2016/09/17(土) - 14:31
日本初の本格的ステージレースとしてスタートしたツール・ド・北海道は、今年30周年を迎えた。最終ステージ終了後に開かれた30周年記念祝賀会で、ツール・ド・北海道に縁の深いお三方にお話を伺った。
第1回大会総合優勝 高橋松吉さん
1987年に初開催されたツール・ド・北海道で、個人総合優勝した高橋松吉さん。「松吉さん」と言えば、オリンピック出場経験を持ち、ロードレースの世界では知らない人がいないというお方。かつてはツール・ド・北海道優勝を目標として「ボスコレーシングチーム」を率い、現在は女子チーム「チェリージャパン」の代表を務める。
式典で挨拶に立ち、「第一回大会が開催された時、私は31歳で、一度選手を引退していました。しかし日本で初めてステージレースが開催されると聞いて、現役復帰を決意した大きな転機の大会でもあります。第11回大会から、UCI公認の大会となり、世界から認められる大会として開催されています。ツール・ド・北海道は、日本のロードレースの選手レベルを上げると共に、街から街へと一般公道をレース出来る大会はツール・ド・北海道だけです。この大会が、50回大会、100回大会と続く事を願っています。」と述べた。
ツール・ド・北海道協会の山本隆幸理事長が、個人的にコレクションしていたという第1回大会のリーダージャージを着てもらうというサプライズも。会場からは「まだ現役でいけるんじゃないか」という声もあがった。
自身が選手をしていた頃との違いを伺うと「競技運営とか色々違ってきているので何とも言えないが、UCIの公認レースとなった事で、海外のチームが出られるようになった事が大きな違いです。最近では国内のチームが海外選手を招へいして戦っているので、そういうところでは、私達がやってる頃に比べ得れば様変わりしています。その中で、今回日本の選手、増田成幸君が優勝した事は、国内選手のレベルが上がっていると感じます。」と語った。
第8回大会で全ステージ優勝の大野直志さん
1994年の第8回大会で、全ステージ優勝という圧倒的な強さを見せた大野直志さん。当時は5日間5ステージで開催されており、どれだけ強かったのかはご理解いただけよう。
「あの当時は本命と思われていませんでしたし、本格的なステージレースは他に無かったので、なんとか北海道で勝ちたいという想いがありました。それに向けてトレーニングしてきた事が、たまたまうまく噛み合ったのかなと思ってます。」と、当時を振り返る。
今回は大会役員として関わられていたが、「自分が走っていた時は感じませんでしたが、審判として外から走っているのを見て、こんなにスピードが出ているのかと思いました」と選手時代との印象の違いを話す。
「前と比べて選手が走りやすい環境になっているという事を感じました。使用する機材のレベルが上がった事もありますが、選手の競技レベルが様々なシーンで高くなったなと感じます。学生もたくさん参加してきていますし、活躍するようになってきました。今後もレベルがどんどん上がっていって、その中から誰もが認めるようなスター選手が出てきてほしいと思っています。」
現在は高校の教員のかたわら、後進の指導にも力を入れている。第2の大野直志が誕生する事を期待したいところだ。
「自転車は地域と共に」土屋朋子さん
土屋朋子さんは「ツール・ド・北海道の母」とも言うべきお方。ツール・ド・熊野の立ち上げにも関わられており、土屋さんがいなかったら日本にステージレースは無かったかもしれない。自転車ジャーナリストとして活躍され、現在は女性のためのサイクリングなどを企画・主催されている土屋さんに、この30年について語って頂いた。
「私は自転車乗りではないのですが、仕事の関係でヨーロッパに行く事が多く、そこで生活の一部に自転車があるという事を目の当たりにしました。初めて向こうの自転車に乗せてもらった時は足がつかなくて大騒ぎしたんですが、それでも乗れてしまうと気持ちが良いもので、それ以来自転車の虜になりました。
その後ツール・ド・フランスを見たいと思うようになり、何度も通ううちに日本でも同じような事をやらなきゃいけないんだと思うようになりました。生活の中にある道を繋いでいくレースがいかに魅力的なのかという事がわかったんです。当時新聞記事に載った私の事を、今の理事長の山本さんが見てくれていて、ツール・ド・北海道というのを作りたいと声をかけてくれました。それが始まりでした。
『お手本はツール・ド・フランス』と言うのは簡単なんですが、本当のところは誰も知らない。でも私の中では、『自転車は地域と共に』というのが大前提なんです。自転車が単独であるわけじゃない。その地域で自転車が人々にどのように乗られているかが一番大事なんです。北海道には宝がいっぱいある。それを活かしながら、一筆書きでずっと走っていけるステージレースをやろうと思って始めました。
