2013/05/10(金) - 18:44
ゴール地点の名前はマルゲリータ・ディ・サヴォイア。真っ先に思い浮かべるのはピッツァ・マルゲリータだ。この2つの名前は、ともに19世紀に敬愛されたマルゲリータ王妃に由来する。
イタリア半島(長靴)のちょうど「かかと」に位置するプーリア州。ジロはイタリア半島を横断して東海岸に出た。アドリア海に面したモーラ・ディ・バーリから「アキレス腱」をなぞるようにして下から上へ。この日からジロは北へと向かう。
毎回プーリア州を通過する度に感じるのが、ジロに対する関心の高さだ。方言がキツいためコミュニケーションに苦労する場面も多々ある(主催者も苦労している)が、老若男女問わずに沿道に出て選手たちに声援を送っている。プロトンが街中を通る際には、幾重にも重なった観客から怒号のような声援が飛ぶ。世界中どこを見回しても、ここまでボリュームの大きな声援が飛ぶレース(地域)は他に無い。
真っ平らで、一日を通して直線的で、風も強く、カテゴリー山岳も無く、集団スプリントに持ち込まれる可能性が極めて高いステージ。それだけに、いつもの「スタート直後からアタックの応酬」は見られない。2人のオージーのアタックがすんなり決まった。母国オーストラリアのオリカ・グリーンエッジに所属していた昨年よりもずっとリラックスしているジャック・ボブリッジ(オーストラリア、ブランコプロサイクリング)と、キャメロン・ウルフ(オーストラリア、オリカ・グリーンエッジ)が逃げる。
ウルフは今回ジロに出場しているキャノンデールプロサイクリングのメンバーの中で唯一のオーストラリア人(他は全員イタリア人)だが、イタリア語を堪能に話すこともあり、完全にチームに馴染んでいる。第5ステージのスタート地点で「先日ふと気付いたんだ。『自分だけイタリア人じゃない!』ってね」と笑ってみせたウルフが、大会2回目の逃げを敢行。第6ステージを終えた時点でウルフは「フーガ賞(逃げ賞:逃げの積算距離)」のトップに立った。きっとこの先のステージでも逃げを繰り返すだろう。
ちなみにここまでウルフが逃げた距離は221km。昨年「フーガ賞」トップに輝いたオリヴィエ・カイセン(ベルギー、ロット・ベリソル)は合計683km逃げた。コース全体の約5分の1を逃げた計算だ。
ゴール地点のマルゲリータ・ディ・サヴォイアは、かつてサリーネ・ディ・バルレッタ(バルレッタの塩田)と呼ばれていた。確かにゴールのすぐそばには広大な塩田が広がっている。イタリア最大規模の塩田で、コース脇には真っ白な塩の山がそびえる。
街の名前をマルゲリータ・ディ・サヴォイアに改名したのは1879年のこと。当時、イタリア中から愛されたというマルゲリータ王妃(1851年〜1926年)の名前にちなんで改名した。地元のおじさんによると、なんでもマルゲリータ王妃がこの街で恋に落ちたとか?
マルゲリータと言えばピッツァ・マルゲリータ。ちなみにピッツァ・マルゲリータ発祥の地は、ちょうど1週間前にテイラー・フィニー(アメリカ、BMCレーシングチーム)が嬉しそうにピッツァを作ったナポリのピッツェリア「ブランディ」だ。
1889年に「ブランディ」のピッツァ職人がマルゲリータ王妃を迎えるためにイタリア国旗の三色をバジリコ(緑)、モッツァレッラ(白)、トマト(赤)で表現し、王妃がいたく気にいったことから名付けられたとされている。ピッツァと第6ステージは関係していないようで関係している。
ジロ・デ・イタリアが喪に服してから早くも2年が経つ。落車事故でレオパード所属のワウテル・ウェイラント(ベルギー)が帰らぬ人となったのが、ちょうど2年前の5月9日。当時ウェイラントがつけていた「108番」は今でも欠番している。
当時のレオパードジャージを着るサイクリストや、ウェイラントを追悼する垂れ幕を飾る観客もいる。「W 108」の路上ペイントの数は昨年よりもずっと減り、家族の意向でセレモニーは行われなかったが、今でも大会関係者や選手の心にウェイラントの痛ましい事故の記憶ははっきりと残っている。
マーク・カヴェンディッシュ(イギリス、オメガファーマ・クイックステップ)の勝利で幕を閉じた「ウェイラントに捧げる」平坦ステージ。翌日からジロは重要な局面に入って行く。
アブルッツォ州の丘陵地帯を駆け抜ける第7ステージは「見た目以上に難易度が高く、危険なステージ」と選手たちは声を揃える。そしてその次の日には、3週間の中で最も大きなタイム差がつくであろう54.8kmの個人タイムトライアルが控えている。
