走り切って感じる変化は正直まだわからないです。でも3週間という長い期間にわたってこれだけ辛い思いをしたのは初めて。とはいえ、大きく体調を崩すことなく3週間を走りきれたことに自分でもびっくりしました。新城選手や別府選手のように世界的に有名な選手ではない自分のことを、ジロという大舞台で『初山コール』が起こるほど応援してくれるというのは言葉では言い表すことができない気持ちだった」。
第3ステージと第10ステージで逃げ、合計259km逃げてフーガ賞6位、中間スプリント賞8位、総合敢闘賞23位でジロを終えた初山。確かに成績だけを見ると「割と逃げた完走者」の一人に過ぎないが、その知名度や注目度たるや、間違いなく全体のトップ10には入る。もしかするとカラパス、ニバリ、ログリッチェの次に大きな声援を受けていたかもしれない、本当に。大会主催者が特別にマリアネーラを用意したことが何よりもの証明だ。
ジロ取材11回目の自分にとってもこんな日本人フィーバーは初めて。3年ぶりの出場となったNIPPOヴィーニファンティーニ・ファイザネにとっても、初山の注目とダミアーノ・チーマ(イタリア)の劇的な逃げ切り勝利&フーガ賞獲得で、充実したジロになったはず。初山は燃え尽きることなくこの3週間で得たものを次に繋げて欲しいし、日本としてもこの注目度の高さを次に繋げないといけない。
陳腐な言い回しだが、記録よりも記憶に残る走り。それが評価される土壌がイタリアの伝統の中にあるのだと感じ続けた3週間が終わった。
text&photo:Kei Tsuji in Verona, Italy
3週間前にボローニャで開幕したジロ・デ・イタリアがヴェローナで閉幕を迎える。郊外の登りを経てヴェローナ市内に戻ってくる17kmコースは2004年の世界選手権が行われたコースであり、2010年の最終ステージでも使用されている。
悪天候&低温続きだったジロを締めくくるのは気温30度に達する暑い一日だった。世界遺産に登録された旧市街や『ロミオとジュリエット』に登場するバルコニーを見にきた大勢の観光客は、今年最初の夏日と言われるほどの暑さの中、街中を駆け抜ける142名に声援を送る。
フィニッシュライン通過後に選手たちは『アレーナ・ディ・ヴェローナ』へと入っていく。ローマ帝国初代皇帝のアウグストゥス(紀元前63年〜紀元14年!!)の時代に作られたとされる大理石の円形闘技場で、有名なローマのコロッセオよりも少しばかり古く、サイズは一回り小さい。
築2000年以上という驚くべき古さだが、今でもオペラやライブコンサートなどに使用されている現役のアレーナ。そのアレーナのアリーナ席は招待客や関係者に確保されたが、周囲をぐるりと回る外野席は入場無料で誰でも入場可能。入り口で手荷物検査を受けた観客たちが、3週間を走り終えた選手たち一人一人に労いの声援を送った。
イタリアに住んでいるエクアドル人は80,000人。そのほとんどがヴェローナに集まっているんじゃないかというほど、エクアドル国旗があちこちに掲げられていた。パッと見てコロンビアと間違えてしまいそうな黄色、青色、赤色で構成された国旗には、同国の最高峰チンボラソ山と太陽、商船、黄道帯、コンドルが描かれた紋章が入る。
本国の人口を比較するとエクアドル(1,400万人)よりもコロンビア(4,900万人)のほうがずっと大きいが、イタリアに住んでいるコロンビア人は意外にも少なくて、エクアドル人の1/4以下の18,000人しかいない。ちなみにイタリアには514万人の海外出身者が住んでおり、トップスリーはルーマニア(119万人)、アルバニア(44万人)、モロッコ(42万人)。言語が似ていることもありルーマニア人はイタリアに住みやすい。参考までにイタリアに住んでいる日本人は8,000人弱。
2017年に初めてブエルタ・ア・エスパーニャを走ったエクアドル人となったリチャル・カラパス(エクアドル、モビスター)。2018年のジロでは、雨降る第8ステージ:モンテヴェルジネ・ディ・メルコリアーノ山頂フィニッシュで優勝して総合4位。当時は「将来、グランツールで勝つ選手になる」と言われていたが、わずか1年でそれを達成してみせた。
今思えば、第4ステージ:フラスカーティ山頂フィニッシュでカラパスの好調ぶりは光っていた。カラパスは第1ステージのボローニャ個人タイムトライアルをログリッチェから47秒遅れで終え、第3ステージの終盤に発生した落車の影響でさらに46秒タイムロス。第9ステージのサンマリノ個人タイムトライアルではログリッチェから1分55秒遅れに終わっている。
しかしカラパスは第13ステージ:1級山岳チェレソーレ・レアーレ山頂フィニッシュで牽制するニバリとログリッチェの隙をついてアタックして1分19秒を稼ぎ、さらに第14ステージ:アオスタ難関山岳コースで1分54秒差をつける独走勝利で首位に立つ。そこからヴェローナまで、安定感ある走りでライバルたちを寄せ付けなかった。
カラパスは標高2,980mの高地出身。これは歴代のグランツール覇者の中でおそらく最も高い。カラパスの活躍でロードレース人気に火がつけば、5年後10年後にエクアドル がコロンビアに並ぶ強国の一つになるかもしれない。
