2016/10/20(木) - 16:15
10月1日からイギリス・マンチェスターで開かれていたUCIトラックマスターズ世界選手権大会において、和地恵美(スーパーKアスリートラボ)が500mTTの55歳~59歳部門で金。スプリントで銀メダルを獲得した。
和地が今までに手にしたメダルは今回を含め通算で金3個、銀6個、銅5個。金は2007年の500mT.T.以来、9年ぶりの獲得となる。本人によるレポートでお伝えする。
皆さん、こんにちは。マスターズの和地恵美です。いつも温かな応援を有難うございます。9年ぶりに、ようやく金メダルを獲得しました。なかなかご期待に応えられず、申し訳なく思っていたので、今はほっとしています。
一昨年、世界に挑戦するのを諦めました。年齢が上がると職場での責任も重くなり、出場が難しくなったからです。今、公立小学校の教務主幹をしていて、一週間も職場を空けるなんてありえない状況。しかし去年の夏、どうしても再挑戦したくなり、無理を承知で管理職にお願いし、9月にOKが出たときは本当に嬉しかったです。マンチェスターで開催されるのは今年が最後。一日一日を惜しむ大会となりました。
2日間で体調を整え、5日に走る。公式練習に出られなかった私は、毎朝その日のレースの1時間半前にはバンクに着いて、1時間のトレーニング時間を有効に使いました。今年は過去最大の人数で、女性98名、男性456名がエントリ-。人数が多すぎて自分の練習にならないからと、近くのジムを借りていた選手もいるほどでした。混んだ250mバンクで走るのは、正直怖いです。せっかく来たのに落車に巻き込まれる危険もあります。
しかし、ここでカツリーズサイクル&デザインの成田加津利さんがデザインして下さったジャージが助けてくれました。白をベースにした日本らしい配色に、国旗。そして腕や腿にある世界チャンプの証、アルカンシェル。どこに行っても美しいと言われました。トラックで何本かスプリントをかけたのですが、かなり目立ったのか、後で選手がブースに来て走りを褒めてくれました。どんなに自信になったことか。堂々と練習できました。日本一のデザイナーさんが私のために作ってくれたジャージ、それを着て走れる喜びが支えになっていました。
また私はイギリスチームのブースに入れてもらっていて、連日誰かがメダルを獲るので活気に満ちていました。それも良かったと思います。
そして迎えた500mT.T.。私は最終組のバック側でした。通常ホーム側の選手の方が速いのですが「ディフェンディングチャンピオン」と放送が流れ、「行ける!」と思いました。敬意を表してのホームスタート。きっと私が一番速い!38秒台で走る55歳の女性は人類初!(と自分を力いっぱい持ち上げる)
落ち着いて、いつものようにカウントダウンしてスタート。第一コーナーでスピードを上げていきます。第三コーナーまでに何とかトップスピードに乗せたのですが、ここが臆病な私の悲しいところ。ブルーレを踏んでしまうのが怖くて、思い切り自転車を倒し込めませんでした。それでもジャンからは、ペダルを踏み倒していく。今、記憶が飛んでいてどう走ったか思い出せません。後でゴール前の写真を見たら、鬼の形相でした……。
電光掲示板を仰ぐと、バック側に1の数字。思わずやった!とガッツポーズをしてしまいました。リザルトは39秒893。2位は40秒949でした。ワールドレコードが出なかったのは残念でしたが、金メダルを獲れたこと、それが全てでした。
実は私は前の晩までギアの選択に迷っていました。マンチェスターのバンクは軽いので、一枚重い51-15Tをつけて来ました。しかし実際に走ってみて、ゼロ発進がかなり重いと感じました。前輪ディスクでこのギアは試したことがない。そして38秒台は軽いギアで出した。これらの状況を、佐藤一朗コーチに相談しました。佐藤コーチは私が日本マスターズ直前に五十肩で難儀していたとき、奇跡の針治療で走れるまでに回復させてくれた方です。
深夜だったのもかかわらず、速攻でメールが返ってきました。「選手は本能的に状況判断をします」と。そして明快な返答。「答えは、50-15Tです」それに続く理由もストンと胸に落ちました。もう迷いは無くなりました。
