2012/04/10(火) - 14:22
トム・ボーネンが53kmにわたる驚異的な独走劇を演じたパリ〜ルーベ2012。砂塵舞う27セクターのパヴェにフォトグラファーの綾野 真がオートバイでレースを追った。
雨の予報。ボーネンを脅かすライバルは誰?
土曜日。すべてのチームが現地入りを済ませ、スタッフやプレス関係者などの準備が進むパリ郊外の街コンピエーニュで、このパリ〜ルーベでの話題はもっぱら当日の天気のことと、最有力優勝候補のボーネンの予想通りの勝利はあるのか?ということだった。
カンチェラーラがロンドの落車で鎖骨を4つに折って不在の大会。ボーネンに敵うライバルといえば?
ボーネンにつぐ優勝候補の筆頭に挙げられるのは好調ポッツァート。次いでバッラン、フレチャ、シャヴァネル、ボアッソンハーゲン、フースホフト、前年覇者ファンスーメレンら。
フランスでの報道ならシャヴァネルのオッズが高くなり、ベルギーでの報道ならファンスーメレンやファンマルク、そしてなぜか(ロンドで調子の良かった)パオリーニまでが優勝候補予想に顔を出してくる。ダークホースとしてはグレゴリー・ラスト(レディオシャック・ニッサン)なども挙げたいところ。
打倒ボーネンの最右翼、’ピッポ’ ポッツァートは全身蛍光イエローづくめのチームでひとりだけ黒いヘルメットとバイクに乗る。つや消しブラックのヘルメットには「MERCI BALLERO(ありがとうバレーロ)」と書かれている。元イタリアナショナルチームの監督、故フランコ・バッレリーニ氏へのメッセージだ。
ポッツァートは「勝つために走る。バレーロを思い出しながら。個人的に彼に走りを捧げるため、当日は特別なヘルメットを被って走る。僕はバレーロに多くのことを教わったんだ。もちろんパリ〜ルーベについて多くを教わった。彼のように強い走りを見せたい」と語る。
バッレリーニはかつてマペイ時代の1995年と1998年にパリ〜ルーベを制している。
ロンド・ファン・フラーンデレンでポッツァートはボーネンとのスプリント勝負で敗れ2位に終わったが、勝利に向けてトライしない姿勢が再び批判を呼んだ。かつて勇敢な走りを見せたバッレリーニの走りを、果たして優柔不断な走りのピッポが再現できるのか。
ポッツァートがライバル視するのもボーネンとバッランだ。ロンドでバッランのアタックに続けてアタックしていれば、結果は違った?
それでも仲のいいバッランとポッツァートのイタリア人コンビは、スタート前に肩を並べて楽しげに談笑していた。
パリ〜ルーべでの経験値がもっとも大きいのはBMCレーシングだ。今回の出場メンバーの経歴で計算すれば、ヒンカピーの16回出場・1表彰台、フースホフトの11回出場・2表彰台、クインツァートの7回出場、バッランの6回出場・2回表彰台、ブルグハートの6回出場。 のべ46回の出場、5回の表彰台となる。それにU23パリ〜ルーベを含めると、2回優勝しているテイラー・フィニーが加わる。しかしエリートでの優勝は無し。
北の天気は気まぐれ 結局は晴れた
北の天気は変わりやすい。そして場所ごとに天気が違うほどだ。チームプレゼンテーションが行われている間も、天気は曇から雨へ、そして祓魔が覗いたと思ったら再び雨が降るといった具合に、刻一刻と状況を変えた。
その夜の雨の予報も、結局は大した降りにはならず、結局のところ砂埃が立ちにくい程度にパヴェにお湿りをもたらしたにすぎなかった。
コンピエーニュのスタート地点から
イースターの日曜日に当たるレース当日朝、結局は透き通るような快晴が訪れた。しかし気温は低く、朝の最低気温はゼロ度近く。最高気温でも10度程度の予報。雨の気配は見えなくても、北に上がるにつれ午後からは40〜50%程度の降水確率。ゴール時間の遅いパリ〜ルーベでは、後半の雨による泥レースも十分考えられた。
スタート地点にはランス・アームストロングが来ているという情報。トライアスリートに転身したアームストロングは、今回ニースで開催されるアイアンマン・フランスの試走のためにフランスにやってきたが、その前にパリ〜ルーベにはレディオシャック・ニッサンの応援に来たという。
