2022/12/25(日) - 18:36
「ナカジ」の愛称で親しまれてきた中島康晴が、2022年を最後に選手を引退した。シーズン前に引退発表して臨んだ1年を終えて、中島の選手人生を振り返りつつ話を聞いた。
12月17日、キナンレーシングチームの2023年体制発表会「キックオフミーティング」が行われた会場のすぐ近くで、『写真で振り返るナカジ』と題したトークショーが催された。中島康晴をよく知るふたりのフォトグラファー、大前仁氏と福光俊介氏の写真を見ながら、中島自身の司会進行でこれまでの選手生活を振り返った。
中島の引退発表は2022年シーズンが始まる前に行われた。家族や関係者など、ごく近い人には先に言うことはあっても、中島のようにシーズン前に発表する例は少ない。その理由を「ここまで支えて下さった皆さんにちゃんとお礼を言いたかった」と中島は言う。引退発表がチームからのプレスリリースより先にファンに対して行われたのも、中島の強い希望があったという。
そんな「ナカジ」に、話を聞いた。
コロナ禍で決めたシーズン前の引退発表
―最後のシーズンが終わりましたが、今の率直な気持ちは?
中島:やり切ったという感じです。「まだ選手を続けられるんじゃないの?」と多くの方に言って頂けるけれど、選手として極め続けるのがメンタル的にすごく辛いことも多かったので、肩の荷が下りた感じです。
―やっと大好きなカップラーメンを食べられるという話もありましたね
中島:そうですね(笑)。選手やってる時は子供と同じものを一緒に食べられないことも多かったんですけれど、今は一緒に食べて「おいしいね」と共感できる幸せがありますね。オフシーズンだから食べて良いと言われても、やはり次のシーズンのことを考えてしまうし、太ったあと戻すことを考えるとあまり食べられなかったです。でもそうやって抑制されていたからこそ美味しく感じることもあったのかなと…昔の方が美味しく感じたなと思うところもあります。
―シーズン前に引退を発表しようと思ったのはなぜでしょう?
中島:コロナ禍が続いていたことが大きかったです。今まで当たり前のようにお会い出来ていたファンの皆さんと会える機会が減ってしまい、今後もどうなるかわからない。ちゃんと宣言しておかないとお世話になった皆さんにちゃんとお礼を言えないまま終わってしまうと思ったのです。ファンの皆さんのおかげでここまで選手を続けてこられたので、しっかり恩返しをしたかったからですね。
あと1年しかないんだぞ、と自分を鼓舞するためでもありました。これまでもライバル選手が引退した時に、もっと話しておけばと良かったと思うことが多かったのもあります。
同郷の井上和郎選手の背中を追って
―それもあって、様々なところで引退セレモニーがありました。シマノ鈴鹿では井上和郎さんから花束を受け取られましたね。
中島:あれはめちゃめちゃビックリしたのを憶えています。すごく嬉しかったですね。同じ福井県の出身で、和郎さんが浅田さんのチームに入ってヨーロッパに行く過程を見ていたので、自分もその背中を追っていました。和郎さんにはレースの勝ち方やヨーロッパでの生活を教えてもらいましたし、国体では福井県代表として和郎さんと7回出場して6回優勝しました。和郎さんが連覇したあと僕が勝ったのですが、それも和郎さんのおかげだし、あれが無ければもっと早く選手を辞めていたかもしれません。
―その井上さんをはじめ、同じ時期に走っていた選手の多くが引退していきましたが、その時どう思われましたか?
中島:先輩方や同世代の選手が引退していくのは悲しかったです。でも自分が自転車を始めた時はせいぜい20代の間だけと思っていましたから、大ベテランと呼ばれていた先輩達のような年齢まで選手を続けられると思っていませんでした。近い年齢の増田成幸さんとか、同い年の新城幸也とか、別格の人達と比べたらまだまだですけれど(笑)、20代の頃から思えばここまで頑張ったなと思うし、選手を続けられたことは嬉しいです。
中島:僕は2009年までは自分のために走っていましたが、怪我をきっかけに色々な人達に支えてもらっていることに気づきました。そういう人達のために走ろうと考えるようになってから勝てるようになったんです。だからこそ、恩返しをするために人を魅了できる走りをしたいと考えていました。それがちょっと無理かなと思い始めたのがここ数年でした。
教わる側から教える側へ スプリンター・ナカジの誕生
―”人を魅了する走り”と言えば、愛三工業レーシングチーム時代の強さが印象的でした。
中島:体力的にも経験的にも一番良かった頃でしたね。西谷(泰治)さんや盛(一大)さん、綾部(勇成)さんなどすごい先輩方がたくさんいたので、そうした先輩方がいたことでレースでは自分が逃げやすくなって優勝したことが何度もありました。今でこそ自分がスプリント担当になってますけれど、そんなこと1ミリも考えられない時代でした。すごいチームでしたね。
―その後今のキナンレーシングチーム(以下キナン)に移籍されましたが、その前に海外移籍を考えていたそうですが?
