2022/12/31(土) - 18:00
開催まで2年を切ったパリ2024オリンピックの出場に向け、注目したい若手自転車選手が弱虫ペダルサイクリングチームの小林あか里だ。MTB女子競技、その出場枠獲得のため、国際レースへの参戦を続けている。難易度の高い現在のワールドカップで好順位を得られる技術とメンタルの持ち主、MTB競技のサラブレッドとも称される2世レーサー小林の選手としてのここ数年を、彼女の言葉で振り返る。
雨の2022全日本選手権、大怪我をしても走り続けたその理由
11月下旬のマウンテンバイク XCO女子全日本選手権、スタート前に降り出した雨が選手の体も会場の空気も一気に冷やした。路面はぬかるみ岩は滑り、走る側も見守る側も誰もが弱気になった。
その冷え切った会場で、女子アンダー23選手、小林あか里(弱虫ペダルサイクリングチーム)の走りは鬼気迫るものだった。東京2020オリンピック MTB競技レガシーの象徴、大会会場の伊豆MTBコースを、口から血を流しながらトップを走り続けていた。
1周目のスタートループ、岩場の難セクション「枯山水」で彼女は転倒して顔を岩で打った。前歯が折れ、左手も負傷した。それでも小林が走り続けたのは理由があった。
「実は一番の理由は、転んだところに父親が来てくれていて。『走れるかっ?』って私に聞いたらしいんですけど、私には『走れっ!!』て聞こえて(笑)。あ、走らなきゃいけないんだ、と思って。とりあえずバイクを持って下に降りたらもう走るしかなかったんで、そのまま走り出したんです(笑)」
「そんなハプニングもありながら、まあでもそこからは絶対にこのレースはフィニッシュするって思っていたし、優勝するイメージしかなかったです。だから残り3周は集中して走れたのかなって思うし、集中していたから痛みもほとんど感じずにフィニッシュに向かえたのかなって思います」
だから小林は走った。あの鬼気迫る走りの正体、実は父の声を聞き違えた走りだったわけだが、笑い話には聞こえない。なぜなら彼女はずっとそうやって真摯に走りに臨んできたからだ。
小林の母、可奈子さんはアトランタ1996五輪MTB女子に出場した元五輪選手だ。父の昌樹さんも1991年MTB世界選手権に出場した元選手だ。MTBで走るのを当たり前に小林は育った。
最初は家族でサイクリングに行くから。そのうち週末のキッズレースに出るから。走ることが当然のように走ってきた結果、母がすでに実現したのと同じ目標、オリンピック出場を目指し走っている。
「小さい頃は、『なんでこの家に生まれてしまったんだろう』って思ったこともあったんですけど(笑)。でも今考えると、だからこそずっとオリンピックはすごく身近で、遠い目標だとは思わなかった。オリンピックに絶対行くって思えていて、その目標をずっと持ち続けられるのは、母親がオリンピック選手だったのが大きいのかな」
高校時代からスイスへ、UCI直轄の若手育成チームに所属
2022年の小林は選手として、シーズンを通して大きな存在感を示してきた。UCIワールドカップU23で10位獲得。MTBアジア選手権と全日本選手権U23 XCOの女子タイトルを獲得。C1クラスのジャパンMTBカップで3位に。さらに今年から参戦したロードレースでもJプロツアー・フェミニンクラスで表彰台を6度、U23全日本ロードレースタイトルを獲得。
国際・国内・競技種目を問わず女子レースではすべて国籍別トップの成績、21歳という将来ある年齢。彼女の夢であり目標は1年半後に迫ったパリ2024オリンピック の代表候補になること。そのための布石は着実だ。
現在はプロ選手であるとともに、信州大学経法学部の3年生。信州大学に入ったのは自己スポーツ推薦。高校時代にスイスMTBチームに入り、欧州でトレーニングを積み、国際大会に出場してきたことなどを伝えて推薦をもらった。