最初は5日間で、ゆくゆくは1週間にしようと話していました。しかしいろいろな事情があって短くなり、今回は4ステージでの開催になりました。それでも、今回は札幌のホテル前からスタートできる一日があった。これは進歩だと思っています。
また、アンダー26チーム総合成績という設定をしました。海外チームを呼ぶ際は実績のあるベテラン選手を求めがちなのですが、今回は若手選手で構成するようお願いしました。その結果は、ヴェロクラブ・メンドリシオチームがアンダー26で優勝。総合でも2位というすばらしい成績を出してくれました。
大学生も第1回大会から出場していますが、最初の頃は走れなくて、「なんで大学生なんか出すんだ」という意見もありました。しかし、彼等はいずれ役人など社会の中枢に関わる人間になるかもしれない。そうなった時に自転車競技を理解してくれるようになる。ヨーロッパでも自転車好きな役人が大会をサポートしているんですから、将来的な事も考えれば、今後も彼等を参加させなければならないと思っています。
30年というのは、人の人生の3分の1はその事にかけてきた非常に大事な時間だったと思います。じゃぁ、30年で何が出来たかというと忸怩(じくじ)たる思いもあります。私の役目が終わったという訳ではないのだけれど、30年で区切りをつけて新たな31年目を始めて欲しいという意味を込めて、私は主催する側としての関わりはいったん終わりにする事にしました。」
ツール・ド・北海道で初めてヨーロッパチームとして出場したのはアイルランドチームだった。今回、アイルランド選抜チームのスピン11ダブリンが出場したが、コナトン・ブライアン監督は、アイルランドチームが初出場した際の監督でもあった。その時、土屋さんらが歓待してくれた事は今でも忘れていないと言う。
30年という数字だけ見れば、もっと古い大会もあるのは確か。しかし、一般公道を毎年コースを変えて街から街へと繋ぐレースは、ちょっとやそっとで30年続けられる事ではないだろう。お話を伺ったレジェンドお二方も、今年総合優勝した増田成幸も、「いつか北海道で勝ちたい」と、目標にされてきたツール・ド・北海道。新たなスタートとなる来年の31回大会がどのようになるのか、今から楽しみだ。
text&photo:Satoru.Kato
第1回大会総合優勝 高橋松吉さん
1987年に初開催されたツール・ド・北海道で、個人総合優勝した高橋松吉さん。「松吉さん」と言えば、オリンピック出場経験を持ち、ロードレースの世界では知らない人がいないというお方。かつてはツール・ド・北海道優勝を目標として「ボスコレーシングチーム」を率い、現在は女子チーム「チェリージャパン」の代表を務める。
式典で挨拶に立ち、「第一回大会が開催された時、私は31歳で、一度選手を引退していました。しかし日本で初めてステージレースが開催されると聞いて、現役復帰を決意した大きな転機の大会でもあります。第11回大会から、UCI公認の大会となり、世界から認められる大会として開催されています。ツール・ド・北海道は、日本のロードレースの選手レベルを上げると共に、街から街へと一般公道をレース出来る大会はツール・ド・北海道だけです。この大会が、50回大会、100回大会と続く事を願っています。」と述べた。
ツール・ド・北海道協会の山本隆幸理事長が、個人的にコレクションしていたという第1回大会のリーダージャージを着てもらうというサプライズも。会場からは「まだ現役でいけるんじゃないか」という声もあがった。
自身が選手をしていた頃との違いを伺うと「競技運営とか色々違ってきているので何とも言えないが、UCIの公認レースとなった事で、海外のチームが出られるようになった事が大きな違いです。最近では国内のチームが海外選手を招へいして戦っているので、そういうところでは、私達がやってる頃に比べ得れば様変わりしています。その中で、今回日本の選手、増田成幸君が優勝した事は、国内選手のレベルが上がっていると感じます。」と語った。
第8回大会で全ステージ優勝の大野直志さん
1994年の第8回大会で、全ステージ優勝という圧倒的な強さを見せた大野直志さん。当時は5日間5ステージで開催されており、どれだけ強かったのかはご理解いただけよう。
「あの当時は本命と思われていませんでしたし、本格的なステージレースは他に無かったので、なんとか北海道で勝ちたいという想いがありました。それに向けてトレーニングしてきた事が、たまたまうまく噛み合ったのかなと思ってます。」と、当時を振り返る。