中島:キナンに移籍したのは2017年ですが、その年はちょうどリオデジャネイロ五輪が終わって一区切りついたタイミングでした。その時が、自分が上にあがれる最後のチャンスだと思っていたんです。五輪代表選考ランキングは3位で次点となってしまい、リオには行けませんでしたが(注釈:リオ五輪ロード代表は新城幸也と内間康平)、年間ランキングもそこそこ上になれたので、自分のやりたかった海外チーム移籍の可能性を探りました。でも結局話がまとまらず、キナンに拾って頂くことになりました。
―キナンに移って変わったことはありましたか?
中島:キナンでは「若手選手の模範になって欲しい」と言われました。愛三工業レーシングチームでは大先輩がいる中の中堅という立場でしたが、キナンでは日本人選手の中で最年長だったので、レースの動き方や展開をどう伝えるかと考えつつ、自分も勝利を目指すという立場になったことが大きな変化でした。
―その最初の年にインドネシアとタイのレースでキナンに同行しましたが、外国人選手と積極的にコミュニケーションを取っていたのが印象的でした
中島:日本人同士なら阿吽(あうん)の呼吸も取りやすいんですけれど、その精度を高めるためには普段からコミュニケーションを取ることが大切だと思うんです。これは昔から思っていることですが、例えばレース中に他のチームが協力してくれるか否かって普段の人間関係が大きく関わると思うんです。だから日頃からコミュニケーションを取っていることが大切なんだと先輩方を見て思っていたので、自分もそうありたいと思っていました。自分のつたない英語を聞いてくれる姿勢を見せてくれたチームメイトにも感謝してます。
中島:そう言えば、ツール・ド・ロンボクの最終日にスプリントの牽引役をやったのですが、誰も前に来なくて自分が最上位で終わったことがありました。さんざん脚を使わせておいてなんでだよ!って思ってレース後にジャイ(・クロフォード)やリッチー(リカルド・ガルシア)達と話したんですが、じゃあ次回から僕がもがくわ…ってことになって。それで勝ったのが直後の群馬のレースでしたね。それからキナンのスプリント担当になりました。
―こうして改めて16年間の選手生活と考えると長いですね
中島:シマノレーシングの天野(壮悠)選手は、彼が小学生の時にウィラースクールで教えたことがあったらしくて、この前ツール・ド・台湾の時に写真を見せてくれました。愛三工業時代の自分がいましたね(笑)。もう引退してしまいましたが秋田(琢磨)選手も福井のイベントで梅丹本舗のジャージで走っている写真を持っていましたし、チームメイトになった新城雄大は石垣島で合宿していた時に幸也のお父さんから見てほしいと紹介されたのが最初でした。そういうところでも年月を感じますね。
自転車が好きだから魅力を広めていきたい
―さいたまクリテリウムでは新城幸也選手と一緒に逃げに乗りましたが、何か話をしましたか?
中島:最後に一緒に走れて嬉しいという話をしました。最初のスプリントポイントを取りたかったけれど、早駆けしすぎて幸也に差されてしまったのは悔しかったですね(笑)。幸也と走っていた頃って自分の原点なんです。2007年にヨーロッパに渡って最初のチームメイトで同い年だったのが幸也で、チームで最年少だったから一緒に皿洗いしたり掃除したり、自分のくだらない愚痴を聞いてもらったり、バーに行って一緒にお酒飲んだりしてきた仲でした。だから本当に嬉しかったです。
―今後のことは何か考えていますか?
中島:今までは自転車を広める手段として選手をやってきましたが、今後も自転車の魅力を広めていく活動をしていきたいです。鉄道好きなので自転車と鉄道の相性の良さをアピールしたり、レースの解説をしたり、地元の福井への恩返しもしていきたいと考えています。
ツーリングにも行きたいですね。今まではロングライドに行っても明日のコンディションが気になって、ここで無理したらパフォーマンス落ちるのではないかと気にしてなかなか出来なかったのですが、のんびり長く走ることって楽しいなと思うんです。選手やってる時は途中で美味しいもの食べてなんて出来なかったし、やることやらないといけなかったし、そういうことを気にせず自転車本来の楽しさ面白さを感じていきたいです。
今まで自転車がイヤになるくらい追い込んだこともありましたが、やっぱり自転車が好きなんだと感じていますし、楽しいものなんだなと今改めて感じています。
2023年は自転車以外のことも幅広く経験する1年にしたいと言う中島。その先には色々考えていることがあるようだが「鈴木真理さんのように指導・育成して自分も自転車に乗れたらいいなと思っています。これまでの経験も活かせますし、何より好きな自転車に乗れるから」と、構想の一部を話してくれた。どのような形になるのか、ナカジの今後に期待しよう。
text:Satoru Kato
12月17日、キナンレーシングチームの2023年体制発表会「キックオフミーティング」が行われた会場のすぐ近くで、『写真で振り返るナカジ』と題したトークショーが催された。中島康晴をよく知るふたりのフォトグラファー、大前仁氏と福光俊介氏の写真を見ながら、中島自身の司会進行でこれまでの選手生活を振り返った。
中島の引退発表は2022年シーズンが始まる前に行われた。家族や関係者など、ごく近い人には先に言うことはあっても、中島のようにシーズン前に発表する例は少ない。その理由を「ここまで支えて下さった皆さんにちゃんとお礼を言いたかった」と中島は言う。引退発表がチームからのプレスリリースより先にファンに対して行われたのも、中島の強い希望があったという。
そんな「ナカジ」に、話を聞いた。
コロナ禍で決めたシーズン前の引退発表
―最後のシーズンが終わりましたが、今の率直な気持ちは?
