2013/12/18(水) - 10:33
自転車競技を始めてまだ3年弱。その僅かな期間のうちに全日本選手権2冠、ツール・ド・おきなわやジャパンカップといったメジャーレースを制した與那嶺恵理(チーム フォルツァ!)のロングインタビューを紹介する。22歳の彼女が歩んできた経歴や、心に秘める思いとは。
正直なところ、トレイルに入って最初の頃は凄く上手い!とは言えなかった。エリートMTBライダーの経歴を持つ三上(和志:3up)さんはともかくとして、テクニカルな区間では車列から遅れをとってしまう。しかし次第に上達し、脚を要する登りでは一つも息を切らさず軽快なダンシングを披露してみせる。ああ、あれだけキツい全日本ロードでぶっちぎり勝利したんだもんな。流石だな。と思わされた。
鮮やかなチームジャージに身を包んだ全日本女子ロードチャンピオン・與那嶺恵理は、シクロクロス全日本選手権の直前、埼玉県飯能に拠点を構える三上和志さんの下でシクロクロス合宿を行っていた。大一番を控える彼女に合わせて、トレイルや河川敷を使ったライド中にはバイク交換など実践的な練習も。本格的なシクロクロス練習を始めてまだ日が浅いだけに走りはぎこちないが、やはりその身体能力と順応力には並外れたものがある。
ー2012年の全日本選手権で彗星の如くトップレースシーンへとデビューし、続くジャパンカップでは強豪選手をはねのけて優勝。そして2013年には全日本タイムトライアルとロードを制すなど、あっと言うに国内の頂点へと上り詰めた彼女だが、その経歴を含めて彼女自身について知る者は少ないのではないだろうか?ライド後、そんな若き女子ロードチャンピオンに話を聞いた。
ーまだ自転車に乗ってから日が浅いと聞きますが、実際に乗り始めたきっかけは何だったのですか?
元々自転車を始めたのは、大学のテニス部を辞めたことがきっかけだったんです。体力はあるのにセンスが無くて、先輩の球拾いとかサポートばっかりやっていたんですね。私は体育会系だから競技に出ていないと楽しめなくなって、もういいかなぁって思っちゃったんです。
そんなことを実家に帰ったとき家族に言ったら、たまたま趣味としてロードバイクに乗っていた伯父さんが「その脚は自転車に向いているから、気分転換にでも乗ってみれば?」と言ってくれました。そこで知り合いで、近くもあったフォルツァを紹介してもらい、その伯父さんが私のバイクを注文してくれたんです。その時スタッフさんは入門バイクを勧めたそうなんですが、「どうせなら!」といきなりハイエンドモデルになっちゃったんですよ(笑)。
それが2011年初めの時のこと。でもその後震災が起きて、住んでいたつくば市が大きな被害を受けたので全く乗れなくなってしまったんです。それで夏頃にようやく落ち着いて、ショップのツーリングに参加するようになりました。その頃には自転車が好きになって、本格的に乗りたい、レースにも出たいと思っていましたね。元々が体育会系ですから。
その後チームに入れてもらって、練習会に参加したり、空いた時間にショップのスタッフさんに付き合ってもらったりして、趣味として乗っていました。そしてMTBワールドカップを転戦していた武井(亨介)社長(バイクショップFORZA代表)と初めて一緒に走ったんです。その夜、「できる限り早くウチに住みなさい」というメールが来たんです。さすがにびっくりしましたよ(笑)。それから社長の家に住まわせてもらい、本格的にトレーニングを始めることになりました。
—なるほど(笑)。じゃあその時から既に速さを身につけていて、それが目に留まったと?
いやいや、そんなこと無かったんですよ!最初はお母さんと同年代の女性に普通に坂で置いていかれて、「うわー負けた!」ってかなりショック受けてました(笑)。ちゃんと練習を始めたのは、社長の家に住まわせてもらうようになってからですね。
—初勝利はいつだったんですか?
