2011/04/12(火) - 10:26
アシスト選手のヨハン・ファンスーメレン(ガーミン・サーヴェロ)の勝利で幕を閉じたパリ~ルーベ。しかし最も強かったのはカンチェラーラだと誰もが認める。パヴェからパヴェへと、パリ~ルーベを追った一日。
ロンドのパヴェは「難しい」 ルーベのパヴェは「痛い」
私事ながら、パリ~ルーベ当日を迎えるまでに、前週にロンド・ファン・フラーンデレン・シクロ(RVV CYCLO)、そして前日土曜にパリ~ルーベ・チャレンジ(ParisRouvaix Challenge)という2つの市民シクロスポルティフイベントをマイバイクで走った。
それぞれプロレースの半分ほどの距離で行われる(ロンドは270kmの部もあり)が、RVVシクロは140kmクラスの部でも前半のリエゾン部がカットされているだけでプロレースとほぼ同じすべてのパヴェを走ることになる。
今年新設された「パリ~ルーベ・チャレンジ」は距離が140kmで、プロレースで使われる27つのパヴェのうち15のパヴェを選んで走るというもの。どちらも一般参加が可能で、実際のパヴェを体験できる素晴らしい機会だった。(その詳細レポートは後日別記事にて)
北のクラシックとして名高い2つのパヴェレースのロンドとルーベ。2つの石畳レースのコースを体験走った感想は、それぞれにこの限られたスペースでは語り尽くせない困難はあるものの、特徴をかいつまんで言えば、ロンドのそれは「上りのパヴェ」が特長。コッペンベルグに代表される上りパヴェはテクニックが必要で、難しい。そしてコースは絶えずアップダウンが続くので、その繰り返しが肉体的な疲労を呼び、距離を重ねるほどにボディーブローのように効いてくる。
そしてパリ~ルーベのほうのコースは、前半のアプローチはフランス特有の丘のアップダウンが続く。この区間も平均時速が速ければ体力を奪うことになる。そしてパヴェのセクターが始まると、そこからのコースはまったくのフラットだが、同じパヴェでも路面の荒れようはロンドのそれとは比べものにならない。
ロンドのパヴェは生活道路であり、市民の使う道である。ルーベのパヴェは周辺の畑の農道であり、通るのはトラクターぐらいだろう。パヴェは古いまま残そうという考えで、補修はあまりされていない。状態の悪いところには土や砂が浮き、ところどころに穴や水たまりがある。その荒れ具合と長さに、星の格付けがなされているのだ。
そんなパヴェを自転車で走るのは「苦痛」であり、ロンドがテクニックが必要であるのに対し、ルーベでは痛みに耐える「精神力」も必要になってくる。
バイクのチューンナップについてもロンドより悪路対策を講じなければならない。市民イベントではチューブを4本持つことと、換えのハンドルバーテープを持つことが推奨された。プロでもバーテープ2重巻きは当然の対策。太いタイヤ、頑丈で振動吸収性に優れたリム、ホイールなどが必須の装備だ。
砂を噛んだ自転車はあちこちがきしみだし、チェーンもジャリジャリと音を立てだす。パヴェの振動でバイクは傷めつけられ、トラブルが頻発する。
ロンドがテクニックと体力の闘いだとしたら、それに苦痛に耐える精神力の闘いが加わるのがルーベだと解釈した。ざっくり言えば、ロンドの上りパヴェは「難しい」。ルーベの平らなパヴェは「痛い」だ。そして速く走ろうとするほどに痛みは増すのがつらい。
普段からマウンテンバイクのツーリングルートにもなっているパリ~ルーベのコースは、パヴェだけを走るのであればMTBのほうが断然有利だ。プロのレースでは通しの平均時速は42km。ときに時速50km/hオーバーでつなぐ舗装区間があるため、ロードバイクを選ばざるをえない。
ターフィのアドバイス「パヴェはアグレッシブに攻めろ」
パリ~ルーベチャレンジに出場したアンドレア・ターフィにアドバイスを貰った。タフィは1999年ロンドと2002年ルーベの両方を制しているイタリア人の元選手だ。「パヴェを走るアドバイスを」との問に、次のように応えてくれた。
ターフィ「パヴェを走るときはアグレッシブに攻め続けなければならない。気持ちが負けてはいけない。パヴェに対する尊敬と怒りを込めるように、重いギアを蹴り出すようにペダルを踏み続けなくてはいけない。そうすると、速く走れる瞬間が訪れる。パヴェと調和する瞬間と言ったらいいかな。ギャップの上を飛ぶように走れる瞬間がある。それを長く続けるように走るのがコツだ。パヴェに対して負けない心を持ち続ければ、パヴェが友達になってくれる」。
アドバイスにならい重いギアを無理やり回していると、「パヴェと友だちになれる瞬間」を確かに感じることができた。でも、それを続けるのは強靭な脚と心が必要だということも分かった。いったんスピードが鈍ると、バイクは情けないほどに進まなくなる。走る前から分かりきっていたことでもあるけれど。
28歳の誕生日にルーベを走るフミ「過酷なレースを前にワクワクしている」
コンピエーニュ宮殿の前が変わらないスタート地点。この日は別府史之(レディオシャック)の28歳の誕生日。「28歳の誕生日にパリルーべのようなビッグレースを走れるのは格別な思いです。過酷なレースを前にワクワクしています。楽しんで走りたい。ロンド以降2レース走って調整もバッチリです。エースにトラブルがあれば助けなければならず自分のためだけには走れませんがルーべ競技場を目指します」とフミ。インタビュー動画はこちら。