前夜、レディオシャックのホテルのレストランに出入りする姿を少しだけ見ることができたが、スタート地点ではチームバスの中に乗ったままで外に出てくる気配はなかった。レディオシャックのバスは周囲に立入禁止のロープが張られ、バスの周りを包囲するように停めたチームカーでメディアたちの動きを完全ブロックしていた。
姿を見せないアームストロングの代わりに会場を明るくしていたのはロジャー・ハモンドの訪問だ。かつて所属したTモバイルのアフターウェアに身を包んだハモンドは、かつてのチームメイトたちに代わる代わる挨拶されては引っ張りだこ状態となっていた。
パヴェに入る前に一休みのカフェ
パリ〜ルーベの27のパヴェは、コンピエーニュをスタートしてから97.5㎞地点のTroisvilles à Inchyから始まる。第1のパヴェ手前のTroisvilles の集落にはパリ〜ルーベにちなんだカフェがあり、ここでパヴェに入る前の関係者たちが休憩を取ることが毎年の恒例になっている。
PARISとROUVAIXの方向を示す看板がある古いカフェで、ビールを飲みながらレース談義に花を咲かせる地元の人達。外の屋台ではハンバーガーに似たボリュームたっぷりのパテ入りパンが売られ、プレスなどもここでしっかり腹ごしらえする。引退したクリストフ・マンジャンらの姿も。
幸いか不幸か、雨に降られなかったパヴェはほぼ全区間で乾いている状態だった。夏日のような暑さに見舞われた2007年ほどではないが、それでも選手たちが走りすぎた後は巻き上げられた砂塵で視界が霞む。
この第一区間、セクター27のパヴェに突入するまでの平均時速は48㎞!
ゲドンの受難
順調にパヴェをこなしていたメイン集団がオルノワ・レ・ヴァロンシエンヌでの落車で分裂した。このレースで引退するフレデリック・ゲドン(フランス、FDJ・ビッグマット)も巻き込まれ、遅れる。ゲドンのもとにはFDJのチームカーも急行できず、その後もパンクでホイールを交換してさらに遅れを大きくした。
最後のフランス人のパリ〜ルーベ勝者の遅れは、フランス人にとって一大事。ニュートラルサポートを行うマヴィックのスタッフも後輪にオイルを刺す仕草を装いながら懸命に集団復帰のためのプッシュを続ける。ホイールを交換しても、リアメカが壊れているのだ。しかし最後尾近くまで離れてしまっては、もはや集団復帰は難しかった。
BMCレーシングの強いチーム力 フィニーの走りが光る
ボーネン擁するオメガファーマ・クイックステップ勢は逃げ集団にギヨーム・ファンケイルスブルク(ベルギー)を送り込んだだめにメイン集団先頭を牽く責は免れていた。集団をコントロールするのはチームスカイ、BMCレーシングら。U23パリ〜ルーベWチャンプのテイラー・フィニーが、先頭にたって赤い集団をコントロールする。
メイン集団内のフィニーの輝く走りをみて、今回のクラシック連戦のモト・パイロットのデブシェール氏が賞賛の声を漏らす。デブシェール氏の弟・イェンス・デブシェール(ロット・べリソル)は、今回初めてのパリ〜ルーベに挑んでいる23歳。2年前のU23パリ〜ルーベでフィニーと争って2位になったベルギー期待の若手だ。しかし兄ケヴィンは言う「パリ〜ルーベを最も得意とするフィニーとは、パヴェの上での力の差が思っていた以上に大きい。そしてロンド以来3連戦を走って、イェンスはかなり消耗しているようだ。」と。
抜け道を行く時、カジュアルな服装のレイフ・ホステとペーター・ヴァンペテヘムの姿を見つける。ふたりはクルマでスキップしながらポイントで観戦しているようだ。モト運転手のデブシェール氏に状況を聞くと次のポイントに向けて走りだしていった。その様子は熱狂的な一般観客となんら変りなかった。
オメガファーマ・クイックステップ勢の攻撃開始
12名で形成された逃げ集団も順調に距離を重ねていたが、それが崩壊したのは最難関パヴェのアランベールの森で。グリシャ・ヤノルシュケ(ドイツ、チームネットアップ)がパヴェに大きく弾かれて、ファンケイルスブルクらと絡みながら落車。逃げ集団はアランベールを抜ける前に分解してしまった。