高校時代に加入していたチーム「WCC」は、UCI(国際自転車競技連合)が主催するMTB若手育成チームだ。加入したのはチーム設立時にコーチに推薦され、また両親が決して少なくない金銭負担にも同意したからだ(身を裂く気持ちで、と両親は言う……)。高校生活の多くをスイス・エーグルのUCIトレーニングセンターで過ごした。選手としてのトレーニング、レース経験を着実に積んで実力を上げる一方で、日本での高校生としての生活を大きく諦めた。プロ選手になりたかったからだ。
「その時はコロナ前でオンライン授業もほとんどなくて、スイスに行ってる時はもう完全に日本の生活とは隔離されてる感じでした。でも当時は大学進学っていう選択肢は自分になくて、高校卒業したらプロになって自転車で食べて行きたいっていう想いがあったので」。
ところが、そのプロを目指すチームメイトにいるうちに、大学進学を大きく意識し始めることになる。
「プロになるっていうのは、お金をもらってライダーとして、商品として走ること。だからそこに商品としての価値も作らなきゃいけない。プロってそういうことだよ、と親からも言われていたので、プロ選手という具体的なイメージはできていたと思います。
ただスイスに行って、海外で実際にプロとして走る選手たちとの交流の中で、選手たちが大学で学びながらトレーニングしているのを実際に肌で感じました。プロになるのは、強いのはもちろんですが、人間としても広い視野を持っているべきだとも感じました。
ですから、大学に行って視野を広げてからプロになるのも道なんじゃないかなと思いました。高校3年生の夏ぐらいに、受験がどんどん始まるギリギリ前でした」
ワールドカップのデビュー戦、しかし現実はDNFの緊急帰国
大学への進学は決めた小林だったが、2020年3月の高校卒業式には参加しなかった。東京2020オリンピック出場への微かな期待に賭け、欧州に残ってレース参戦をすることを考えたのだ。
「まだオリンピックの延期も決まってなく、私自身もアンダー23で初めてワールドカップに挑戦する年でした。この2月のスペインでの国際大会、シーズン前にワールドカップライダーも多く出場したU23の混走レースでそれなりの上位に入りました。
それで私は今年ワールドカップで絶対にトップ10で走る、自分がここから世界でもトップで戦っていける自信がついていました。ですから残ってトレーニングすると決めた時は、卒業式やっぱり行きたいなあとか、そういう想いはあまりなかったです」
ところが世はコロナ禍へ。2020年の小林は4月初頭に帰国を決断、日本でトレーニングを積み9月に再びスイスに渡る。初めてのワールドカップをU23で走るためにだ。いよいよ世界ワールドカップデビューに備えるも、スイスの食が合わず体調は絶不調。
「スイスって、なんか食事がジャガイモやニンジンとかの根菜が主食で。欧米の選手なら普通なんでしょうが、私はじゃがいもが主食になる経験がほぼなくて。どのぐらい食べていいかわからず、それに炭水化物は食べない方が良いと言われていたので、痩せなきゃっていう想いで、パンも好きなんですが食べられなくて」
結果として知識なく低炭水化物ダイエットをしてしまった小林。体を動かすための糖分が蓄積されない、カーボローディングの真逆のエンプティ。体力は落ち込み気持ちも沈む。それでも控えた、U23の年齢になって初めてのワールドカップ。10月頭の開催、欧州ならではの冷え込みでスタート時の気温は低い。
「レースは2日間続きで、1日目のレースは完走できたんですがレースに集中できず、力も入りにくくて全然思うように走れなくて悔しくて。次の日も全く同じコースだったので、次はもう絶対にもっと上位で走るって思っていて」
しかも1週間後には結果を出したい世界選手権が控えていた。母・可奈子さんも、会場オーストリアの現場まで脚を運び、小林をサポートしていた。がんばれ、やり切れ、すべてが小林にそう投げかけていた。
「結構スタートループは上位の方に入れたんですが、走っているときに体に全く力が入らなくなっていて。でも上に食らいつかなきゃっていう想いもあって。でも体は動かなくて」