フミはロンド以降の水・木曜にシュヘルデプライスとGPピノチェラミの2レースを走っている。当初は水曜のシュヘルデプライスのみの予定が、ケガでの欠員のため木曜も走らざるを得なかったという。そのGPピノチェラミでは最終的にはリタイアしているが、途中まで100kmオーバーの逃げに乗って脚をみせている。
コンピエーニュの会場には日本人観客の姿もちらほら。マンジャスさんの選手紹介でも今日がフミの誕生日であることが知らされ、ちょっとした人気ものになっていた。
パリ~ルーベ組はシュヘルデプライスに出場するのがもっともスタンダードな傾向で、ここで走ることでアクティブリカバリーよろしくロンドの疲れを取り、調整する。カンチェラーラもフースホフトも揃って出場し、ゴールスプリントの危険を避けるためにゴール前数キロで揃って集団を離れた。スプリントでタイラー・ファラーが落車して負傷したのは、ガーミンにとっての誤算だったが。
BMCレーシングが「ガンバレ東日本」ステッカーを貼って走る
ロンドに続いてここでもCyclists Pray For Japan運動の「ガンバレ東日本ステッカー」がBMCレーシングのバイクに貼られていた。これはダンジェロ・アンティヌッチィ・NIPPOのサテライトチームであるユーラシア・フォンドリエストバイクスの欧州コーチである橋川健さん(ベルギー・コルトレイク在住)の働きかけで実現したもの。
BMCレーシングチームのGM、ジム・オショビッツ氏は橋川さんがチームモトローラの研修生として走っていた時代からの育ての親ということもあって実現したようだ。
「日本のために祈ってほしいというケンの提案を聞いて、すぐさま協力することを決めた。日本の災害をテレビなどで見て本当に心を痛めている。我々チームが走ることで、日本で苦しんでいる皆さんに力を与えることができれば。そして日本の皆さんからもBMCチームにパワーを送ってほしい」とオショビッツさんは言う。
そしてこの日、橋川さんらはルーベのラスト3キロのところに横断幕バナーを貼って応援したそうだ。
同じ日、パリで開催されたパリマラソンでも4万人のランナーによる日本の犠牲者への1分間の黙祷と、「WE RUN FOR JAPAN」の旗が掲げられたという。
夏日に乾いた砂塵が舞う 「前が見えない!」
コンピエーニュをスタートした10時の時点で、予報どおりすでに気温は上がり始めていた。3年前、カンチェラーラは夏日の暑さに弱り、献身的なアシスト役をつとめたオグレディが逃げ切って勝利していることが思い起こされた。雨でも晴れでも、厳しい気象状況はレースに意外な結末をもたらすもの。
スタートして約100km、ラジオツールが伝える平均時速は47km/hと、例年より2km/hほど速めのスピード。すでにレースは始まっていることが分かった。この平地のスピードが後々疲労となって効いてくるのだろう。
高速を飛ばし、最初のパヴェであるセクター27のTroisvillesで待つことにする。
周囲には菜の花が咲き乱れ、暖かな雰囲気を醸し出しているが、照りつける太陽が土を乾かす。関係車両が通過するたびに砂塵が舞い上がり、煙幕がはられたようになる。煙の向こうにかすかに浮かぶ人影。審判車両とレースディレクターの乗る車も、前方に大きく距離をとって走る。このなかで呼吸をするのは困難だ。
予想時刻到着よりずいぶん早く逃げ集団が到着する。砂塵が煙幕となって立ち上り、選手たちの様子がはっきりつかめない。レオパード・トレックやガーミン・サーヴェロはまだ集団の前を固めてはいない。
パヴェをスキップしながら集団を追う
プロトンの隊列後ろに入り、次の抜け道でセクター23のVertain a Saint-Martin-sur-Ecaillonへとスキップ。ここではベルギーから来たファンたちがビールを煽りながら観戦している。
このパヴェでは集団の後方に大きく離れてしまって独走しているフミを見つけたが、何かのトラブルだろうか。チームカーの隊列のなかにいれば通常のレースなら集団復帰は簡単だが、このレースの場合は砂煙はレース後方ほどひどくなり、チームカーもところどころでスタックするので、危険がいっぱいだ。
パヴェとパヴェの間には、チームカーが都合よくショートカットできるエスケープルートがときどき設定してあって、スキップすることができる。そこには走る選手たちのサポートをするべくチームカーが慌ただしく走りまわる
ちなみにレースのプロトン内に入れる許可を得たステッカーを貼るチームカーは2台。それに加えてコース外を使ってスキップしながらホイールなどのスペア機材や補給食を運ぶ関係車両が、それぞれの目的地へ向けて奔走することになる。
2つめのパヴェでカメラが早速悲鳴をあげる。レースの一団が巻き起こす砂の煙幕をかぶって、回転部がきしんでスムーズに動かなくなる。隙間の隅々まで入り込むほどの細かい砂埃だ。
ベルギーの国境に近いノール・パ・ド・カレー地域へ入った。いよいよ北のクラシックの中心地だ。
スキップしてセクター21、Aulnoy-lez-Valenciennes(オルノワ・レ・ヴァロンシエンヌ)へ。新しくコースに取り入れられた2600mもの五つ星パヴェだ。
ここは醜い荒れ方だった。ゆるい丘を2つ越える程度のアップダウンがあり、2つめの丘の下りは片側が大きく掘れるようにえぐれている。スピードが出たままここに侵入すればとても危険だ。
