2011/09/10(土) - 15:49
大きな声で言ったら怒られるのかも知らないけれど、個人的にはバスクはスペインと別物だと思う。今回初めてバスク州最大の都市ビルバオを訪れてそう思った。スペイン語とバスク語が飛び交うゴール地点に、イゴール・アントン(スペイン、エウスカルテル)が飛び込んできた時はさすがに鳥肌が立った。
バスク。スペインのロードレースを語る上で欠かせない存在だ。形式上は17あるスペインの自治州の一つ。だが様々な点で他の州と異なる。
例えば、バスク人が話すバスク語は、他のどの言語系統にも属さない孤立した言語だという。スペイン語同様ラテン文字で現されるので少しは分かりそうなもの。でも、はっきり言って、話している言葉を聞いても0.5%ぐらいしか理解できない。
街並を見てもそう思う。この日のゴール地点でバスク州最大の都市、人口35万人(スペイン第10位)のビルバオ中心部には、デザイン性の高い建物が並ぶ。交通標識はバスク語、そしてスペイン語。誤解を恐れずに言うと、街並はどこか北欧っぽくもある。それに(別にスペイン人が勤勉じゃないというわけじゃなく)バスクの人々は勤勉らしい。
スペインでありながらどこかスペインと違う。そんなジレンマを背負うバスクは、長年スペインに対して独立運動を起こしてきた。70年代後半に入ると独立運動は活発化。それまでビルバオは毎年ほぼ欠かさずブエルタに組み込まれていたが、1978年を最後に「スペイン一周レース」を寄せ付けなくなる。
それから33年。ようやくブエルタがバスクに帰ってきた。カンタブリア州のノハからバスク最大の都市ビルバオに至る第19ステージ、そしてビルバオからバスク州の州都ビトリアに至る第20ステージが「スペイン一周レース」に花を添える。
スペインを代表する多くのロードレーサーを輩出しながらも、ブエルタに登場しないという違和感が解消された(実は2日前の第17ステージで少しだけバスクかじっている。スタート地点のファウスティーノVはバスク州。そこから数百メートル走ってラ・リオハ州に入っている)。
ちなみに「バスク」という言葉はスペイン語(カスティーリャ語)であり、バスクの人々は「エウスカディ」と呼ぶ。
この日はバスクを代表する正真正銘のバスクチーム、エウスカルテル・エウスカディが奮起しないわけがない。すでに総合では大きく遅れ、ステージ優勝はおろか、4賞ジャージさえ一度も手にしていないエウスカルテル。表彰台に登ったのは、第13ステージの敢闘賞アメツ・チュルカ(スペイン、エウスカルテル)だけという散々な有様。
メンバーを全員残すエウスカルテルは、レース序盤から攻めに出た。他にも全選手を残しているのはリクイガス・キャノンデール、アージェードゥーゼル、カチューシャ、オメガファーマ・ロット、アスタナ。モビスターはウィルスの影響ですでに5名がリタイア。僅か4名しかレースに残っていない。
モビスターを奮い立たせるように、マルツィオ・ブルセギン(イタリア)がアタック。エウスカルテルのイゴール・アントン(スペイン)、ゴルカ・ベルドゥーゴ(スペイン)、そしてこの日現地入りしたカザフスタンの放送局の前で良いところを見せたいアレクサンドル・ディアチェンコ(カザフスタン、アスタナ)が逃げる。
この第19ステージを逃げの最後のチャンスだと言い続けてきた土井雪広(スキル・シマノ)は「序盤は信じられないようなスピードだった。他のチームも(逃げに選手を送り込めずに)失敗していた」と語る。29km地点で形成されたアントン、ベルドゥーゴ、ブルセギン、ディアチェンコの逃げには乗れなかった。
とにかく暑い。「前半のアンダルシアステージは死ぬような暑さだった。もう暑いステージはないから余裕だ」と話していたスキル・シマノのマッサージャーも、これは暑過ぎるというジェスチャー。街中の温度計は44度。レンタカーのフォルクスワーゲン・ポロの車外温度計は38度を指す。最高気温はおそらく40度ほど。
先回りして2級山岳エル・ビベロ峠に向かう。想像通り、登りはバスクファンで埋め尽くされていた。沿道にはオレンジのTシャツ、そして歴代のエウスカルテルジャージが並ぶ。さすがにバイクはオルベア率が高い。
手に持っているのは、赤・緑・白のバスク州旗。その他にも、バスクの独立を支持するメッセージ性の強い旗も目立つ。そして「アウパ!(AUPA)」という言葉も。これはバスク語で「頑張れ!」という意味。現在ではスペイン全国で使われているという。