ファンケイルスブルクを逃げに送り込んでいたオメガファーマ・クイックステップ勢はここから勝負をかけ始める。アランベールではシャヴァネルがボーネンを率いてクリア。昨年ここでチェーンジャムを起こしてリタイアしたボーネンは、まず鬼門のアランベールを無事クリアした。ここまで集団の力を見せたBMCはアランベールでバラバラになってしまった。
先頭集団を追って飛び出したバッランとフレチャを含む追走第2グループの走りを、オメガファーマ・クイックステップ勢がボーネンをリードしながらその差を詰めていく。対して積極的な走りを見せるのは、繰り返してアタックするセバスティアン・テュルゴー(フランス、ユーロップカー)。
ボーネンの早すぎる独走
セクター11、Auchy-lez-Orchies à Berséeのパヴェでボーネンとテルプストラが抜け出し、すぐさまボーネンが単独走行に入る。「まさかここから?」お見合いしたポッツァートとバッランたち。ふたりはゴールまでまだ50㎞以上を残すこのタイミングで行くには、ボーネンでも早すぎるだろうと思ったと言う。
そしてメイングループにチームスカイ勢が4人残っていたことが災いした。スカイに任せればボーネンを捕まえられるだろう、という考えがグループを支配したようだ。
素手でハンドルのドロップ部を鷲掴みし、低いクラウチングフォームで飛ばし続けるボーネン。身体を小さく丸め込んでいるが、大きな肢体がひときわ大きく感じられるパワフルさだ。そういえば不調に泣かされ続けた近年のボーネンは小さく見えたものだが、この日の強いボーネンは逞しい身体で機関車のごとくペダリングし、パワーで悪路をねじ伏せる皇帝の走りだ。
撮影のために抜け道を走る我々カメラマン・オートバイ部隊の脇を猛スピードでオメガファーマ・クイックステップのチームカーが追い抜いていく。運転するのはウィルフリード・ピーテルス監督。そして過去20年で実にパリ〜ルーベ通算10勝を導いてきたクラシックの名将パトリック・ルフェーブルGMが同乗している。
このチームカーの運転技術の素晴らしさと、周辺の抜け道を熟知していることに驚かされた。UFOの発するような電子音のホーンを鳴らしながら、猛烈なスピードで細い道を縦横無尽に、しかも的確に選びながら進み、パヴェごとに先行してはボーネンのパンクに備えてポイントで待機する。結果的にはノントラブルで走りきったボーネンだが、このチームで走るメリットは他にはないものがある。
ボーネンがパヴェセクター6を駆け抜ける頃、雨の気配が忍び寄る。そして天気が荒れて風が出てきた。独走には不利な条件が増すが、ボーネンの走りは力強さを増していくばかりだった。
そして後方ではポッツァートが落車し、デヴォルデルを巻き込んだ。そしてフースホフトも前を行くフレチャが路上の警官を避けて急に進路を変え、慌ててタイヤをスリップさせて落車。ライバルたちがミスで次々と減っていった。
ポッツァートは落車から立ち直って走りだしたが、ふくらはぎと大腿が腫れ上がる打撲を負って20㎞走った所でリタイヤ。フラストレーションから走るのを投げ出してしまったという説も流れた。
そしてセクター6までに4人のスカイ勢はグループを牽いていたが、まずイアン・スタナードが遅れ、ボアッソンハーゲンとマシュー・ヘイマンが続いて脱落。カードはフレチャに絞られることになった。
フレチャは5週間前のトレーニング時に事故にあい、掌を骨折。ボルトを入れてつないで、まだ痛みを感じながらレースに復帰している。
ボーネンの独走は誰も止められず。ルーベのベロドロームまでスピードを保って逃げ切った時、タイム差は1分39秒に広がっていた。
ボーネンはルーベ競技場のトラックの大観衆の声援にゼスチャーで応えながら、最後は4勝目の4を掌で表しながらゴールラインを切った。
「ムセーウの姿がダブって見えた」