今回は大会役員として関わられていたが、「自分が走っていた時は感じませんでしたが、審判として外から走っているのを見て、こんなにスピードが出ているのかと思いました」と選手時代との印象の違いを話す。
「前と比べて選手が走りやすい環境になっているという事を感じました。使用する機材のレベルが上がった事もありますが、選手の競技レベルが様々なシーンで高くなったなと感じます。学生もたくさん参加してきていますし、活躍するようになってきました。今後もレベルがどんどん上がっていって、その中から誰もが認めるようなスター選手が出てきてほしいと思っています。」
現在は高校の教員のかたわら、後進の指導にも力を入れている。第2の大野直志が誕生する事を期待したいところだ。
「自転車は地域と共に」土屋朋子さん
土屋朋子さんは「ツール・ド・北海道の母」とも言うべきお方。ツール・ド・熊野の立ち上げにも関わられており、土屋さんがいなかったら日本にステージレースは無かったかもしれない。自転車ジャーナリストとして活躍され、現在は女性のためのサイクリングなどを企画・主催されている土屋さんに、この30年について語って頂いた。
「私は自転車乗りではないのですが、仕事の関係でヨーロッパに行く事が多く、そこで生活の一部に自転車があるという事を目の当たりにしました。初めて向こうの自転車に乗せてもらった時は足がつかなくて大騒ぎしたんですが、それでも乗れてしまうと気持ちが良いもので、それ以来自転車の虜になりました。
その後ツール・ド・フランスを見たいと思うようになり、何度も通ううちに日本でも同じような事をやらなきゃいけないんだと思うようになりました。生活の中にある道を繋いでいくレースがいかに魅力的なのかという事がわかったんです。当時新聞記事に載った私の事を、今の理事長の山本さんが見てくれていて、ツール・ド・北海道というのを作りたいと声をかけてくれました。それが始まりでした。
『お手本はツール・ド・フランス』と言うのは簡単なんですが、本当のところは誰も知らない。でも私の中では、『自転車は地域と共に』というのが大前提なんです。自転車が単独であるわけじゃない。その地域で自転車が人々にどのように乗られているかが一番大事なんです。北海道には宝がいっぱいある。それを活かしながら、一筆書きでずっと走っていけるステージレースをやろうと思って始めました。
最初は5日間で、ゆくゆくは1週間にしようと話していました。しかしいろいろな事情があって短くなり、今回は4ステージでの開催になりました。それでも、今回は札幌のホテル前からスタートできる一日があった。これは進歩だと思っています。
また、アンダー26チーム総合成績という設定をしました。海外チームを呼ぶ際は実績のあるベテラン選手を求めがちなのですが、今回は若手選手で構成するようお願いしました。その結果は、ヴェロクラブ・メンドリシオチームがアンダー26で優勝。総合でも2位というすばらしい成績を出してくれました。
大学生も第1回大会から出場していますが、最初の頃は走れなくて、「なんで大学生なんか出すんだ」という意見もありました。しかし、彼等はいずれ役人など社会の中枢に関わる人間になるかもしれない。そうなった時に自転車競技を理解してくれるようになる。ヨーロッパでも自転車好きな役人が大会をサポートしているんですから、将来的な事も考えれば、今後も彼等を参加させなければならないと思っています。
30年というのは、人の人生の3分の1はその事にかけてきた非常に大事な時間だったと思います。じゃぁ、30年で何が出来たかというと忸怩(じくじ)たる思いもあります。私の役目が終わったという訳ではないのだけれど、30年で区切りをつけて新たな31年目を始めて欲しいという意味を込めて、私は主催する側としての関わりはいったん終わりにする事にしました。」
ツール・ド・北海道で初めてヨーロッパチームとして出場したのはアイルランドチームだった。今回、アイルランド選抜チームのスピン11ダブリンが出場したが、コナトン・ブライアン監督は、アイルランドチームが初出場した際の監督でもあった。その時、土屋さんらが歓待してくれた事は今でも忘れていないと言う。
30年という数字だけ見れば、もっと古い大会もあるのは確か。しかし、一般公道を毎年コースを変えて街から街へと繋ぐレースは、ちょっとやそっとで30年続けられる事ではないだろう。お話を伺ったレジェンドお二方も、今年総合優勝した増田成幸も、「いつか北海道で勝ちたい」と、目標にされてきたツール・ド・北海道。新たなスタートとなる来年の31回大会がどのようになるのか、今から楽しみだ。
text&photo:Satoru.Kato
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