2018/05/14(月) - 08:48
自転車と鉄道、二つを愛する「テツ店長」ことバイクプラス多摩センターの河井孝介さんの輪行サイクリング紀行。ようやく本格的なサイクリングシーズンも始まりましたが、その少し前に近場のライドを楽しんだレポートが届きました。
みなさんこんにちは!長かった冬もようやく終わって、ぼちぼち動き出そうかと張り切っているテツ店長です(笑)今回は冬場と言うこともあり、ちょっと軽めに近場の鉄道スポットを巡ってみたいと思います。
今から145年前の1872年10月14日、日本初の鉄道が新橋~横浜間で開通しました。当初29kmの路線距離から始まった日本の鉄道も、今や全国で総延長約2万7000kmと大きく鉄道網を拡げてきましたが、その歴史的第一歩が始まった"横浜"の街で、ちょっとディープな鉄道スポットを巡っていきましょう!
さて、今回の目的地"横浜"までは自宅からも距離にして30km少々と、わざわざ輪行して行くほどの距離でもないので、ひとまず往路は自走で現地に向かうことにします。せっかくなら現地まではできるだけ走りやすいコースをと思い、近くの川沿いサイクリングロードをつないで目的地をめざすことに。
ということで、まず走り始めは関東のサイクリストにはわりと有名な"境川"を下ってゆき、町田からお隣を流れる鶴見川水系の"恩田川"に乗り換え、途中から本流の"鶴見川"に合流してさらに下流を目指します。
川沿いを下っている途中で現れる電車はやっぱり気になるのでしっかりチェックしつつ、さらに電車の整備工場なども気ままに寄り道しながらのポタリングをを楽しむことおよそ1時間。新横浜までやって来たところで鶴見川とはお別れして、それから一直線に最初の目的地"東神奈川駅"までもうひとっ走り!
すると、まもなく東海道本線上にある"東神奈川駅"までやって来ました。実は、ここから海側に数百メートル離れた場所には、東海道貨物線と呼ばれる貨物専用線が並行して走っておりまして、こちらはコンテナ車やタンク車を牽いた貨物列車が頻繁に行き交っています。そして、さらにここから分岐して港に向かう一本の線路がありました。
どう見ても長い間使われていないようですが、これがかつて"瑞穂ふ頭"と東海道貨物線を結んでいた"瑞穂支線"、またの名を"瑞穂埠頭専用線"の廃線跡です。1935年に開通して以来物流を担っていましたが、戦後は瑞穂ふ頭そのものが米軍に接収されて、在日アメリカ陸軍の専用ふ頭「横浜ノースドック」となったのちは、事実上の米軍専用線となったのだそうです。
その後も2000年代初頭までは燃料輸送用の貨物列車が走っていたようですが、廃線となってもう15年以上経っているにしては、ほどほどのコンディションが保たれています。休止線扱いということで、ひょっとすると有事には復活する可能性を残しているのかも知れません。
そんな経緯もあって、こちらの"瑞穂支線"は今もフェンスで囲まれた米軍施設内にまっすぐ吸い込まれていきました。線路横にはゲートがあり、そこではいかつい警備のお兄さんがにらみを利かせていて、カメラを向けるのもはばかられたので、小心者のテツ店長はあまりゲートには近づかないようにしつつ、用事を済ませたらさっさと退散することにしました(汗)
いったん戻って、次は東海道貨物線の"東高島駅"へ。入り口の案内標識も朽ち果てつつあるこちらの駅、まあどう見ても活気はありません。現在は貨物列車の発着も無く、かろうじてトラック扱いの貨物のみを扱っている名ばかりの貨物専用駅と成り果てていますが、ここもかつて貨物輸送の主役が鉄道だった頃には、各支線への貨物を捌く拠点として活況を呈していたようです。
そんな寂れた"東高島駅"の入口から振り返ると、目の前の運河に錆びついた一本の橋梁がひっそりと横たわっていました。この橋梁がお隣の東海道本線と貨物線を結ぶ連絡線の役目を果たしていたようですが、かつてこのあたり一帯は本当に縦横無尽に線路が引かれていたようで、沿線の倉庫や市場といった物流施設には、当たり前のように引き込み線が敷かれていた鉄道黄金時代があったことが窺えます。
