2024/10/30(水) - 19:00
10月22日早朝の羽田空港。帰国の途につくジャパンカップ出場の海外チームと入れ替わるように、デンマークからトラック世界選手権に出場した日本代表チームが帰国した。その中に、アルカンシェルと金メダルを身につけた窪木一茂の姿があった。
「パリ五輪の惰性」で臨んだ世界選手権
世界選手権2日目の10月17日(現地時間)、スクラッチに出場した窪木はレース終盤を独走逃げ切りで優勝。世界チャンピオンの証「アルカンシェル」を手にした。
2022年と2023年の世界選手権スクラッチでも2位となっていた窪木。世界選手権前の10月初めには、「もちろんそれ以上を狙いたいけれど、コンディションはまだまだ。でも合わせていきます」と、自分に言い聞かせるように話していた。「パリ五輪までは自分でもあんなに高いレベルのコンディションをよく維持していたと思います。今は抜け殻ですけどね」とも。
帰国後の記者会見で窪木は、「パリ五輪が終わって3週間はリカバリーを設けて、トラック全日本選手権(9月上旬開催)のあと1ヶ月は突貫工事で仕上げ、五輪の惰性を使って世界選手権に臨みました。そんな状況での結果は自信になったし、今後につながると思いました」と、語った。
「五輪の惰性」という言葉に、窪木自身がパリ五輪に向けて作り上げてきたレベルの高さがうかがえる。それはパリ五輪の前から囁かれていたことでもあった。
3種目に出るつもりはなかったパリ五輪
パリ五輪を約半年後に控えた2024年初め、『中距離では窪木がズバ抜けている』という声があちこちから聞こえてきた。チームパーシュート、オムニアム、マディソンと、3種目に出場すると決まったのは当然と思えたが、窪木自身は3種目に出るつもりは無かったと言う。
窪木「3種目に出ることは目標に掲げていたわけではなく、体づくりもそうしていませんでした。でも五輪に向けてコンディションが上がっていき、結果も出せていたので全部(=3種目)いけるんじゃないかと思えるようになりました。
代表チームの中でパフォーマンスが一番良いことは自覚がありました。ネイションズカップや世界選手権で結果を残せるチームメイトと一緒に練習しても良いタイムを出せていたし、団抜き(チームパーシュート)では何周でも引けると思えるくらい余裕を感じていました。
とは言っても、何種目も出て散漫になるよりもひとつの種目に絞って集中した方が良いと考えていたのですが、五輪直前の世界選手権やネイションズカップでは五輪よりも短期間で複数種目を走れたんです。これならイケるのではないかと思いました」
その自信は五輪本番の結果にも現れた。チームパーシュートこそ予選落ちだったものの、オムニアム6位、今村駿介と組んだマディソンは5位。特にマディソンは窪木自身も「良いレースだった」と振り返る。
窪木「五輪前の世界選手権では最初からフルガス(=全開)で勝負に絡んでいくスタイルだったけれど、それではキツくなってしまうので残り100周を切ったら攻撃していこうと考えていました。他の国も疲れが見えていたのでチャンスだと思い、今村(駿介)に次の周で行くと伝えてアタックしました」
その狙い通り、単独で抜け出してラップ(集団を周回遅れにすること)に成功し、首位に躍り出た。しかし終盤にかけてポルトガルとニュージーランドがポイントを連取。窪木&今村の日本もそれに続くが、上位のポイントを取れずジリジリと順位を落とす。
「実はラスト11周目の時にニュージーランドとぶつかってしまったんです。それが無ければラスト10周のポイント周回で1位5点を獲って、そのまま逃げ切ってフィニッシュの10点を獲れば2位になれたんです」と言って、窪木は自分のスマートフォンで動画を見せてくれた。
窪木「チームのスタッフが撮ってくれていたんですけど…僕が加速してスピードに乗ったところで、目の前でニュージーランドが交代ギリギリのタイミングで上から降りてきました。中途半端な位置にいたので『どっちだ?』となって避けきれなかった。お互い落車はせずに済んだけれど、ゼロスタートになってしまいました。これが無ければ上位5チームと一緒について行けたんです。
