ツール・ド・東北やツール・ド・三陸の開催が迫り、東北地方への思いを新たにしているサイクリストも多いことだろう。今回は訪問の前に、被災地支援ボランティアツアーに参加して現地で活動して知った被災地の現況をレポートしたい。



11月3日に石巻〜南三陸町にかけて行われる東日本大震災復興支援のサイクリングイベント、「ツール・ド・東北」に向けて、シクロワイアードでは都内の旅行会社に勤務するツアーコンダクター佐藤真理さんが、グランフォンドに向けて挑戦中であることは、前回記事でお伝えしている通り。今回は一連の企画を担当するレポーターの福島治男が、夏休みに催行された旅行会社の復興支援ボランティアツアーに参加し、ツアー参加者としての視点から、現在の”復興地”の現状をお伝えします。

なおこの記事には自転車は出てこず、スポーツサイクリングとは関連する内容ではないことをはじめにお伝えしておきます。そのうえで、ツール・ド・三陸、東北への参加予定の有無に関わらず、震災復興支援に関心のある方にご一読頂けましたら幸いです。

旧北上川が流れる石巻市の風景旧北上川が流れる石巻市の風景 浜松から被災地へ、3泊4日のボランティアツアー

今夏参加したツアーは、旅行会社トップツアー浜松支店による「東日本大震災復興支援ボランティアツアー」。あの年の夏に第1次隊が出発してから、今回で45次隊となる。

静岡県浜松市を出発したバスは途中、静岡駅、新東名 駿河湾沼津S.A、そして新宿駅で参加者を乗せて、初日の宿泊地である仙台へと向かう。コンダクターはツアー添乗とプライベート含めて震災以降40回以上被災地を訪れている藤沼剛さん。

移動中にもその豊富なボランティア経験から、震災時や復興状況に関する情報を提供して下さる。今回は夏休み中ということもあり、中学生とその親御さん、大学生、社会人、そして仕事をリタイアされた方、様々な参加者全員たち。

被災地に対し、「何かをしたい」という志は全員に共通するものだ。藤沼さんからの話に皆が聞き入った。とくに今回は「これまで被災地に行ってみたかったが、なかなかその勇気が出せず、今回の訪問が初めて」という参加者の方が多くを占めた。こんな参加者たちが、バスで移動しながら自然と一つのチームになっていくのは、この復興支援ボランティアツアーならではのものである。

日和山公園より旧北上川を望む日和山公園より旧北上川を望む 石巻市での清掃活動、南三陸町、そして気仙沼へ

ツアー二日目は仙台からまず石巻へ。午前中は石巻市内でライオンズクラブが運営しているボランティア支援施設での軽作業を行った。作業内容は全国から届いた支援物資の整理や、施設周辺の草刈やゴミ拾いなど。おそらく一般の方がイメージされる災害ボランティア活動とはちょっと違う、普通の地域のボランティア作業と変わらないものだ。しかしそんな作業すらままならないのが被災地の実情だ。

震災時には津波が押し寄せ、元は縫製工場であったこの施設周辺も、現在はすっかり普通の住宅地に見える。しかしその多くの一階部分は津波で浸水し、リフォームされた住宅がほとんどである。

午後は視察しながら気仙沼まで移動した。まずは石巻市内を一望できる日和山公園へ向かう。穏やかに見える旧北上川も、上流40kmほどまで津波が遡上したと言われている。海に目を向けると、私が訪れた1年前に比べて明らかに”がれきの山”は少なくなっていた。そしてかつては住宅地であった地域は、一面を雑草で覆われたままであった。

日和山を徒歩で下り、門脇中学校、そして「がんばろう石巻」を巡る。私にとっては震災以降3回目の訪問だ。毎回このポイントだけは変化しているものの、周辺は更地(さらち)のままであることに変わりなはい。