さて、時間はすっかりお昼を回って空腹が気になってきました。ちょうど眼と鼻の先にある"横浜市中央卸売市場"へ寄ってお昼ごはんにすることにしましょう(笑)。お昼も過ぎて市場内はもう仕事上がりの雰囲気でしたが、めざとく場内の案内図から食堂を見つけて、駐輪場に自転車を置いたら、場内にある食堂まで歩いて向かいました。
そしてやってきた食堂街ですが、これがまた昭和な雰囲気で良い感じです!どこに入ろうか一通り物色して入った一軒の食堂でしたが、さすが市場の食堂だけあって、充実の海鮮系メニューに目移りしてしまいます。が、今回もまた『限定』にやられて"カワハギのお造り定食"を注文。カワハギの肝を刺身と一緒に味わうと、これが味わい深く絶品なお味でした(笑)
すっかり満足して市場を出たところでふたたび遺構巡りに出発すると、すぐにやってきたのは"みなとみらい地区"と呼ばれる比較的新しいエリアで、海沿いには近代的でお洒落な高層建築が並ぶものの、内陸寄りはまだまだ空き地も目立つ、いかにも埋立地といった風情。でしたが、そんな中で一件の建設現場のフェンスが目に入って立ち止まってみたところ……。
そこに建設中だったのは"京浜急行電鉄"の新本社ビルでした!「鉄道に関係あれば何にでも食いつくんかい!」というツッコミが聞こえてきそうで恐縮ですが、ここが完成したあかつきには車両展示もある、京急電鉄の企業ミュージアムも併設される予定だそうで、また新たな鉄道スポットが増えるのが今から待ち遠しくてなりません(笑)
いろいろ気になってなかなか前に進まないサイクリングですが、ここからもう少し走った先の横浜市営地下鉄"高島町駅"そばには、二代目横浜駅の遺構が眠っていました。ここではマンション敷地内の一角にひっそりと旧駅舎の基礎部分が保存さていました。
これは大正4年に初代横浜駅(現桜木町駅)から移転したものの、大正12年に起こった関東大震災で駅舎が焼失してしまい、その後は現在の横浜駅の場所に再度移転することとなったため、およそ8年間しか存在しなかったので"幻の駅"などとも呼ばれているそうです。
以前から現在の横浜駅は3代目という話は聞いていましたが、まさかこうした歴史的遺構にお目にかかれるとは思いもよりませんでした(笑)さてさて、まだまだ鉄道遺構探しの旅は続きますが、お次は初代横浜駅(桜木町駅)から横浜港に向かって延びていた廃線跡巡りに行きましょう。
今や人気の観光スポットとなった『横浜赤レンガ倉庫』のある"新港ふ頭"ですが、ここは横浜港初の近代的な港湾施設として、1914年(大正14年)に開港したので"新港"と名付けられたのだそう。かつてはここがみなと横浜の玄関口だったわけで、初代横浜駅から横浜港に向かう鉄道もそれに併せて敷かれて、人と物資をせっせと運んでいた時代があったのでした。
今やすっかり垢ぬけてお洒落な街に変貌した横浜の街の真ん中に、じつはそんな鉄道黄金時代のの遺構が残されているというのも驚きで、勇んで"みなとみらい・新港地区"に足を踏み入れてみると……。
ありました!今は『汽車道』と呼ばれる、人工島と橋梁で結ばれた鉄道の跡が!!海の上に線路を敷くという、当時としてはかなり大がかりな土木事業だったと思われる軌道の遺構が、ほぼそのまま残されていました。
かつて旧横浜駅(現桜木町駅)から新港ふ頭を結んでいた、"東海道貨物線・横浜臨港線"と呼ばれるこの路線。1911年(明治44年)に開通して、国鉄が分割民営化される1987年3月31日に正式に廃止されています。
神奈川県育ちのテツ店長、1987年といえばもう18歳ですから、幼少期から青年期のあいだに何度もこの近くまでは来ていたハズで、もしかしたら現役のころの姿も見ていたかも知れないと思うとちょっと感慨深いものがありました。
自転車を押しながら汽車道を歩いてみましたが、遊歩道は複線の線路幅があって、また当時アメリカから輸入した鋼鉄製の立派なトラス橋が人工島をつないで本土とふ頭の間を鉄路で結んでいたことが分かります。
汽車道を渡って新港ふ頭までやってきましたが、線路の延びる先に"赤レンガ倉庫"がありました。平日にもかかわらず多くの人がいてさすがの人気っぷりでしたが、今回はそんな赤レンガ倉庫には目もくれず(笑)、その先にある"横浜港駅"のホームをめざして突き進みます!