ボーネンのアタックはプランしていたものではなく、当初のチームオーダーともまったく違っていた。ルフェーブルGMの用意した作戦は、シャヴァネルを先にアタックさせてボーネンを温存し、後で追いついたボーネンと二人で(もしくは残った数人で)逃げ切るというものだった。最後に少人数のスプリントに持ち込めば、ボーネンは必ず勝てる。その安全策とは大いに異なる、リスクに満ちた走りだった。
しかし、ボーネンの強さは50km以上の独走をして十分余りあるものだった。
ボーネンは言う。「いつもならこんな(独走という)武器は使わない。ひとりになったとき、OK、僕はもうフランドルに勝っている。パリ〜ルーベの4勝目には、何か特別なスタイルで挑むのはどうだろう?と考えたんだ。決してパニックにはならなかった。少し歳をとって、パニックにならない余裕と、自分の身体のことがより理解できるようになった。この勝利で、たぶん僕はパヴェ最強の選手になった」。
ウィルフリード・ピーテルス監督は言う「疑うことなくこれがトムの4勝のなかでもっとも素晴らしい勝利だ。彼が走っているとき、ヨハン・ムセーウの姿がダブって見えた」。
2010年パリ〜ルーベで魅せたカンチェラーラの独走劇。カンチェラーラは今回居ないが、居れば二人はいったいどんなレースを繰り広げたのだろう?
2位争いを制したフランス人テュルゴー
2位争いはベロドロームのトラックの上で大きく入れ替わった。そしてその様子の始終はボーネンの栄光の様子を映し出すテレビ放送には映らなかったという。
カルフール・ダルブルを抜けたボーム、バッラン、フレチャの3人は、まず一周目のゴールラインをボーム先頭で越える。3人に遅れていたテルプストラとテュルゴーが残り半周で3人に追いつき、ゴールスプリントへ。
トラック団体追い抜きでフランスナショナルチームで走った経験のあるテュルゴーがスプリントの写真判定でバッランを破り、フランス人としてゲドン以来となる表彰台に上がった。
「これは2位で、優勝じゃない。でも来年以降に向けて大きな手応えを掴んだ。走りだしてすぐに調子がいいことに気がついたんだ。トラックの経験をスプリントで活かすことができたと思う」とテュルゴー。
ゲドン最後のパリ〜ルーベはタイムアウト
レース前日のチームプレゼンテーションでは、このレースを最後に引退する1997年パリ〜ルーベ覇者で最後のフランス人優勝者フレデリック・ゲドンのために特別なセレモニーが用意された。ゲドンには、彼が優勝した翌日のレキップ紙がパネルに入れられてプレゼントされた(でもきっとゲドンは持っている)。
ゲドンはチームFDJビッグマットとはもともと今年度の4ヶ月のみの期間限定契約で、パリ〜ルーベを走って引退する予定だった。しかし、ツアー・ダウンアンダー第1ステージで落車して左股関節骨折に見舞われる。その時点で引退する考えがよぎったという。しかしトレーニングを経て体調を戻し、最後のパリ〜ルーベを予定通り走った。しかし、予定通りに行かなかったのは、オルノワ・レ・ヴァロンシエンヌでの落車で遅れたこと。メカトラを抱え、加えてパンクもした。しかもチームカーがそばにおらず、機材交換ができなかった。そのため遅れは広がり続け、ゴールしたときにはボーネンに18分52秒遅れの88位。走りきったもののタイムアウト扱いとなる差まで開いていた。
ゲドンは言う「レースに影響を及ぼしたかったのに、無念に打ちひしがれながらペダルを漕いでいた。チームカーがおらず、大きなタイムを失ったんだ。不運を恨むよ。こんな結末は到底受け入れられない。もうやめようと思った時、僕の周りの人達の顔が浮かんできた。そして小さな集団をみつけて走った。それがなかったら収容されていただろうね」。
ゲドンはルーベ名物の「囚人収監所のような」シャワー室で最後のシャワーを浴びながら、裸のシーンを遠慮無く撮影するカメラマンたちに向かって静かな口調で悔しさを話し続けた。
188枚の写真で見るパリ〜ルーベフォトギャラリー2(Google Picasaウェブアルバム)
photo&text:Makoto.AYANO
雨の予報。ボーネンを脅かすライバルは誰?
