2013/12/11(水) - 09:08
7月にスタートした連載企画「ツール・ド・東北を目指して」。最終回となるVol.8では前回に引き続き本連載の発起人でありツール・ド・東北を実走取材したカメラマン、福島治男さんのレポートをお伝えします。被災地を自転車で走ることで見えたことや分かったこと、帰りの道中で見たフクシマの現実、そして今後のツール・ド・東北に寄せる思いとは。
震災発生、その瞬間から石巻市民22万人の命を守った「チーム石井」が大会をサポート
今回のサイクリングイベントは、交通規制などは行わず一般道を利用する。またグランフォンドは160kmの長丁場。万一のことが起こる可能性は否定できない。これをサポートして下さったのが、石巻赤十字病院の「チーム石井」の皆さん。チーム名の石井とは、石井正医師のこと。
この大会をサポートして下さった石巻赤十字病院「チーム石井」の皆さん
歌津から私たちのロードバイクを運搬してくれた、石巻赤十字病院の資機材運搬トラック
震災当時は石巻赤十字病院の医療社会事業部長をつとめつつ、宮城県から災害医療コーディネーターを委嘱された直後であった。沿岸部にあった石巻市立病院は大きな被害を受け、比較的内陸部にあった石巻赤十字病院が、石巻の医療の中心的機能を果たすことに。
震災から1年9か月で西表島の砂浜にたどり着いた歌津の郵便ポスト。歌津から西表島までは距離2400km。果たしてどんな旅をしたのか? そして災害医療コーディネーターである外科医の石井正さんが、石巻市22万人の生命を守る指揮官としてご活躍されたのは、多くの報道を通じてご存じの方もいらっしゃるかと思う。(詳しく知りたい方は先生の著書「石巻災害医療の全記録」:講談社 BLUE BACKSをお読みください。)
この「チーム石井」の皆さんが、本大会をサポートして下さるのは、何よりも心強いこと。そして実は私たちも、ロードバイクを降りた歌津の第4エイドステーションから、大会会場の石巻専修大学への自転車の輸送でお世話になった。輸送に使われたのは石巻赤十字病院のトラック。災害後にアメリカ・ユダヤ人共同配給委員会から、災害時の資機材の運搬用にと寄付されたものとのこと。世界中の方たちから支援を頂いたことを、改めて実感した。
自転車だから見えた風景、そして回収バスから見た風景
今回のコースとなった石巻から南三陸町までの沿岸部。私はツアーバスやレンタカーのドライブで何度か通過しているはずの道。しかしロードバイクで目にする光景は、全く違ったものであった。沿道からの温かい声援があったのは当然だが、景観の広がりの大きさ、海では漁業活動が再開していることを知ることができた。ただそれが震災前の状態と同じレベルであるかは、私には分からなかった。
私たちも無事に南三陸町まで到達することができた。バスの車窓より
穏やかな海に静かに漁船が浮かぶ
峠を登り切った
そしてロードバイクを降りてから大会会場へ向かう帰路。タイムアウトの時間にも関わらず、多くの道案内のスタッフの方が、まだスタッフ回収用のバスを待ち続けている。大会スタートからどれだけの長い時間、そして多くの声援を送り続けてくれたのだろう。また北上川の夕焼けは、実に穏やかで澄んだ空気を感じるものであった。
ITでつなぐ企業が、「自転車」で全国と東北をつないだ
本大会の主催は地元メディアである河北新報社と、インターネットでおなじみのヤフージャパン。河北新報社は1952年「三笠宮杯 東北一周自転車競走大会」を開催。戦後の道路復興整備、そして新聞社が自社の販売を伸ばすために自転車競技大会を主催するのは、あの「ツール・ド・フランス」や、「ジロ・デ・イタリア」などと同じ。その後も「ツール・ド・とうほく」と名前を変えて2007年までの35年間、ロードレース大会を開催していた。
神割崎キャンプ場にある第3エイドステーションに迎えられるサイクリストたち
”がんばっぺ女川”
そこにヤフージャパンの、様々な震災復興活動のひとつとして、両社共催による今回の大会が実現した。ITをベースに、さまざまな事業を展開するヤフージャパン。宮坂学社長はプロレス好きらしく、「異業種タッグ」として、さまざまなつながりで、事業を「爆速」で展開中である。
そのIT技術がベースであるヤフージャパンが、自転車という、実にシンプルな乗り物を通じて、全国各地からサイクリストを集め、東北と多くの結びつきを築いた。まさに歴史的なイベントであった。今後も大いに発展し、東北を元気にしていく大会になることを確信できた。