そして赤レンガ倉庫から少し離れた場所に、ぽつんと佇む"横浜港駅"のプラットホームがありました。これは興味がないとちょっと何なのか分からないかも知れませんね……。
かつてここ"新港ふ頭"はサンフランシスコ行き国際航路の玄関口だったそうで、旅客船の発着する日にはボートトレインと呼ばれる旅客列車が東京駅から2往復も運転されていたというのですから、当時のここ"横浜港駅"は相当に華やかだったようです。ここで映画タイタニックのようなドラマが、きっといくつも繰り広げられていたのでしょうね(笑)
さて、ひと休みしたところでしばし鉄道遺構巡りからは離れて、以前から気になっていた施設にちょっと寄り道したいと思います。ここ"横浜港駅"の目の前には『工作船資料館』という、ちょっと怪しげな雰囲気のかまぼこ型の建物があるのですが、じつはこれが2001年12月に起こった北朝鮮不審船事件で自爆沈没した、北朝鮮の工作船を展示する施設なのです。
さっそく建物の中に入ってみると、銃撃の跡も生々しい鋼鉄製の船が置かれていました。思っていたよりずっと大きくて、全身から放たれる禍々しい雰囲気に息を呑みます。船尾が開閉式になっていて小型船が出入りできる特殊構造や、積載されていた機関砲や小銃、ロケットランチャーなど数多くの武器も、ふだんの我々の生活からは想像もできないものばかりで、全くもって穏やかではありません!
それにしても、我が国の国境を守るために、このような危険と日夜対峙している海上保安庁や自衛隊の方々の苦労には、心から頭が下がる思いを新たにしたのでした。しかしあまりの生々しさにすっかり引き込まれてしまって、ちょっと寄り道のつもりがすっかり長居してしまいました(汗)
さすが鉄道発祥の地だけあって見どころいっぱいな今回のレポート、ちょっと一回では紹介しきれないので、今回はいったんここで運転停車とさせて頂きます(笑)
横浜廃線巡りもこれからが佳境にはいりますので、近日アップの後編にも乞うご期待!
旅する人 河井孝介プロフィール
バイクプラス多摩センターの店長を務める49歳。前職で足かけ10年にわたる勤務を鉄道の無い(モノレール除く)沖縄県で過ごした反動からか、帰京後は輪行サイクリングの虜となり、現在は鉄道と自転車を組み合わせ、鉄道廃線跡や未成線など鉄道の歴史を辿るサイクリングをライフワークとする。鉄道趣味のジャンルは「乗り鉄」。旧国鉄型車両を心から愛し、ひそかにJR全線乗車にチャレンジ中。非常勤の防衛省職員である予備三等陸曹の身分も合わせ持っている。
みなさんこんにちは!長かった冬もようやく終わって、ぼちぼち動き出そうかと張り切っているテツ店長です(笑)今回は冬場と言うこともあり、ちょっと軽めに近場の鉄道スポットを巡ってみたいと思います。
今から145年前の1872年10月14日、日本初の鉄道が新橋~横浜間で開通しました。当初29kmの路線距離から始まった日本の鉄道も、今や全国で総延長約2万7000kmと大きく鉄道網を拡げてきましたが、その歴史的第一歩が始まった"横浜"の街で、ちょっとディープな鉄道スポットを巡っていきましょう!
さて、今回の目的地"横浜"までは自宅からも距離にして30km少々と、わざわざ輪行して行くほどの距離でもないので、ひとまず往路は自走で現地に向かうことにします。せっかくなら現地まではできるだけ走りやすいコースをと思い、近くの川沿いサイクリングロードをつないで目的地をめざすことに。
ということで、まず走り始めは関東のサイクリストにはわりと有名な"境川"を下ってゆき、町田からお隣を流れる鶴見川水系の"恩田川"に乗り換え、途中から本流の"鶴見川"に合流してさらに下流を目指します。
川沿いを下っている途中で現れる電車はやっぱり気になるのでしっかりチェックしつつ、さらに電車の整備工場なども気ままに寄り道しながらのポタリングをを楽しむことおよそ1時間。新横浜までやって来たところで鶴見川とはお別れして、それから一直線に最初の目的地"東神奈川駅"までもうひとっ走り!
