2021/10/18(月) - 18:25
三河湾を見下ろす山道を、ひときわ発色のよいEFエデュケーション・NIPPOのジャージが軽快に駆け上がっていた。スペインに拠点を置いてヨーロッパレースを連戦し、10月に延期された全日本選手権に向けて乗り込む中根英登だ。「飛び級することなくトップチームまで階段を登った」という31歳にシーズンを振り返ってもらった。
傍から見ると自転車一家のサラブレッド。なんと言っても父親は元自転車選手で、愛三工業レーシングのプロジェクトマネージャーを務める中根賢二氏。それならば英才教育として幼少期からみっちり自転車競技に慣れ親しみ、現在の立ち位置までロード街道まっしぐらで突き進んだかのように思われがちだが決してそうではない。学生時代の中根英登の足元にはロードバイクではなくサッカーボールがあった。
「18歳までずっとサッカーをしていました。純粋にサッカーが好きだった。左利きなのでポジションは左サイドハーフ。でも自分が通っていたのは普通の市立高校で、スポーツに特化しているわけでもなく、いわゆるごく一般的な部活でした。サッカー選手になりたいという気持ちがあるわけでもなく。県大会に行けたことで満足していたぐらいのレベルです」。
世の中の子供の多くがそうであるように、中根も父親の言うことを聞かない少年だった。「小学校の頃から自転車レースにトライさせられていました。年に一回の愛知県のMTBレースに出場させられていたんですが、めちゃくちゃ嫌だった。『一年に一回だから』と言い聞かされて出場して、毎回勝っていたんです。山道をMTBで走るのは好きだったんですが、レースへの興味は最後まで沸かなかったですね。父親が関わっていることに関わりたくないというのはありました。『中根さんの息子だ』と言われるのは想像できていたし、どうしても比べられるし、同じ競技をしたくないという気持ちもあったんです」と中根。
「当時はデルピエロやバッジョ、ピルロが好きだった。昔からセリエA、特にACミランやユベントスが強くて好きでした。あとはジダンやラウルが揃ったレアルマドリード。振り返ると、当時からヨーロッパへの憧れはありましたね」。
自分から興味を持ったタイミングで、父親のおかげで「さくっとロードバイクが手元にやってきた」。そこからサッカー少年は自転車競技へと傾倒していく。
現在に至るまでの歩みを足早に振り返ってもらう。
「高校時代に愛知県大会で勝って、インターハイに出場して、そのまま中京大学の推薦をもらえて進学。ちょうどチームユーラシアが立ち上がるタイミングで声をかけてもらいました。その後、チームNIPPOのトレーニー(研修生)としてツール・ド・おきなわを走らせてもらい、2012年に学生でありながらチームNIPPOに登録。卒業後もチームNIPPOで1年間走ってから愛三工業レーシングで3年間、2017年に再びNIPPOヴィーニファンティーニで3年間、2020年にNIPPOデルコ・ワンプロヴァンス、そして2021年からEFエデュケーション・NIPPOです」。
つまり、高校から大学、UCIコンチネンタルチーム、 UCIプロコンチネンタルチーム(現UCIプロチーム)、そして UCIワールドチームへの着実なステップアップ。学連から実業団レース、国内外のUCIレース、そして海外のUCIワールドツアーレースを経験。階段を一段飛ばしすることなく駆け上がり、今や日本を代表する選手になった。
「でも高校生でロードバイクに乗り始めた時には『誰がツール・ド・フランスで勝った』とかは知らなかったですよ(笑)。それまで全くロードレースを見ていなかった。高校3年生で初めてツール・ド・フランスを見たんです。いや、ツール・ド・スイスだったかもしれない。そこでファビアン・カンチェラーラが爆走していたんです。カンチェラーラがとんでもない逃げ切りを果たして、この人すげーなという印象を受けた。だからカンチェラーラは知っていました」。現在、かつて父親と自宅で見たテレビの中の世界に中根はいる。
「ジローナは天候も良く、トレーニングを含めた環境も良いです。往復200kmを走ってバルセロナ観光もできますし。あと今年は相性の良いトレーナーと組めて、運が良かったです。彼とは事務的な関係ではなく、同世代で、私生活でも助けてくれた」。