中島:やり切ったという感じです。「まだ選手を続けられるんじゃないの?」と多くの方に言って頂けるけれど、選手として極め続けるのがメンタル的にすごく辛いことも多かったので、肩の荷が下りた感じです。
―やっと大好きなカップラーメンを食べられるという話もありましたね
中島:そうですね(笑)。選手やってる時は子供と同じものを一緒に食べられないことも多かったんですけれど、今は一緒に食べて「おいしいね」と共感できる幸せがありますね。オフシーズンだから食べて良いと言われても、やはり次のシーズンのことを考えてしまうし、太ったあと戻すことを考えるとあまり食べられなかったです。でもそうやって抑制されていたからこそ美味しく感じることもあったのかなと…昔の方が美味しく感じたなと思うところもあります。
―シーズン前に引退を発表しようと思ったのはなぜでしょう?
中島:コロナ禍が続いていたことが大きかったです。今まで当たり前のようにお会い出来ていたファンの皆さんと会える機会が減ってしまい、今後もどうなるかわからない。ちゃんと宣言しておかないとお世話になった皆さんにちゃんとお礼を言えないまま終わってしまうと思ったのです。ファンの皆さんのおかげでここまで選手を続けてこられたので、しっかり恩返しをしたかったからですね。
あと1年しかないんだぞ、と自分を鼓舞するためでもありました。これまでもライバル選手が引退した時に、もっと話しておけばと良かったと思うことが多かったのもあります。
同郷の井上和郎選手の背中を追って
―それもあって、様々なところで引退セレモニーがありました。シマノ鈴鹿では井上和郎さんから花束を受け取られましたね。
中島:あれはめちゃめちゃビックリしたのを憶えています。すごく嬉しかったですね。同じ福井県の出身で、和郎さんが浅田さんのチームに入ってヨーロッパに行く過程を見ていたので、自分もその背中を追っていました。和郎さんにはレースの勝ち方やヨーロッパでの生活を教えてもらいましたし、国体では福井県代表として和郎さんと7回出場して6回優勝しました。和郎さんが連覇したあと僕が勝ったのですが、それも和郎さんのおかげだし、あれが無ければもっと早く選手を辞めていたかもしれません。
―その井上さんをはじめ、同じ時期に走っていた選手の多くが引退していきましたが、その時どう思われましたか?
中島:先輩方や同世代の選手が引退していくのは悲しかったです。でも自分が自転車を始めた時はせいぜい20代の間だけと思っていましたから、大ベテランと呼ばれていた先輩達のような年齢まで選手を続けられると思っていませんでした。近い年齢の増田成幸さんとか、同い年の新城幸也とか、別格の人達と比べたらまだまだですけれど(笑)、20代の頃から思えばここまで頑張ったなと思うし、選手を続けられたことは嬉しいです。
中島:僕は2009年までは自分のために走っていましたが、怪我をきっかけに色々な人達に支えてもらっていることに気づきました。そういう人達のために走ろうと考えるようになってから勝てるようになったんです。だからこそ、恩返しをするために人を魅了できる走りをしたいと考えていました。それがちょっと無理かなと思い始めたのがここ数年でした。
教わる側から教える側へ スプリンター・ナカジの誕生
―”人を魅了する走り”と言えば、愛三工業レーシングチーム時代の強さが印象的でした。
中島:体力的にも経験的にも一番良かった頃でしたね。西谷(泰治)さんや盛(一大)さん、綾部(勇成)さんなどすごい先輩方がたくさんいたので、そうした先輩方がいたことでレースでは自分が逃げやすくなって優勝したことが何度もありました。今でこそ自分がスプリント担当になってますけれど、そんなこと1ミリも考えられない時代でした。すごいチームでしたね。
―その後今のキナンレーシングチーム(以下キナン)に移籍されましたが、その前に海外移籍を考えていたそうですが?
