2012/12/19(水) - 13:47
進路。それは誰もが悩み、ぶち当たる壁。何がしたいのか、何が向いているのか、そして何ができるのか。
その決定には、生い立ち、資質、本能、趣味、そして時代、あらゆる影響を受けるだろう。
宇都宮ブリッツェンの飯野智行選手は競輪一族とも言える環境で育ち、小さな頃から競輪選手になると決めていた。自転車競技が好きだからと言うわけではなく「職業」として。
しかし彼が最終的に選んだ道はプロロードレーサーだった。
彼が進路を変えることとなった大学生活とは?
高校生のときの自分はとてもレベルの低い選手でした。練習量も1日1~2時間程度。ロード練習で1日100キロ以上走るのは年に1回…。とりあえず筋トレだけは積極的に行なっていましたが。
親が競輪選手だったこともあり、高校から自転車競技をはじめたものの、正直なところ自転車競技には全く興味がなかったのです。
それでもスポーツをするのは嫌いではなかったので、毎日身体は動かしていました。
しかし、高校の公式大会はそこまで甘いものではありません。自分が取り組んでいた練習では全く歯が立たず…。
普通ならばその後に悔しさを感じて強くなりたいと練習量を増やすところなのでしょうが、自分はすでに諦めてしまっていました。
そんな、高校時代はかなり弱かった自分を、名門『中央大学自転車競技部』が拾ってくれました。
実は最初の頃はすごくやる気があって、遠征先にも勉強道具を持っていき、暇があればフランス語を勉強していました。しかし、それから色々あって、半年も経たないうちに大学へ行かなくなってしまいました。
朝練で5時に起き、その後大学に行って授業。そんな生活はメンタルの弱い自分には耐えられませんでした。
勉強と練習の両立は思った以上に辛く、このままだと両方ダメになってしまうと思った自分は、自転車競技だけに集中することにしました。そこから自分の自転車オンリーの生活がはじまりました。
大学に行かなくなってからは大学の寮にいる時間がとても増えました。たぶん、自転車競技部史上、自分ほど寮にいた人はいないと思います。そこである朝ふと思いました。
こんな生活をしてていいのか…?
日々精神的に病んでいくのがわかりました。学校にも行かないで、練習もみんなと同じ朝練だけ。色々悩みましたが、学校に行きたくないという気持ちは変わらず。とりあえず一日中自転車に乗ろうと決意しました。
まず朝練で6時から9時。一度寝て13時から15時。プロ並の練習量でした。そんな生活をした結果、その年の後半からレースで上位に入りはじめました。それまでずっと弱かった自分でも、練習をすれば結果は出る。
「自転車競技は練習しただけ結果がついてくる」そう強く思いました。
大学の強者達が揃うなかで上位に入るという達成感。上位に入ることで色々な人達に名前が知れ渡り、その結果知名度も上がっていきました。自分の自転車競技へのモチベーションを上げるのはまさにそこでした。
普通の選手は自転車が好きだったり、将来プロ選手になりたいという気持ちで練習を頑張っているのかもしれません。しかし、自分は自転車に興味もなくただ乗っているだけ。興味がないのに一日中練習をするのはとてもキツイことです。自分は変わった自転車選手だと思います。日々の辛い練習をこなすには、達成感だけではなく、なにかしらの目標を作ったほうがいいと感じました。
自分は高校時代からトラックとロードを両方こなしていました。しかし、両方優勝するということはとても難しく、どちらも中途半端になってしまいます。インカレという大きな大会で両方優勝できる選手はあまりいません。中央大学の添田監督にアドバイスをいただき、自分はロードに集中しようと決めました。
色々な練習方法も教わり、合宿にも積極的に参加しました。その結果、大学3年のインカレロードでは6位に入賞。自分自身で一番の好成績でした。優勝にはまだまだ遠いかもしれないけど、もっとやれると思い、4年のインカレロードに向けて更にやる気がでました。
それからまた一年本気で練習をしたけど、最後のインカレロードは8位…。脚はあったけど、レース展開の下手さを悔やみました。でも、そこでロードレースの厳しさや楽しさに気付いたのかもしれません。
しかし、自分には誰よりも頑張った自転車がある。そこで大学の監督に相談してロードレースを続けることを決意しました。
大学の先輩である飯島誠さんに実業団のことを色々聞いて、宇都宮ブリッツェンを紹介してもらいました。
栗村監督に電話してまずは面接。「走りを見ないと入団は決められない」と言われ、ジャパンカップのオープンレースに出場して走りと結果をみてもらいました。
