数多くの自転車イベントが行われている長野県。新しく御嶽山の麓にて開田高原クリテリウムが初開催された。レガルスイ・イナーメ/信濃山形自転車クラブが主催する手作りレースの、クリテリウムとサイクリングの模様をお伝えします。

夏真っ盛りの天気で開催された木曽町開田高原クリテリウム夏真っ盛りの天気で開催された木曽町開田高原クリテリウム

8月4日に長野県木曽郡木曽町開田高原で行われた木曽町開田高原クリテリウムレース。開催場所の開田高原は御嶽山の麓にある、標高1000m〜1500mと夏でも涼しい場所。土地一帯は畑が広がり今はトウモロコシが収穫の時季となっている。美しい村とも言われるこの地でロードレースが初開催された。


サバイバルレースとなったクリテリウム

高原の涼しい風と夏の眩しい日差しの下で行われた木曽町開田高原クリテリウムレース。ホストを務めるイナーメに加え、ゲストチームとしてフルメンバーの宇都宮ブリッツェン、ボンシャンス飯田の福島晋一も参戦する豪華な選手陣となった。JCF・JBCF登録競技者のみの参加とし、初めてレース観戦に訪れる人にも質の高いロードレースを知ってもらう機会としているそうだ。

ホストチームのイナーメ・アイランド信濃山形ホストチームのイナーメ・アイランド信濃山形 木曽町開田高原クリテリウムスタート木曽町開田高原クリテリウムスタート


「クリテリウム」という名称ながらも、コースは緩い上りとテクニカルコーナ―が連続する下りで構成された1周2.1kmの地脚が問われるレイアウト。たっぷりとレースを楽しんでもらおうと、レース時間は110分+2周とされた。

スタートからペースが速く、1周のラップタイムは2分前後。集団は1列棒状となり、後方では脱落する選手が続出するサバイバルレースとなった。序盤に形成された逃げグループには福島晋一、普久原奨(宇都宮ブリッツェン)に加え、イナーメの筧五郎・高岡亮寛両選手が入り見せ場を作る。

逃げグループに入った福島晋一(ボンシャンス飯田)、普久原奨(宇都宮ブリッツェン)、筧五郎、高岡亮寛(共にイナーメ・アイランド信濃山形)逃げグループに入った福島晋一(ボンシャンス飯田)、普久原奨(宇都宮ブリッツェン)、筧五郎、高岡亮寛(共にイナーメ・アイランド信濃山形) 積極的に逃げる福島晋一(ボンシャンス飯田)積極的に逃げる福島晋一(ボンシャンス飯田)


周回賞のダッシュで筧選手が遅れ、3名となった先頭グループには後半初山翔(宇都宮ブリッツェン)がブリッジを成功させ、そのままの展開でゴールスプリントへ。最後は初山が僅差で福島を下してガッツポーズを決めた。後続は3位 普久原・4位 高岡となった。

初山翔(宇都宮ブリッツェン)が僅差のスプリントを制した初山翔(宇都宮ブリッツェン)が僅差のスプリントを制した 木曽町開田高原クリテリウム表彰木曽町開田高原クリテリウム表彰


優勝した初山は「クリテリウムと聞いていましたが、登りと下りしかなく、展開も厳しかったです。先頭に追いつく際に足を使い、ローテーションもうまく回せませんでしたが、優勝賞金3万円と聞いて必死で踏みました(笑)」と話す。
2位の福島は「県内で負けたことは無かったですが、勝ちたかったですね。地元の手作りのレースで副賞の特産物もたくさん頂きました。すごくいい大会でした」と語ってくれた。

レース終了後は参加者と関係者を一堂に会したパーティーが催され、開田高原のトウモロコシや野菜といった地元食材を使った手料理が提供され、好評を博していた。パーティーでは自転車談義をで語り合い、今回のレース開催に協力した開田支所支所長、藤沢地区区長はじめ地元関係者から、既に来年のレースプランも出るなど大いに盛り上がった。


レース翌日は開田高原から木曽福島へと回るサイクリング

翌日はレース参加者や関係者が集まって、開田高原から木曽福島へと回るサイクリングが開催された。コースは60、100、150km、また子供向けの20kmコースも設定された。開田高原から王滝村を通り木曽福島から地蔵峠と九蔵峠を登る60kmが基本となっていて、100kmは途中に牧尾ダムと才児峠を追加、150kmは九蔵峠を最初に回って牧尾ダムと才児峠を2周する。

クリテリウムの翌日に行われた開田高原サイクリングの参加者クリテリウムの翌日に行われた開田高原サイクリングの参加者

ブリッツェンとイナーメといった強豪レーサーは150kmコース、健脚サイクリストは100km、レポーターである私はのんびり走りたいので60kmコースを選択した。朝9時過ぎのスタートだが、標高1000mを超えるこの地区は高原の風が心地よい、サイクリングには最高のロケーションだ。

開田高原の集落を抜け西野川沿いへ。県道から外れて登りをこなしながら、休憩所と道の駅で止まって談笑しながらマイペースで木曽福島へ。宿場町として古い町並みを見つつ。駅前にあってレースを後援している「食事処かわい」で、食事とジェラートを頂く。昨日のパーティーで選手の寄せ書きがされたTシャツがすでに店先に飾られていた。