多くの祈りの気持ちが込められた「がんばろう石巻」多くの祈りの気持ちが込められた「がんばろう石巻」 石巻市の沿岸部。瓦礫の山は小さくなっていた石巻市の沿岸部。瓦礫の山は小さくなっていた


「がんばろう石巻」を後にし、バスは大川小学校へと向かう。この地での悲劇については様々な論争があり、ここでのコメントは控えさせて頂く。ただし一つだけ。この記事をお読み頂いている読者の方よりもはるかに年下の小学生たちが、震災直後に恐怖に怯え、そして命を失った場所であることだけ書き添えておきます。

2年半前までは学校であったことを想像できない2年半前までは学校であったことを想像できない ツアー参加者も慰霊碑に手を合わせるツアー参加者も慰霊碑に手を合わせる


「ツール・ド・東北」のルートでもある沿岸部を北上しながら、バスは南三陸町へと向かう。ここはグランフォンドの折り返し地点になる。沿岸部の道路はその地形に合わせて細かな起伏があり、坂道を下った先の橋の多くは、震災後に新たに作られたもの。震災直後の特急工事のためか、その継ぎ目は段差がやや大きく、大型の観光バスでもその段差が伝わってくる。サイクリングに参加される方は、スピードは控えめにして頂くことをお勧めしたい。

被災地を巡るサイクリストの姿を見つけた被災地を巡るサイクリストの姿を見つけた
南三陸町の防災庁舎。この屋上まで津波に飲まれた南三陸町の防災庁舎。この屋上まで津波に飲まれた 南三陸町で立ち寄ったのが防災総合庁舎だ。多くの職員が命を落とし、そして多数の貴重な命を救うために最期まで住民に非難を呼びかけ続けた、挙式を目前に控えた遠藤未希さんが24年の生涯を終えられた場所である。

助かったわずかな職員たちは、この建物屋上の手すりやアンテナにしがみついて津波に耐えたとのこと。その様子は現地に立っても、なかなか想像することができない。

さらにツアーは本日の宿泊地である気仙沼へ移動する。ちょうど直前に、市街地に打ち上げられた大型漁船「共徳丸」の解体が、地元の住民投票を経て決まった。今回掲載の向日葵との姿を含めて、これが見納めとなる。




震災直後の実体験 気仙沼プラザホテル支配人・堺さんから聞いた気仙沼の現状

解体が決まった共徳丸解体が決まった共徳丸 一行が宿泊したのは、気仙沼湾を望む高台にある気仙沼プラザホテル。夕食は気仙沼の豊かな海の幸を頂きながら、このホテル支配人である堺さんから、震災当時の様子とそこから得た貴重な教訓をお話頂いた。その一部を堺さんの言葉でご紹介しよう。

震災から2年と5か月が経ちました。皆さん被災地を巡られていかがだったでしょうか? 私は多くのお客様から『テレビで観た様子とは全く違う、もっと復興しているものだと思い込んでいた』というお声をたくさん頂いています。いまだに重機が活躍している状況ですが、それらは建物を建てているものよりも解体しているほうが多い状況です。

ここに生活している私たちですら、何が復興のスタートで、そのゴールなのかは、正直よく分かりません。しかしそのまま2年と5か月が経ちました。被災地の状況は、時とともに伝わらなくなっています。震災当時のお話をさせて頂きます。本日皆さんの眼で観たこと、耳で聴いたこと、そして感じたことを念頭に置いて、聴いて頂けたら。

気仙沼は震度6弱、宮城県内では最大震度7の揺れが長時間続きました。そしてその約40分後に津波が押し寄せてきました。その高さはホテル周辺で4m、気仙沼湾では最大10m、気仙沼市内では最大21m。ちょうど7階建てのビルの高さになるそうです。なぜ湾内の津波は、比較的小さかったのか? それは大島という全長22km、人口3,000人の島が津波を防いでくれました。日本三景の一つである松島も、多くの島々が津波を防いでくれました。地形によって、津波の高さは様々ということが分かるかと思います。