部活は引退したけど、就職(宇都宮ブリッツェンへの)がかかっているので、練習の日々は変わらなかったです。結局、ジャパンカップのオープンレースで2位の結果を残し、終始前で走ったことで内容も評価してもらえました。
それから宇都宮ブリッツェンに入団が決まりました。大学生活で得たものはやはり「自転車」でした。
実は、大学入学時に目指していたのはプロロードレーサーではありませんでした。祖父、父親、父親の兄弟はみな競輪選手。
自分はそんな中で育ったので、小さい頃から競輪選手になることを決めていました。
大学1年、2年ではたくさん乗り込んで、それから短距離の練習をすれば強い競輪選手になれるだろうと思い、ひたすらロードの練習をしていました。そんな生活をした結果、ロードでの可能性が開け、気がつけばロードレーサーとしての道に足を踏み入れていました。
プロロードレーサーになることは、当初自分が想像していた未来とはまったく異なります。知識もほとんどないので何か見て学ぼうとも思いました。ずっと競輪選手になることを思い描いていたので、ロードレースを見ることはほとんどありません。
自転車部の部員に「DVDでツール・ド・フランスとか見た方がいいよ」と言われたけど、興味のない自分は結局見ませんでした。
思っていたものとはまるで違う道に進むのはとても不安でした。それでも自転車に乗ることが好きなので「練習さえすればなんとかなる」その気持ちだけでプロロードレーサーになりました。
今思うことは、この大学生活があったからこそ、今シーズン活躍できたのだと思います。もちろん入団したチームも自分にとても合っていたし、練習環境や生活環境にも恵まれていました。
入団した最初の頃と今とでは選手としてだいぶ変われたと思いますし、来季はさらに上を目指してきます。選手として成長の限界を見るまで、全力で自転車に乗り続けようと思います。
その決定には、生い立ち、資質、本能、趣味、そして時代、あらゆる影響を受けるだろう。
宇都宮ブリッツェンの飯野智行選手は競輪一族とも言える環境で育ち、小さな頃から競輪選手になると決めていた。自転車競技が好きだからと言うわけではなく「職業」として。
しかし彼が最終的に選んだ道はプロロードレーサーだった。
彼が進路を変えることとなった大学生活とは?
自転車競技に興味が持てなかった高校時代
自分の大学生活の大半は自転車競技でした。まず進学を決めたきっかけは、高校の3年間自転車競技に打ち込んでいたものの、「まだやり切っていない」という思いが強かったからです。高校生のときの自分はとてもレベルの低い選手でした。練習量も1日1~2時間程度。ロード練習で1日100キロ以上走るのは年に1回…。とりあえず筋トレだけは積極的に行なっていましたが。
親が競輪選手だったこともあり、高校から自転車競技をはじめたものの、正直なところ自転車競技には全く興味がなかったのです。
それでもスポーツをするのは嫌いではなかったので、毎日身体は動かしていました。
しかし、高校の公式大会はそこまで甘いものではありません。自分が取り組んでいた練習では全く歯が立たず…。
普通ならばその後に悔しさを感じて強くなりたいと練習量を増やすところなのでしょうが、自分はすでに諦めてしまっていました。
そんな、高校時代はかなり弱かった自分を、名門『中央大学自転車競技部』が拾ってくれました。
極端な「自転車オンリー生活」を送った大学時代
大学に進学した後に待っていたのは、「勉強と練習の両立」でした。中央大学は勉学の成績が良い人が多く、スポーツ推薦で入った自分はというと、とても授業についていける状況ではありませんでした。さすがに高校時代のように授業中に寝たりはしませんでしたが、一番最初の授業でフランス人教師に怒られたのをよく覚えています。実は最初の頃はすごくやる気があって、遠征先にも勉強道具を持っていき、暇があればフランス語を勉強していました。しかし、それから色々あって、半年も経たないうちに大学へ行かなくなってしまいました。
朝練で5時に起き、その後大学に行って授業。そんな生活はメンタルの弱い自分には耐えられませんでした。
勉強と練習の両立は思った以上に辛く、このままだと両方ダメになってしまうと思った自分は、自転車競技だけに集中することにしました。そこから自分の自転車オンリーの生活がはじまりました。
大学に行かなくなってからは大学の寮にいる時間がとても増えました。たぶん、自転車競技部史上、自分ほど寮にいた人はいないと思います。そこである朝ふと思いました。
こんな生活をしてていいのか…?