土曜日。すべてのチームが現地入りを済ませ、スタッフやプレス関係者などの準備が進むパリ郊外の街コンピエーニュで、このパリ〜ルーベでの話題はもっぱら当日の天気のことと、最有力優勝候補のボーネンの予想通りの勝利はあるのか?ということだった。
カンチェラーラがロンドの落車で鎖骨を4つに折って不在の大会。ボーネンに敵うライバルといえば?
ボーネンにつぐ優勝候補の筆頭に挙げられるのは好調ポッツァート。次いでバッラン、フレチャ、シャヴァネル、ボアッソンハーゲン、フースホフト、前年覇者ファンスーメレンら。
フランスでの報道ならシャヴァネルのオッズが高くなり、ベルギーでの報道ならファンスーメレンやファンマルク、そしてなぜか(ロンドで調子の良かった)パオリーニまでが優勝候補予想に顔を出してくる。ダークホースとしてはグレゴリー・ラスト(レディオシャック・ニッサン)なども挙げたいところ。
打倒ボーネンの最右翼、’ピッポ’ ポッツァートは全身蛍光イエローづくめのチームでひとりだけ黒いヘルメットとバイクに乗る。つや消しブラックのヘルメットには「MERCI BALLERO(ありがとうバレーロ)」と書かれている。元イタリアナショナルチームの監督、故フランコ・バッレリーニ氏へのメッセージだ。
ポッツァートは「勝つために走る。バレーロを思い出しながら。個人的に彼に走りを捧げるため、当日は特別なヘルメットを被って走る。僕はバレーロに多くのことを教わったんだ。もちろんパリ〜ルーベについて多くを教わった。彼のように強い走りを見せたい」と語る。
バッレリーニはかつてマペイ時代の1995年と1998年にパリ〜ルーベを制している。
ロンド・ファン・フラーンデレンでポッツァートはボーネンとのスプリント勝負で敗れ2位に終わったが、勝利に向けてトライしない姿勢が再び批判を呼んだ。かつて勇敢な走りを見せたバッレリーニの走りを、果たして優柔不断な走りのピッポが再現できるのか。
ポッツァートがライバル視するのもボーネンとバッランだ。ロンドでバッランのアタックに続けてアタックしていれば、結果は違った?
それでも仲のいいバッランとポッツァートのイタリア人コンビは、スタート前に肩を並べて楽しげに談笑していた。
パリ〜ルーべでの経験値がもっとも大きいのはBMCレーシングだ。今回の出場メンバーの経歴で計算すれば、ヒンカピーの16回出場・1表彰台、フースホフトの11回出場・2表彰台、クインツァートの7回出場、バッランの6回出場・2回表彰台、ブルグハートの6回出場。 のべ46回の出場、5回の表彰台となる。それにU23パリ〜ルーベを含めると、2回優勝しているテイラー・フィニーが加わる。しかしエリートでの優勝は無し。
北の天気は気まぐれ 結局は晴れた
北の天気は変わりやすい。そして場所ごとに天気が違うほどだ。チームプレゼンテーションが行われている間も、天気は曇から雨へ、そして祓魔が覗いたと思ったら再び雨が降るといった具合に、刻一刻と状況を変えた。
その夜の雨の予報も、結局は大した降りにはならず、結局のところ砂埃が立ちにくい程度にパヴェにお湿りをもたらしたにすぎなかった。
コンピエーニュのスタート地点から
イースターの日曜日に当たるレース当日朝、結局は透き通るような快晴が訪れた。しかし気温は低く、朝の最低気温はゼロ度近く。最高気温でも10度程度の予報。雨の気配は見えなくても、北に上がるにつれ午後からは40〜50%程度の降水確率。ゴール時間の遅いパリ〜ルーベでは、後半の雨による泥レースも十分考えられた。
スタート地点にはランス・アームストロングが来ているという情報。トライアスリートに転身したアームストロングは、今回ニースで開催されるアイアンマン・フランスの試走のためにフランスにやってきたが、その前にパリ〜ルーベにはレディオシャック・ニッサンの応援に来たという。
