今季、ブランド生誕130周年を記念して、ルコックスポルティフはツール・ド・フランスへのサプライを再開した。ツール・ド・フランスの主催者であるアモリ・スポル・オルガニザシオンとのパートナーシップは、2012年1月から2016年12月までの5年間。ツール・ド・フランスをはじめ、ブエルタ・ア・エスパーニャ、パリ〜ニース、パリ〜ルーベと言ったメジャーレースでのリーダージャージ公式サプライヤーとして、ルコックスポルティフは本懐を遂げる。

これからここで、その歴史を紐ときながら、ルコックとツールやサイクリングとの関係、彼らのデザインした新しいマイヨジョーヌについて、3ページに渡って紹介していこう。

LA BELLE HISTOIRE

エミール・カミュゼとその家族エミール・カミュゼとその家族 (c)le coq sportif

麗しき歴史

ルコックスポルティフは、フランスでメリヤス製品職人の代名詞としても謳われる地域である、ロミリー・シュール・セーヌに その起源を持つブランドだ。この職人の中の一人であったエミール・カミュゼは、彼のメリヤス製品とスポーツに対する両輪の情熱を組み合わせ、偉大なトリコロールブランドを創り出した。

この専門知識と行動力により、彼はスポーツウェア界でのリーダーとなり、その製品は多くのスポーツマンから優れたスポーツウェアと認められたのだ。機能素材の使用や、革新的な編み方の技術を駆使することで、ルコックスポルティフは20世紀初頭、毎日着られる「トラックスーツ」を開発し、スポーツウェアに新たな快適性を創出した。

ルコックスポルティフの真摯なまでの誠実さや情熱は、このブランドと、それを身に纏った競技者達を世界中でスポーツの頂点へと導いていった。

ヤニック・ノア(左)とジョアキム・ノアヤニック・ノア(左)とジョアキム・ノア (c)le coq sportif40年間にわたるツール・ド・フランスとの取り組み、伝説に残るサッカーワールドカップチャンピオンとなった1986年のアルゼンチン、1982年のイタリアチームへのサプライ。そして1983年のローラン・ギャロス(全仏オープン・テニス)で勝利を収めたヤニック・ノア。彼らを始めとするトップ選手からアマチュアアスリートまで、ルコックスポルティフは広く支持されてきた。

中でもヤニック・ノアは、四半世紀に渡りルコックスポルティフのパートナーとして活躍を続けており、彼の息子でありバスケットボール選手であるジョアキム・ノアも、2007年からここに加わった。

もはやブランドの象徴とも言えるヤニックは、今回のツールにも招待され、ファンとの交流を予定している。

UN PARTENARIAT HISTORIQUE LE COQ ET LE TOUR

ビキニ姿でツールのプロトンを撮影する女性ビキニ姿でツールのプロトンを撮影する女性 (c)le coq sportif

ルコックとツール そのパートナーシップ

ルコックスポルティフの歴史は、数多ある自転車レースとともにある。

ブランドにとっての象徴的な出来事のはじまりは、1951年。エミール・カミュゼが創設した会社に、ツールがジャージを注文した時、『ルコックスポルティフ』という商標を登録する必要性が明らかになったところから。これが、ルコックスポルティフの品質が競技者とツールの関係者から満場一致で支持され、約40年間に渡ってジャージを提供し続けるという、長く偉大な冒険のスタートとなった。

時は流れ、2010年、ルコックスポルティフは心の故郷、ロミリー・シュール・セーヌに戻る。数十年前にツールのジャージが作られていたその古い工場を改装し、テキスタイル専門の開発センターを開設したのだ。この物語は、ロミリーのセンターがポルトガルの提携工場と協同で2012年のリーダージャージを納品するという形で、今日も続いている。

そして2012年に至り、ルコックスポルティフは再びツールのパートナーとなり、伝統とモダニズムをスタイリッシュに組み合わせた製品の開発に、さらなる情熱を注ぐこととなったのだ。

かつてのルコックスポルティフの工場かつてのルコックスポルティフの工場 (c)le coq sportif1900年に撮影された工場内1900年に撮影された工場内 (c)le coq sportif開発センターとして改装された現在の建物開発センターとして改装された現在の建物 (c)le coq sportif

Movie - ロミリー・シュール・セーヌの工場 昔と今



DES VALEURS COMMUNES

共通の価値観

アンリ・デグランジュアンリ・デグランジュ (c)le coq sportifエミール・カミュゼエミール・カミュゼ (c)le coq sportifツール・ド・フランスが1903年に初めて開催されることになった時、その生みの親であるアンリ・デグランジュは、大都市から街まで各ステージを繋げていきながら、彼の母国・フランスの境界線を辿ってみようと考えた。

1910年になると、レースの成功に伴い、ツールはフランスの海岸線から離れて中央高地の山地の景観へと続く高山ステージを追加することに挑戦した。

険しい平原から広く開かれた高原へ、海岸から標高の高い山道まで、ツールはレースをしながらフランス各地の美しい景観とその多様性で、競技者と観客を魅了していった。

このデグランジュと同様、チームスポーツに情熱を注いでいたのがルコックスポルティフの創始者、エミール・カミュゼだ。レースディレクターとブランドのトップ、彼らに共通する夢と情熱が、ツールとルコックスポルティフを結ぶパートナーシップへのきっかけとなった。

この革命的な提携により、1951年、ルコックスポルティフはモン・ヴァントゥ(※1)を競技者と共に初登頂、翌年のラルプ・デュエズ(※2)では、初めて競技者がこの高度まで到達するのを目撃する。

1951年のツール勝者、ユーゴ・コブレ。初めてルコックのマイヨジョーヌに袖を通して総合優勝のゴールを飾った選手だ1951年のツール勝者、ユーゴ・コブレ。初めてルコックのマイヨジョーヌに袖を通して総合優勝のゴールを飾った選手だ (c)le coq sportif
山岳を行く1951年ツール・ド・フランスのプロトン山岳を行く1951年ツール・ド・フランスのプロトン (c)le coq sportifマイヨジョーヌを着て勝利の祝福を受けるユーゴ・コブレマイヨジョーヌを着て勝利の祝福を受けるユーゴ・コブレ (c)le coq sportif

ルコックスポルティフが掲げる価値のうちの一つに「ACCESSIBILITY(分かりやすさ)」がある。カミュゼは、アマチュアにもプロフェッショナルにも、製品を同じように設計しようと努めた。これは今でも永遠のコミットメントとして、ルコックスポルティフのブランド価値の中核に存在する精神だ。

これと同じように、ツール・ド・フランスは、社会に向けて分かりやすさを重要視している。観客がヒーローやマイヨジョーヌを間近で見られるフランスの道路にも、世界で200以上のチャンネル、年間40億人にも上る視聴者がいるツールのTV放送にも、その価値観は表れている。

※1:モン・ヴァントゥ ・・・ ツール・ド・フランスの中でも最高難度と評される山岳コースで、1951年にツールのコースに編成された。頂上でゴールを迎える。
※2:ラルプ・デュエズ ・・・ 1952年に初めて登場した、モン・ヴァントゥと並んで最高難度と評される山岳コース。モン・ヴァントゥと同様に、頂上ゴールが設定された。


続いてのページでは、ルコックスポルティフが育む現代のサイクリングカルチャーを紹介していく。
編集:シクロワイアード