日々精神的に病んでいくのがわかりました。学校にも行かないで、練習もみんなと同じ朝練だけ。色々悩みましたが、学校に行きたくないという気持ちは変わらず。とりあえず一日中自転車に乗ろうと決意しました。
まず朝練で6時から9時。一度寝て13時から15時。プロ並の練習量でした。そんな生活をした結果、その年の後半からレースで上位に入りはじめました。それまでずっと弱かった自分でも、練習をすれば結果は出る。
「自転車競技は練習しただけ結果がついてくる」そう強く思いました。
大学の強者達が揃うなかで上位に入るという達成感。上位に入ることで色々な人達に名前が知れ渡り、その結果知名度も上がっていきました。自分の自転車競技へのモチベーションを上げるのはまさにそこでした。
普通の選手は自転車が好きだったり、将来プロ選手になりたいという気持ちで練習を頑張っているのかもしれません。しかし、自分は自転車に興味もなくただ乗っているだけ。興味がないのに一日中練習をするのはとてもキツイことです。自分は変わった自転車選手だと思います。日々の辛い練習をこなすには、達成感だけではなく、なにかしらの目標を作ったほうがいいと感じました。
インカレで優勝することを目標に
大学で一番大きな大会、それは説明するまでもなくインカレです。この大会で優勝すれば本物になれる。そこに目標を定めました。自分は高校時代からトラックとロードを両方こなしていました。しかし、両方優勝するということはとても難しく、どちらも中途半端になってしまいます。インカレという大きな大会で両方優勝できる選手はあまりいません。中央大学の添田監督にアドバイスをいただき、自分はロードに集中しようと決めました。
色々な練習方法も教わり、合宿にも積極的に参加しました。その結果、大学3年のインカレロードでは6位に入賞。自分自身で一番の好成績でした。優勝にはまだまだ遠いかもしれないけど、もっとやれると思い、4年のインカレロードに向けて更にやる気がでました。
それからまた一年本気で練習をしたけど、最後のインカレロードは8位…。脚はあったけど、レース展開の下手さを悔やみました。でも、そこでロードレースの厳しさや楽しさに気付いたのかもしれません。
大学4年間で得たものは、やっぱり自転車だった
4年のインカレが終わるとそこで部活は引退です。普通であれば既に就職活動をしていて、進路はほとんど決まっている頃でしょう。自転車競技にしか取り組んでこなかった自分は、就職どころか大学卒業も無理でした。しかし、自分には誰よりも頑張った自転車がある。そこで大学の監督に相談してロードレースを続けることを決意しました。
大学の先輩である飯島誠さんに実業団のことを色々聞いて、宇都宮ブリッツェンを紹介してもらいました。
栗村監督に電話してまずは面接。「走りを見ないと入団は決められない」と言われ、ジャパンカップのオープンレースに出場して走りと結果をみてもらいました。
部活は引退したけど、就職(宇都宮ブリッツェンへの)がかかっているので、練習の日々は変わらなかったです。結局、ジャパンカップのオープンレースで2位の結果を残し、終始前で走ったことで内容も評価してもらえました。
それから宇都宮ブリッツェンに入団が決まりました。大学生活で得たものはやはり「自転車」でした。
練習を重ねるうちに、気がつけばロードレーサーに
実は、大学入学時に目指していたのはプロロードレーサーではありませんでした。祖父、父親、父親の兄弟はみな競輪選手。
自分はそんな中で育ったので、小さい頃から競輪選手になることを決めていました。
大学1年、2年ではたくさん乗り込んで、それから短距離の練習をすれば強い競輪選手になれるだろうと思い、ひたすらロードの練習をしていました。そんな生活をした結果、ロードでの可能性が開け、気がつけばロードレーサーとしての道に足を踏み入れていました。
プロロードレーサーになることは、当初自分が想像していた未来とはまったく異なります。知識もほとんどないので何か見て学ぼうとも思いました。ずっと競輪選手になることを思い描いていたので、ロードレースを見ることはほとんどありません。
自転車部の部員に「DVDでツール・ド・フランスとか見た方がいいよ」と言われたけど、興味のない自分は結局見ませんでした。
思っていたものとはまるで違う道に進むのはとても不安でした。それでも自転車に乗ることが好きなので「練習さえすればなんとかなる」その気持ちだけでプロロードレーサーになりました。
今思うことは、この大学生活があったからこそ、今シーズン活躍できたのだと思います。もちろん入団したチームも自分にとても合っていたし、練習環境や生活環境にも恵まれていました。
入団した最初の頃と今とでは選手としてだいぶ変われたと思いますし、来季はさらに上を目指してきます。選手として成長の限界を見るまで、全力で自転車に乗り続けようと思います。
プロフィール
飯野 智行 いいの ともゆき
1989年10月5日生(23歳)
1989年10月5日生(23歳)
学連出身の中堅選手として2012年シーズンから宇都宮ブリッツェンに加入。国内の頂上決戦となる4月の全日本選手権ロード(初出場)では多くの有力選手たちを抑えていきなり4位入賞。その後もヒルクライムレースや難易度の厳しいロードレースで実績を残していき、9月のツール・ド・北海道では個人総合6位に食い込んで自身初のUCIポイントを獲得する。