シーズンを通した単身赴任ではなく、中根は家族をジローナに呼ぶこともした。家族と一緒にバルセロナを観光した時に、試合もないのにサッカースタジアム「カンプノウ」まで行って興奮する元サッカー少年ぶりも健在だ。
世界トップカテゴリーのUCIワールドチームらしさを問うと、「組織の大きさと明確な役割分担」だと中根は語る。「とにかく組織としての人数が多い。スタッフも多くて、それぞれ明確な役割分担がある。時間に余裕を持ってそれぞれの仕事をこなしている感じです。それは選手も同じで、レースの中で与えられる役割が具体的。UCIプロチームでは何人もエースがいるけど、UCIワールドチームではエースが明確で、絶対的な存在。前半からアタックに反応して逃げる役なのか、中盤に集団を牽引する役なのかが明確でした」。実際に中根はほとんどのレースでアタック反応役&集団牽引役を担ってきた。
「出場レース自体はワイルドカードで出場していた4年前からあまり変わらなかった。だからいきなりレースのレベルが上がって面食らうこともなかったです。でもUCIワールドチームなので高いレベルの走りができて当たり前。そして今まで以上に高いレベルの走りが求められる。集団を牽引するにしても、求められる長さが10分、20分、30分と長い。チャレンジャー(挑戦者)の立場から、エースとしてもアシストとしても結果を出して当たり前のトップチームへのステップアップを感じましたね。だからずっとこの土俵で10年以上ずっと走り続けているユキヤさん(新城幸也)やフミさん(別府史之)の凄さを改めて感じました。正直『登りだけなら俺の方が強いだろう』と思っていたこともあったけど、同じ世界トップカテゴリーの土俵で走ることで彼らの偉大さがようやくわかりました」。
かれこれ10年以上日本ロードレース界を牽引してきた新城(37歳)と別府(38歳)の次の世代として、中根(31歳)にかかる期待は大きい。そして中根はその次の世代にも目を向ける。「日本の若い選手もここに来ないと行けないし、来るべきだし、来れると思う。僕で来れたんだから(笑)ユキヤさんやフミさんと比べると、わかりやすくステップアップしてきた僕はみんなの目標にしやすいと思います。学生から実業団レースを経て、飛び級することなくUCIプロチームで4年間を走って、今のポジションにいる。近くの目標にしてくれればいいなと思います」。
「初めてスーパーシックスEVOに乗った時と今も印象は変わっていません。レースを走ってからも最初に受けた感覚のままですね。軽量フレームであってもパワーが逃げるような足元の柔らかさを感じることもなく、シッティングでトルクをかけた時も、ダンシングでスプリントした時も、良い反応をしてくれる。あと、どんなに高速ダウンヒルが続いても、軽いタッチでしっかり効くディスクブレーキだと握力に余裕が生まれる。もちろんウェットな状況でも最初から効きますし。制動力の不安をレース中に一切感じないのはストレスの軽減につながっています。もうキャリパーブレーキには戻れないです(笑)」
エース級選手を除き、EFエデュケーション・NIPPOは選手1人に3種類のバイク(スーパーシックスEVO、システムシックス、スライス)をそれぞれ3台(トレーニング用、レース用、スペア用)ずつ供給。シーズンを通してバイクのトラブルはなかったという。タイヤは基本的にレースではチューブラーを使用し、荒れた路面のレースではリム打ちパンク対策で28mmのチューブレスを投入した。
そんなシーズンの欧州最終レースとなった9月18日のプリムスクラシックでは、石畳坂を含む決して中根向きのコースレイアウトではないにもかかわらず、チーム内最高位の、そしてUCIポイント圏内の36位でフィニッシュした。アシスト役を解かれ、フリーな役回りを与えられたため、自分の走りに集中したという。「『これはもう願ってもないチャンスだ』と思って、逃げに乗ってアピールしようと思って前半からトライして、後半はUCIポイント圏内でフィニッシュすることに専念。最後は50人いないぐらいの集団でのフィニッシュになりました。自分向きではないレースでUCIポイントを獲得できることを見せることができてよかった」と、好印象をもって欧州シーズンを終えた。