セクター16、172km地点のTrouee d’Arenberg(アランベール)へ。2400mもの長さを誇る五つ星パヴェの終点・出口付近に先回りする。
「ボーネンがバイクトラブルで立ちすくんでいる」とラジオツールが伝える 状況はわからないが、VIPエリアに用意されたライブ放送のTVがボーネンを映しだした。(クイックステップのサポート部隊はこの終点には来ていない。バイク交換に向かうのが遅れたようだ。
アランベールの出口で大きく遅れて通過するボーネン。もう追いつけないだろうというほどに差が開いていた。
高速道路でスキップして、オルシ(Orchies)のインターで降りようとするも、出口が閉鎖されていて、コースに降りることができない。一緒に降りようとした、予定の狂ったチームカーが必死に交渉するも、冷たくあしらわれてスルーするしかなかった。毎年通過するポイントなのに、フランス警察は気まぐれだ。
サポート部隊が思うように選手たちのもとに辿りつかないのは、こうした事情もある。ロンドでカンチェラーラがボトルの補給を受けられなかったのは、補給に向かったチームカーが渋滞に巻き込まれたからだと言われている。北のクラシックでは常に起こること。
リール(LILLE)までクルマを走らせ、再び南下してセクター9のパヴェ Merignies a Avelinへと入る。が、ここで老婦人の運転するクルマが立ち往生していて進路を阻まれ、選手たちより先にコースに入れず。カンチェラーラをぴたりマークして走るフースホフトらを撮影して見送る。そしてメイン集団が通過していったところでコースイン。しばらくプロトンを追走していると、後方からフミを含む小集団が追い抜いていった。ここでフミの完走が堅いことを確信できた。3度も落車したことは、知る由もなかったが。
最後の難関、セクター4の五つ星パヴェ、カルフール・ド・ラルブルへ。ここでも予定が狂った。最後の勝負どころを撮影できるレストラン・ラルブルへのD10の交差点で警察による通行止め。プレスパスがあっても通行できないという。一緒に最後のサポート地点へ入ろうとしたガーミン・サーヴェロとレオパード・トレックのチームカーも寸前で足止めを喰らう。
何がなんでもサポートに向かわなくてはならないチームスタッフたちは発狂寸前の剣幕で警官に掴みかかるが、警官に威圧されるとすぐさま別ルートでコースインできるところを探しにその場を離れた。私の方は自転車を利用してすり抜け、3km先まで自走で行くことに。
カルフール・ド・ラルブルを猛烈な勢いで飛ばしてクリアするファンスーメレン、それを追うチャリンギ、そして膠着状態の続くカンチェラーラ集団を見送り、ゴールのルーベ競技場までの11kmの近道を急ぐ。優勝候補集団のお見合い状態とファンスーメレンのスピードに、その差があれば逃げ切れると確信した。
チームプレイでルーベを制したサプライズウィナー
ルーベ競技場の観客席があるスタンドについてすぐにファンスーメレンがトラックに飛び込んできた。名物アナウンサーのダニエルマンジャスさんが「エキピエの勝利!」と連呼するが、予期せぬサプライズウィナーの誕生に、観客の湧きは例年よりもずっと控えめだ。誰もこんな逃げ切りの結末を望んでいなかったのだろう。
ファンスーメレンの走りはジャパンカップで多くの人が目撃したことだろう。中盤から勝負どころのラスト3周までを集団の先頭で牽引しつづけ、エースのダニエル・マーティンを発射して役目を終えたそのタフな走りは、勝負どころまでにレースをお膳立てするアシストとして完璧な仕事をこなせる選手だ。
しかしファンスーメレンにとって昨年のパリ~ルーベは棄権に終わっている。昨年4月、ガーミンに移籍した初年度、新顔のファンスーメレンはファラーたちのために今年と同じようにチームで末尾のゼッケンをつけて走るが、リタイヤ。「新しいボスたちのために走ったけど、なんの役にもたつことができず、なんとも無残だった」と振り返る。
スタートの朝、ファンスーメレンの名前は誰も口にしなかった。アシストの一人にすぎず、レースナンバーはフースホフトがつけるチームリーダー(エース)を意味する「11」に対して、チームで最後の「19」をつけていた。
アシスト選手の勝ったパリ~ルーベといえば、必ずと言って例に挙がるのが1988年のディルク・デモル(現レディオシャックのスポーツディレクター)の勝利だ。デモルを含む13人の逃げがスタート44km地点で早々に決まった。デモルは当時ADRチームのエースであるエディ・プランカールトのために働くエキピエ(アシスト選手)だった。しかしプランカールトら優勝候補たちが最後まで追いつけず、そこから飛び出したデモルが集団に8分以上の大差をつけてルーベ競技場まで逃げ切ったという、パリ~ルーベ史上でも酷評されるレースだ。
後方集団のカンチェラーラの走りをめぐる駆け引きは熾烈で、タイム差はデモルの勝利と比べれば僅かなもの。その闘いは素晴らしかったから酷評には当たらないが、伏兵の勝利は、優勝候補たちのネガティブな駆け引きで生み出されたものだ。
ファンスーメレンの勝利はガーミンのチームプレイの勝利だ。ファンスーメレンが捕まったとしても、カンチェラーラの先頭交代の要求を拒否し続けたフースホフトがスプリントで勝てば目標は達成できた。それをチームオーダーとして徹底して走ったゆえにカンチェラーラは思うように逃げグループを追い切れず、ファンスーメレンに勝利が転がり込んだ。