起こったのは、エネルギー不足による急激な低血糖の症状。のちに「後15分走っていたら、命すら危険だった」と言われたほどの不調、極限状態。
「2周目に入るときに、もうこのレース降りた方がいいかもと思ったんですが、いよいよコースの前半の登りで力が入らなくなって。もうこれ以上走ったら次のロックセクションで絶対にこけるって思って、レースを降りた形です」
緊急帰国した小林はそのまま日本で冬を過ごして体調を整え直し、次の2021年4月に再びスイスへと渡る。今度は半年間日本を離れてのレース参戦となった。
2021年はレース成績もメンタルも絶不調、スイスも卒業
結論から言えば、ここからもうまくいかない。2021年は欧州のワールドカップをほぼ回る予定でいた小林。自分自身も自信を持ってレースに臨んだのだが、シーズン当初のスイスカップで全く満足する走りができない。
「そこからなぜ自分がレースで走れないんだろう、っていう想いが、レース中も練習中も全く頭から離れなくなってしまって。そうすると頭がまず自分はレースを走れないって思い込んでしまい、体もやっぱり動かなくなるんですね。出るレースすべてで周回遅れとかで完走できず。
成績が出ない自分が本当にもどかしくて、その時コーチに不信感を持ってしまっている自分もいて。なんかすべてがすべて悪い方向へ、自分で向けてしまったっていうシーズンだったかなって思っています」
目標のプロ選手になった2022年、世界レベルを近く感じた一年
その辛い状況の中で迎える2022年。これまで描いてきたプロ選手としてのオファーを初めて受けた。《弱虫ペダルサイクリングチーム》代表の佐藤成彦ジェネラルマネージャーは、結果を出すのにシビアなことで知られる。
「2021年のシーズンが終わったとき、今までのチームも一度解散すると話をされ、もうスイスには戻らないつもりでいたので、次のシーズンの自分の居場所がない中で、声をかけて頂いたのがすごく嬉しかったです。その反面、成績を出さなきゃいけないのがあったので、プレッシャーも少なからず感じました。
チームに入って、佐藤GMを中心にいろいろ支えてくれる方たちがいて。すべてがいろんな人に支えられているんだなっていうのを初めて感じられました。今までは親がお金を出してくれて、乗る自転車もチームに用意されていたけれど、色んな人が周りから支えてくれてるのがあまり見えないまま走っていました」
「これまでは、『なぜレースを走っているの?』って聞かれても答えられなかったんですが、チームに入ってからは、もちろん強くなりたいのもありますが、こうやって支えてくれる人がいて、その人たちのために走ってるんだって、私は心の迷いなく答えられます。
自分が走っていることに少しでも意味があるんだなって思えるようになったのは、本当に良かったなって思っています」
幼少期からMTBで走ることを半ばさだめのように走ってきた小林あか里は、念願のプロ選手となった初年に、自分が走ることの意味を感じとった。心の安定は、走っている時は常に苦しい選手の体にとって、その痛みを超えられるほどに大きい。それが巻頭で紹介した2022年の結果、走りの飛躍に結びついたのか。来シーズンの彼女の走りを待ちたい。
パリ2024オリンピックに向けて
では最後に、パリ2024オリンピックに関して小林が思うことを述べてもらおう。
「パリ2024オリンピックは、まず2023年のアジア選手権の結果が選考条件にあるので、アジア選手権で絶対に勝たないとまずパリに行けないのはわかっています。
東京2020オリンピックの時は、ジュニアからU23に大きくカテゴリーが変わるときだったので、次の大会があると思っている自分がいました。でも今度のパリは、自分もこれだけ走れるようになってきたし、オリンピック出場も届かない目標ではなくなっています。パリ2024オリンピックには出場して入賞する、これが目標のひとつです。
来年はすごくチャレンジングな年になると思うけど、挑戦し続けたいと思います」
