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プレッシャーから解放されたような、穏やかな笑顔がそこにはあった。一人で世界に飛び込み、戦い抜き、そして今は家族を養い、若手を育てる男の顔だった。長きにわたり日本を、アジアを牽引したMTB選手、山本幸平に話を聞いた。

現役最終レースは「幸せだった」

MTB全日本チャンピオン、山本幸平(Dream Seeker MTB Racing Team)MTB全日本チャンピオン、山本幸平(Dream Seeker MTB Racing Team) photo:So Isobe
「幸せでしたね。こんなにたくさんの日本の皆さんの前で走れたことはないし、これを求めてずっと走ってきましたから」。

2021年7月26日。選手人生を締めくくる東京オリンピック男子クロスカントリーレースを走り終えたその夜、山本幸平は噛みしめるように心のうちを明かした。

「日本でワールドカップを走りたいっていう夢は叶わなかったけれど、ずっと母国開催のビッグレースを走る選手はどんな気持ちなんだろうって考えていました。それを今日、やっと知ることができました。最後の最後に、ようやくです(笑)」。

現役最終レース、東京オリンピックを走る山本幸平(日本)現役最終レース、東京オリンピックを走る山本幸平(日本) photo:Nobuhiko Tanabe
山本幸平ラストレースの成績は、金メダリストとなったトーマス・ピドコック(イギリス)から7分21秒遅れの29位。「1周あたりトップから1分遅れ。結果自体は良くはなかったけれど、自分には負けなかった」と、山本は自身の走りを評価する。「心がけたのは最初から最後まで集中して、少しでも前で走り終えること。最後だからってことではなく、それは僕がずっとやってきたことなんです。でも、あれだけ自分をプッシュして走れたのは、もしかしたらリオ五輪以来かもしれない」。

「フィニッシュした瞬間から社会人1年生」。翌日の女子レースのために、さっそくチームジャパンの裏方として動いていた山本。広い肩からふっとプレッシャーが抜けたような、穏やかな笑顔がそこにはあった。

「遊びイコール自転車であり、自転車イコールMTB」

柔らかな目線で愛娘を抱く柔らかな目線で愛娘を抱く photo:So Isobe練習から帰ってきた山本と北林仁。兄・力は別メニュー練習中練習から帰ってきた山本と北林仁。兄・力は別メニュー練習中 photo:So Isobe

北林力(左)と仁(右)。父親が作り上げた「岳友荘」のパンプトラックを走る北林力(左)と仁(右)。父親が作り上げた「岳友荘」のパンプトラックを走る photo:So Isobe
それから2ヶ月後、プロ選手という緊張感から解き放たれた山本の姿は、長野県白馬村にある「岳友荘」にあった。ここは山本のチームメイトであり、その背中を見て育つホープ、北林兄弟(兄:力、弟:仁)の両親が営むロッジ。軒下やガレージに並ぶMTBが、そして何よりも、兄弟の父親が丹精込めて作り上げたというパンプトラックが、生粋のMTB一家が住まうことを如実に表している。

「小さい頃からずっと、それは今も、これからも変わらないことなんですけど、身体を動かすことが何よりも好きなんです」と自身のルーツを振り返る山本。幼稚園時代に兄の和弘さん(現在キャノンデール・ジャパン勤務)と揃って自転車を買ってもらい、「気づいたらMTBに乗っていた」という状態に。友達兄弟と4人で野山を駆け回る中で乗りこなす面白さにのめり込み、どんどんと行動範囲を広げ、スキルを身につけていったという。

北海道十勝に生まれ育った山本幸平(手前中央)。両親と、兄の和弘さんと北海道十勝に生まれ育った山本幸平(手前中央)。両親と、兄の和弘さんと (c)キャノンデール・ジャパン「気づいたらMTBに乗っていて、日が暮れても遊んでいましたね」「気づいたらMTBに乗っていて、日が暮れても遊んでいましたね」 (c)キャノンデール・ジャパン

「僕たち兄弟にとって、遊びイコール自転車であり、自転車イコールMTBだった。小学校4年生の時にちゃんとしたMTBを買ってもらって、初レースもその時。ゲームなんか興味なくって、とにかく時間さえあればMTBに乗っていました。遠くの山を目指して真っ暗になるまで走ったり、遊びながらジャンプとかウイリーとか、どんどん技も覚えましたね。ただレース活動は家族との旅行のおまけであって、勝つという目標はあっても、もっと他に大切にしているものはあった」と山本。MTBを、そしてMTBレースに向かう行程をも楽しむという自身のスタンスは、こうした生活の中で自然と培われていったという。