私は当日も早朝からバンクに入り、ギアを交換してゼロ発進の練習をしました。良い手応えをつかめたので落ち着いてスタートできたのです。現地でいつも世話をしてくれるYumi Parkerさんも助けてくれました。オフィシャルのメカニック、Dougさんに練習用ホイールを借りてくれたり、スプリントのホルダーを頼んでくれたりしました。独りの闘いとは言っても、たくさんの方にお世話になり、ご指導を頂き、手にすることができた金メダルでした。
表彰台の一番高いところで聴く君が代は、気持ちのしん、とするものでした。
私はどうしてもここへ来たかった。昨年夏に父を亡くしました。私の中学生時代からスポーツを応援してくれた父でした。パラサイクリングのパイロットとしてスイスへ行く前、末期の癌で自宅へ戻っていた父に、日本代表ジャージを見せに帰りました。一生懸命話しかけるのですが、ただ目を動かすだけで、父はもう何も喋れなくなっていました。そして一週間後、成田を発つ前日に息を引き取りました。私は葬儀に出られませんでした。日の丸の付いたジャージを着るということは、こういうことなのだと思い知りました。
今度は私自身で、美しい虹色のジャージを獲る。そして父に見せたい。さよならも言えなかった娘ができることは、そのくらいしか思いつきません。その気持ちのまま、黙々と走り抜いた一年でした。願いが叶い、表彰台に立ち、改めて父に感謝しました。困ったときは、必ず誰かが助けてくれた。大きな事故や病気もしなかった。父が私を守ってくれたのだと思います。
このたった数十センチの段差、一番高い表彰台へ上がるのに9年もかかってしまいました。走った距離は20万キロ。約地球5周。その間に、たくさんの友達ができました。私を世界の舞台のトップへ押し上げて下さった全ての方々に、心からお礼を申し上げます。有難うございました。
ビデオ(500mT.Tの和地恵美の登場シーンは1時間2分20秒~1時間5分00秒 表彰式は1時間33分30秒~1時間37分00秒)
text:Emi.Wachi
photo:Dave Urquhart,Peter Lee
和地が今までに手にしたメダルは今回を含め通算で金3個、銀6個、銅5個。金は2007年の500mT.T.以来、9年ぶりの獲得となる。本人によるレポートでお伝えする。
皆さん、こんにちは。マスターズの和地恵美です。いつも温かな応援を有難うございます。9年ぶりに、ようやく金メダルを獲得しました。なかなかご期待に応えられず、申し訳なく思っていたので、今はほっとしています。
一昨年、世界に挑戦するのを諦めました。年齢が上がると職場での責任も重くなり、出場が難しくなったからです。今、公立小学校の教務主幹をしていて、一週間も職場を空けるなんてありえない状況。しかし去年の夏、どうしても再挑戦したくなり、無理を承知で管理職にお願いし、9月にOKが出たときは本当に嬉しかったです。マンチェスターで開催されるのは今年が最後。一日一日を惜しむ大会となりました。
2日間で体調を整え、5日に走る。公式練習に出られなかった私は、毎朝その日のレースの1時間半前にはバンクに着いて、1時間のトレーニング時間を有効に使いました。今年は過去最大の人数で、女性98名、男性456名がエントリ-。人数が多すぎて自分の練習にならないからと、近くのジムを借りていた選手もいるほどでした。混んだ250mバンクで走るのは、正直怖いです。せっかく来たのに落車に巻き込まれる危険もあります。
しかし、ここでカツリーズサイクル&デザインの成田加津利さんがデザインして下さったジャージが助けてくれました。白をベースにした日本らしい配色に、国旗。そして腕や腿にある世界チャンプの証、アルカンシェル。どこに行っても美しいと言われました。トラックで何本かスプリントをかけたのですが、かなり目立ったのか、後で選手がブースに来て走りを褒めてくれました。どんなに自信になったことか。堂々と練習できました。日本一のデザイナーさんが私のために作ってくれたジャージ、それを着て走れる喜びが支えになっていました。