小林あか里 インスタグラム
https://www.instagram.com/akarikobayash1/
text:Koichiro Nakamura
雨の2022全日本選手権、大怪我をしても走り続けたその理由
11月下旬のマウンテンバイク XCO女子全日本選手権、スタート前に降り出した雨が選手の体も会場の空気も一気に冷やした。路面はぬかるみ岩は滑り、走る側も見守る側も誰もが弱気になった。
その冷え切った会場で、女子アンダー23選手、小林あか里(弱虫ペダルサイクリングチーム)の走りは鬼気迫るものだった。東京2020オリンピック MTB競技レガシーの象徴、大会会場の伊豆MTBコースを、口から血を流しながらトップを走り続けていた。
1周目のスタートループ、岩場の難セクション「枯山水」で彼女は転倒して顔を岩で打った。前歯が折れ、左手も負傷した。それでも小林が走り続けたのは理由があった。
「実は一番の理由は、転んだところに父親が来てくれていて。『走れるかっ?』って私に聞いたらしいんですけど、私には『走れっ!!』て聞こえて(笑)。あ、走らなきゃいけないんだ、と思って。とりあえずバイクを持って下に降りたらもう走るしかなかったんで、そのまま走り出したんです(笑)」
「そんなハプニングもありながら、まあでもそこからは絶対にこのレースはフィニッシュするって思っていたし、優勝するイメージしかなかったです。だから残り3周は集中して走れたのかなって思うし、集中していたから痛みもほとんど感じずにフィニッシュに向かえたのかなって思います」
だから小林は走った。あの鬼気迫る走りの正体、実は父の声を聞き違えた走りだったわけだが、笑い話には聞こえない。なぜなら彼女はずっとそうやって真摯に走りに臨んできたからだ。
小林の母、可奈子さんはアトランタ1996五輪MTB女子に出場した元五輪選手だ。父の昌樹さんも1991年MTB世界選手権に出場した元選手だ。MTBで走るのを当たり前に小林は育った。
最初は家族でサイクリングに行くから。そのうち週末のキッズレースに出るから。走ることが当然のように走ってきた結果、母がすでに実現したのと同じ目標、オリンピック出場を目指し走っている。
「小さい頃は、『なんでこの家に生まれてしまったんだろう』って思ったこともあったんですけど(笑)。でも今考えると、だからこそずっとオリンピックはすごく身近で、遠い目標だとは思わなかった。オリンピックに絶対行くって思えていて、その目標をずっと持ち続けられるのは、母親がオリンピック選手だったのが大きいのかな」
高校時代からスイスへ、UCI直轄の若手育成チームに所属
2022年の小林は選手として、シーズンを通して大きな存在感を示してきた。UCIワールドカップU23で10位獲得。MTBアジア選手権と全日本選手権U23 XCOの女子タイトルを獲得。C1クラスのジャパンMTBカップで3位に。さらに今年から参戦したロードレースでもJプロツアー・フェミニンクラスで表彰台を6度、U23全日本ロードレースタイトルを獲得。
国際・国内・競技種目を問わず女子レースではすべて国籍別トップの成績、21歳という将来ある年齢。彼女の夢であり目標は1年半後に迫ったパリ2024オリンピック の代表候補になること。そのための布石は着実だ。
現在はプロ選手であるとともに、信州大学経法学部の3年生。信州大学に入ったのは自己スポーツ推薦。高校時代にスイスMTBチームに入り、欧州でトレーニングを積み、国際大会に出場してきたことなどを伝えて推薦をもらった。
高校時代に加入していたチーム「WCC」は、UCI(国際自転車競技連合)が主催するMTB若手育成チームだ。加入したのはチーム設立時にコーチに推薦され、また両親が決して少なくない金銭負担にも同意したからだ(身を裂く気持ちで、と両親は言う……)。高校生活の多くをスイス・エーグルのUCIトレーニングセンターで過ごした。選手としてのトレーニング、レース経験を着実に積んで実力を上げる一方で、日本での高校生としての生活を大きく諦めた。プロ選手になりたかったからだ。