すると、まもなく東海道本線上にある"東神奈川駅"までやって来ました。実は、ここから海側に数百メートル離れた場所には、東海道貨物線と呼ばれる貨物専用線が並行して走っておりまして、こちらはコンテナ車やタンク車を牽いた貨物列車が頻繁に行き交っています。そして、さらにここから分岐して港に向かう一本の線路がありました。
どう見ても長い間使われていないようですが、これがかつて"瑞穂ふ頭"と東海道貨物線を結んでいた"瑞穂支線"、またの名を"瑞穂埠頭専用線"の廃線跡です。1935年に開通して以来物流を担っていましたが、戦後は瑞穂ふ頭そのものが米軍に接収されて、在日アメリカ陸軍の専用ふ頭「横浜ノースドック」となったのちは、事実上の米軍専用線となったのだそうです。
その後も2000年代初頭までは燃料輸送用の貨物列車が走っていたようですが、廃線となってもう15年以上経っているにしては、ほどほどのコンディションが保たれています。休止線扱いということで、ひょっとすると有事には復活する可能性を残しているのかも知れません。
そんな経緯もあって、こちらの"瑞穂支線"は今もフェンスで囲まれた米軍施設内にまっすぐ吸い込まれていきました。線路横にはゲートがあり、そこではいかつい警備のお兄さんがにらみを利かせていて、カメラを向けるのもはばかられたので、小心者のテツ店長はあまりゲートには近づかないようにしつつ、用事を済ませたらさっさと退散することにしました(汗)
いったん戻って、次は東海道貨物線の"東高島駅"へ。入り口の案内標識も朽ち果てつつあるこちらの駅、まあどう見ても活気はありません。現在は貨物列車の発着も無く、かろうじてトラック扱いの貨物のみを扱っている名ばかりの貨物専用駅と成り果てていますが、ここもかつて貨物輸送の主役が鉄道だった頃には、各支線への貨物を捌く拠点として活況を呈していたようです。
そんな寂れた"東高島駅"の入口から振り返ると、目の前の運河に錆びついた一本の橋梁がひっそりと横たわっていました。この橋梁がお隣の東海道本線と貨物線を結ぶ連絡線の役目を果たしていたようですが、かつてこのあたり一帯は本当に縦横無尽に線路が引かれていたようで、沿線の倉庫や市場といった物流施設には、当たり前のように引き込み線が敷かれていた鉄道黄金時代があったことが窺えます。
さて、時間はすっかりお昼を回って空腹が気になってきました。ちょうど眼と鼻の先にある"横浜市中央卸売市場"へ寄ってお昼ごはんにすることにしましょう(笑)。お昼も過ぎて市場内はもう仕事上がりの雰囲気でしたが、めざとく場内の案内図から食堂を見つけて、駐輪場に自転車を置いたら、場内にある食堂まで歩いて向かいました。
そしてやってきた食堂街ですが、これがまた昭和な雰囲気で良い感じです!どこに入ろうか一通り物色して入った一軒の食堂でしたが、さすが市場の食堂だけあって、充実の海鮮系メニューに目移りしてしまいます。が、今回もまた『限定』にやられて"カワハギのお造り定食"を注文。カワハギの肝を刺身と一緒に味わうと、これが味わい深く絶品なお味でした(笑)
すっかり満足して市場を出たところでふたたび遺構巡りに出発すると、すぐにやってきたのは"みなとみらい地区"と呼ばれる比較的新しいエリアで、海沿いには近代的でお洒落な高層建築が並ぶものの、内陸寄りはまだまだ空き地も目立つ、いかにも埋立地といった風情。でしたが、そんな中で一件の建設現場のフェンスが目に入って立ち止まってみたところ……。
そこに建設中だったのは"京浜急行電鉄"の新本社ビルでした!「鉄道に関係あれば何にでも食いつくんかい!」というツッコミが聞こえてきそうで恐縮ですが、ここが完成したあかつきには車両展示もある、京急電鉄の企業ミュージアムも併設される予定だそうで、また新たな鉄道スポットが増えるのが今から待ち遠しくてなりません(笑)
いろいろ気になってなかなか前に進まないサイクリングですが、ここからもう少し走った先の横浜市営地下鉄"高島町駅"そばには、二代目横浜駅の遺構が眠っていました。ここではマンション敷地内の一角にひっそりと旧駅舎の基礎部分が保存さていました。
これは大正4年に初代横浜駅(現桜木町駅)から移転したものの、大正12年に起こった関東大震災で駅舎が焼失してしまい、その後は現在の横浜駅の場所に再度移転することとなったため、およそ8年間しか存在しなかったので"幻の駅"などとも呼ばれているそうです。
以前から現在の横浜駅は3代目という話は聞いていましたが、まさかこうした歴史的遺構にお目にかかれるとは思いもよりませんでした(笑)さてさて、まだまだ鉄道遺構探しの旅は続きますが、お次は初代横浜駅(桜木町駅)から横浜港に向かって延びていた廃線跡巡りに行きましょう。
