2017/05/29(月) - 15:46
キンタナもニーバリも決して悪くない走りだったが、デュムランの走りはその数段上を行っていた。オランダ人によるジロ初制覇。サルデーニャを出発した3週間の長い旅が終わった。
この日、大都市ミラノのドゥオーモ広場は朝から大音量の音楽とMCのアナウンスが響き渡った。ミラノは単体だと人口130万人だが、周りの都市圏を含めた人口は526万人。人口280万人の首都ローマを退けてイタリア最大の都市の地位を築いている。大会主催者RCSスポルトも本部を置くそんな大都市のど真ん中に位置するドゥオーモ広場でジロがフィナーレを迎えた。
レース通過前後の数時間だけ交通規制すればいいロードレースよりも、ほぼ朝から晩まで幹線道路を封じるタイムトライアルのほうが一般市民への影響は大きい。もちろん一般生活に極力影響のないコース設定がされているものの、迂回路では渋滞があちこちで発生したためクラクションの嵐。小さな町をつなぐステージが続いていたので久々の都会の喧騒にめまいがした。
しかもただでさえ観光客でごった返すドゥオーモ広場にフィニッシュと表彰台を置いた影響で現場は混沌としていた。テロ対策として広場に入るためには警察によるセキュリティチェックを受けなければならず、大会関係者が会場に入るのも一苦労。しっかり警備されていると思いきや、フィニッシュ地点横のプレスセンターではこの日だけで合計4台のPCやスマートフォンが盗まれるという悪夢が起こっている。実質4週間の疲れとミラノの喧騒、そして気温33度の真夏のような暑さが加わって、どの関係者にとってもタフなステージとなった。
100回大会を取材した報道陣は合計2,035名で、そのうちジャーナリストが1,507名、フォトグラファーが528名。新聞の数はイタリア国内が207社で海外が62社。放送局は国内4、海外84。ウェブサイトは国内143、海外82。もちろんツールと比べるとこれでも寂しい数字だが、多国籍な選手の活躍が見られたことで、3週間を通して例年よりも報道陣の数は多かった印象を受ける。
ドゥオーモ広場に黄青赤の国旗をはためかせたコロンビア応援団の熱狂的で鬼気迫る声援も届かず、コロンビアのコンドルことナイロ・キンタナ(コロンビア、モビスター)はマリアローザを守り抜くことができなかった。マリアローザが最終ステージで持ち主を変えたのはローラン・フィニョン→フランチェスコ・モゼールの1984年とホアキン・ロドリゲス→ライダー・ヘシェダルの2012年に続く3回目だ。
キンタナはレース後、第19ステージのピアンカヴァッロ山頂フィニッシュの際に体調を崩していたことを打ち明けている。「開幕前から勝負のステージと決めていたのに、体調が味方しなかった。(マリアローザを手にしながらも)その日にジロの総合優勝が失われたと言ってもいい」。キンタナのダブルツール作戦は失敗に終わったが「苦手な個人タイムトライアルが合計70kmあり、体調もすぐれない中での総合2位は7月に向けてのモチベーションになる」と、ツールのマイヨジョーヌに気持ちを切り替えている。
サルデーニャからミラノまで90時間34分54秒かけて走ってきて、デュムランとキンタナのタイム差は31秒。全体の平均スピードが39.843km/hなので、3609.1kmという長い距離を走ってきて両者の間には330mほどの差しかない。総合トップ3の総合タイム差40秒は、エディ・メルクス→ジャンバッティスタ・バロンケッリ+12秒→フェリーチェ・ジモンディ+33秒だった1974年に次ぐ僅差だ。
1年前のステフェン・クライスヴァイク(オランダ、ロットNLユンボ)のマリアローザ着用に続いてオランダ勢の活躍が目立ったジロ。ついに初のオランダ人ジロ総合優勝者が生まれ、歓喜のヨス・ファンエムデン(オランダ、ロットNLユンボ)が最終個人TTを制して花を添えた。
オランダ人による最後のグランツール総合優勝は、1967年ブエルタ・ア・エスパーニャ&1968年ツール・ド・フランス総合優勝のヤン・ヤンセンと、1979年ブエルタ&1980年ツール総合優勝のヨープ・ズートメルクに続く3人目、5度目。ジロの総合表彰台は1987年総合3位と1988年総合2位のエリック・ブロイキンク以来となる。歴史を作ったデュムランだが、相変わらず記者会見では冷静さを保っていた。繰り返したのは「自分は自分でありたい」という言葉。インデュラインやウィギンズと比べられることやスーパースターとして扱われることを嫌い、マリアローザを着ながらも地に脚をつけている感じ。
