2015/09/15(火) - 12:55
トライアスリートとして2度のオリンピック出場経験を持つ西内洋行(にしうちひろゆき)さん。その経験を生かし、若手の育成やトライアスロンの普及にも積極的に取り組む姿勢は、多くのトライアスリートに影響を与えている。
毎週土曜日は友達との遊びを捨て、昼前に家を出発し、90分の授業を受けて帰宅する。途中のドライブインでご飯を食べ、夜10時くらいに家に着く。そんな生活を毎週していた。プールで泳ぐためには、それが普通と思っていたので特に苦に思わなかった。父親が送っていけないときは、兄と2人で電車に乗って行くこともあった。仙台までの電車の駅を、退屈しのぎで全部覚えていった。次は、◯◯駅だなと…
小学6年生になったころ、ようやく隣町の福島県浪江町にスイミングクラブができた。それでも20kmのバスの道のり。最初は週3回の育成コースだったのだが、選手コースにあがると、週5回に増えた。放課後はまっすぐ家に帰り、すぐにスイミングクラブへ行くという形になっていった。宿題や勉強はバスの中か、スイミングクラブでやることが多かった。帰りのバスは暗いので、カセットテープに自分での声を吹き込み、暗唱できるよう工夫した。
といっても勉強は好きな方ではなかったので、全ての時間がそうだったわけではない。バスに乗りながら、色々な事をボーっと頭の中で思い描くのが好きだった。特に何を考えていたかはよく覚えていないが、物事をよく観察するのが得意だった気がする。
水泳はやっているし、中学時代には陸上もやっていた。バイクは父親の自転車を借りて以前から面白半分で乗っていたので、それも自信があった。
初レースは1994年のインカレの予選会。群馬県の渡良瀬遊水池で行っていたものだ。予選ではかなり自信があったので、優勝できるだろうとスタート。スイムは競泳のトレーニングをガンガンやっていた頃なので予定通りトップ。しかし、そこからのバイクはイメージと違った。ぶっちぎる予定が何人にも抜かれ、踏んでも踏んでも進まない。そこでズルズル後退し、ランで追い上げるも、6位でフィニッシュ。インカレ出場はできたものの、ほろ苦いトライアスロンデビューとなった。
ランの登りで、駄目元でくらいついた1位集団で、海外選手の走りを観察。登りに弱い選手がいると見るや、次の登りでペースを上げて集団からふるい落とし、下りが遅い選手がいるのを見るや、下りで揺さぶりのスパートをかけた。そのスパートは揺さぶりの目的だったのだが、そのスパートで単独トップに躍り出て、無名選手がメジャーレースで優勝。子供の頃の観察力がここで大いに発揮された。
後で知ったが、このレースがシドニーオリンピックの選考レースの1つに入っていたので、これがきっかけでオリンピックの切符を手に入れることができた。
そしてシドニーオリンピックの大会当日。スタート前に靴下を脱ごうとした瞬間、足を攣ってしまう。オーバートレーニングによる疲労が原因だった。トレーナーが帯同していて、毎日ほぐしてもらうが、そもそも体内に疲労が溜まり過ぎているので、すぐ元に戻ってしまう。
レース中は足が攣りっぱなしで、後ろから2番目の46位でフィニッシュする。リタイヤも脳裏をよぎるが、この辱めを全世界の人達に見てもらい、それをバネに次を頑張ろうと心に誓った。
「オリンピックには魔物が潜む」とよく言われるが、魔物は己の心の中にあり、焦ったり、欲を出してしまったりした時に、それが魔物と化して襲ってくるものだろうと思う。
その「恥」のシドニーオリンピックから、アテネオリンピックの選考レースまで、ずっとその事を思い出してトレーニングしていた。その甲斐あって、アテネオリンピックへの切符を手に入れ、雪辱の機会を獲得。順位は34位と、とてもメダルには遠い順位になってしまったものの、一番緊張をするオリンピックの舞台で、通常のレースができたことは、ようやくスタートラインに立てたと思うことができ、次のステップへの大いなる励みとなった。
残念ながら北京オリンピックへの切符は手に入れられなかったが、トライアスロンを始めた原点を思い起こすことができた。トライアスロンをやろうと思ったきっかけであるハワイアイアンマン(スイム3.8km バイク180km ラン42km)にチャレンジすることにした。最初に始めた頃はオリンピックに種目が無かったし、いずれこの長い距離にチャレンジしたいという願望はあったので、アイアンマンや、ロングのレースに本格的に転向する事に全く抵抗は無かった。