中根は一旦スペイン・ジローナのアパートを引き払って帰国。2週間の隔離期間(ホテル3日間&自宅11日間)を経てトレーニングを再開した。「帰国した時点でシーズンオフにすることもできたんですが、これだけ早く日本に帰ってくることが今までなかったし、日本で走る機会もなかったので、(10月24日開催の)全日本選手権に出場することにしました。もちろん出るからにはナショナルチャンピオンジャージを狙いたい。日本のチャンピオンジャージがヨーロッパで走ることは大事だと思うんです。日本だけで走っていてはもったいない。そこは自分が取って、チャンピオンジャージを着てヨーロッパで走りたい」という使命感をもつ。そこに、早めの帰国ならではの「愛娘の体育大会を初めて見る」という極上の特典を添えて。
「でも監督には『そんなに気負わずに、楽しんできたらいいよ』と言われています。愛三時代に広島のコースを走っていて、得意なコースというイメージはありますが、全日本選手権は特殊ですから。単騎ですし、気負う必要もないのかなと。逆にその方がうまくいくんじゃないかと思っています」と楽観的だ。
2017年以来、4年ぶりの出場となる全日本選手権。隔離期間の空白を補うように、184.5kmのコースを想定したロングトレーニングを日々こなしている。
欧州に憧れた左サイドハーフ
傍から見ると自転車一家のサラブレッド。なんと言っても父親は元自転車選手で、愛三工業レーシングのプロジェクトマネージャーを務める中根賢二氏。それならば英才教育として幼少期からみっちり自転車競技に慣れ親しみ、現在の立ち位置までロード街道まっしぐらで突き進んだかのように思われがちだが決してそうではない。学生時代の中根英登の足元にはロードバイクではなくサッカーボールがあった。
「18歳までずっとサッカーをしていました。純粋にサッカーが好きだった。左利きなのでポジションは左サイドハーフ。でも自分が通っていたのは普通の市立高校で、スポーツに特化しているわけでもなく、いわゆるごく一般的な部活でした。サッカー選手になりたいという気持ちがあるわけでもなく。県大会に行けたことで満足していたぐらいのレベルです」。
世の中の子供の多くがそうであるように、中根も父親の言うことを聞かない少年だった。「小学校の頃から自転車レースにトライさせられていました。年に一回の愛知県のMTBレースに出場させられていたんですが、めちゃくちゃ嫌だった。『一年に一回だから』と言い聞かされて出場して、毎回勝っていたんです。山道をMTBで走るのは好きだったんですが、レースへの興味は最後まで沸かなかったですね。父親が関わっていることに関わりたくないというのはありました。『中根さんの息子だ』と言われるのは想像できていたし、どうしても比べられるし、同じ競技をしたくないという気持ちもあったんです」と中根。
「当時はデルピエロやバッジョ、ピルロが好きだった。昔からセリエA、特にACミランやユベントスが強くて好きでした。あとはジダンやラウルが揃ったレアルマドリード。振り返ると、当時からヨーロッパへの憧れはありましたね」。
西谷選手のお下がりで駆け回った高校時代
そんな中根に転機が訪れたのは高校2年生の冬のこと。漫画「オーバードライブ」を読んで盛り上がり、意気投合した同じサッカー部の友達2人と「ロードバイクに乗りたい」と思うようになった。「そこで、父親に手配してもらう形で(愛三工業のお下がりの)ロードバイクを3台貸してもらったんです。確か西谷選手が使っていたバイクでした。とは言ってもあくまでも遊び感覚で、サッカー部は辞めずに、部活が終わってから3人で学校の周りをグルグルしていた程度ですけど」。自分から興味を持ったタイミングで、父親のおかげで「さくっとロードバイクが手元にやってきた」。そこからサッカー少年は自転車競技へと傾倒していく。
現在に至るまでの歩みを足早に振り返ってもらう。