また私はイギリスチームのブースに入れてもらっていて、連日誰かがメダルを獲るので活気に満ちていました。それも良かったと思います。
そして迎えた500mT.T.。私は最終組のバック側でした。通常ホーム側の選手の方が速いのですが「ディフェンディングチャンピオン」と放送が流れ、「行ける!」と思いました。敬意を表してのホームスタート。きっと私が一番速い!38秒台で走る55歳の女性は人類初!(と自分を力いっぱい持ち上げる)
落ち着いて、いつものようにカウントダウンしてスタート。第一コーナーでスピードを上げていきます。第三コーナーまでに何とかトップスピードに乗せたのですが、ここが臆病な私の悲しいところ。ブルーレを踏んでしまうのが怖くて、思い切り自転車を倒し込めませんでした。それでもジャンからは、ペダルを踏み倒していく。今、記憶が飛んでいてどう走ったか思い出せません。後でゴール前の写真を見たら、鬼の形相でした……。
電光掲示板を仰ぐと、バック側に1の数字。思わずやった!とガッツポーズをしてしまいました。リザルトは39秒893。2位は40秒949でした。ワールドレコードが出なかったのは残念でしたが、金メダルを獲れたこと、それが全てでした。
実は私は前の晩までギアの選択に迷っていました。マンチェスターのバンクは軽いので、一枚重い51-15Tをつけて来ました。しかし実際に走ってみて、ゼロ発進がかなり重いと感じました。前輪ディスクでこのギアは試したことがない。そして38秒台は軽いギアで出した。これらの状況を、佐藤一朗コーチに相談しました。佐藤コーチは私が日本マスターズ直前に五十肩で難儀していたとき、奇跡の針治療で走れるまでに回復させてくれた方です。
深夜だったのもかかわらず、速攻でメールが返ってきました。「選手は本能的に状況判断をします」と。そして明快な返答。「答えは、50-15Tです」それに続く理由もストンと胸に落ちました。もう迷いは無くなりました。
私は当日も早朝からバンクに入り、ギアを交換してゼロ発進の練習をしました。良い手応えをつかめたので落ち着いてスタートできたのです。現地でいつも世話をしてくれるYumi Parkerさんも助けてくれました。オフィシャルのメカニック、Dougさんに練習用ホイールを借りてくれたり、スプリントのホルダーを頼んでくれたりしました。独りの闘いとは言っても、たくさんの方にお世話になり、ご指導を頂き、手にすることができた金メダルでした。
表彰台の一番高いところで聴く君が代は、気持ちのしん、とするものでした。
私はどうしてもここへ来たかった。昨年夏に父を亡くしました。私の中学生時代からスポーツを応援してくれた父でした。パラサイクリングのパイロットとしてスイスへ行く前、末期の癌で自宅へ戻っていた父に、日本代表ジャージを見せに帰りました。一生懸命話しかけるのですが、ただ目を動かすだけで、父はもう何も喋れなくなっていました。そして一週間後、成田を発つ前日に息を引き取りました。私は葬儀に出られませんでした。日の丸の付いたジャージを着るということは、こういうことなのだと思い知りました。
今度は私自身で、美しい虹色のジャージを獲る。そして父に見せたい。さよならも言えなかった娘ができることは、そのくらいしか思いつきません。その気持ちのまま、黙々と走り抜いた一年でした。願いが叶い、表彰台に立ち、改めて父に感謝しました。困ったときは、必ず誰かが助けてくれた。大きな事故や病気もしなかった。父が私を守ってくれたのだと思います。
このたった数十センチの段差、一番高い表彰台へ上がるのに9年もかかってしまいました。走った距離は20万キロ。約地球5周。その間に、たくさんの友達ができました。私を世界の舞台のトップへ押し上げて下さった全ての方々に、心からお礼を申し上げます。有難うございました。
ビデオ(500mT.Tの和地恵美の登場シーンは1時間2分20秒~1時間5分00秒 表彰式は1時間33分30秒~1時間37分00秒)
text:Emi.Wachi
photo:Dave Urquhart,Peter Lee
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