フースホフトはゴール後、ファンスーメレンと抱き合って祝福したが、その後シャワールームに向かうその表情は明らかに沈んでいた。カンチェラーラに粘着しておきながら、最後には引き離されての敗北。笑顔はなく、チームの勝利であってもフースホフトには完敗だったようだ。
「ファビアンはたくさん先頭を引いた。彼は一人だったし、前にチームメイト2人がいた僕はチームのために走った。ファビアンの"前を引け"という要求は飲めなかった。彼はガーミンの戦略を理解を示してくれた。これがバイクレースだ」。
マークに徹したフースホフトの走りでは、たとえ最後に優勝したとしてもファンのハートはつかめない。パリ~ルーベでは力と力のぶつかり合いのレースを見たいものだからだ。勝ちにこだわりすぎる駆け引きは、レースをつまらなくする。
汚れたアルカンシェルは埃をかぶった以上に存在がかすんで見えた。
スーパーマンの敗因はすべてを敵に回したこと?
もっとも強いカンチェラーラは、ロンドでの3位に続いて2位に終わったが、負けてなお、誰しもが「最も強かったのはカンチェラーラだ」と認めた2位だ。2つの北のクラシックに勝てず、強さだけを証明したカンチェラーラ。「スーパーマン」だと言われ続け、徹底的にマークされて、結局は勝利を掴むことができなかった。
カンチェラーラにとってのミスは、ロンドの前に調子の良さをアピールしすぎたのではないかということ。E3プライス・フラーンデレンで見せた誰も寄せ付けない強さのイメージが独り歩きし、気がつけばすべての選手を敵に回した。他の選手はカンチェラーラを打倒することが勝利につながることを認識して作戦を立てた。そしてすべてのチームは「スーパーマン」カンチェラーラを打倒するにはどうすればいいかをチーム戦略としてとった。
結果、「ひとり対プロトン」という圧倒的に不利なレースの構図を生み出し、昨年よりも欠けるレオパードのチーム力が付け入る隙を与えてしまった。もしもE3プライスであれほど力を誇示しなければ、レースの流れはカンチェラーラが走りやすいように流れたかもしれない。
2位と破れたカンチェラーラは、勝利者として名前を刻めなかったが、走りの"パナシェ"でファンのハートを掴んだ。フランドルでもフランスでも、ファンを増やしたに違いない。
レース後、通常はないはずの2位のカンチェラーラの記者会見も用意された。「聞きたいことは優勝者よりもある」というリクエストに答えての特別措置だ。ファンスーメレンが勝ったパリ~ルーベであると同時に、「カンチェラーラが勝てなかったパリ~ルーベ」でもあるのだから。
日本人初のロンド&ルーベ完走、そしてモニュメント全完走のフミ
3度の落車に見舞われながら、12分58秒遅れの71位での完走。ゴールに辿り着いたフミのシューズはバックルが壊れ、開いたままの状態だった。
「完走を狙って走るわけじゃない」。フミはそう言い切るが、やはり日本人初の完走という記録を達成したことは触れておかなくてはならない。ロンド・ファン・フラーンデレンに続き、最大のステータスをもつ北のクラシック連戦において、日本人初のルーベ完走を残した成果は大きい。
そして本人さえ意識していない、日本人初となるモニュメント全完走(ロンド・ファン・フラーンデレン・120位+17分51秒、2010年ミラノ~サンレモ113位+10分7秒、2008年リエージュ123位+19分31秒、2006年ロンバルディア72位+15分40秒)も成し遂げた。記録で語り継がれるプロレースのリザルトでは、記録を残しておくことだけが確かな評価につながる。
フミは「完走は目的じゃない」と言うが、完走の先にあるものを狙う選手でなければ完走することさえ難しいのがモニュメントレースだ。着実なステップを刻むフミ。
89人の夢がパヴェに散る
パリ~ルーベのリザルトは他のレースとは違い、特別だ。Hours Delais=(走りきっての)タイムアウト失格と、Abandon=棄権についてのリザルトにも記者たちの目が注がれる。そのことは、完走することに意義があるというパリ~ルーベの価値をよく表している。
ちなみに今年Hours Delaisリザルトに名を残したのは10人。2007年覇者のステュアート・オグレディ(レオパード・トレック)もこのなかに。
そしてAbandonはなんと79人。トム・ボーネン(クイックステップ)、ロジャー・ハモンド(ガーミン・サーヴェロ)、マシュー・ゴス(HTCハイロード)、レイフ・ホステ(カチューシャ)らビッグネームに加え、パリ~ルーベ初挑戦が話題になったマーク・カヴェンディッシュ(HTCハイロード)の名前も。
Hours DelaisとAbandonを合わせると実に89人がそれぞれのルーベの夢を砕かれている。
text:Makoto.AYANO
ロンドのパヴェは「難しい」 ルーベのパヴェは「痛い」
私事ながら、パリ~ルーベ当日を迎えるまでに、前週にロンド・ファン・フラーンデレン・シクロ(RVV CYCLO)、そして前日土曜にパリ~ルーベ・チャレンジ(ParisRouvaix Challenge)という2つの市民シクロスポルティフイベントをマイバイクで走った。
それぞれプロレースの半分ほどの距離で行われる(ロンドは270kmの部もあり)が、RVVシクロは140kmクラスの部でも前半のリエゾン部がカットされているだけでプロレースとほぼ同じすべてのパヴェを走ることになる。