中島:キナンに移籍したのは2017年ですが、その年はちょうどリオデジャネイロ五輪が終わって一区切りついたタイミングでした。その時が、自分が上にあがれる最後のチャンスだと思っていたんです。五輪代表選考ランキングは3位で次点となってしまい、リオには行けませんでしたが(注釈:リオ五輪ロード代表は新城幸也と内間康平)、年間ランキングもそこそこ上になれたので、自分のやりたかった海外チーム移籍の可能性を探りました。でも結局話がまとまらず、キナンに拾って頂くことになりました。
―キナンに移って変わったことはありましたか?
中島:キナンでは「若手選手の模範になって欲しい」と言われました。愛三工業レーシングチームでは大先輩がいる中の中堅という立場でしたが、キナンでは日本人選手の中で最年長だったので、レースの動き方や展開をどう伝えるかと考えつつ、自分も勝利を目指すという立場になったことが大きな変化でした。
―その最初の年にインドネシアとタイのレースでキナンに同行しましたが、外国人選手と積極的にコミュニケーションを取っていたのが印象的でした
中島:日本人同士なら阿吽(あうん)の呼吸も取りやすいんですけれど、その精度を高めるためには普段からコミュニケーションを取ることが大切だと思うんです。これは昔から思っていることですが、例えばレース中に他のチームが協力してくれるか否かって普段の人間関係が大きく関わると思うんです。だから日頃からコミュニケーションを取っていることが大切なんだと先輩方を見て思っていたので、自分もそうありたいと思っていました。自分のつたない英語を聞いてくれる姿勢を見せてくれたチームメイトにも感謝してます。
中島:そう言えば、ツール・ド・ロンボクの最終日にスプリントの牽引役をやったのですが、誰も前に来なくて自分が最上位で終わったことがありました。さんざん脚を使わせておいてなんでだよ!って思ってレース後にジャイ(・クロフォード)やリッチー(リカルド・ガルシア)達と話したんですが、じゃあ次回から僕がもがくわ…ってことになって。それで勝ったのが直後の群馬のレースでしたね。それからキナンのスプリント担当になりました。
―こうして改めて16年間の選手生活と考えると長いですね
中島:シマノレーシングの天野(壮悠)選手は、彼が小学生の時にウィラースクールで教えたことがあったらしくて、この前ツール・ド・台湾の時に写真を見せてくれました。愛三工業時代の自分がいましたね(笑)。もう引退してしまいましたが秋田(琢磨)選手も福井のイベントで梅丹本舗のジャージで走っている写真を持っていましたし、チームメイトになった新城雄大は石垣島で合宿していた時に幸也のお父さんから見てほしいと紹介されたのが最初でした。そういうところでも年月を感じますね。
自転車が好きだから魅力を広めていきたい
―さいたまクリテリウムでは新城幸也選手と一緒に逃げに乗りましたが、何か話をしましたか?
中島:最後に一緒に走れて嬉しいという話をしました。最初のスプリントポイントを取りたかったけれど、早駆けしすぎて幸也に差されてしまったのは悔しかったですね(笑)。幸也と走っていた頃って自分の原点なんです。2007年にヨーロッパに渡って最初のチームメイトで同い年だったのが幸也で、チームで最年少だったから一緒に皿洗いしたり掃除したり、自分のくだらない愚痴を聞いてもらったり、バーに行って一緒にお酒飲んだりしてきた仲でした。だから本当に嬉しかったです。
―今後のことは何か考えていますか?
中島:今までは自転車を広める手段として選手をやってきましたが、今後も自転車の魅力を広めていく活動をしていきたいです。鉄道好きなので自転車と鉄道の相性の良さをアピールしたり、レースの解説をしたり、地元の福井への恩返しもしていきたいと考えています。
ツーリングにも行きたいですね。今まではロングライドに行っても明日のコンディションが気になって、ここで無理したらパフォーマンス落ちるのではないかと気にしてなかなか出来なかったのですが、のんびり長く走ることって楽しいなと思うんです。選手やってる時は途中で美味しいもの食べてなんて出来なかったし、やることやらないといけなかったし、そういうことを気にせず自転車本来の楽しさ面白さを感じていきたいです。
今まで自転車がイヤになるくらい追い込んだこともありましたが、やっぱり自転車が好きなんだと感じていますし、楽しいものなんだなと今改めて感じています。
2023年は自転車以外のことも幅広く経験する1年にしたいと言う中島。その先には色々考えていることがあるようだが「鈴木真理さんのように指導・育成して自分も自転車に乗れたらいいなと思っています。これまでの経験も活かせますし、何より好きな自転車に乗れるから」と、構想の一部を話してくれた。どのような形になるのか、ナカジの今後に期待しよう。
text:Satoru Kato
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