コース中は登りが多いコース中は登りが多い 古い街並みが残る木曽福島古い街並みが残る木曽福島


木曽福島駅前にある「かわい」木曽福島駅前にある「かわい」 「かわい」のジェラートはサイクリングで火照った体を冷やすのにピッタリ「かわい」のジェラートはサイクリングで火照った体を冷やすのにピッタリ


木曽福島を離れ、次はコースの難所である距離にして6kmの地蔵峠へ。久々に走るというブリッツェンの栗村監督も懸命な顔で登っている。後になればつづら折りになる古い峠道をひたすら我慢。頂上ではブリッツェンの飯野智行選手も一休みしているほどキツい坂だった。

降りる間に御嶽山を眺めつつ、道沿いの観光案内所で一休みしてから、九蔵峠を登りスタート地点へ。60kmコースでもアップダウンしか無いために走りごたえは充分で、信号も少なく素晴らしいコース設定だと感じることができた。

150kmをコースを走ったトップグループは、ブリッツェンの堀孝明選手も「キツいコースでした。今回は集団も足があって速いペースでした。山岳コースですね」と満足気だった。

地蔵峠を懸命に登る栗村修宇都宮ブリッツェン監督地蔵峠を懸命に登る栗村修宇都宮ブリッツェン監督 飯野選手もちょっとお疲れ?飯野選手もちょっとお疲れ?



「地域密着を目指して」 レガルスイ・イナーメ/信濃山形自転車クラブ

2日間に渡って手作り感のある素晴らしい大会を用意してくれたレガルスイ・イナーメ/信濃山形自転車クラブは、2007年7月に中畑清監督と、筧五郎選手の二人で実業団登録をしたことに端を発するクラブチームだ。現在長野県東筑摩郡山形村に在住する中畑氏が、村で自転車レースを開催してほしいとの村長の気持ちに応え、レースをするなら地元山形村にチームがあって欲しい…との思いでイナーメ・アイランド信濃山形をスタートさせたという。

現在、イナーメ・アイランド信濃山形はJBCFプロツアー11名、エリートツアー30名 ホビーレーサー・サイクリストを含めると60名の大所帯で活動している。創設時からのメンバーで2005年の乗鞍ヒルクライムを制した筧五郎選手、2007/2011ツール・ド・おきなわ市民200km優勝を果たした最強フルタイムワーカー高岡亮寛選手、2008-2010乗鞍ヒルクライム3連覇の森本誠選手など、強豪ホビーレーサーを多く擁する。

中畑清イナーメアイランド信濃山形監督中畑清イナーメアイランド信濃山形監督 中畑監督は現在「自転車を文化にしていきたい」との思いから裏方に回り、レースだけではなく一般の自転車も含め、走り方やマナーを普及させる活動を展開している。山形村で毎年9月に行われるヒルクライム大会、学生連盟と共催する「信濃山形清水高原サイクルロードレース」は、今年9月で6年目を迎える。

イナーメのテーマは「自転車による地域貢献。方針は自転車の可能性に挑戦すること」と中畑監督は話す。

「今回のクリテリウムには是非プロツアー選手に来ていただきたかった。そしてまだ自転車レースを観たことのない方々に、ローカルレースだからこその距離感で本物を観て感じて欲しかったのです。容赦ない実力者同士のレースに皆さんはかなり感動されていましたし、私も感動しました。

まずはクリテリウムレースを定着させるため、来年はカテゴリーを増やしてレースを開催する予定です。本物のレースを観戦した一般サイクリストの方々が翌日のサイクリングに参加し、キツさや達成感、そして感動を味わってもらえればと思います。春先と真夏にそれぞれの地域から開田高原に走りに来て、そして地元木曽町の方々がサイクリストに自然となることのできる環境をつくっていきたいですね。その為のスポーツサイクリングを普及する教室も既に実行しています。

本格的なサインボードが準備された本格的なサインボードが準備された コースサイドに広がるトウモロコシ畑コースサイドに広がるトウモロコシ畑


ここ霊峰木曽御岳山に抱かれて走る開田高原は起伏に富み、イナーメ・ライドin開田高原ライドで設定しているコースはどのレベルの方が走っても満足できます。良い意味で昔から変わりません。何しろ60、100、150kmコース、どれを走っても木曽町福島町内を除けば信号は2つしかないのです。

私の故郷でもあるこの地は、夏でも寒いと言われるようにとても爽やかな風が吹き抜けます。そして橋の上から見下ろす川の水は見ただけで冷たさが伝わってきます。イワナの姿さえ確認できる透明の水なのです。今から33年前の17歳の時、私はロードレーサーと出会いました。木曽町(当時は木曽福島町)に住んでいた、私のトレーニングコースがこの開田高原でした。

当時はエディー・メルクスがツール・ド・フランスでベルナール・テブネに敗れ、そのテブネも同国のベルナール・イノーの活躍で退いていった頃ですね。開田高原を走るたびに、私はイノーになっていました(笑)。ここで本格的なロードレースが出来たらいいな…とずーっと思いつづけてきました。それがこの地、開田高原でレースを開催した理由です」


text&photo:Akihiro.NAKAO

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