text&photo:Kei Tsuji in Margherita di Savoia, Italy
イタリア半島(長靴)のちょうど「かかと」に位置するプーリア州。ジロはイタリア半島を横断して東海岸に出た。アドリア海に面したモーラ・ディ・バーリから「アキレス腱」をなぞるようにして下から上へ。この日からジロは北へと向かう。
毎回プーリア州を通過する度に感じるのが、ジロに対する関心の高さだ。方言がキツいためコミュニケーションに苦労する場面も多々ある(主催者も苦労している)が、老若男女問わずに沿道に出て選手たちに声援を送っている。プロトンが街中を通る際には、幾重にも重なった観客から怒号のような声援が飛ぶ。世界中どこを見回しても、ここまでボリュームの大きな声援が飛ぶレース(地域)は他に無い。
真っ平らで、一日を通して直線的で、風も強く、カテゴリー山岳も無く、集団スプリントに持ち込まれる可能性が極めて高いステージ。それだけに、いつもの「スタート直後からアタックの応酬」は見られない。2人のオージーのアタックがすんなり決まった。母国オーストラリアのオリカ・グリーンエッジに所属していた昨年よりもずっとリラックスしているジャック・ボブリッジ(オーストラリア、ブランコプロサイクリング)と、キャメロン・ウルフ(オーストラリア、オリカ・グリーンエッジ)が逃げる。
ウルフは今回ジロに出場しているキャノンデールプロサイクリングのメンバーの中で唯一のオーストラリア人(他は全員イタリア人)だが、イタリア語を堪能に話すこともあり、完全にチームに馴染んでいる。第5ステージのスタート地点で「先日ふと気付いたんだ。『自分だけイタリア人じゃない!』ってね」と笑ってみせたウルフが、大会2回目の逃げを敢行。第6ステージを終えた時点でウルフは「フーガ賞(逃げ賞:逃げの積算距離)」のトップに立った。きっとこの先のステージでも逃げを繰り返すだろう。
ちなみにここまでウルフが逃げた距離は221km。昨年「フーガ賞」トップに輝いたオリヴィエ・カイセン(ベルギー、ロット・ベリソル)は合計683km逃げた。コース全体の約5分の1を逃げた計算だ。
ゴール地点のマルゲリータ・ディ・サヴォイアは、かつてサリーネ・ディ・バルレッタ(バルレッタの塩田)と呼ばれていた。確かにゴールのすぐそばには広大な塩田が広がっている。イタリア最大規模の塩田で、コース脇には真っ白な塩の山がそびえる。
街の名前をマルゲリータ・ディ・サヴォイアに改名したのは1879年のこと。当時、イタリア中から愛されたというマルゲリータ王妃(1851年〜1926年)の名前にちなんで改名した。地元のおじさんによると、なんでもマルゲリータ王妃がこの街で恋に落ちたとか?
マルゲリータと言えばピッツァ・マルゲリータ。ちなみにピッツァ・マルゲリータ発祥の地は、ちょうど1週間前にテイラー・フィニー(アメリカ、BMCレーシングチーム)が嬉しそうにピッツァを作ったナポリのピッツェリア「ブランディ」だ。
1889年に「ブランディ」のピッツァ職人がマルゲリータ王妃を迎えるためにイタリア国旗の三色をバジリコ(緑)、モッツァレッラ(白)、トマト(赤)で表現し、王妃がいたく気にいったことから名付けられたとされている。ピッツァと第6ステージは関係していないようで関係している。
ジロ・デ・イタリアが喪に服してから早くも2年が経つ。落車事故でレオパード所属のワウテル・ウェイラント(ベルギー)が帰らぬ人となったのが、ちょうど2年前の5月9日。当時ウェイラントがつけていた「108番」は今でも欠番している。
当時のレオパードジャージを着るサイクリストや、ウェイラントを追悼する垂れ幕を飾る観客もいる。「W 108」の路上ペイントの数は昨年よりもずっと減り、家族の意向でセレモニーは行われなかったが、今でも大会関係者や選手の心にウェイラントの痛ましい事故の記憶ははっきりと残っている。
マーク・カヴェンディッシュ(イギリス、オメガファーマ・クイックステップ)の勝利で幕を閉じた「ウェイラントに捧げる」平坦ステージ。翌日からジロは重要な局面に入って行く。
アブルッツォ州の丘陵地帯を駆け抜ける第7ステージは「見た目以上に難易度が高く、危険なステージ」と選手たちは声を揃える。そしてその次の日には、3週間の中で最も大きなタイム差がつくであろう54.8kmの個人タイムトライアルが控えている。
text&photo:Kei Tsuji in Margherita di Savoia, Italy
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