悔しくてこの事は振り返りたくなくて、五輪後は向き合えていませんでした。でもこの前、女子代表の内野艶和選手と池田瑞紀選手らと一緒に見る機会があって、2人とも『ニュージーランドが降りてくるのが遅かった』と言ってくれました。レース後は僕が悪かったと思ってニュージーランドに謝りに行ったけれど、そう言ってもらえて腑に落ちましたね。ブノワ(・ペドゥ、 日本ナショナルチームヘッドコーチ)も賞賛してくれましたが、2位になれたと考えるとやっぱり悔しいです」
原点となったリオデジャネイロ五輪
予選落ちしたとは言え、チームパーシュート予選で出した3分53秒台のタイムは内容を考えれば驚異的だ。日本チームは窪木、橋本英也、今村駿介、中野慎詞の4名で臨み、短距離が専門の中野が最初の1kmを牽引して離脱したあとは3名で走った。チームパーシュートでは4名中3名でフィニッシュすることが必須だが、トラブルでもない限り4kmのうち最初の1kmでの1人離脱はまず無い。パリ五輪でも多くの国が最低でも2kmを過ぎてからの離脱だった。
窪木「3人で回したと考えれば悪くないタイム。五輪前まで走っていた本来のメンバー(窪木、橋本、今村、松田祥位、兒島直樹)なら、予選通過は可能だったでしょうね。代表チームの方針で本来のメンバーで出走することは出来なかったけれど、どう状況が転んでも自分はベストを尽くすだけと考えていました」
そうなることを予見していたように窪木は中距離チームに檄を飛ばしていたと人づてに聞いた。そのことを聞くと「五輪の1、2年前くらいの合宿の時から、叱咤激励のようなことを言ってました」と言う。
窪木「コーチが言うことかもしれないけれど、現場にいる僕が率先して言わなければと思っていました。それによって僕自身も追い込まれるけれど、日本代表でやってるという責任感と、五輪経験があるからこそ伝えなければいけないことがあるという想いもありました」
普段からチームメイトや後輩にあれこれと言うタイプではない窪木だが、「五輪の経験は僕だけのものでなく伝えて行かなければならないと思って行動した」と言う。その五輪経験の原点は2016年のリオデジャネイロ五輪だ。
「元々リオ五輪はトラックで出場することを考え、当時は国内での代表チームの合宿に参加しなければならなかったので大学卒業後に国内での拠点を探して活動しました。ロードで海外という話も頂いていましたが、行くならリオの後と決めていました」と、当時を振り返る。
窪木は2012年に日本大学を卒業後、和歌山県職員として働く傍ら、マトリックスパワータグに所属。2013年Jプロツアー初勝利を挙げ、同年の東京国体ロード優勝。2014年はチーム右京に移籍し、2015年に全日本選手権ロードで優勝。同年の和歌山国体ロードでも優勝した。
2016年は欧州を拠点とするNIPPOヴィーニファンティーニに移籍。同年のリオ五輪にオムニアムの日本代表として五輪初出場を果たした。エリア・ヴィヴィアーニ(イタリア)が金メダル、マーク・カヴェンディッシュ(イギリス)が銀メダルというレースで、窪木は14位。世界との差を思い知らされた。
窪木「当時のオムニアムは今と違ってタイムトライアル系種目も含まれていました(注)。タイム差が数字で判るので、その差にメンタルを削られましたね。ワールドカップに出場しても一桁順位に入るなんて難しかった。今の力で臨んだら…って考えることもあります。自分に自信が無かったですね。だから、トラックで五輪出場はもう無いだろうと思っていました」
(注:リオ五輪時のオムニアムは、スクラッチ、4km個人パーシュート、エリミネイション、1kmタイムトライアル、250mフライングラップ、ポイントレースの6種目を2日間かけて行われていた)
後編に続く。
text:Satoru Kato