「高校時代に愛知県大会で勝って、インターハイに出場して、そのまま中京大学の推薦をもらえて進学。ちょうどチームユーラシアが立ち上がるタイミングで声をかけてもらいました。その後、チームNIPPOのトレーニー(研修生)としてツール・ド・おきなわを走らせてもらい、2012年に学生でありながらチームNIPPOに登録。卒業後もチームNIPPOで1年間走ってから愛三工業レーシングで3年間、2017年に再びNIPPOヴィーニファンティーニで3年間、2020年にNIPPOデルコ・ワンプロヴァンス、そして2021年からEFエデュケーション・NIPPOです」。
つまり、高校から大学、UCIコンチネンタルチーム、 UCIプロコンチネンタルチーム(現UCIプロチーム)、そして UCIワールドチームへの着実なステップアップ。学連から実業団レース、国内外のUCIレース、そして海外のUCIワールドツアーレースを経験。階段を一段飛ばしすることなく駆け上がり、今や日本を代表する選手になった。
「でも高校生でロードバイクに乗り始めた時には『誰がツール・ド・フランスで勝った』とかは知らなかったですよ(笑)。それまで全くロードレースを見ていなかった。高校3年生で初めてツール・ド・フランスを見たんです。いや、ツール・ド・スイスだったかもしれない。そこでファビアン・カンチェラーラが爆走していたんです。カンチェラーラがとんでもない逃げ切りを果たして、この人すげーなという印象を受けた。だからカンチェラーラは知っていました」。現在、かつて父親と自宅で見たテレビの中の世界に中根はいる。
トップチームの一員として
長年イタリアチームに所属していたことからイタリア語を流暢に話す中根は、2021年、スペイン北東部カタルーニャ州のジローナに居を構えた。ジローナはEFエデュケーション・NIPPOの欧州拠点であり、チームのサービスコース(事務所&倉庫)があり、チームメイトの多くやトレーナーも住んでいる。「ジローナは天候も良く、トレーニングを含めた環境も良いです。往復200kmを走ってバルセロナ観光もできますし。あと今年は相性の良いトレーナーと組めて、運が良かったです。彼とは事務的な関係ではなく、同世代で、私生活でも助けてくれた」。
シーズンを通した単身赴任ではなく、中根は家族をジローナに呼ぶこともした。家族と一緒にバルセロナを観光した時に、試合もないのにサッカースタジアム「カンプノウ」まで行って興奮する元サッカー少年ぶりも健在だ。
世界トップカテゴリーのUCIワールドチームらしさを問うと、「組織の大きさと明確な役割分担」だと中根は語る。「とにかく組織としての人数が多い。スタッフも多くて、それぞれ明確な役割分担がある。時間に余裕を持ってそれぞれの仕事をこなしている感じです。それは選手も同じで、レースの中で与えられる役割が具体的。UCIプロチームでは何人もエースがいるけど、UCIワールドチームではエースが明確で、絶対的な存在。前半からアタックに反応して逃げる役なのか、中盤に集団を牽引する役なのかが明確でした」。実際に中根はほとんどのレースでアタック反応役&集団牽引役を担ってきた。
「出場レース自体はワイルドカードで出場していた4年前からあまり変わらなかった。だからいきなりレースのレベルが上がって面食らうこともなかったです。でもUCIワールドチームなので高いレベルの走りができて当たり前。そして今まで以上に高いレベルの走りが求められる。集団を牽引するにしても、求められる長さが10分、20分、30分と長い。チャレンジャー(挑戦者)の立場から、エースとしてもアシストとしても結果を出して当たり前のトップチームへのステップアップを感じましたね。だからずっとこの土俵で10年以上ずっと走り続けているユキヤさん(新城幸也)やフミさん(別府史之)の凄さを改めて感じました。正直『登りだけなら俺の方が強いだろう』と思っていたこともあったけど、同じ世界トップカテゴリーの土俵で走ることで彼らの偉大さがようやくわかりました」。
かれこれ10年以上日本ロードレース界を牽引してきた新城(37歳)と別府(38歳)の次の世代として、中根(31歳)にかかる期待は大きい。そして中根はその次の世代にも目を向ける。「日本の若い選手もここに来ないと行けないし、来るべきだし、来れると思う。僕で来れたんだから(笑)ユキヤさんやフミさんと比べると、わかりやすくステップアップしてきた僕はみんなの目標にしやすいと思います。学生から実業団レースを経て、飛び級することなくUCIプロチームで4年間を走って、今のポジションにいる。近くの目標にしてくれればいいなと思います」。