全員で完走者を称える
カラフルなサイクルウエアが持つ「マジック」
大会を走っているとき、道路脇で声をかけて下さった住民の方の「カラフルなウェアを見ていると、元気が出てくるのよ。」という声が心に残る。私も長くサイクルスポーツに関わってきたが、サイクルウェアの持つパワーを初めて知った。「マイヨ・マジック」は、ツール・ド・フランスの「黄色いシャツ」のもつ魔法の力だけではなかったのだ。
忘れてはならないフクシマの現実
大成功に終わった大会の翌日、帰宅のためにカーナビと帰り道の相談をすると、その答えは仙台経由ではなく、福島県相馬市を経由して東北自動車道へ乗るものであった。少し疑問を持ちつつも、最新の道路情報を考慮した上でのナビの回答。その通りにルートを辿っていく。そして予定通り相馬市内に入り、ここから山を越えて福島市内へ向かうはず。
しっかりと時を刻む腕時計。これからも時を刻み続けるだろう
しかしいっこうに山を越える気配はない。そしていつしか、ひっそりとした商店街へ。さすがに「おかしい」と感じて現在位置を確認する。そこは南相馬市であった。ルートの自動更新で、いつの間にか南相馬市へと導かれていたらしい。このままでは原発事故の影響で通行止めになっている常磐自動車道へと向かうことになってしまう。北上のためにルートを外れると、そこには私が半年前に目にした、「フクシマの現実」がそのまま広がっていた。
電車が走らない線路と駅、海岸線から2kmほど離れた場所。未だに津波で流されたクルマや船舶が「調査済」のステッカーが貼られた状態で散在している。車を降りてカメラを手に周辺を歩いていると、ちょうど私を見るかのように置かれていた一つの腕時計に出会った。時刻は狂っているものの、その秒針は力強く動き続けていた。
景色は変わっていなくとも、時は流れていることを教えられた。これがプロ野球 東北楽天イーグルスの日本一決定、そしてツール・ド・東北が大成功を収めた翌日の、「フクシマの現実」であった。
津波で押し流されたままのクルマや船舶がそのまま点在している
除染作業が続く飯館村
また南相馬市から福島市内を抜けるには、飯館村を通過する。昼過ぎなのに私には帰宅までまだ500km程の道のりが残っている。心を鬼にして、クルマは停めずに通過する。そして車窓から見えた風景には、半年前から少し変化を見ることができた。道路脇で除染作業が行われていた。そして除染物質の保管場所には「仮置き場」という、正式な看板も掲げられていた。
この企画のVol.2 特別記事でもお伝えした通り、東日本大震災という歴史的にも大きな災害から2年8か月後の東北の、一部を切り取ったに過ぎない体験記事。これが全てではありません。一人でも多くの方に、東北に関心を持ち続けて頂き、さらに実際に訪れて頂けることを希望いたします。
南相馬からクルマで約12時間後の東名高速海老名サービスエリア。多数のカラフルな夜行バスが休憩に訪れ、そして多くの人たちが夜中も移動する また今後も発展していくツール・ド・東北に、さまざまな形でご参加頂けたら幸いです。そのための企画を、今後とも河北新報さま、ヤフージャパンさまが中心となって、ご提供下さることでしょう。そして今回は宮城県の石巻市と南三陸町が舞台となったが、ツール・ド・東北が福島から青森まで、かつての東北6県を巡った「東北一周」の大会に成長することを期待したい。
道路はすでにつながっている。多くの方の、少しづつのご協力が集まりさえすれば、これは必ず実現できる。
~夢は信じる前ではなく、信じた後に実現するのです。 ~ ジョセフ・マーフィー
本企画をお読み頂いた読者の皆様、全ての関係者の皆様に、改めて感謝いたします。
photo&text:福島治男(静岡県ふじのくに災害ボランティアコーディネーター)
震災発生、その瞬間から石巻市民22万人の命を守った「チーム石井」が大会をサポート
今回のサイクリングイベントは、交通規制などは行わず一般道を利用する。またグランフォンドは160kmの長丁場。万一のことが起こる可能性は否定できない。これをサポートして下さったのが、石巻赤十字病院の「チーム石井」の皆さん。チーム名の石井とは、石井正医師のこと。