前夜、レディオシャックのホテルのレストランに出入りする姿を少しだけ見ることができたが、スタート地点ではチームバスの中に乗ったままで外に出てくる気配はなかった。レディオシャックのバスは周囲に立入禁止のロープが張られ、バスの周りを包囲するように停めたチームカーでメディアたちの動きを完全ブロックしていた。
姿を見せないアームストロングの代わりに会場を明るくしていたのはロジャー・ハモンドの訪問だ。かつて所属したTモバイルのアフターウェアに身を包んだハモンドは、かつてのチームメイトたちに代わる代わる挨拶されては引っ張りだこ状態となっていた。
パヴェに入る前に一休みのカフェ
パリ〜ルーベの27のパヴェは、コンピエーニュをスタートしてから97.5㎞地点のTroisvilles à Inchyから始まる。第1のパヴェ手前のTroisvilles の集落にはパリ〜ルーベにちなんだカフェがあり、ここでパヴェに入る前の関係者たちが休憩を取ることが毎年の恒例になっている。
PARISとROUVAIXの方向を示す看板がある古いカフェで、ビールを飲みながらレース談義に花を咲かせる地元の人達。外の屋台ではハンバーガーに似たボリュームたっぷりのパテ入りパンが売られ、プレスなどもここでしっかり腹ごしらえする。引退したクリストフ・マンジャンらの姿も。
幸いか不幸か、雨に降られなかったパヴェはほぼ全区間で乾いている状態だった。夏日のような暑さに見舞われた2007年ほどではないが、それでも選手たちが走りすぎた後は巻き上げられた砂塵で視界が霞む。
この第一区間、セクター27のパヴェに突入するまでの平均時速は48㎞!
ゲドンの受難
順調にパヴェをこなしていたメイン集団がオルノワ・レ・ヴァロンシエンヌでの落車で分裂した。このレースで引退するフレデリック・ゲドン(フランス、FDJ・ビッグマット)も巻き込まれ、遅れる。ゲドンのもとにはFDJのチームカーも急行できず、その後もパンクでホイールを交換してさらに遅れを大きくした。
最後のフランス人のパリ〜ルーベ勝者の遅れは、フランス人にとって一大事。ニュートラルサポートを行うマヴィックのスタッフも後輪にオイルを刺す仕草を装いながら懸命に集団復帰のためのプッシュを続ける。ホイールを交換しても、リアメカが壊れているのだ。しかし最後尾近くまで離れてしまっては、もはや集団復帰は難しかった。
BMCレーシングの強いチーム力 フィニーの走りが光る
ボーネン擁するオメガファーマ・クイックステップ勢は逃げ集団にギヨーム・ファンケイルスブルク(ベルギー)を送り込んだだめにメイン集団先頭を牽く責は免れていた。集団をコントロールするのはチームスカイ、BMCレーシングら。U23パリ〜ルーベWチャンプのテイラー・フィニーが、先頭にたって赤い集団をコントロールする。
メイン集団内のフィニーの輝く走りをみて、今回のクラシック連戦のモト・パイロットのデブシェール氏が賞賛の声を漏らす。デブシェール氏の弟・イェンス・デブシェール(ロット・べリソル)は、今回初めてのパリ〜ルーベに挑んでいる23歳。2年前のU23パリ〜ルーベでフィニーと争って2位になったベルギー期待の若手だ。しかし兄ケヴィンは言う「パリ〜ルーベを最も得意とするフィニーとは、パヴェの上での力の差が思っていた以上に大きい。そしてロンド以来3連戦を走って、イェンスはかなり消耗しているようだ。」と。
抜け道を行く時、カジュアルな服装のレイフ・ホステとペーター・ヴァンペテヘムの姿を見つける。ふたりはクルマでスキップしながらポイントで観戦しているようだ。モト運転手のデブシェール氏に状況を聞くと次のポイントに向けて走りだしていった。その様子は熱狂的な一般観客となんら変りなかった。
オメガファーマ・クイックステップ勢の攻撃開始
12名で形成された逃げ集団も順調に距離を重ねていたが、それが崩壊したのは最難関パヴェのアランベールの森で。グリシャ・ヤノルシュケ(ドイツ、チームネットアップ)がパヴェに大きく弾かれて、ファンケイルスブルクらと絡みながら落車。逃げ集団はアランベールを抜ける前に分解してしまった。