今年新設された「パリ~ルーベ・チャレンジ」は距離が140kmで、プロレースで使われる27つのパヴェのうち15のパヴェを選んで走るというもの。どちらも一般参加が可能で、実際のパヴェを体験できる素晴らしい機会だった。(その詳細レポートは後日別記事にて)
北のクラシックとして名高い2つのパヴェレースのロンドとルーベ。2つの石畳レースのコースを体験走った感想は、それぞれにこの限られたスペースでは語り尽くせない困難はあるものの、特徴をかいつまんで言えば、ロンドのそれは「上りのパヴェ」が特長。コッペンベルグに代表される上りパヴェはテクニックが必要で、難しい。そしてコースは絶えずアップダウンが続くので、その繰り返しが肉体的な疲労を呼び、距離を重ねるほどにボディーブローのように効いてくる。
そしてパリ~ルーベのほうのコースは、前半のアプローチはフランス特有の丘のアップダウンが続く。この区間も平均時速が速ければ体力を奪うことになる。そしてパヴェのセクターが始まると、そこからのコースはまったくのフラットだが、同じパヴェでも路面の荒れようはロンドのそれとは比べものにならない。
ロンドのパヴェは生活道路であり、市民の使う道である。ルーベのパヴェは周辺の畑の農道であり、通るのはトラクターぐらいだろう。パヴェは古いまま残そうという考えで、補修はあまりされていない。状態の悪いところには土や砂が浮き、ところどころに穴や水たまりがある。その荒れ具合と長さに、星の格付けがなされているのだ。
そんなパヴェを自転車で走るのは「苦痛」であり、ロンドがテクニックが必要であるのに対し、ルーベでは痛みに耐える「精神力」も必要になってくる。
バイクのチューンナップについてもロンドより悪路対策を講じなければならない。市民イベントではチューブを4本持つことと、換えのハンドルバーテープを持つことが推奨された。プロでもバーテープ2重巻きは当然の対策。太いタイヤ、頑丈で振動吸収性に優れたリム、ホイールなどが必須の装備だ。
砂を噛んだ自転車はあちこちがきしみだし、チェーンもジャリジャリと音を立てだす。パヴェの振動でバイクは傷めつけられ、トラブルが頻発する。
ロンドがテクニックと体力の闘いだとしたら、それに苦痛に耐える精神力の闘いが加わるのがルーベだと解釈した。ざっくり言えば、ロンドの上りパヴェは「難しい」。ルーベの平らなパヴェは「痛い」だ。そして速く走ろうとするほどに痛みは増すのがつらい。
普段からマウンテンバイクのツーリングルートにもなっているパリ~ルーベのコースは、パヴェだけを走るのであればMTBのほうが断然有利だ。プロのレースでは通しの平均時速は42km。ときに時速50km/hオーバーでつなぐ舗装区間があるため、ロードバイクを選ばざるをえない。
ターフィのアドバイス「パヴェはアグレッシブに攻めろ」
パリ~ルーベチャレンジに出場したアンドレア・ターフィにアドバイスを貰った。タフィは1999年ロンドと2002年ルーベの両方を制しているイタリア人の元選手だ。「パヴェを走るアドバイスを」との問に、次のように応えてくれた。
ターフィ「パヴェを走るときはアグレッシブに攻め続けなければならない。気持ちが負けてはいけない。パヴェに対する尊敬と怒りを込めるように、重いギアを蹴り出すようにペダルを踏み続けなくてはいけない。そうすると、速く走れる瞬間が訪れる。パヴェと調和する瞬間と言ったらいいかな。ギャップの上を飛ぶように走れる瞬間がある。それを長く続けるように走るのがコツだ。パヴェに対して負けない心を持ち続ければ、パヴェが友達になってくれる」。
アドバイスにならい重いギアを無理やり回していると、「パヴェと友だちになれる瞬間」を確かに感じることができた。でも、それを続けるのは強靭な脚と心が必要だということも分かった。いったんスピードが鈍ると、バイクは情けないほどに進まなくなる。走る前から分かりきっていたことでもあるけれど。
28歳の誕生日にルーベを走るフミ「過酷なレースを前にワクワクしている」
コンピエーニュ宮殿の前が変わらないスタート地点。この日は別府史之(レディオシャック)の28歳の誕生日。「28歳の誕生日にパリルーべのようなビッグレースを走れるのは格別な思いです。過酷なレースを前にワクワクしています。楽しんで走りたい。ロンド以降2レース走って調整もバッチリです。エースにトラブルがあれば助けなければならず自分のためだけには走れませんがルーべ競技場を目指します」とフミ。インタビュー動画はこちら。
フミはロンド以降の水・木曜にシュヘルデプライスとGPピノチェラミの2レースを走っている。当初は水曜のシュヘルデプライスのみの予定が、ケガでの欠員のため木曜も走らざるを得なかったという。そのGPピノチェラミでは最終的にはリタイアしているが、途中まで100kmオーバーの逃げに乗って脚をみせている。
コンピエーニュの会場には日本人観客の姿もちらほら。マンジャスさんの選手紹介でも今日がフミの誕生日であることが知らされ、ちょっとした人気ものになっていた。
パリ~ルーベ組はシュヘルデプライスに出場するのがもっともスタンダードな傾向で、ここで走ることでアクティブリカバリーよろしくロンドの疲れを取り、調整する。カンチェラーラもフースホフトも揃って出場し、ゴールスプリントの危険を避けるためにゴール前数キロで揃って集団を離れた。スプリントでタイラー・ファラーが落車して負傷したのは、ガーミンにとっての誤算だったが。