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この「チーム石井」の皆さんが、本大会をサポートして下さるのは、何よりも心強いこと。そして実は私たちも、ロードバイクを降りた歌津の第4エイドステーションから、大会会場の石巻専修大学への自転車の輸送でお世話になった。輸送に使われたのは石巻赤十字病院のトラック。災害後にアメリカ・ユダヤ人共同配給委員会から、災害時の資機材の運搬用にと寄付されたものとのこと。世界中の方たちから支援を頂いたことを、改めて実感した。
自転車だから見えた風景、そして回収バスから見た風景
今回のコースとなった石巻から南三陸町までの沿岸部。私はツアーバスやレンタカーのドライブで何度か通過しているはずの道。しかしロードバイクで目にする光景は、全く違ったものであった。沿道からの温かい声援があったのは当然だが、景観の広がりの大きさ、海では漁業活動が再開していることを知ることができた。ただそれが震災前の状態と同じレベルであるかは、私には分からなかった。
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そしてロードバイクを降りてから大会会場へ向かう帰路。タイムアウトの時間にも関わらず、多くの道案内のスタッフの方が、まだスタッフ回収用のバスを待ち続けている。大会スタートからどれだけの長い時間、そして多くの声援を送り続けてくれたのだろう。また北上川の夕焼けは、実に穏やかで澄んだ空気を感じるものであった。
ITでつなぐ企業が、「自転車」で全国と東北をつないだ
本大会の主催は地元メディアである河北新報社と、インターネットでおなじみのヤフージャパン。河北新報社は1952年「三笠宮杯 東北一周自転車競走大会」を開催。戦後の道路復興整備、そして新聞社が自社の販売を伸ばすために自転車競技大会を主催するのは、あの「ツール・ド・フランス」や、「ジロ・デ・イタリア」などと同じ。その後も「ツール・ド・とうほく」と名前を変えて2007年までの35年間、ロードレース大会を開催していた。
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そのIT技術がベースであるヤフージャパンが、自転車という、実にシンプルな乗り物を通じて、全国各地からサイクリストを集め、東北と多くの結びつきを築いた。まさに歴史的なイベントであった。今後も大いに発展し、東北を元気にしていく大会になることを確信できた。
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忘れてはならないフクシマの現実
大成功に終わった大会の翌日、帰宅のためにカーナビと帰り道の相談をすると、その答えは仙台経由ではなく、福島県相馬市を経由して東北自動車道へ乗るものであった。少し疑問を持ちつつも、最新の道路情報を考慮した上でのナビの回答。その通りにルートを辿っていく。そして予定通り相馬市内に入り、ここから山を越えて福島市内へ向かうはず。
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電車が走らない線路と駅、海岸線から2kmほど離れた場所。未だに津波で流されたクルマや船舶が「調査済」のステッカーが貼られた状態で散在している。車を降りてカメラを手に周辺を歩いていると、ちょうど私を見るかのように置かれていた一つの腕時計に出会った。時刻は狂っているものの、その秒針は力強く動き続けていた。
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この企画のVol.2 特別記事でもお伝えした通り、東日本大震災という歴史的にも大きな災害から2年8か月後の東北の、一部を切り取ったに過ぎない体験記事。これが全てではありません。一人でも多くの方に、東北に関心を持ち続けて頂き、さらに実際に訪れて頂けることを希望いたします。
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~夢は信じる前ではなく、信じた後に実現するのです。 ~ ジョセフ・マーフィー
本企画をお読み頂いた読者の皆様、全ての関係者の皆様に、改めて感謝いたします。
photo&text:福島治男(静岡県ふじのくに災害ボランティアコーディネーター)
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