今や人気の観光スポットとなった『横浜赤レンガ倉庫』のある"新港ふ頭"ですが、ここは横浜港初の近代的な港湾施設として、1914年(大正14年)に開港したので"新港"と名付けられたのだそう。かつてはここがみなと横浜の玄関口だったわけで、初代横浜駅から横浜港に向かう鉄道もそれに併せて敷かれて、人と物資をせっせと運んでいた時代があったのでした。
今やすっかり垢ぬけてお洒落な街に変貌した横浜の街の真ん中に、じつはそんな鉄道黄金時代のの遺構が残されているというのも驚きで、勇んで"みなとみらい・新港地区"に足を踏み入れてみると……。
ありました!今は『汽車道』と呼ばれる、人工島と橋梁で結ばれた鉄道の跡が!!海の上に線路を敷くという、当時としてはかなり大がかりな土木事業だったと思われる軌道の遺構が、ほぼそのまま残されていました。
かつて旧横浜駅(現桜木町駅)から新港ふ頭を結んでいた、"東海道貨物線・横浜臨港線"と呼ばれるこの路線。1911年(明治44年)に開通して、国鉄が分割民営化される1987年3月31日に正式に廃止されています。
神奈川県育ちのテツ店長、1987年といえばもう18歳ですから、幼少期から青年期のあいだに何度もこの近くまでは来ていたハズで、もしかしたら現役のころの姿も見ていたかも知れないと思うとちょっと感慨深いものがありました。
自転車を押しながら汽車道を歩いてみましたが、遊歩道は複線の線路幅があって、また当時アメリカから輸入した鋼鉄製の立派なトラス橋が人工島をつないで本土とふ頭の間を鉄路で結んでいたことが分かります。
汽車道を渡って新港ふ頭までやってきましたが、線路の延びる先に"赤レンガ倉庫"がありました。平日にもかかわらず多くの人がいてさすがの人気っぷりでしたが、今回はそんな赤レンガ倉庫には目もくれず(笑)、その先にある"横浜港駅"のホームをめざして突き進みます!
そして赤レンガ倉庫から少し離れた場所に、ぽつんと佇む"横浜港駅"のプラットホームがありました。これは興味がないとちょっと何なのか分からないかも知れませんね……。
かつてここ"新港ふ頭"はサンフランシスコ行き国際航路の玄関口だったそうで、旅客船の発着する日にはボートトレインと呼ばれる旅客列車が東京駅から2往復も運転されていたというのですから、当時のここ"横浜港駅"は相当に華やかだったようです。ここで映画タイタニックのようなドラマが、きっといくつも繰り広げられていたのでしょうね(笑)
さて、ひと休みしたところでしばし鉄道遺構巡りからは離れて、以前から気になっていた施設にちょっと寄り道したいと思います。ここ"横浜港駅"の目の前には『工作船資料館』という、ちょっと怪しげな雰囲気のかまぼこ型の建物があるのですが、じつはこれが2001年12月に起こった北朝鮮不審船事件で自爆沈没した、北朝鮮の工作船を展示する施設なのです。
さっそく建物の中に入ってみると、銃撃の跡も生々しい鋼鉄製の船が置かれていました。思っていたよりずっと大きくて、全身から放たれる禍々しい雰囲気に息を呑みます。船尾が開閉式になっていて小型船が出入りできる特殊構造や、積載されていた機関砲や小銃、ロケットランチャーなど数多くの武器も、ふだんの我々の生活からは想像もできないものばかりで、全くもって穏やかではありません!
それにしても、我が国の国境を守るために、このような危険と日夜対峙している海上保安庁や自衛隊の方々の苦労には、心から頭が下がる思いを新たにしたのでした。しかしあまりの生々しさにすっかり引き込まれてしまって、ちょっと寄り道のつもりがすっかり長居してしまいました(汗)
さすが鉄道発祥の地だけあって見どころいっぱいな今回のレポート、ちょっと一回では紹介しきれないので、今回はいったんここで運転停車とさせて頂きます(笑)
横浜廃線巡りもこれからが佳境にはいりますので、近日アップの後編にも乞うご期待!
旅する人 河井孝介プロフィール
バイクプラス多摩センターの店長を務める49歳。前職で足かけ10年にわたる勤務を鉄道の無い(モノレール除く)沖縄県で過ごした反動からか、帰京後は輪行サイクリングの虜となり、現在は鉄道と自転車を組み合わせ、鉄道廃線跡や未成線など鉄道の歴史を辿るサイクリングをライフワークとする。鉄道趣味のジャンルは「乗り鉄」。旧国鉄型車両を心から愛し、ひそかにJR全線乗車にチャレンジ中。非常勤の防衛省職員である予備三等陸曹の身分も合わせ持っている。
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