「その時はコロナ前でオンライン授業もほとんどなくて、スイスに行ってる時はもう完全に日本の生活とは隔離されてる感じでした。でも当時は大学進学っていう選択肢は自分になくて、高校卒業したらプロになって自転車で食べて行きたいっていう想いがあったので」。
ところが、そのプロを目指すチームメイトにいるうちに、大学進学を大きく意識し始めることになる。
「プロになるっていうのは、お金をもらってライダーとして、商品として走ること。だからそこに商品としての価値も作らなきゃいけない。プロってそういうことだよ、と親からも言われていたので、プロ選手という具体的なイメージはできていたと思います。
ただスイスに行って、海外で実際にプロとして走る選手たちとの交流の中で、選手たちが大学で学びながらトレーニングしているのを実際に肌で感じました。プロになるのは、強いのはもちろんですが、人間としても広い視野を持っているべきだとも感じました。
ですから、大学に行って視野を広げてからプロになるのも道なんじゃないかなと思いました。高校3年生の夏ぐらいに、受験がどんどん始まるギリギリ前でした」
ワールドカップのデビュー戦、しかし現実はDNFの緊急帰国
大学への進学は決めた小林だったが、2020年3月の高校卒業式には参加しなかった。東京2020オリンピック出場への微かな期待に賭け、欧州に残ってレース参戦をすることを考えたのだ。
「まだオリンピックの延期も決まってなく、私自身もアンダー23で初めてワールドカップに挑戦する年でした。この2月のスペインでの国際大会、シーズン前にワールドカップライダーも多く出場したU23の混走レースでそれなりの上位に入りました。
それで私は今年ワールドカップで絶対にトップ10で走る、自分がここから世界でもトップで戦っていける自信がついていました。ですから残ってトレーニングすると決めた時は、卒業式やっぱり行きたいなあとか、そういう想いはあまりなかったです」
ところが世はコロナ禍へ。2020年の小林は4月初頭に帰国を決断、日本でトレーニングを積み9月に再びスイスに渡る。初めてのワールドカップをU23で走るためにだ。いよいよ世界ワールドカップデビューに備えるも、スイスの食が合わず体調は絶不調。
「スイスって、なんか食事がジャガイモやニンジンとかの根菜が主食で。欧米の選手なら普通なんでしょうが、私はじゃがいもが主食になる経験がほぼなくて。どのぐらい食べていいかわからず、それに炭水化物は食べない方が良いと言われていたので、痩せなきゃっていう想いで、パンも好きなんですが食べられなくて」
結果として知識なく低炭水化物ダイエットをしてしまった小林。体を動かすための糖分が蓄積されない、カーボローディングの真逆のエンプティ。体力は落ち込み気持ちも沈む。それでも控えた、U23の年齢になって初めてのワールドカップ。10月頭の開催、欧州ならではの冷え込みでスタート時の気温は低い。
「レースは2日間続きで、1日目のレースは完走できたんですがレースに集中できず、力も入りにくくて全然思うように走れなくて悔しくて。次の日も全く同じコースだったので、次はもう絶対にもっと上位で走るって思っていて」
しかも1週間後には結果を出したい世界選手権が控えていた。母・可奈子さんも、会場オーストリアの現場まで脚を運び、小林をサポートしていた。がんばれ、やり切れ、すべてが小林にそう投げかけていた。
「結構スタートループは上位の方に入れたんですが、走っているときに体に全く力が入らなくなっていて。でも上に食らいつかなきゃっていう想いもあって。でも体は動かなくて」
起こったのは、エネルギー不足による急激な低血糖の症状。のちに「後15分走っていたら、命すら危険だった」と言われたほどの不調、極限状態。
「2周目に入るときに、もうこのレース降りた方がいいかもと思ったんですが、いよいよコースの前半の登りで力が入らなくなって。もうこれ以上走ったら次のロックセクションで絶対にこけるって思って、レースを降りた形です」