トラック世界選手権ハイライト
(窪木出場のスクラッチは3:33秒あたりから)
「パリ五輪の惰性」で臨んだ世界選手権
世界選手権2日目の10月17日(現地時間)、スクラッチに出場した窪木はレース終盤を独走逃げ切りで優勝。世界チャンピオンの証「アルカンシェル」を手にした。
2022年と2023年の世界選手権スクラッチでも2位となっていた窪木。世界選手権前の10月初めには、「もちろんそれ以上を狙いたいけれど、コンディションはまだまだ。でも合わせていきます」と、自分に言い聞かせるように話していた。「パリ五輪までは自分でもあんなに高いレベルのコンディションをよく維持していたと思います。今は抜け殻ですけどね」とも。
帰国後の記者会見で窪木は、「パリ五輪が終わって3週間はリカバリーを設けて、トラック全日本選手権(9月上旬開催)のあと1ヶ月は突貫工事で仕上げ、五輪の惰性を使って世界選手権に臨みました。そんな状況での結果は自信になったし、今後につながると思いました」と、語った。
「五輪の惰性」という言葉に、窪木自身がパリ五輪に向けて作り上げてきたレベルの高さがうかがえる。それはパリ五輪の前から囁かれていたことでもあった。
3種目に出るつもりはなかったパリ五輪
パリ五輪を約半年後に控えた2024年初め、『中距離では窪木がズバ抜けている』という声があちこちから聞こえてきた。チームパーシュート、オムニアム、マディソンと、3種目に出場すると決まったのは当然と思えたが、窪木自身は3種目に出るつもりは無かったと言う。
窪木「3種目に出ることは目標に掲げていたわけではなく、体づくりもそうしていませんでした。でも五輪に向けてコンディションが上がっていき、結果も出せていたので全部(=3種目)いけるんじゃないかと思えるようになりました。
代表チームの中でパフォーマンスが一番良いことは自覚がありました。ネイションズカップや世界選手権で結果を残せるチームメイトと一緒に練習しても良いタイムを出せていたし、団抜き(チームパーシュート)では何周でも引けると思えるくらい余裕を感じていました。
とは言っても、何種目も出て散漫になるよりもひとつの種目に絞って集中した方が良いと考えていたのですが、五輪直前の世界選手権やネイションズカップでは五輪よりも短期間で複数種目を走れたんです。これならイケるのではないかと思いました」
その自信は五輪本番の結果にも現れた。チームパーシュートこそ予選落ちだったものの、オムニアム6位、今村駿介と組んだマディソンは5位。特にマディソンは窪木自身も「良いレースだった」と振り返る。
窪木「五輪前の世界選手権では最初からフルガス(=全開)で勝負に絡んでいくスタイルだったけれど、それではキツくなってしまうので残り100周を切ったら攻撃していこうと考えていました。他の国も疲れが見えていたのでチャンスだと思い、今村(駿介)に次の周で行くと伝えてアタックしました」
その狙い通り、単独で抜け出してラップ(集団を周回遅れにすること)に成功し、首位に躍り出た。しかし終盤にかけてポルトガルとニュージーランドがポイントを連取。窪木&今村の日本もそれに続くが、上位のポイントを取れずジリジリと順位を落とす。
「実はラスト11周目の時にニュージーランドとぶつかってしまったんです。それが無ければラスト10周のポイント周回で1位5点を獲って、そのまま逃げ切ってフィニッシュの10点を獲れば2位になれたんです」と言って、窪木は自分のスマートフォンで動画を見せてくれた。
窪木「チームのスタッフが撮ってくれていたんですけど…僕が加速してスピードに乗ったところで、目の前でニュージーランドが交代ギリギリのタイミングで上から降りてきました。中途半端な位置にいたので『どっちだ?』となって避けきれなかった。お互い落車はせずに済んだけれど、ゼロスタートになってしまいました。これが無ければ上位5チームと一緒について行けたんです。