頂上500m手前の最も勾配のある区間は異常なほどの人の入り。レース関係車両が「ぶつかるぞ、避けろよ」という勢いで観客の中を縫って行く。縫うと言うより突進して行く。
そんなバスクマウンテンを、アントンが先頭で登ってきた。まだ1回目の登坂(合計2回登坂する)だと言うのに会場は熱狂。それもそのはず、この2級山岳エル・ビベロ峠の麓にある街ガルダカオは、アントンの出身地だ。
これまで何百回と登ったであろうエル・ビベロ峠で、アントンは動いた。「ジロ・デ・イタリアの疲労が抜け切れてない」と語るバスクチームのリーダーは、2回目のエル・ビベロ峠でアタック。親族、友人、そして熱狂的なファンの前で最大の見せ場を作り、熟知した下りを独走。ビルバオの大通りに単独でやってきた。
両側を建物に囲まれ、さらに街路樹に包まれた薄暗い大通りに、先頭でやってきたアントンとエウスカルテルのチームカー。会場は熱狂に包まれる。ここまで一体感のあるゴールは初めてだ。会場にいる全員がアントンを祝福している、そう感じられた。
33年ぶりのバスクステージで、バスク人が勝った。しかも逃げから独走に持ち込むという美しい勝ち方で。アントンのコメントはレースレポートに任せる。
バスク初日を終え、総合首位ファンホセ・コーボ(スペイン、ジェオックス・TMC)と総合2位クリス・フルーム(イギリス、チームスカイ)のタイム差は13秒のまま。フルームの狙いすました強烈なアタックも、コーボを突き落とすには至らなかった。
両者の激しいバトルは、第20ステージで決着がつく。もし決着がつかなければ最終日のボーナスタイム争いになる?グランツールとしては珍しく、最終日に逆転が起こる可能性はゼロではない。
土井雪広は19分12秒遅れの集団でゴール。ジャージの前を全開にして、最大限空気を取り込んでいる。しかしそれでも暑いものは暑い。「今日は暑すぎた。どうやら自分は暑いのが苦手らしい(笑)それにしても疲れた!」表情を歪ませながら、スタッフから受け取った清涼飲料水を一気に飲み干す。ホテルに自走で向かうその表情には、残り2ステージという安堵感も浮かんだ。
text&photo:Kei Tsuji in Bilbao, Euskadi
バスク。スペインのロードレースを語る上で欠かせない存在だ。形式上は17あるスペインの自治州の一つ。だが様々な点で他の州と異なる。
例えば、バスク人が話すバスク語は、他のどの言語系統にも属さない孤立した言語だという。スペイン語同様ラテン文字で現されるので少しは分かりそうなもの。でも、はっきり言って、話している言葉を聞いても0.5%ぐらいしか理解できない。
街並を見てもそう思う。この日のゴール地点でバスク州最大の都市、人口35万人(スペイン第10位)のビルバオ中心部には、デザイン性の高い建物が並ぶ。交通標識はバスク語、そしてスペイン語。誤解を恐れずに言うと、街並はどこか北欧っぽくもある。それに(別にスペイン人が勤勉じゃないというわけじゃなく)バスクの人々は勤勉らしい。
スペインでありながらどこかスペインと違う。そんなジレンマを背負うバスクは、長年スペインに対して独立運動を起こしてきた。70年代後半に入ると独立運動は活発化。それまでビルバオは毎年ほぼ欠かさずブエルタに組み込まれていたが、1978年を最後に「スペイン一周レース」を寄せ付けなくなる。
それから33年。ようやくブエルタがバスクに帰ってきた。カンタブリア州のノハからバスク最大の都市ビルバオに至る第19ステージ、そしてビルバオからバスク州の州都ビトリアに至る第20ステージが「スペイン一周レース」に花を添える。
スペインを代表する多くのロードレーサーを輩出しながらも、ブエルタに登場しないという違和感が解消された(実は2日前の第17ステージで少しだけバスクかじっている。スタート地点のファウスティーノVはバスク州。そこから数百メートル走ってラ・リオハ州に入っている)。
ちなみに「バスク」という言葉はスペイン語(カスティーリャ語)であり、バスクの人々は「エウスカディ」と呼ぶ。
この日はバスクを代表する正真正銘のバスクチーム、エウスカルテル・エウスカディが奮起しないわけがない。すでに総合では大きく遅れ、ステージ優勝はおろか、4賞ジャージさえ一度も手にしていないエウスカルテル。表彰台に登ったのは、第13ステージの敢闘賞アメツ・チュルカ(スペイン、エウスカルテル)だけという散々な有様。