最初はプロ活動をして、ロングにチャレンジしていたが、ある機会から2007年にteamTBBという、世界最強のチームに妻と所属することができ、日本人トライアスリートとしては初となる、海外とのプロチーム契約をすることになった。
チームメイトとの長期間の合宿や、英語生活にも慣れ、夢であった世界最高峰のトライアスロンと呼ばれる、ハワイアイアンマン、プロカテゴリーでの出場を果たす。現在は、レギュレーションが変わり、世界で何戦かしてポイント獲得をしないと出場できなくなり、国内やアジアのメジャーレースに的を絞って活動をしている。
確かに、何かをやろうとして出来なかった時、「それは失敗」としてしまうと、それはマイナス要素にしかならなくなってしまう。しかし、失敗からの学びが何にでもあるので、それをマイナスの箱にいれてしまうのは、もったいない。
箱に入れるのなら、「マイナスをプラスに変えましょう!」という箱を自分で作って、それに入れるように私はしている。箱に入れると、そのマイナスなことになりつつあることを、プラスに変換する回路を通って、プラスになって出てくる。そんなイメージを持っている。
また、実家の南相馬市が被災したため、今後は母校の原町第三小学校を中心に、トライアスロンを教えていくボランティアを行って支援をし、子供たちのスポーツを通しての健康づくりを再度築いていきたいと思う。
そのタイヤは非常にはめやすかったのだが、反面それが仇になって、コーナーで圧力をかけた時に外れやすかったのだ。はめる時に入れにくいのは、それだけしっかりはまっているということ。
最近ははめるコツを覚えたので、それさえ感覚をつかめれば、簡単にはめることができるようになった。それを現在指導しているスクールなどでレクチャーをしている。
2時間半かけてのスイミングクラブ通いが原点
小学校3年生からスイミングクラブに通い始めた。自宅から何と90kmも離れたスイミングクラブだ。地元の福島県南相馬市ではスイミングクラブが無く、父が運転する車で2時間半もかけて、宮城県仙台市に週1回のペースで通っていた。毎週土曜日は友達との遊びを捨て、昼前に家を出発し、90分の授業を受けて帰宅する。途中のドライブインでご飯を食べ、夜10時くらいに家に着く。そんな生活を毎週していた。プールで泳ぐためには、それが普通と思っていたので特に苦に思わなかった。父親が送っていけないときは、兄と2人で電車に乗って行くこともあった。仙台までの電車の駅を、退屈しのぎで全部覚えていった。次は、◯◯駅だなと…
小学6年生になったころ、ようやく隣町の福島県浪江町にスイミングクラブができた。それでも20kmのバスの道のり。最初は週3回の育成コースだったのだが、選手コースにあがると、週5回に増えた。放課後はまっすぐ家に帰り、すぐにスイミングクラブへ行くという形になっていった。宿題や勉強はバスの中か、スイミングクラブでやることが多かった。帰りのバスは暗いので、カセットテープに自分での声を吹き込み、暗唱できるよう工夫した。
といっても勉強は好きな方ではなかったので、全ての時間がそうだったわけではない。バスに乗りながら、色々な事をボーっと頭の中で思い描くのが好きだった。特に何を考えていたかはよく覚えていないが、物事をよく観察するのが得意だった気がする。
トライアスロンとの出会い
その後、高校生になって短距離自由形の競泳選手として活動し、全国大会まで駒を進めることができるようになった。ただ、全国大会出場はできるものの、入賞には程遠い記録で、悔しい思いをしていた。自分には別なスポーツが向いているのではないか?と思い始め、ちょうど父親がやっていたトライアスロンをやってみようと決意。しかし当時は高校生が出場できる大会が無く、18歳以上がほとんど。いつかは出てみようと心に夢を抱いて、大学入学後からチャレンジを始める。水泳はやっているし、中学時代には陸上もやっていた。バイクは父親の自転車を借りて以前から面白半分で乗っていたので、それも自信があった。
初レースは1994年のインカレの予選会。群馬県の渡良瀬遊水池で行っていたものだ。予選ではかなり自信があったので、優勝できるだろうとスタート。スイムは競泳のトレーニングをガンガンやっていた頃なので予定通りトップ。しかし、そこからのバイクはイメージと違った。ぶっちぎる予定が何人にも抜かれ、踏んでも踏んでも進まない。そこでズルズル後退し、ランで追い上げるも、6位でフィニッシュ。インカレ出場はできたものの、ほろ苦いトライアスロンデビューとなった。