初勝利は2012年のジャパンカップオープン女子です。でもその前に、市民レースでは富士チャレンジとかでも優勝していましたね。ホビーレースだとJCRCが面白くって、今年の春先は男性クラスに混じってSクラスで走りました。登りはそこまで速いとは思いませんが、みんなスプリントが強くて!速い男性と一緒に真剣に走るのは楽しいですね。あ、ちゃんとXクラスから昇格していったんですよ(笑)。
話は前後しますが、初めてのちゃんとしたレースは2011年のジャパンカップ。でも今よりも10kg体重が重かったから登りで即死しちゃって(笑)!しかも雨降っていたから下りで滑って、ちょうどクッションの無いダートに突っ込んで派手に一回転したんです。その後も走ったんですが結局完走できませんでしたね。
その後すぐにツール・ド・おきなわの50km市民レースに出たんですけど、この時も速攻で撃沈。「あーこんなに弱いんだ私。全然走れねーよ!」って思いましたね。で、落ち込んで、強くなってやろうと練習やりだしたところ、今度はすぐに落車して鎖骨を折っちゃったんです。
レースでボロ負けするわ骨折するわ、もう社長の家から追い出されちゃうな、と。でも「誰でも鎖骨はやっちゃうから」って言ってくれて。療養中は外で乗れないので、三角巾をつけたまま負担が掛からないようにローラー練習をやってました。
でも一応まじめにローラー練習をして、回復後ロードに戻ったら凄く体重が落ちていて、めっちゃ速く走れるようになっていて本当に驚きました(笑)。よくローラー練習が好きでしょ?と言われるのですが、そうじゃなくて、それしかできなかった。「ローラーでも何でもやってやるよ!」と、外で乗れない悔しさをぶつけていたんです。
意外かもしれませんが、社長は私に「きちんとした生活をしなさい」と言うだけで、「練習をしなさい」とは言わないんです。でも、私も性格的に手を抜くことは嫌いなので、メニューはちゃんとこなしていますよ。そうしたら練習後のご飯もおいしいし、気分も良いじゃないですか!
—自転車に乗ってあちこちに遠征するようになって、大学の友達は何か言っていましたか?
いや、そこはやっぱり体育会系ですから、みんな全国遠征が多いんです。だから私があちこち行っていても周りがごく普通でしたね。そういう意味でもやりやすかったと思いますよ。
—なるほど。それで強くなってから最初のレースは何だったんですか?
2012年最初のレース、つまり岩手での全日本ロード選手権でした。この年はオリンピック選考の関係で4月開催でしたからね。結果2位にはなったものの、位置取りもアタックのタイミングも、何もかも分からない状態だったし、そもそも順位が残るようなレベルで走れるとは思っていなかったんです。
「とりあえず全部のアタックには反応して付いていけ」と言われて、ゴールラインまで付いていっちゃったんですね。自分が思っていたよりもペースは遅くて、「ここまできたら2位は確定だ、良かった。」と思っちゃったのが敗因。今思えば勝ちたい気持ちが足りていませんでした。
このとき全日本で「3位以内だったらMTBを用意してやる」と社長に言われていて、むしろそれが嬉しかったですね。私はMTBがずっとやりたかったんです。社長もまさか2位になるとは思っていなかったようで(笑)、それからMTBに関してはSy-Nakの中込辰吾さん・由香里さん夫妻にお世話になることになりました。
—そして10月、2012年のジャパンカップでは見事な独走勝利を決めました。
あの時は存在感を見せるため、独走で勝たなければいけませんでした。3回試走に連れて行ってもらったりと周到に準備をしましたし、アタックするタイミングも全部予習しておきました。結果それが上手くはまったんです。
−初めてのビッグタイトル獲得、どういった気分でしたか?
社長から「勝たなければ引退しろ!」と言われていたので、そりゃあ頑張るしか無いですよね(笑)。勝ててとても嬉しかったですが、フィジカル的なデータ上勝てると思っていたので、「私って凄いじゃん!」とか奢るようなことは特別思いませんでした。
そして日本代表に選出されて、インドで行われたアジア選手権に行きましたが、これが大変だったんです!まず滞在先であるニューデリーの治安が悪過ぎて、外に出られず、街もめちゃくちゃに汚い。前日になってもコースが決まっていないとか、何それ!? みたいな。それが初めての国際レースで、うわぁ、大丈夫かなぁ?って思いましたよね。