BMCレーシングが「ガンバレ東日本」ステッカーを貼って走る
ロンドに続いてここでもCyclists Pray For Japan運動の「ガンバレ東日本ステッカー」がBMCレーシングのバイクに貼られていた。これはダンジェロ・アンティヌッチィ・NIPPOのサテライトチームであるユーラシア・フォンドリエストバイクスの欧州コーチである橋川健さん(ベルギー・コルトレイク在住)の働きかけで実現したもの。
BMCレーシングチームのGM、ジム・オショビッツ氏は橋川さんがチームモトローラの研修生として走っていた時代からの育ての親ということもあって実現したようだ。
「日本のために祈ってほしいというケンの提案を聞いて、すぐさま協力することを決めた。日本の災害をテレビなどで見て本当に心を痛めている。我々チームが走ることで、日本で苦しんでいる皆さんに力を与えることができれば。そして日本の皆さんからもBMCチームにパワーを送ってほしい」とオショビッツさんは言う。
そしてこの日、橋川さんらはルーベのラスト3キロのところに横断幕バナーを貼って応援したそうだ。
同じ日、パリで開催されたパリマラソンでも4万人のランナーによる日本の犠牲者への1分間の黙祷と、「WE RUN FOR JAPAN」の旗が掲げられたという。
夏日に乾いた砂塵が舞う 「前が見えない!」
コンピエーニュをスタートした10時の時点で、予報どおりすでに気温は上がり始めていた。3年前、カンチェラーラは夏日の暑さに弱り、献身的なアシスト役をつとめたオグレディが逃げ切って勝利していることが思い起こされた。雨でも晴れでも、厳しい気象状況はレースに意外な結末をもたらすもの。
スタートして約100km、ラジオツールが伝える平均時速は47km/hと、例年より2km/hほど速めのスピード。すでにレースは始まっていることが分かった。この平地のスピードが後々疲労となって効いてくるのだろう。
高速を飛ばし、最初のパヴェであるセクター27のTroisvillesで待つことにする。
周囲には菜の花が咲き乱れ、暖かな雰囲気を醸し出しているが、照りつける太陽が土を乾かす。関係車両が通過するたびに砂塵が舞い上がり、煙幕がはられたようになる。煙の向こうにかすかに浮かぶ人影。審判車両とレースディレクターの乗る車も、前方に大きく距離をとって走る。このなかで呼吸をするのは困難だ。
予想時刻到着よりずいぶん早く逃げ集団が到着する。砂塵が煙幕となって立ち上り、選手たちの様子がはっきりつかめない。レオパード・トレックやガーミン・サーヴェロはまだ集団の前を固めてはいない。
パヴェをスキップしながら集団を追う
プロトンの隊列後ろに入り、次の抜け道でセクター23のVertain a Saint-Martin-sur-Ecaillonへとスキップ。ここではベルギーから来たファンたちがビールを煽りながら観戦している。
このパヴェでは集団の後方に大きく離れてしまって独走しているフミを見つけたが、何かのトラブルだろうか。チームカーの隊列のなかにいれば通常のレースなら集団復帰は簡単だが、このレースの場合は砂煙はレース後方ほどひどくなり、チームカーもところどころでスタックするので、危険がいっぱいだ。
パヴェとパヴェの間には、チームカーが都合よくショートカットできるエスケープルートがときどき設定してあって、スキップすることができる。そこには走る選手たちのサポートをするべくチームカーが慌ただしく走りまわる
ちなみにレースのプロトン内に入れる許可を得たステッカーを貼るチームカーは2台。それに加えてコース外を使ってスキップしながらホイールなどのスペア機材や補給食を運ぶ関係車両が、それぞれの目的地へ向けて奔走することになる。
2つめのパヴェでカメラが早速悲鳴をあげる。レースの一団が巻き起こす砂の煙幕をかぶって、回転部がきしんでスムーズに動かなくなる。隙間の隅々まで入り込むほどの細かい砂埃だ。
ベルギーの国境に近いノール・パ・ド・カレー地域へ入った。いよいよ北のクラシックの中心地だ。
スキップしてセクター21、Aulnoy-lez-Valenciennes(オルノワ・レ・ヴァロンシエンヌ)へ。新しくコースに取り入れられた2600mもの五つ星パヴェだ。
ここは醜い荒れ方だった。ゆるい丘を2つ越える程度のアップダウンがあり、2つめの丘の下りは片側が大きく掘れるようにえぐれている。スピードが出たままここに侵入すればとても危険だ。
セクター16、172km地点のTrouee d’Arenberg(アランベール)へ。2400mもの長さを誇る五つ星パヴェの終点・出口付近に先回りする。
「ボーネンがバイクトラブルで立ちすくんでいる」とラジオツールが伝える 状況はわからないが、VIPエリアに用意されたライブ放送のTVがボーネンを映しだした。(クイックステップのサポート部隊はこの終点には来ていない。バイク交換に向かうのが遅れたようだ。
アランベールの出口で大きく遅れて通過するボーネン。もう追いつけないだろうというほどに差が開いていた。
高速道路でスキップして、オルシ(Orchies)のインターで降りようとするも、出口が閉鎖されていて、コースに降りることができない。一緒に降りようとした、予定の狂ったチームカーが必死に交渉するも、冷たくあしらわれてスルーするしかなかった。毎年通過するポイントなのに、フランス警察は気まぐれだ。