子供の頃に培った観察力が活かされオリンピックの切符を手中に
大学時代はインカレでの優勝を目指していたが、3年生のときの4位が最高位。その後も1999年までジャパンカップ20位前後という位置で競技を続ける。ところが、その年のジャパンカップ天草大会でいきなり優勝を遂げた。ランの登りで、駄目元でくらいついた1位集団で、海外選手の走りを観察。登りに弱い選手がいると見るや、次の登りでペースを上げて集団からふるい落とし、下りが遅い選手がいるのを見るや、下りで揺さぶりのスパートをかけた。そのスパートは揺さぶりの目的だったのだが、そのスパートで単独トップに躍り出て、無名選手がメジャーレースで優勝。子供の頃の観察力がここで大いに発揮された。
後で知ったが、このレースがシドニーオリンピックの選考レースの1つに入っていたので、これがきっかけでオリンピックの切符を手に入れることができた。
オリンピックで魔物に出会う
「オリンピックという大舞台で、メダルを持って帰りたい!」という欲望が出てきたのが、オリンピックの前年。それまで世界選手権にすら出たことのない選手が、いきなりその願望を抱くのだから、いささかひずみが出てくる。こんなことではメダルは取れないと妄想し始め、次第にオーバートレーニングで身体が硬直してくる。そしてシドニーオリンピックの大会当日。スタート前に靴下を脱ごうとした瞬間、足を攣ってしまう。オーバートレーニングによる疲労が原因だった。トレーナーが帯同していて、毎日ほぐしてもらうが、そもそも体内に疲労が溜まり過ぎているので、すぐ元に戻ってしまう。
レース中は足が攣りっぱなしで、後ろから2番目の46位でフィニッシュする。リタイヤも脳裏をよぎるが、この辱めを全世界の人達に見てもらい、それをバネに次を頑張ろうと心に誓った。
「オリンピックには魔物が潜む」とよく言われるが、魔物は己の心の中にあり、焦ったり、欲を出してしまったりした時に、それが魔物と化して襲ってくるものだろうと思う。
日本人にとっての恥の文化
シドニーオリンピックで失敗した自分の姿を、どのくらいの人が見たかは重要ではなく、1人でも見ていたらそれは恥ずかしいことである。日本人は恥の文化で、それはスポーツにとって良くないと言われることがあるが、私はあまり気にしていない。その考えが自然と身についているので、それを無理やり変えようとすると、かえって悪影響を及ぼすような気がしている。自然体で、それにちょっとアレンジをする程度の方が、自分にストレスがなく、競技に専念しやすいと思う。その「恥」のシドニーオリンピックから、アテネオリンピックの選考レースまで、ずっとその事を思い出してトレーニングしていた。その甲斐あって、アテネオリンピックへの切符を手に入れ、雪辱の機会を獲得。順位は34位と、とてもメダルには遠い順位になってしまったものの、一番緊張をするオリンピックの舞台で、通常のレースができたことは、ようやくスタートラインに立てたと思うことができ、次のステップへの大いなる励みとなった。
ハワイアイアンマンへのチャレンジという原点へ
残念ながら北京オリンピックへの切符は手に入れられなかったが、トライアスロンを始めた原点を思い起こすことができた。トライアスロンをやろうと思ったきっかけであるハワイアイアンマン(スイム3.8km バイク180km ラン42km)にチャレンジすることにした。最初に始めた頃はオリンピックに種目が無かったし、いずれこの長い距離にチャレンジしたいという願望はあったので、アイアンマンや、ロングのレースに本格的に転向する事に全く抵抗は無かった。
最初はプロ活動をして、ロングにチャレンジしていたが、ある機会から2007年にteamTBBという、世界最強のチームに妻と所属することができ、日本人トライアスリートとしては初となる、海外とのプロチーム契約をすることになった。
チームメイトとの長期間の合宿や、英語生活にも慣れ、夢であった世界最高峰のトライアスロンと呼ばれる、ハワイアイアンマン、プロカテゴリーでの出場を果たす。現在は、レギュレーションが変わり、世界で何戦かしてポイント獲得をしないと出場できなくなり、国内やアジアのメジャーレースに的を絞って活動をしている。
マイナスからプラスへ変換する回路