ファンケイルスブルクを逃げに送り込んでいたオメガファーマ・クイックステップ勢はここから勝負をかけ始める。アランベールではシャヴァネルがボーネンを率いてクリア。昨年ここでチェーンジャムを起こしてリタイアしたボーネンは、まず鬼門のアランベールを無事クリアした。ここまで集団の力を見せたBMCはアランベールでバラバラになってしまった。
先頭集団を追って飛び出したバッランとフレチャを含む追走第2グループの走りを、オメガファーマ・クイックステップ勢がボーネンをリードしながらその差を詰めていく。対して積極的な走りを見せるのは、繰り返してアタックするセバスティアン・テュルゴー(フランス、ユーロップカー)。
ボーネンの早すぎる独走
セクター11、Auchy-lez-Orchies à Berséeのパヴェでボーネンとテルプストラが抜け出し、すぐさまボーネンが単独走行に入る。「まさかここから?」お見合いしたポッツァートとバッランたち。ふたりはゴールまでまだ50㎞以上を残すこのタイミングで行くには、ボーネンでも早すぎるだろうと思ったと言う。
そしてメイングループにチームスカイ勢が4人残っていたことが災いした。スカイに任せればボーネンを捕まえられるだろう、という考えがグループを支配したようだ。
素手でハンドルのドロップ部を鷲掴みし、低いクラウチングフォームで飛ばし続けるボーネン。身体を小さく丸め込んでいるが、大きな肢体がひときわ大きく感じられるパワフルさだ。そういえば不調に泣かされ続けた近年のボーネンは小さく見えたものだが、この日の強いボーネンは逞しい身体で機関車のごとくペダリングし、パワーで悪路をねじ伏せる皇帝の走りだ。
撮影のために抜け道を走る我々カメラマン・オートバイ部隊の脇を猛スピードでオメガファーマ・クイックステップのチームカーが追い抜いていく。運転するのはウィルフリード・ピーテルス監督。そして過去20年で実にパリ〜ルーベ通算10勝を導いてきたクラシックの名将パトリック・ルフェーブルGMが同乗している。
このチームカーの運転技術の素晴らしさと、周辺の抜け道を熟知していることに驚かされた。UFOの発するような電子音のホーンを鳴らしながら、猛烈なスピードで細い道を縦横無尽に、しかも的確に選びながら進み、パヴェごとに先行してはボーネンのパンクに備えてポイントで待機する。結果的にはノントラブルで走りきったボーネンだが、このチームで走るメリットは他にはないものがある。
ボーネンがパヴェセクター6を駆け抜ける頃、雨の気配が忍び寄る。そして天気が荒れて風が出てきた。独走には不利な条件が増すが、ボーネンの走りは力強さを増していくばかりだった。
そして後方ではポッツァートが落車し、デヴォルデルを巻き込んだ。そしてフースホフトも前を行くフレチャが路上の警官を避けて急に進路を変え、慌ててタイヤをスリップさせて落車。ライバルたちがミスで次々と減っていった。
ポッツァートは落車から立ち直って走りだしたが、ふくらはぎと大腿が腫れ上がる打撲を負って20㎞走った所でリタイヤ。フラストレーションから走るのを投げ出してしまったという説も流れた。
そしてセクター6までに4人のスカイ勢はグループを牽いていたが、まずイアン・スタナードが遅れ、ボアッソンハーゲンとマシュー・ヘイマンが続いて脱落。カードはフレチャに絞られることになった。
フレチャは5週間前のトレーニング時に事故にあい、掌を骨折。ボルトを入れてつないで、まだ痛みを感じながらレースに復帰している。
ボーネンの独走は誰も止められず。ルーベのベロドロームまでスピードを保って逃げ切った時、タイム差は1分39秒に広がっていた。
ボーネンはルーベ競技場のトラックの大観衆の声援にゼスチャーで応えながら、最後は4勝目の4を掌で表しながらゴールラインを切った。
「ムセーウの姿がダブって見えた」