世界の強豪が参加したジャパンカップでは、勝負の掛かった古賀志の上りでバッソやサガンなどに見事に食らいついた(日本人選手でつけたのは清水都貴選手と飯野選手のみ)。
そして迎えたJプロツアー最終戦のJBCF輪島ロード。難易度の高いコース上でフルメンバーによって争われたサバイバルレースを増田選手と共に支配し、プロ1年目にしてメジャーレースでの初優勝を飾った。2012年のJプロツアー最終ランキングは増田選手(宇都宮ブリッツェン)に次ぐ2位。
世界の強豪が参加したジャパンカップでは、勝負の掛かった古賀志の上りでバッソやサガンなどに見事に食らいついた(日本人選手でつけたのは清水都貴選手と飯野選手のみ)。
そして迎えたJプロツアー最終戦のJBCF輪島ロード。難易度の高いコース上でフルメンバーによって争われたサバイバルレースを増田選手と共に支配し、プロ1年目にしてメジャーレースでの初優勝を飾った。2012年のJプロツアー最終ランキングは増田選手(宇都宮ブリッツェン)に次ぐ2位。
Panaracer「RACE EVO2」シリーズ
路面や天候に左右されずに高いグリップ力を発揮する「RACE」シリーズがリニューアルし「RACE EVO2」シリーズへ進化。進化の最大のポイントはコンパウンド。今までのグリップ力を維持しながら、トレッドの耐摩耗性と耐カット性を向上。
さらにクリンチャーのA EVO2とL EVO2はケーシング素材を改良し、転がり抵抗も軽減。D EVO2とA EVO2は勘合性が改善されるなど、高い次元でのトータルバランスが実現している。
関連ニュース:パナレーサー RACE EVO2シリーズ モデルチェンジした定番レーシングタイヤ
さらにクリンチャーのA EVO2とL EVO2はケーシング素材を改良し、転がり抵抗も軽減。D EVO2とA EVO2は勘合性が改善されるなど、高い次元でのトータルバランスが実現している。
関連ニュース:パナレーサー RACE EVO2シリーズ モデルチェンジした定番レーシングタイヤ
ソール・ソジャサン ニュース | ||||
パリ〜トゥール2012(UCI.1.HC) | ||||
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Panaracerサポート選手の注目リザルト | ||||||||||||||||||
Jプロツアー第14戦 経済産業大臣旗ロードチャンピオンシップ2012 | ||||||||||||||||||
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Jプロツアー第15戦 いわきクリテリウム2012 | ||||||||||||||||||
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Jプロツアー第16戦 知多半島・美浜クリテリウム2012 | ||||||||||||||||||
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2012ジャパンカップ オープンレース | ||||||||||||||||||
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2012ジャパンカップクリテリウム | ||||||||||||||||||
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2012ジャパンカップサイクルロードレース(UCI.1.HC) | ||||||||||||||||||
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Jプロツアー第17戦 輪島ロードレース2012 | ||||||||||||||||||
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ツール・ド・おきなわ | ||||||||||||||||||
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MTB Jシリーズ2012XCO第6戦(石川県・一里野) | ||||||||||||||||||
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MTB Jシリーズ2012XCO第7戦(長野県・白馬) | ||||||||||||||||||
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トライアスロン 日本選手権 東京湾大会 | ||||||||||||||||||
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車イス陸上 大分国際車いすマラソン | ||||||||||||||||||
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提供:パナソニック ポリテクノロジー株式会社