緊急帰国した小林はそのまま日本で冬を過ごして体調を整え直し、次の2021年4月に再びスイスへと渡る。今度は半年間日本を離れてのレース参戦となった。
2021年はレース成績もメンタルも絶不調、スイスも卒業
結論から言えば、ここからもうまくいかない。2021年は欧州のワールドカップをほぼ回る予定でいた小林。自分自身も自信を持ってレースに臨んだのだが、シーズン当初のスイスカップで全く満足する走りができない。
「そこからなぜ自分がレースで走れないんだろう、っていう想いが、レース中も練習中も全く頭から離れなくなってしまって。そうすると頭がまず自分はレースを走れないって思い込んでしまい、体もやっぱり動かなくなるんですね。出るレースすべてで周回遅れとかで完走できず。
成績が出ない自分が本当にもどかしくて、その時コーチに不信感を持ってしまっている自分もいて。なんかすべてがすべて悪い方向へ、自分で向けてしまったっていうシーズンだったかなって思っています」
目標のプロ選手になった2022年、世界レベルを近く感じた一年
その辛い状況の中で迎える2022年。これまで描いてきたプロ選手としてのオファーを初めて受けた。《弱虫ペダルサイクリングチーム》代表の佐藤成彦ジェネラルマネージャーは、結果を出すのにシビアなことで知られる。
「2021年のシーズンが終わったとき、今までのチームも一度解散すると話をされ、もうスイスには戻らないつもりでいたので、次のシーズンの自分の居場所がない中で、声をかけて頂いたのがすごく嬉しかったです。その反面、成績を出さなきゃいけないのがあったので、プレッシャーも少なからず感じました。
チームに入って、佐藤GMを中心にいろいろ支えてくれる方たちがいて。すべてがいろんな人に支えられているんだなっていうのを初めて感じられました。今までは親がお金を出してくれて、乗る自転車もチームに用意されていたけれど、色んな人が周りから支えてくれてるのがあまり見えないまま走っていました」
「これまでは、『なぜレースを走っているの?』って聞かれても答えられなかったんですが、チームに入ってからは、もちろん強くなりたいのもありますが、こうやって支えてくれる人がいて、その人たちのために走ってるんだって、私は心の迷いなく答えられます。
自分が走っていることに少しでも意味があるんだなって思えるようになったのは、本当に良かったなって思っています」
幼少期からMTBで走ることを半ばさだめのように走ってきた小林あか里は、念願のプロ選手となった初年に、自分が走ることの意味を感じとった。心の安定は、走っている時は常に苦しい選手の体にとって、その痛みを超えられるほどに大きい。それが巻頭で紹介した2022年の結果、走りの飛躍に結びついたのか。来シーズンの彼女の走りを待ちたい。
パリ2024オリンピックに向けて
では最後に、パリ2024オリンピックに関して小林が思うことを述べてもらおう。
「パリ2024オリンピックは、まず2023年のアジア選手権の結果が選考条件にあるので、アジア選手権で絶対に勝たないとまずパリに行けないのはわかっています。
東京2020オリンピックの時は、ジュニアからU23に大きくカテゴリーが変わるときだったので、次の大会があると思っている自分がいました。でも今度のパリは、自分もこれだけ走れるようになってきたし、オリンピック出場も届かない目標ではなくなっています。パリ2024オリンピックには出場して入賞する、これが目標のひとつです。
来年はすごくチャレンジングな年になると思うけど、挑戦し続けたいと思います」
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text:Koichiro Nakamura
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