ボーネンのアタックはプランしていたものではなく、当初のチームオーダーともまったく違っていた。ルフェーブルGMの用意した作戦は、シャヴァネルを先にアタックさせてボーネンを温存し、後で追いついたボーネンと二人で(もしくは残った数人で)逃げ切るというものだった。最後に少人数のスプリントに持ち込めば、ボーネンは必ず勝てる。その安全策とは大いに異なる、リスクに満ちた走りだった。
しかし、ボーネンの強さは50km以上の独走をして十分余りあるものだった。
ボーネンは言う。「いつもならこんな(独走という)武器は使わない。ひとりになったとき、OK、僕はもうフランドルに勝っている。パリ〜ルーベの4勝目には、何か特別なスタイルで挑むのはどうだろう?と考えたんだ。決してパニックにはならなかった。少し歳をとって、パニックにならない余裕と、自分の身体のことがより理解できるようになった。この勝利で、たぶん僕はパヴェ最強の選手になった」。
ウィルフリード・ピーテルス監督は言う「疑うことなくこれがトムの4勝のなかでもっとも素晴らしい勝利だ。彼が走っているとき、ヨハン・ムセーウの姿がダブって見えた」。
2010年パリ〜ルーベで魅せたカンチェラーラの独走劇。カンチェラーラは今回居ないが、居れば二人はいったいどんなレースを繰り広げたのだろう?
2位争いを制したフランス人テュルゴー
2位争いはベロドロームのトラックの上で大きく入れ替わった。そしてその様子の始終はボーネンの栄光の様子を映し出すテレビ放送には映らなかったという。
カルフール・ダルブルを抜けたボーム、バッラン、フレチャの3人は、まず一周目のゴールラインをボーム先頭で越える。3人に遅れていたテルプストラとテュルゴーが残り半周で3人に追いつき、ゴールスプリントへ。
トラック団体追い抜きでフランスナショナルチームで走った経験のあるテュルゴーがスプリントの写真判定でバッランを破り、フランス人としてゲドン以来となる表彰台に上がった。
「これは2位で、優勝じゃない。でも来年以降に向けて大きな手応えを掴んだ。走りだしてすぐに調子がいいことに気がついたんだ。トラックの経験をスプリントで活かすことができたと思う」とテュルゴー。
ゲドン最後のパリ〜ルーベはタイムアウト
レース前日のチームプレゼンテーションでは、このレースを最後に引退する1997年パリ〜ルーベ覇者で最後のフランス人優勝者フレデリック・ゲドンのために特別なセレモニーが用意された。ゲドンには、彼が優勝した翌日のレキップ紙がパネルに入れられてプレゼントされた(でもきっとゲドンは持っている)。
ゲドンはチームFDJビッグマットとはもともと今年度の4ヶ月のみの期間限定契約で、パリ〜ルーベを走って引退する予定だった。しかし、ツアー・ダウンアンダー第1ステージで落車して左股関節骨折に見舞われる。その時点で引退する考えがよぎったという。しかしトレーニングを経て体調を戻し、最後のパリ〜ルーベを予定通り走った。しかし、予定通りに行かなかったのは、オルノワ・レ・ヴァロンシエンヌでの落車で遅れたこと。メカトラを抱え、加えてパンクもした。しかもチームカーがそばにおらず、機材交換ができなかった。そのため遅れは広がり続け、ゴールしたときにはボーネンに18分52秒遅れの88位。走りきったもののタイムアウト扱いとなる差まで開いていた。
ゲドンは言う「レースに影響を及ぼしたかったのに、無念に打ちひしがれながらペダルを漕いでいた。チームカーがおらず、大きなタイムを失ったんだ。不運を恨むよ。こんな結末は到底受け入れられない。もうやめようと思った時、僕の周りの人達の顔が浮かんできた。そして小さな集団をみつけて走った。それがなかったら収容されていただろうね」。
ゲドンはルーベ名物の「囚人収監所のような」シャワー室で最後のシャワーを浴びながら、裸のシーンを遠慮無く撮影するカメラマンたちに向かって静かな口調で悔しさを話し続けた。
188枚の写真で見るパリ〜ルーベフォトギャラリー2(Google Picasaウェブアルバム)
photo&text:Makoto.AYANO
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