震災後の夕方には火災が発生しました。市内の火災が湾内へと広がったのです。それは23トンの石油タンクが倒れて油が流出して、気仙沼湾は真っ黒になったと言います。津波はその晩に7回押し寄せました。そして火災が一挙に広がりました。気仙沼での死者は1,040名、そして240名の方々が未だに行方不明です。その身内の方の中には気持ちの整理がつかず、死亡届を出せていない方もいらっしゃいます。私の知人にも、そのように苦労されている方がいます。

共徳丸の横を、JRの代役を務めるBRT(バス高速輸送システム)が通過する共徳丸の横を、JRの代役を務めるBRT(バス高速輸送システム)が通過する 私たちは昔から、”津波が来たら高い所へ逃げる”という意識を持っていました。祖父や祖母からも言い伝えられており、過去にも津波が押し寄せてきた事実があります。それにもかかわらず今回これほどの多くの方が被害に遇われたのには、4つの要因があります。

まずひとつ目は「油断」。どうせ津波は、我が家までは来ないだろう、という油断です。この震災の1年前にチリ地震津波がありました。ですが養殖関係の施設が被害を受けただけで、人命や建物の被害はありませんでした。またあの日の3日前にも、大きな地震がありました。この時にも津波警報が出て皆さん避難しましたが、大した津波は押し寄せてきませんでした。ですから「今回も大丈夫だろう」という油断に繋がったのです。

2つ目の要因は「火災」です。津波を逃れられても、火災の被害に逢われた方も多くいらっしゃいます。

3つ目は「停電」。町中の信号機も止まりました。ですが皆さん、車で避難しようとしました。車は大切な財産ですから流されたくないですよね。それに足腰が不自由な年配の方もいらっしゃいます。信号が止まった交差点は大渋滞。そこへ津波が一気に押し寄せてきました。

また地域の高齢化問題も潜んでいます。おじいちゃん、おばあちゃんが自宅で、お孫さんと一緒にいました。働いているお父さんやお母さんは、職場から海に近い自宅へ向かいました。おじいちゃん、おばあちゃんも『お父さん、お母さんがすぐ迎えに来るから』」と、自宅から動きませんでした。

”津波てんでんこ”という言葉をご存知でしょうか?「てんでんこ」とは「各自各々に」という意味です。津波が来たらまず各自が逃げることで、一家全滅を防ぐ。三陸地方に昔から言い伝えられている教訓です。

仮設店舗から新たな生活がスタートしている仮設店舗から新たな生活がスタートしている 4つ目の要因は「人間の心理」。これは人間の中に「自分で記録を残したい」という心理が働くそうです。多くの方が押し寄せてくる津波をご自身のカメラやビデオで記録しようとして、逃げ遅れてしまいました。
以上の4つが、気仙沼の被害が大きかった要因です。

震災当日、私は自宅のある大島におりました。地震では自宅に被害は無く、一緒にいた両親、そして学校から帰ってきた子供たちの無事も、すぐに確認できました。なおこの学校からの帰宅ですが、大島では大丈夫でしたが、各地で問題になっています。地震が起きた時に学校は、生徒たちを帰宅させるべきか?帰宅させたことで、海に近い自宅へ向かった生徒さんもいらっしゃるからです。

私は大島の消防団に入っておりました。震災直後はまず漁港の水門を閉めに行きました。とても怖かったです。それは子供の頃に聞いた話、『津波が来る前に海は沖へと引く』。人間は強欲ですね。そこで取り残された魚やウニを捕りに行ったそうです。そして津波に飲まれた。こんな話を聞いていたので、これまで見たこともない大きく広がった海の底を見て、一刻も早く逃げ出したいと思いました。そして高台へ逃げた直後に津波が押し寄せてきました。その光景を見て、この世の終わりだな、と感じました。

その後は救助活動に加わりました。夕方になって、ホテルと気仙沼の市場で働いている妻とメールで連絡が取れて、気持ちが落ち着きました。電話よりもメールのほうが通じました。そしてメールは携帯電話の電池の節約にもなります。