そしていざレースに出てみてもカルチャーショックの連続です。実はアジア選手権に出てくる選手達は、実はそのほとんどがトラック競技の選手。形式こそロードレースですが、みんな最後のゴール勝負のために脚を残す事ばかり考えていて、途中なんか20km/hぐらいまで落ちたんです。「みんな本当にこれでレースしてるの!?」って。
アジア選で勝てばオリンピックへの切符が自動的に手に入ります。平坦コースだから中国や韓国などがトラック選手を連れてきて、「何が何でも勝つ」という姿勢でいたことが、そうさせたんですね。
でもその雰囲気に飲まれてしまい、最後まで集団で過ごし、結果早掛けしすぎて最後は埋もれてしまいました。調整が上手くできていたぶん、「何のために行ったんだ」って凄く怒られたし、そんなレースをしてしまった自分に腹が立ちましたよ。
でもそういう経験を積めたことは、私にとってすごく勉強になりました。だからこそ次の全日本ロードでは、「絶対に勝たなくてはいけない」という強い気持ちができたんです。
Vol.2に続く
text:So.Isobe
正直なところ、トレイルに入って最初の頃は凄く上手い!とは言えなかった。エリートMTBライダーの経歴を持つ三上(和志:3up)さんはともかくとして、テクニカルな区間では車列から遅れをとってしまう。しかし次第に上達し、脚を要する登りでは一つも息を切らさず軽快なダンシングを披露してみせる。ああ、あれだけキツい全日本ロードでぶっちぎり勝利したんだもんな。流石だな。と思わされた。
鮮やかなチームジャージに身を包んだ全日本女子ロードチャンピオン・與那嶺恵理は、シクロクロス全日本選手権の直前、埼玉県飯能に拠点を構える三上和志さんの下でシクロクロス合宿を行っていた。大一番を控える彼女に合わせて、トレイルや河川敷を使ったライド中にはバイク交換など実践的な練習も。本格的なシクロクロス練習を始めてまだ日が浅いだけに走りはぎこちないが、やはりその身体能力と順応力には並外れたものがある。
ー2012年の全日本選手権で彗星の如くトップレースシーンへとデビューし、続くジャパンカップでは強豪選手をはねのけて優勝。そして2013年には全日本タイムトライアルとロードを制すなど、あっと言うに国内の頂点へと上り詰めた彼女だが、その経歴を含めて彼女自身について知る者は少ないのではないだろうか?ライド後、そんな若き女子ロードチャンピオンに話を聞いた。
ーまだ自転車に乗ってから日が浅いと聞きますが、実際に乗り始めたきっかけは何だったのですか?
元々自転車を始めたのは、大学のテニス部を辞めたことがきっかけだったんです。体力はあるのにセンスが無くて、先輩の球拾いとかサポートばっかりやっていたんですね。私は体育会系だから競技に出ていないと楽しめなくなって、もういいかなぁって思っちゃったんです。
そんなことを実家に帰ったとき家族に言ったら、たまたま趣味としてロードバイクに乗っていた伯父さんが「その脚は自転車に向いているから、気分転換にでも乗ってみれば?」と言ってくれました。そこで知り合いで、近くもあったフォルツァを紹介してもらい、その伯父さんが私のバイクを注文してくれたんです。その時スタッフさんは入門バイクを勧めたそうなんですが、「どうせなら!」といきなりハイエンドモデルになっちゃったんですよ(笑)。
それが2011年初めの時のこと。でもその後震災が起きて、住んでいたつくば市が大きな被害を受けたので全く乗れなくなってしまったんです。それで夏頃にようやく落ち着いて、ショップのツーリングに参加するようになりました。その頃には自転車が好きになって、本格的に乗りたい、レースにも出たいと思っていましたね。元々が体育会系ですから。
その後チームに入れてもらって、練習会に参加したり、空いた時間にショップのスタッフさんに付き合ってもらったりして、趣味として乗っていました。そしてMTBワールドカップを転戦していた武井(亨介)社長(バイクショップFORZA代表)と初めて一緒に走ったんです。その夜、「できる限り早くウチに住みなさい」というメールが来たんです。さすがにびっくりしましたよ(笑)。それから社長の家に住まわせてもらい、本格的にトレーニングを始めることになりました。
—なるほど(笑)。じゃあその時から既に速さを身につけていて、それが目に留まったと?
いやいや、そんなこと無かったんですよ!最初はお母さんと同年代の女性に普通に坂で置いていかれて、「うわー負けた!」ってかなりショック受けてました(笑)。ちゃんと練習を始めたのは、社長の家に住まわせてもらうようになってからですね。
—初勝利はいつだったんですか?