グランツールの総合最下位の選手のことを、ツール・ド・フランスではランタンルージュ、ジロ・デ・イタリアではマリアネーラと呼ぶ。イタリア語で「黒いジャージ」を意味するマリアネーラは1946年から6年間と、50回記念大会となった1967年に実際に特別賞ジャージとして設定されている。というより、1940年代はマリアローザ、山岳賞ジャージ(色不明)、そしてマリアネーラしか設定されていなかった。ポイント賞ジャージが登場したのは1967年で、ヤングライダー賞ジャージが登場したのは1976年(1995年〜2006年は代わりに複合賞)。
ちなみに総合最下位の選手に賞を与える仕組みは2008年に『ヌーメロネーロ(黒いゼッケン)』として復活したが、最下位を目指すあまり山岳ステージでわざと遅れる選手が出るなど、あまりスポーツとして美しくない行為が出たのでわずか1年で無くなった。
総合最下位のため最初にスタートし、2人に追い抜かれて3番手でフィニッシュした初山翔(NIPPOヴィーニファンティーニ・ファイザネ)を待っていたのは、MCと観客があらかじめ練習していた「ア・ツ・ヤ・マ!ア・ツ・ヤ・マ!ア・ツ・ヤ・マ!」の盛大なコール。初山はフィニッシュ後にステージに戻り、主催者が特別に用意したマリアネーラに袖を通した。
ジロを完走した日本人は初山が6人目で、グランツール完走も6人目。日本人によるグランツール完走は23回目となった。
歴代日本人グランツール完走者(総合成績)
1990年 ジロ・デ・イタリア 市川雅敏(50位)
2002年 ジロ・デ・イタリア 野寺秀徳(139位)
2009年 ツール・ド・フランス 新城幸也(129位)
2009年 ツール・ド・フランス 別府史之(112位)
2010年 ジロ・デ・イタリア 新城幸也(93位)
2010年 ツール・ド・フランス 新城幸也(112位)
2011年 ジロ・デ・イタリア 別府史之(67位)
2011年 ブエルタ・ア・エスパーニャ 土井雪広(150位)
2012年 ジロ・デ・イタリア 別府史之(121位)
2012年 ツール・ド・フランス 新城幸也(84位)
2012年 ブエルタ・ア・エスパーニャ 土井雪広(139位)
2013年 ツール・ド・フランス 新城幸也(99位)
2014年 ジロ・デ・イタリア 新城幸也(127位)
2014年 ジロ・デ・イタリア 別府史之(82位)
2014年 ツール・ド・フランス 新城幸也(65位)
2015年 ジロ・デ・イタリア 別府史之(117位)
2015年 ブエルタ・ア・エスパーニャ 新城幸也(65位)
2016年 ジロ・デ・イタリア 山本元喜(151位)
2016年 ツール・ド・フランス 新城幸也(116位)
2016年 ブエルタ・ア・エスパーニャ 別府史之(120位)
2015年 ブエルタ・ア・エスパーニャ 新城幸也(106位)
2017年 ツール・ド・フランス 新城幸也(109位)
2019年 ジロ・デ・イタリア 初山翔(142位)
初山が完走率80%のジロを走り終えた。別人とは言わないまでも、開幕時よりも明らかに痩けた頬と、「こんな絞れていたことは今までない」と本人も驚く血管の浮き出た脚。ここまであまり見せることがなかった柔らかい笑顔を浮かべたマリアネーラがイタリア国内外のインタビューを受ける。
「やっと終わった、という感じです。明日は自転車に乗らなくていいし、パスタばかり食べる生活じゃなくなる」。本人が常々「完走が目的ではない」と言っていたように、達成感というよりも解放感の色が強い。「3週間走り切って感じる変化は正直まだわからないです。でも3週間という長い期間にわたってこれだけ辛い思いをしたのは初めて。とはいえ、大きく体調を崩すことなく3週間を走りきれたことに自分でもびっくりしました。新城選手や別府選手のように世界的に有名な選手ではない自分のことを、ジロという大舞台で『初山コール』が起こるほど応援してくれるというのは言葉では言い表すことができない気持ちだった」。
第3ステージと第10ステージで逃げ、合計259km逃げてフーガ賞6位、中間スプリント賞8位、総合敢闘賞23位でジロを終えた初山。確かに成績だけを見ると「割と逃げた完走者」の一人に過ぎないが、その知名度や注目度たるや、間違いなく全体のトップ10には入る。もしかするとカラパス、ニバリ、ログリッチェの次に大きな声援を受けていたかもしれない、本当に。大会主催者が特別にマリアネーラを用意したことが何よりもの証明だ。
ジロ取材11回目の自分にとってもこんな日本人フィーバーは初めて。3年ぶりの出場となったNIPPOヴィーニファンティーニ・ファイザネにとっても、初山の注目とダミアーノ・チーマ(イタリア)の劇的な逃げ切り勝利&フーガ賞獲得で、充実したジロになったはず。初山は燃え尽きることなくこの3週間で得たものを次に繋げて欲しいし、日本としてもこの注目度の高さを次に繋げないといけない。
陳腐な言い回しだが、記録よりも記憶に残る走り。それが評価される土壌がイタリアの伝統の中にあるのだと感じ続けた3週間が終わった。
text&photo:Kei Tsuji in Verona, Italy