もうキャリパーブレーキには戻れない
チームランクや生活環境だけでなく、2021年は中根の相棒も様変わりした。これまで一貫してキャリパーブレーキを使い続けてきたが、2021年はキャノンデールのスーパーシックスEVOをメインに使用(平坦基調のブラバンツペイルのみシステムシックスを使用)した。つまりディスクブレーキ100%でシーズンを過ごした。「初めてスーパーシックスEVOに乗った時と今も印象は変わっていません。レースを走ってからも最初に受けた感覚のままですね。軽量フレームであってもパワーが逃げるような足元の柔らかさを感じることもなく、シッティングでトルクをかけた時も、ダンシングでスプリントした時も、良い反応をしてくれる。あと、どんなに高速ダウンヒルが続いても、軽いタッチでしっかり効くディスクブレーキだと握力に余裕が生まれる。もちろんウェットな状況でも最初から効きますし。制動力の不安をレース中に一切感じないのはストレスの軽減につながっています。もうキャリパーブレーキには戻れないです(笑)」
エース級選手を除き、EFエデュケーション・NIPPOは選手1人に3種類のバイク(スーパーシックスEVO、システムシックス、スライス)をそれぞれ3台(トレーニング用、レース用、スペア用)ずつ供給。シーズンを通してバイクのトラブルはなかったという。タイヤは基本的にレースではチューブラーを使用し、荒れた路面のレースではリム打ちパンク対策で28mmのチューブレスを投入した。
UCIポイント獲得からの帰国、全日本へ
2021年シーズン、中根はリエージュ〜バストーニュ〜リエージュやラ・フレーシュ・ワロンヌ、クリテリウム・デュ・ドーフィネ、ブルターニュクラシックといったUCIワールドツアーレースに出場したが、レース日数は「近年の中では少ないほう」という27日間。新型コロナウイルスによるレース数自体の減少や感染対策による出場レースの圧縮が影響している。そんなシーズンの欧州最終レースとなった9月18日のプリムスクラシックでは、石畳坂を含む決して中根向きのコースレイアウトではないにもかかわらず、チーム内最高位の、そしてUCIポイント圏内の36位でフィニッシュした。アシスト役を解かれ、フリーな役回りを与えられたため、自分の走りに集中したという。「『これはもう願ってもないチャンスだ』と思って、逃げに乗ってアピールしようと思って前半からトライして、後半はUCIポイント圏内でフィニッシュすることに専念。最後は50人いないぐらいの集団でのフィニッシュになりました。自分向きではないレースでUCIポイントを獲得できることを見せることができてよかった」と、好印象をもって欧州シーズンを終えた。
中根は一旦スペイン・ジローナのアパートを引き払って帰国。2週間の隔離期間(ホテル3日間&自宅11日間)を経てトレーニングを再開した。「帰国した時点でシーズンオフにすることもできたんですが、これだけ早く日本に帰ってくることが今までなかったし、日本で走る機会もなかったので、(10月24日開催の)全日本選手権に出場することにしました。もちろん出るからにはナショナルチャンピオンジャージを狙いたい。日本のチャンピオンジャージがヨーロッパで走ることは大事だと思うんです。日本だけで走っていてはもったいない。そこは自分が取って、チャンピオンジャージを着てヨーロッパで走りたい」という使命感をもつ。そこに、早めの帰国ならではの「愛娘の体育大会を初めて見る」という極上の特典を添えて。
「でも監督には『そんなに気負わずに、楽しんできたらいいよ』と言われています。愛三時代に広島のコースを走っていて、得意なコースというイメージはありますが、全日本選手権は特殊ですから。単騎ですし、気負う必要もないのかなと。逆にその方がうまくいくんじゃないかと思っています」と楽観的だ。
2017年以来、4年ぶりの出場となる全日本選手権。隔離期間の空白を補うように、184.5kmのコースを想定したロングトレーニングを日々こなしている。
提供:キャノンデール・ジャパン
text&photo:Kei Tsuji
text&photo:Kei Tsuji