ホテルに隣接する復興屋台村「気仙沼横丁」ホテルに隣接する復興屋台村「気仙沼横丁」 大島にも津波が押し寄せました。山火事も発生しました。鎮火は4日も5日も経ってからです。そしてその間に、これは思い出すのも辛いのですが、海岸に打ち上げられた方の搬送作業にも追われました。電気も水もない状況です。電気は昼間は明るいので何とかなりましたが、一番困ったのは水です。まず井戸水を考えましたが、本当に飲めるのか? 分かりませんでした。

そこで学校のプールの水に目を向けました。二日ほど経ってから自衛隊が、ろ過装置を持ってきてくれました。動力源は無いので手動式です。水は透明になりましたが臭いはありました。これを飲料水にしました。井戸から生活用水を汲んで、山へ行って焚き木を取ってくる。そんな状態で、二日に一度くらい、身体を拭いた程度でした。昔の人の知恵で、何とか生活しました。水道と電気が復旧したのは、2か月後でした。

1週間後に私は、小さな船に乗ってホテルへ来ることができました。そして港で偶然、妻と再会できました。二日目からは携帯も通じなくなっておりました。お互いに「生きていて良かったね。」と声を掛け合いました。そして今では妻を、より大切にするようになりました。

朝日を浴びる気仙沼湾朝日を浴びる気仙沼湾 ホテルには家を流された従業員もおりました。営業再会は5月でした。まずは復興作業、捜索活動の方たちを受け入れました。全65部屋では足りず、この宴会場にも100名の方に寝泊まりして頂きました。その状態が1年ほど続き、ようやく一般の方を受け入れられるようになりました。

被災地ではまだまだ人の力が必要です。気仙沼では地盤沈下が一番の課題です。平均70cmほど沈下していて、満潮になると海の近くは浸水します。道路は通行止めになります。これはかさ上げが必要です。かさ上げができなければ、住宅や工場が建てられません。当然生活はできません。

未だに8,000人の方が仮設住宅暮らしです。地盤をかさ上げして家が建てられるのは、これから2、3年後でしょうか? 仮設住宅もそろそろ雨漏りや基礎が弱ってきており、先が全く見えません。

そして海岸には防潮堤が建てられようとしています。ホテル周辺は5m、中には15mが予定されているところもあります。これでは海が全く見えなくなってしまいます。私ども観光業、そして水産業で生活している者にとっては大打撃です。この防潮堤建設は国と県が決めた事業です。「コンクリートの壁を作る前に、住宅を作ってほしい」という声もあります。

このような状況ですが、気仙沼はカツオの水揚げは日本一、養殖も復興に向かっております。冒頭にお話した通り、皆さんご自身の眼て見て、耳で聴いて、そして感じたことを、ご自宅に戻られてから周囲の方にお伝え頂けたら幸いです。そしてまた復興した気仙沼へぜひ遊びにいらして下さい。(気仙沼プラザホテル・堺支配人)



元気を取り戻しつつある気仙沼漁港

気仙沼泊の早朝に、ホテルより気仙沼漁港ガイドをして頂いた。かさ上げ工事が着手した岸壁、そこに戻ってきた漁船、そして水揚げされた貴重な海の幸とそこで働く人たちの姿。それは何よりも美しい光景だった。

漁船が帰ってきた気仙沼漁港漁船が帰ってきた気仙沼漁港 市場で働く人々 水揚げされた海の幸市場で働く人々 水揚げされた海の幸



陸前高田での捜索活動 〜 時間との戦い 〜

ツアー3日目は陸前高田へ移動した。私が5月に訪れた時にはやぐらに支えられていた”奇跡の一本松”は完全に復元され、駐車場までの舗装路も整備されていた。しかしその周辺はかつては市街地であったはずの、広大な更地が広がったままである。