初勝利は2012年のジャパンカップオープン女子です。でもその前に、市民レースでは富士チャレンジとかでも優勝していましたね。ホビーレースだとJCRCが面白くって、今年の春先は男性クラスに混じってSクラスで走りました。登りはそこまで速いとは思いませんが、みんなスプリントが強くて!速い男性と一緒に真剣に走るのは楽しいですね。あ、ちゃんとXクラスから昇格していったんですよ(笑)。
話は前後しますが、初めてのちゃんとしたレースは2011年のジャパンカップ。でも今よりも10kg体重が重かったから登りで即死しちゃって(笑)!しかも雨降っていたから下りで滑って、ちょうどクッションの無いダートに突っ込んで派手に一回転したんです。その後も走ったんですが結局完走できませんでしたね。
その後すぐにツール・ド・おきなわの50km市民レースに出たんですけど、この時も速攻で撃沈。「あーこんなに弱いんだ私。全然走れねーよ!」って思いましたね。で、落ち込んで、強くなってやろうと練習やりだしたところ、今度はすぐに落車して鎖骨を折っちゃったんです。
レースでボロ負けするわ骨折するわ、もう社長の家から追い出されちゃうな、と。でも「誰でも鎖骨はやっちゃうから」って言ってくれて。療養中は外で乗れないので、三角巾をつけたまま負担が掛からないようにローラー練習をやってました。
でも一応まじめにローラー練習をして、回復後ロードに戻ったら凄く体重が落ちていて、めっちゃ速く走れるようになっていて本当に驚きました(笑)。よくローラー練習が好きでしょ?と言われるのですが、そうじゃなくて、それしかできなかった。「ローラーでも何でもやってやるよ!」と、外で乗れない悔しさをぶつけていたんです。
意外かもしれませんが、社長は私に「きちんとした生活をしなさい」と言うだけで、「練習をしなさい」とは言わないんです。でも、私も性格的に手を抜くことは嫌いなので、メニューはちゃんとこなしていますよ。そうしたら練習後のご飯もおいしいし、気分も良いじゃないですか!
—自転車に乗ってあちこちに遠征するようになって、大学の友達は何か言っていましたか?
いや、そこはやっぱり体育会系ですから、みんな全国遠征が多いんです。だから私があちこち行っていても周りがごく普通でしたね。そういう意味でもやりやすかったと思いますよ。
—なるほど。それで強くなってから最初のレースは何だったんですか?
2012年最初のレース、つまり岩手での全日本ロード選手権でした。この年はオリンピック選考の関係で4月開催でしたからね。結果2位にはなったものの、位置取りもアタックのタイミングも、何もかも分からない状態だったし、そもそも順位が残るようなレベルで走れるとは思っていなかったんです。
「とりあえず全部のアタックには反応して付いていけ」と言われて、ゴールラインまで付いていっちゃったんですね。自分が思っていたよりもペースは遅くて、「ここまできたら2位は確定だ、良かった。」と思っちゃったのが敗因。今思えば勝ちたい気持ちが足りていませんでした。
このとき全日本で「3位以内だったらMTBを用意してやる」と社長に言われていて、むしろそれが嬉しかったですね。私はMTBがずっとやりたかったんです。社長もまさか2位になるとは思っていなかったようで(笑)、それからMTBに関してはSy-Nakの中込辰吾さん・由香里さん夫妻にお世話になることになりました。
—そして10月、2012年のジャパンカップでは見事な独走勝利を決めました。
あの時は存在感を見せるため、独走で勝たなければいけませんでした。3回試走に連れて行ってもらったりと周到に準備をしましたし、アタックするタイミングも全部予習しておきました。結果それが上手くはまったんです。
−初めてのビッグタイトル獲得、どういった気分でしたか?
社長から「勝たなければ引退しろ!」と言われていたので、そりゃあ頑張るしか無いですよね(笑)。勝ててとても嬉しかったですが、フィジカル的なデータ上勝てると思っていたので、「私って凄いじゃん!」とか奢るようなことは特別思いませんでした。
そして日本代表に選出されて、インドで行われたアジア選手権に行きましたが、これが大変だったんです!まず滞在先であるニューデリーの治安が悪過ぎて、外に出られず、街もめちゃくちゃに汚い。前日になってもコースが決まっていないとか、何それ!? みたいな。それが初めての国際レースで、うわぁ、大丈夫かなぁ?って思いましたよね。
そしていざレースに出てみてもカルチャーショックの連続です。実はアジア選手権に出てくる選手達は、実はそのほとんどがトラック競技の選手。形式こそロードレースですが、みんな最後のゴール勝負のために脚を残す事ばかり考えていて、途中なんか20km/hぐらいまで落ちたんです。「みんな本当にこれでレースしてるの!?」って。
アジア選で勝てばオリンピックへの切符が自動的に手に入ります。平坦コースだから中国や韓国などがトラック選手を連れてきて、「何が何でも勝つ」という姿勢でいたことが、そうさせたんですね。
でもその雰囲気に飲まれてしまい、最後まで集団で過ごし、結果早掛けしすぎて最後は埋もれてしまいました。調整が上手くできていたぶん、「何のために行ったんだ」って凄く怒られたし、そんなレースをしてしまった自分に腹が立ちましたよ。
でもそういう経験を積めたことは、私にとってすごく勉強になりました。だからこそ次の全日本ロードでは、「絶対に勝たなくてはいけない」という強い気持ちができたんです。
Vol.2に続く
text:So.Isobe
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