北海道十勝地方という土地柄ウィンタースポーツにも親しみ、剣道や野球にも没頭。意外なことに中学と高校は卓球部で、部活動と並行してMTBレースに出場していた。「いろんなスポーツをしていたことで得たものはありますよね。いろんな動きができるし、体力はついているし。今は小さい頃に色々なスポーツをやらせた方が伸びる、と言われていますが、僕たちは自然にそれができていた。ラッキーだったのかな、と思いますよ」。

2003年、初めて世界選手権に出場した時。衝撃を受け、プロ選手になることを決意した2003年、初めて世界選手権に出場した時。衝撃を受け、プロ選手になることを決意した (c)キャノンデール・ジャパン
山本の心の中でMTBが「真剣に遊ぶスポーツの一つ」から脱却し、プロ選手を目指したターニングポイントは、2003年。高校3年生の時に初出場した世界選手権(スイス・ルガーノ)だった。「初めてのヨーロッパレースを見た瞬間、頭を殴られた感じでした。もはや全てが違っていましたよね。選手やファンのアツさ、レースの強度と密度、激しいぶつかり合いとコースの難易度。これしかない、どうせやるなら海外だ!と、ヨーロッパでプロ選手になることを決めました。全てはあの瞬間からだったんです」。

「あの瞬間、僕はすごく強かった」

高校3年生の山本が自身のレースを終え、その後の男子エリートレースで憧れの存在になったのは「気持ちを全面に出す走りがカッコよかった」というラルフ・ナフ(スイス:2003年ヨーロッパチャンピオン)だという。山本は一本気の性格そのままに単身海外へと渡り、やがて世界トップレースを転戦するワールドカッパーに。日本とアジアでナンバーワンになることは当たり前。2008年には初の五輪出場を叶え、コンスタントにトップ30入りするなど名実ともにトップアスリートの仲間入りを果たしたものの、「ワールドカップで1桁リザルト」という自身の目標まであと一歩に迫ったタイミングで、落車による怪我に見舞われてしまう。

2014年のワールドカップ第2戦で、選手人生のターニングポイントとなる落車に見舞われた2014年のワールドカップ第2戦で、選手人生のターニングポイントとなる落車に見舞われた photo:Hiroyuki.NAKAGAWA診断は胸骨剥離骨折と脱臼「あれで全てが崩れてしまった」診断は胸骨剥離骨折と脱臼「あれで全てが崩れてしまった」 photo:Hiroyuki.NAKAGAWA

「2014年のワールドカップ第2戦ケアンズ(オーストラリア)でした。スタート直後の落車に巻き込まれて、胸骨剥離骨折と脱臼。それまでは全て順調に運んでいて、その年は自分で言うのもなんですが、身体も心もめちゃくちゃ強かった。タラレバですが、落車がなければトップ10に入れていたかもしれない。でも、怪我で身体のバランスが崩れてしまって、それ以前の状態に戻ることは最後までできませんでした」。

その年は初めて全日本選手権を落とすなど、思うように走れないことで「楽しめていない状態」が続く。「医者は大丈夫って言ったんですが、全然ダメダメでした。それでも自分を奮い立たせて日本やアジアでは勝てる状態まで持っていったんですが、やっぱりどこか苦しくて。僕をブチのめしてくれる後輩も育たないし、辞めるに辞められず、少し意地になっていた部分はありますね。そこでオリンピックが日本に決まって、そこまでは続けよう、と。東京オリンピックがなかったら、とっくの昔に辞めていたかもしれないですね」と山本は振り返る。

2018年、自身の手でDream Seeker MTB Racing Teamを興した2018年、自身の手でDream Seeker MTB Racing Teamを興した photo:So.Isobe
思う通りに走れない、苦しい気持ちを打開できるようになったのはDream Seeker MTB Racing Teamを興した2018年だった。トラック競技チームと同じチームではあるものの、自らMTB部門のスポンサー獲得に奔走するなど、その内側はおおよそ山本本人によるチームと言って良い。2019年には元トライアスロン選手の田中敬子さんとの結婚、2020年の東京オリンピックの内定、そして出場。「選手としてのピークは戻ってこなかったんですが、代わりに多くのことを経験し、人として成長できました。子どもが生まれたことも大きかったですね」と山本は、北林家の庭先で遊ぶ2人の娘に柔らかい目線を送る。

世界で戦える若手を育てるために

現役ラストレースとなった東京オリンピックを走り終えたその瞬間から、山本の意識は「後進を育てる」ことに100%切り替わった。Dream Seekerを立ち上げてからスケジュールが許す限り北林力と共に過ごし、選手としての取り組み方を隠すことなく伝授してきた。昨年はコーヒー販売による売り上げを選手育成に投じる「Yamamoto Athlete Farm」を興し、富士見パノラマ山頂付近の標高1800m地点に別荘を構えて高地トレーニングができる環境も作りあげた。そして今年は北林弟の仁がチームに加入。自身が追い求めてきた「ワールドカップでトップ10入り」という目標は、若い二人へと確かに引き継がれている。