メンバーを全員残すエウスカルテルは、レース序盤から攻めに出た。他にも全選手を残しているのはリクイガス・キャノンデール、アージェードゥーゼル、カチューシャ、オメガファーマ・ロット、アスタナ。モビスターはウィルスの影響ですでに5名がリタイア。僅か4名しかレースに残っていない。
モビスターを奮い立たせるように、マルツィオ・ブルセギン(イタリア)がアタック。エウスカルテルのイゴール・アントン(スペイン)、ゴルカ・ベルドゥーゴ(スペイン)、そしてこの日現地入りしたカザフスタンの放送局の前で良いところを見せたいアレクサンドル・ディアチェンコ(カザフスタン、アスタナ)が逃げる。
この第19ステージを逃げの最後のチャンスだと言い続けてきた土井雪広(スキル・シマノ)は「序盤は信じられないようなスピードだった。他のチームも(逃げに選手を送り込めずに)失敗していた」と語る。29km地点で形成されたアントン、ベルドゥーゴ、ブルセギン、ディアチェンコの逃げには乗れなかった。
とにかく暑い。「前半のアンダルシアステージは死ぬような暑さだった。もう暑いステージはないから余裕だ」と話していたスキル・シマノのマッサージャーも、これは暑過ぎるというジェスチャー。街中の温度計は44度。レンタカーのフォルクスワーゲン・ポロの車外温度計は38度を指す。最高気温はおそらく40度ほど。
先回りして2級山岳エル・ビベロ峠に向かう。想像通り、登りはバスクファンで埋め尽くされていた。沿道にはオレンジのTシャツ、そして歴代のエウスカルテルジャージが並ぶ。さすがにバイクはオルベア率が高い。
手に持っているのは、赤・緑・白のバスク州旗。その他にも、バスクの独立を支持するメッセージ性の強い旗も目立つ。そして「アウパ!(AUPA)」という言葉も。これはバスク語で「頑張れ!」という意味。現在ではスペイン全国で使われているという。
頂上500m手前の最も勾配のある区間は異常なほどの人の入り。レース関係車両が「ぶつかるぞ、避けろよ」という勢いで観客の中を縫って行く。縫うと言うより突進して行く。
そんなバスクマウンテンを、アントンが先頭で登ってきた。まだ1回目の登坂(合計2回登坂する)だと言うのに会場は熱狂。それもそのはず、この2級山岳エル・ビベロ峠の麓にある街ガルダカオは、アントンの出身地だ。
これまで何百回と登ったであろうエル・ビベロ峠で、アントンは動いた。「ジロ・デ・イタリアの疲労が抜け切れてない」と語るバスクチームのリーダーは、2回目のエル・ビベロ峠でアタック。親族、友人、そして熱狂的なファンの前で最大の見せ場を作り、熟知した下りを独走。ビルバオの大通りに単独でやってきた。
両側を建物に囲まれ、さらに街路樹に包まれた薄暗い大通りに、先頭でやってきたアントンとエウスカルテルのチームカー。会場は熱狂に包まれる。ここまで一体感のあるゴールは初めてだ。会場にいる全員がアントンを祝福している、そう感じられた。
33年ぶりのバスクステージで、バスク人が勝った。しかも逃げから独走に持ち込むという美しい勝ち方で。アントンのコメントはレースレポートに任せる。
バスク初日を終え、総合首位ファンホセ・コーボ(スペイン、ジェオックス・TMC)と総合2位クリス・フルーム(イギリス、チームスカイ)のタイム差は13秒のまま。フルームの狙いすました強烈なアタックも、コーボを突き落とすには至らなかった。
両者の激しいバトルは、第20ステージで決着がつく。もし決着がつかなければ最終日のボーナスタイム争いになる?グランツールとしては珍しく、最終日に逆転が起こる可能性はゼロではない。
土井雪広は19分12秒遅れの集団でゴール。ジャージの前を全開にして、最大限空気を取り込んでいる。しかしそれでも暑いものは暑い。「今日は暑すぎた。どうやら自分は暑いのが苦手らしい(笑)それにしても疲れた!」表情を歪ませながら、スタッフから受け取った清涼飲料水を一気に飲み干す。ホテルに自走で向かうその表情には、残り2ステージという安堵感も浮かんだ。
text&photo:Kei Tsuji in Bilbao, Euskadi
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