歩道が整備された「奇跡の一本松」歩道が整備された「奇跡の一本松」
「陸前高田市復興サポートステーション」へ立ち寄り、本日の作業の依頼を受けて、活動のための資機材を借用した。今回の作業は側溝に詰まったままになっている土砂の中から、この地で生活されていた方々の”生活の跡”を探し出すこと。つまりご遺品やご遺骨の捜索だ。

復興サポートステーションには活動のための資機材が用意されている復興サポートステーションには活動のための資機材が用意されている 草刈と側溝の掘り出し作業。完成したチームワークで作業は進む草刈と側溝の掘り出し作業。完成したチームワークで作業は進む


震災時から詰まったままの側溝には、土砂が固く詰まっている。子供や女性たちが周囲の草刈をして、そこに男性参加者が、側溝から掘り出した土砂を積み上げる。そしてその中から、生活の跡を丹念に探し出すという、労力だけでなくその責任の重さも感じる作業である。

掘り出された生活の跡掘り出された生活の跡 ここでの移動手段として自転車が活躍しているここでの移動手段として自転車が活躍している


ツアー3日目ですっかりと完成したチーム。予想を上回るペースで作業が進む。もちろん炎天下での作業だ。添乗員の藤沼さんの適切な号令で、定期的な休憩や水分補給が行われ、ボランティア活動初心者でも無事に作業を終えた。そしてお名前の入ったカードや、ご遺骨らしきものを見つけ出すことが出来た。これはDNA鑑定を経て結果次第で、ご遺族へと伝えられることになる。

ハイペースで進んだ作業とはいえ、広大な更地からすれば今回の捜索はほんのわずか。まだ掘り起こされていない側溝は多く残されたままである。そしてこの地域はもうすぐ、かさ上げ工事が始まる。

丹念に土砂をかき分けて遺品や遺骨を探す丹念に土砂をかき分けて遺品や遺骨を探す 作業を終えて。復興ステーションのスタッフの方の温かいお見送りを受ける作業を終えて。復興ステーションのスタッフの方の温かいお見送りを受ける


最終日 閖上の元気と、伝えるべき記憶

ツアー最終日は名取市閖上(ゆりあげ)の朝市へ。地元の特産品のお店が並び、賑わいを見せる。日系ブラジル人のサンバダンスなども盛り上げる。さらに本ツアーの翌日に浜松を出発したトップツアー46次隊のメンバーが、このイベントをお手伝いした。静岡県の磐田農業高校の生徒たちが、自らが作った漬物の販売や、他のツアー参加者たちも射的やヨーヨー釣りの店を出した。収益は支援金として全額寄付される。このような活動も貴重な支援活動になるのだ。

日系ブラジル人のサンバダンスで盛り上がる閖上の朝市日系ブラジル人のサンバダンスで盛り上がる閖上の朝市 トップツアー46次隊に参加の高校生が自ら作った漬物を販売するトップツアー46次隊に参加の高校生が自ら作った漬物を販売する


45次隊はその後最後の訪問地、閖上中学校へと向かう。この地域も大きな被害を受けた。瓦礫の撤去などは比較的早く進んだものの、その後の都市再生計画がまとまらず、足踏み状態だという。当然住民の方たちは、先の見えない仮設住宅生活を強いられている。

45次隊、46次隊を支えた藤沼さん(左)とトップツアーのスタッフの皆さん45次隊、46次隊を支えた藤沼さん(左)とトップツアーのスタッフの皆さん 閖上中学校に併設された「閖上の記憶」閖上中学校に併設された「閖上の記憶」


また閖上中学校の入り口には「閖上の記憶」という、今回の悲劇を伝える施設ができており、この地で被災した方たちが語り部となり、震災当時の様子、そしてそこから得た貴重な経験をお話下さる。その一言一言に、私たちに貴重なメッセージを伝えたいという強い想いと、その言葉の重さを感じる。