「その意味では今年、オリンピック前に(鈴木)雷太さんが尽力してくれて、3人でワールドカップを走れたことが大きかったですね。僕自身あの舞台に戻れて嬉しかったし、プロ選手としてレースに臨む姿を北林兄弟に見せることができましたから。食事やレースへの向かい方、会話とか、そういう経験値の部分を見せることができました。その場にいなきゃわからないことって、本当にたくさんありますから」。

インターバルトレーニングを行う山本と北林兄弟(4月に撮影)インターバルトレーニングを行う山本と北林兄弟(4月に撮影) photo:So Isobe
インターバルトレーニング後にはスキルアップを。疲れた状態での身体の動きを研ぎ澄ますインターバルトレーニング後にはスキルアップを。疲れた状態での身体の動きを研ぎ澄ます photo:So Isobe
「今回幸平さんと一緒に遠征できた意味は大きかった」と、北林力は差し込んだ。「僕は幸平さんが目指してきたものを叶え、そして越えていく。実は今シーズン思うように走れなかったんですが、向こう(ヨーロッパ)を走り、改めてワールドカップで結果を出したい、と」。山本の背中を見て成長を重ねる北林力は、現在国内アンダーカテゴリーでは敵無し。昨年の全日本選手権では唯一山本に迫るラップタイムを叩き出し(エリートとU23は混走)、改めて山本の後継者であることを示した。U23最後となる今年の全日本選手権では、混走となるエリート選手を全員抜いて勝つ、とも。

一方、兄の後を追って2021年にチームに加入した3歳年下の仁は、初めてのヨーロッパ遠征に衝撃を受けたという。「少しパニクっていたんですが、むしろ幸平さんは落ち着いていて、レース前のスケジュールの組み方や考えも細かいし、学ぶ部分は大きかった」。レース中に失敗をしても、毎週末どこかしらでレースが開催される環境の中で、トライアンドエラーを繰り返せるヨーロッパ。その中で急速に順応できたという。

全日本チャンピオンカラーに彩られたキャノンデール Scalpel Hi-Mod Carbon全日本チャンピオンカラーに彩られたキャノンデール Scalpel Hi-Mod Carbon photo:So Isobe
特徴的なLeftyフォーク特徴的なLeftyフォーク photo:So Isobe長年背負い続けてきたもの長年背負い続けてきたもの photo:So Isobe

「向こうで走ることでしか見えない世界があるし、僕たちは常にそれを追い続ける集団でありたい」。世界基準のトレーニングとレースプランを実行する中で、一番大切なのは「楽しむことを忘れないこと」だと山本は言う。「楽しんでいるからこそしっかりやれるし、しっかりやれるから楽しめる。そういう良いフローの流れの中に自分たちを置きたいな、と思いますね」。

「そのためには練習環境や機材が整っていることはもちろん、チーム、家族のサポートも重要なんです。足りない部分はある程度個人の努力で補えるけれど、頂点を目指している戦場では最後の最後、競り合った時にその差が順位に出てしまう。今のMTB界でスイスとフランスが強い理由は、環境が整っていて選手人口が多く、そしてレースへの移動も楽で、食事もいいものが摂れるから。僕は長い経験をもって北林兄弟をはじめ、後に続く選手たちををバックアップしたい。世界をギャフンと言わせたいんですよ」。

「ずっと、いつでも、ワクワクしていたい」

「僕たちは、常に本場でしか得られないものを求める集団でありたい」「僕たちは、常に本場でしか得られないものを求める集団でありたい」 photo:So Isobe
現全日本チャンピオンであり、未だ国内では抜きん出た力を持ちながらも山本は現役引退を選んだ。競技人生のほとんどを一緒に過ごしてきた全日本チャンピオンジャージとの別れも迫ってきているが、寂しい気持ちは一切ないと言う。昨年優勝した全日本選手権ショートトラックには出場するものの、「20分なら何とかついていけるかな(笑)」と、勝負から一歩離れ、今までと違う目線でレースを楽しむことがその目標。「今まではレースに集中するあまりファンの方々と交流できなかったんですが、今後はその部分を楽しみたい。そして、日本のMTB界をもっともっと盛り上げていきたい」とも。

「やっぱり、何かしらに対して"熱"を持っていたいんですよ。いつでもワクワクしていたいし、楽しみたい。SNSもライブ中継もあるから、レースで日本人が先頭争いをする未来が来たらMTBがもっとメジャーになる。僕が目指すのは、今も昔も、そしてこれからも、ずっとそのことだけなんです」。

提供:キャノンデール・ジャパン
text:So Isobe