サポート部隊が思うように選手たちのもとに辿りつかないのは、こうした事情もある。ロンドでカンチェラーラがボトルの補給を受けられなかったのは、補給に向かったチームカーが渋滞に巻き込まれたからだと言われている。北のクラシックでは常に起こること。
リール(LILLE)までクルマを走らせ、再び南下してセクター9のパヴェ Merignies a Avelinへと入る。が、ここで老婦人の運転するクルマが立ち往生していて進路を阻まれ、選手たちより先にコースに入れず。カンチェラーラをぴたりマークして走るフースホフトらを撮影して見送る。そしてメイン集団が通過していったところでコースイン。しばらくプロトンを追走していると、後方からフミを含む小集団が追い抜いていった。ここでフミの完走が堅いことを確信できた。3度も落車したことは、知る由もなかったが。
最後の難関、セクター4の五つ星パヴェ、カルフール・ド・ラルブルへ。ここでも予定が狂った。最後の勝負どころを撮影できるレストラン・ラルブルへのD10の交差点で警察による通行止め。プレスパスがあっても通行できないという。一緒に最後のサポート地点へ入ろうとしたガーミン・サーヴェロとレオパード・トレックのチームカーも寸前で足止めを喰らう。
何がなんでもサポートに向かわなくてはならないチームスタッフたちは発狂寸前の剣幕で警官に掴みかかるが、警官に威圧されるとすぐさま別ルートでコースインできるところを探しにその場を離れた。私の方は自転車を利用してすり抜け、3km先まで自走で行くことに。
カルフール・ド・ラルブルを猛烈な勢いで飛ばしてクリアするファンスーメレン、それを追うチャリンギ、そして膠着状態の続くカンチェラーラ集団を見送り、ゴールのルーベ競技場までの11kmの近道を急ぐ。優勝候補集団のお見合い状態とファンスーメレンのスピードに、その差があれば逃げ切れると確信した。
チームプレイでルーベを制したサプライズウィナー
ルーベ競技場の観客席があるスタンドについてすぐにファンスーメレンがトラックに飛び込んできた。名物アナウンサーのダニエルマンジャスさんが「エキピエの勝利!」と連呼するが、予期せぬサプライズウィナーの誕生に、観客の湧きは例年よりもずっと控えめだ。誰もこんな逃げ切りの結末を望んでいなかったのだろう。
ファンスーメレンの走りはジャパンカップで多くの人が目撃したことだろう。中盤から勝負どころのラスト3周までを集団の先頭で牽引しつづけ、エースのダニエル・マーティンを発射して役目を終えたそのタフな走りは、勝負どころまでにレースをお膳立てするアシストとして完璧な仕事をこなせる選手だ。
しかしファンスーメレンにとって昨年のパリ~ルーベは棄権に終わっている。昨年4月、ガーミンに移籍した初年度、新顔のファンスーメレンはファラーたちのために今年と同じようにチームで末尾のゼッケンをつけて走るが、リタイヤ。「新しいボスたちのために走ったけど、なんの役にもたつことができず、なんとも無残だった」と振り返る。
スタートの朝、ファンスーメレンの名前は誰も口にしなかった。アシストの一人にすぎず、レースナンバーはフースホフトがつけるチームリーダー(エース)を意味する「11」に対して、チームで最後の「19」をつけていた。
アシスト選手の勝ったパリ~ルーベといえば、必ずと言って例に挙がるのが1988年のディルク・デモル(現レディオシャックのスポーツディレクター)の勝利だ。デモルを含む13人の逃げがスタート44km地点で早々に決まった。デモルは当時ADRチームのエースであるエディ・プランカールトのために働くエキピエ(アシスト選手)だった。しかしプランカールトら優勝候補たちが最後まで追いつけず、そこから飛び出したデモルが集団に8分以上の大差をつけてルーベ競技場まで逃げ切ったという、パリ~ルーベ史上でも酷評されるレースだ。
後方集団のカンチェラーラの走りをめぐる駆け引きは熾烈で、タイム差はデモルの勝利と比べれば僅かなもの。その闘いは素晴らしかったから酷評には当たらないが、伏兵の勝利は、優勝候補たちのネガティブな駆け引きで生み出されたものだ。
ファンスーメレンの勝利はガーミンのチームプレイの勝利だ。ファンスーメレンが捕まったとしても、カンチェラーラの先頭交代の要求を拒否し続けたフースホフトがスプリントで勝てば目標は達成できた。それをチームオーダーとして徹底して走ったゆえにカンチェラーラは思うように逃げグループを追い切れず、ファンスーメレンに勝利が転がり込んだ。
フースホフトはゴール後、ファンスーメレンと抱き合って祝福したが、その後シャワールームに向かうその表情は明らかに沈んでいた。カンチェラーラに粘着しておきながら、最後には引き離されての敗北。笑顔はなく、チームの勝利であってもフースホフトには完敗だったようだ。
「ファビアンはたくさん先頭を引いた。彼は一人だったし、前にチームメイト2人がいた僕はチームのために走った。ファビアンの"前を引け"という要求は飲めなかった。彼はガーミンの戦略を理解を示してくれた。これがバイクレースだ」。
マークに徹したフースホフトの走りでは、たとえ最後に優勝したとしてもファンのハートはつかめない。パリ~ルーベでは力と力のぶつかり合いのレースを見たいものだからだ。勝ちにこだわりすぎる駆け引きは、レースをつまらなくする。
汚れたアルカンシェルは埃をかぶった以上に存在がかすんで見えた。
スーパーマンの敗因はすべてを敵に回したこと?