悔しくてこの事は振り返りたくなくて、五輪後は向き合えていませんでした。でもこの前、女子代表の内野艶和選手と池田瑞紀選手らと一緒に見る機会があって、2人とも『ニュージーランドが降りてくるのが遅かった』と言ってくれました。レース後は僕が悪かったと思ってニュージーランドに謝りに行ったけれど、そう言ってもらえて腑に落ちましたね。ブノワ(・ペドゥ、 日本ナショナルチームヘッドコーチ)も賞賛してくれましたが、2位になれたと考えるとやっぱり悔しいです」
原点となったリオデジャネイロ五輪
予選落ちしたとは言え、チームパーシュート予選で出した3分53秒台のタイムは内容を考えれば驚異的だ。日本チームは窪木、橋本英也、今村駿介、中野慎詞の4名で臨み、短距離が専門の中野が最初の1kmを牽引して離脱したあとは3名で走った。チームパーシュートでは4名中3名でフィニッシュすることが必須だが、トラブルでもない限り4kmのうち最初の1kmでの1人離脱はまず無い。パリ五輪でも多くの国が最低でも2kmを過ぎてからの離脱だった。
窪木「3人で回したと考えれば悪くないタイム。五輪前まで走っていた本来のメンバー(窪木、橋本、今村、松田祥位、兒島直樹)なら、予選通過は可能だったでしょうね。代表チームの方針で本来のメンバーで出走することは出来なかったけれど、どう状況が転んでも自分はベストを尽くすだけと考えていました」
そうなることを予見していたように窪木は中距離チームに檄を飛ばしていたと人づてに聞いた。そのことを聞くと「五輪の1、2年前くらいの合宿の時から、叱咤激励のようなことを言ってました」と言う。
窪木「コーチが言うことかもしれないけれど、現場にいる僕が率先して言わなければと思っていました。それによって僕自身も追い込まれるけれど、日本代表でやってるという責任感と、五輪経験があるからこそ伝えなければいけないことがあるという想いもありました」
普段からチームメイトや後輩にあれこれと言うタイプではない窪木だが、「五輪の経験は僕だけのものでなく伝えて行かなければならないと思って行動した」と言う。その五輪経験の原点は2016年のリオデジャネイロ五輪だ。
「元々リオ五輪はトラックで出場することを考え、当時は国内での代表チームの合宿に参加しなければならなかったので大学卒業後に国内での拠点を探して活動しました。ロードで海外という話も頂いていましたが、行くならリオの後と決めていました」と、当時を振り返る。
窪木は2012年に日本大学を卒業後、和歌山県職員として働く傍ら、マトリックスパワータグに所属。2013年Jプロツアー初勝利を挙げ、同年の東京国体ロード優勝。2014年はチーム右京に移籍し、2015年に全日本選手権ロードで優勝。同年の和歌山国体ロードでも優勝した。
2016年は欧州を拠点とするNIPPOヴィーニファンティーニに移籍。同年のリオ五輪にオムニアムの日本代表として五輪初出場を果たした。エリア・ヴィヴィアーニ(イタリア)が金メダル、マーク・カヴェンディッシュ(イギリス)が銀メダルというレースで、窪木は14位。世界との差を思い知らされた。
窪木「当時のオムニアムは今と違ってタイムトライアル系種目も含まれていました(注)。タイム差が数字で判るので、その差にメンタルを削られましたね。ワールドカップに出場しても一桁順位に入るなんて難しかった。今の力で臨んだら…って考えることもあります。自分に自信が無かったですね。だから、トラックで五輪出場はもう無いだろうと思っていました」
(注:リオ五輪時のオムニアムは、スクラッチ、4km個人パーシュート、エリミネイション、1kmタイムトライアル、250mフライングラップ、ポイントレースの6種目を2日間かけて行われていた)
後編に続く。
text:Satoru Kato
トラック世界選手権ハイライト
(窪木出場のスクラッチは3:33秒あたりから)
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