「今までは理系の方から将来の地震予測の話だけを聞いてきました。これからは過去の文系の人たちに学ぶべきです。72歳の私も祖父まで遡っても閖上に地震で津波が来たという話は聞いていなかったのですが、過去を千年遡ると、この地域は4回津波に襲われていました。過去に学ぶこと、そして今回の経験を語り継ぐことが何よりも大切です」という言葉が重かった。

被災者自らが語り部となり、貴重な体験と教訓をお伝え下さる被災者自らが語り部となり、貴重な体験と教訓をお伝え下さる 高台から見れば、海はすぐ目の前だ高台から見れば、海はすぐ目の前だ




ボランティアツアーを終えて

「閖上の記憶」を出発し、ツアーは帰路へ。バスの中では参加者一人一人が、今回のツアーで感じたことを述べていく。各人がそれぞれの立場で感じたことを口にする。「まだ子供だけれども、自分でできることをやっていきたい」という中学生、「今後の勉学、就職選びに活かしたい」という大学生、「就職できたことが、とても幸せなことだと感じた。この想いを忘れずに仕事をしていきたい」と語った新社会人。そして誰もが口にしたのが「周囲のみんなに伝えたい」これが誰もに共通した言葉であった。

ここで全ての参加者の話を聞き入った添乗員の藤沼さん。「皆さんが持った”伝えたい”という想い。でも、なかなか上手く伝わらないものなんです。なぜならば皆さんは被災地の現状を知りましたが、周囲は現状を知らない人たちばかりです。そのことを念頭に入れて、ぜひ今回の体験を周囲にお伝えください。」

閖上を襲った津波の様子を見る閖上を襲った津波の様子を見る このツアーの終わりに参加者一人一人に感想を述べてもらうのは、ツアーの添乗を積み重ねる中で藤沼さんが、参加者への精神面でのケアとして始められたとのこと。少し専門的な話になってしまうが、精神的に強い衝撃を受けたことによる精神疾患(PTSD :心的外傷後ストレス障害)に苦しむ被災者が、数多くいらっしゃるとのこと。ツアー参加者がこれに近い状態に陥ることへのケアとして、「カタルシス療法」という、その辛いストレスの体験を周囲に口にすることで、吐き出させるという治療法を応用したものとのこと。

そして「閖上の記憶」で、現地の被災者が語り部となっている活動も、医療支援団体のサポートで行われているという。被災地には様々な課題、そして様々な支援活動がある。また今回お伝えした内容が、被災地の全てをお伝えしたものではないことも、付け加えさせて頂く。

「課題解決エンジン」「爆速」 〜Yahoo JAPAN 石巻復興ベース訪問

ヤフージャパン石巻復興ベースのスタッフ 長谷川さん(左)と鈴木さんヤフージャパン石巻復興ベースのスタッフ 長谷川さん(左)と鈴木さん 今回のツアー期間内に少しの”外出時間”を頂いた私は、「ツール・ド・東北」の主催者であるヤフー ジャパンの石巻復興ベースを訪問した。同じく大会の共催者である、河北新報のビルの1階にオフィスを構える。今回の震災に対して、ヤフー ジャパンならではの復興支援活動のビジョンとして掲げられているのが「課題解決エンジン」だ。

課題がある地で、課題を解くための原動力となることを目指しているという。そしてその行動を「爆速」で。
スタッフの長谷川さん、鈴木さんより「ツール・ド・東北では、さまざまなオプション企画も用意しています。ぜひこちらにもご参加下さい。」とのメッセージを頂いた。詳細は大会公式ページをご覧下さい。

最後に本記事の取材にご協力頂いた皆様、スポーツサイクリング専門サイトにも関わらず、被災地情報のみの本記事をお読み頂いた読者の皆様に感謝いたします。シクロワイアードでは「ツール・ド・東北」などを通じて、被災地からのメッセージを皆様にお伝えできればと思います。


text&photo:福島治男(ふじのくに 災害ボランティアコーディネーター)

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