周りから「これは失敗だったな…」、「これはやらなければよかった…」、「こうすればよかった…」と後悔の言葉が聞かれる時、すごく違和感を覚えるようになった。それは、私はあまりそういう考えをしたくないからである。確かに、何かをやろうとして出来なかった時、「それは失敗」としてしまうと、それはマイナス要素にしかならなくなってしまう。しかし、失敗からの学びが何にでもあるので、それをマイナスの箱にいれてしまうのは、もったいない。
箱に入れるのなら、「マイナスをプラスに変えましょう!」という箱を自分で作って、それに入れるように私はしている。箱に入れると、そのマイナスなことになりつつあることを、プラスに変換する回路を通って、プラスになって出てくる。そんなイメージを持っている。
トライアスリートの妻(西内真紀)から見た夫(西内洋行)
「夫は効率的な動きを研究しているので、トレーニングが少なくても強く、成績が安定しています。びっくりするのがレースの時に忘れ物をしても慌てずに対処してしまう所。見ているこちらが慌てました…。人に惑わされずに、自分のペース、価値観を大切にして動いているのがいいですね。」今後の目標
自身もプロ活動を続けながら、スクールや大会運営など、トライアスロン普及活動にもより一層力を入れていきたい。それには若手の選手が活動しやすい環境作りが大切と考え、スクールで教えて収入を得ながら競技に出場し、スタッフにも高効率動作を学んでもらい大会で上位に入れるよう、そして全般的にプラスになっていくよう組織作りをしていきたい。また、実家の南相馬市が被災したため、今後は母校の原町第三小学校を中心に、トライアスロンを教えていくボランティアを行って支援をし、子供たちのスポーツを通しての健康づくりを再度築いていきたいと思う。
パナレーサーに身を預ける
このホイールトークの主催「パナレーサー」のタイヤは、私もサポートして頂き使用しているが、正直言ってクリンチャータイヤははめるのが難しい。「もっと緩くしてもらえれば楽なのに…」と思うことがあったが、以前海外製のあるタイヤを使っていたとき、走行中にリムからタイヤが外れてしまい、危うく落車しそうになったことがある。そのタイヤは非常にはめやすかったのだが、反面それが仇になって、コーナーで圧力をかけた時に外れやすかったのだ。はめる時に入れにくいのは、それだけしっかりはまっているということ。
最近ははめるコツを覚えたので、それさえ感覚をつかめれば、簡単にはめることができるようになった。それを現在指導しているスクールなどでレクチャーをしている。
プロフィール
西内 洋行 にしうちひろゆき
生年月日:1975年10月13日
出身地:福島県南相馬市
所属:teamNSI・西京味噌・新日本製薬
生年月日:1975年10月13日
出身地:福島県南相馬市
所属:teamNSI・西京味噌・新日本製薬
学生時代に競泳、山岳、陸上を経験。1994年の大学時代からトライアスロンを始める。シドニー・アテネオリンピックに出場し、2007年より海外の強豪チーム、teamTBBに所属。日本人男子唯一となる海外契約選手となった。2011年4月からはプロ活動を続けながら、大阪市都島区にNSIトライアスロンスクールを立ち上げ、初心者からトップ選手まで指導をしている。また、TBB JAPANとして、COBB CYCLINGのサドルの輸入代理店を開始。
主な経歴
2000年 シドニーオリンピック46位
2004年 アテネオリンピック32位
2001、2002年 アジアチャンピオン
2013年、2014年 佐渡国際トライアスロン大会Aタイプ 優勝
先日(2015年9月6日)開催された佐渡国際トライアスロン(Swim3.8km、Bike190km、Run42km)に優勝し、3連覇を果たす。
Aタイプ男子 結果
優勝 西内洋行 9:58:36
2位 松下 篤 10:07:52
3位 高松 辰雄 10:17:47
主な経歴
2000年 シドニーオリンピック46位
2004年 アテネオリンピック32位
2001、2002年 アジアチャンピオン
2013年、2014年 佐渡国際トライアスロン大会Aタイプ 優勝
先日(2015年9月6日)開催された佐渡国際トライアスロン(Swim3.8km、Bike190km、Run42km)に優勝し、3連覇を果たす。
Aタイプ男子 結果
優勝 西内洋行 9:58:36
2位 松下 篤 10:07:52
3位 高松 辰雄 10:17:47
提供:パナレーサー株式会社