もっとも強いカンチェラーラは、ロンドでの3位に続いて2位に終わったが、負けてなお、誰しもが「最も強かったのはカンチェラーラだ」と認めた2位だ。2つの北のクラシックに勝てず、強さだけを証明したカンチェラーラ。「スーパーマン」だと言われ続け、徹底的にマークされて、結局は勝利を掴むことができなかった。
カンチェラーラにとってのミスは、ロンドの前に調子の良さをアピールしすぎたのではないかということ。E3プライス・フラーンデレンで見せた誰も寄せ付けない強さのイメージが独り歩きし、気がつけばすべての選手を敵に回した。他の選手はカンチェラーラを打倒することが勝利につながることを認識して作戦を立てた。そしてすべてのチームは「スーパーマン」カンチェラーラを打倒するにはどうすればいいかをチーム戦略としてとった。
結果、「ひとり対プロトン」という圧倒的に不利なレースの構図を生み出し、昨年よりも欠けるレオパードのチーム力が付け入る隙を与えてしまった。もしもE3プライスであれほど力を誇示しなければ、レースの流れはカンチェラーラが走りやすいように流れたかもしれない。
2位と破れたカンチェラーラは、勝利者として名前を刻めなかったが、走りの"パナシェ"でファンのハートを掴んだ。フランドルでもフランスでも、ファンを増やしたに違いない。
レース後、通常はないはずの2位のカンチェラーラの記者会見も用意された。「聞きたいことは優勝者よりもある」というリクエストに答えての特別措置だ。ファンスーメレンが勝ったパリ~ルーベであると同時に、「カンチェラーラが勝てなかったパリ~ルーベ」でもあるのだから。
日本人初のロンド&ルーベ完走、そしてモニュメント全完走のフミ
3度の落車に見舞われながら、12分58秒遅れの71位での完走。ゴールに辿り着いたフミのシューズはバックルが壊れ、開いたままの状態だった。
「完走を狙って走るわけじゃない」。フミはそう言い切るが、やはり日本人初の完走という記録を達成したことは触れておかなくてはならない。ロンド・ファン・フラーンデレンに続き、最大のステータスをもつ北のクラシック連戦において、日本人初のルーベ完走を残した成果は大きい。
そして本人さえ意識していない、日本人初となるモニュメント全完走(ロンド・ファン・フラーンデレン・120位+17分51秒、2010年ミラノ~サンレモ113位+10分7秒、2008年リエージュ123位+19分31秒、2006年ロンバルディア72位+15分40秒)も成し遂げた。記録で語り継がれるプロレースのリザルトでは、記録を残しておくことだけが確かな評価につながる。
フミは「完走は目的じゃない」と言うが、完走の先にあるものを狙う選手でなければ完走することさえ難しいのがモニュメントレースだ。着実なステップを刻むフミ。
89人の夢がパヴェに散る
パリ~ルーベのリザルトは他のレースとは違い、特別だ。Hours Delais=(走りきっての)タイムアウト失格と、Abandon=棄権についてのリザルトにも記者たちの目が注がれる。そのことは、完走することに意義があるというパリ~ルーベの価値をよく表している。
ちなみに今年Hours Delaisリザルトに名を残したのは10人。2007年覇者のステュアート・オグレディ(レオパード・トレック)もこのなかに。
そしてAbandonはなんと79人。トム・ボーネン(クイックステップ)、ロジャー・ハモンド(ガーミン・サーヴェロ)、マシュー・ゴス(HTCハイロード)、レイフ・ホステ(カチューシャ)らビッグネームに加え、パリ~ルーベ初挑戦が話題になったマーク・カヴェンディッシュ(HTCハイロード)の名前も。
Hours DelaisとAbandonを合わせると実に89人がそれぞれのルーベの夢を砕かれている。
text:Makoto.AYANO
Amazon.co.jp
GARMIN(ガーミン) ForeAthlete 110 86303 【日本正規品】
ガーミン(GARMIN)