予想外のトラブル(あれです)を乗り越えたデュムランが今大会最も強かったことは誰もが認めるところ。近い将来デュムランがマイヨジョーヌを争っている姿は容易に想像できる。そして、主催者RCSスポルトは来年以降よりクライマーに有利なコースに設定するんじゃないかと予想してしまう。ピンクや金、紫、青、白の紙吹雪に覆われたドゥオーモ広場で、長くて濃いジロが終わった。
text&photo:Kei Tsuji in Milano, Italy
この日、大都市ミラノのドゥオーモ広場は朝から大音量の音楽とMCのアナウンスが響き渡った。ミラノは単体だと人口130万人だが、周りの都市圏を含めた人口は526万人。人口280万人の首都ローマを退けてイタリア最大の都市の地位を築いている。大会主催者RCSスポルトも本部を置くそんな大都市のど真ん中に位置するドゥオーモ広場でジロがフィナーレを迎えた。
レース通過前後の数時間だけ交通規制すればいいロードレースよりも、ほぼ朝から晩まで幹線道路を封じるタイムトライアルのほうが一般市民への影響は大きい。もちろん一般生活に極力影響のないコース設定がされているものの、迂回路では渋滞があちこちで発生したためクラクションの嵐。小さな町をつなぐステージが続いていたので久々の都会の喧騒にめまいがした。
しかもただでさえ観光客でごった返すドゥオーモ広場にフィニッシュと表彰台を置いた影響で現場は混沌としていた。テロ対策として広場に入るためには警察によるセキュリティチェックを受けなければならず、大会関係者が会場に入るのも一苦労。しっかり警備されていると思いきや、フィニッシュ地点横のプレスセンターではこの日だけで合計4台のPCやスマートフォンが盗まれるという悪夢が起こっている。実質4週間の疲れとミラノの喧騒、そして気温33度の真夏のような暑さが加わって、どの関係者にとってもタフなステージとなった。
100回大会を取材した報道陣は合計2,035名で、そのうちジャーナリストが1,507名、フォトグラファーが528名。新聞の数はイタリア国内が207社で海外が62社。放送局は国内4、海外84。ウェブサイトは国内143、海外82。もちろんツールと比べるとこれでも寂しい数字だが、多国籍な選手の活躍が見られたことで、3週間を通して例年よりも報道陣の数は多かった印象を受ける。
ドゥオーモ広場に黄青赤の国旗をはためかせたコロンビア応援団の熱狂的で鬼気迫る声援も届かず、コロンビアのコンドルことナイロ・キンタナ(コロンビア、モビスター)はマリアローザを守り抜くことができなかった。マリアローザが最終ステージで持ち主を変えたのはローラン・フィニョン→フランチェスコ・モゼールの1984年とホアキン・ロドリゲス→ライダー・ヘシェダルの2012年に続く3回目だ。
キンタナはレース後、第19ステージのピアンカヴァッロ山頂フィニッシュの際に体調を崩していたことを打ち明けている。「開幕前から勝負のステージと決めていたのに、体調が味方しなかった。(マリアローザを手にしながらも)その日にジロの総合優勝が失われたと言ってもいい」。キンタナのダブルツール作戦は失敗に終わったが「苦手な個人タイムトライアルが合計70kmあり、体調もすぐれない中での総合2位は7月に向けてのモチベーションになる」と、ツールのマイヨジョーヌに気持ちを切り替えている。
サルデーニャからミラノまで90時間34分54秒かけて走ってきて、デュムランとキンタナのタイム差は31秒。全体の平均スピードが39.843km/hなので、3609.1kmという長い距離を走ってきて両者の間には330mほどの差しかない。総合トップ3の総合タイム差40秒は、エディ・メルクス→ジャンバッティスタ・バロンケッリ+12秒→フェリーチェ・ジモンディ+33秒だった1974年に次ぐ僅差だ。
1年前のステフェン・クライスヴァイク(オランダ、ロットNLユンボ)のマリアローザ着用に続いてオランダ勢の活躍が目立ったジロ。ついに初のオランダ人ジロ総合優勝者が生まれ、歓喜のヨス・ファンエムデン(オランダ、ロットNLユンボ)が最終個人TTを制して花を添えた。
オランダ人による最後のグランツール総合優勝は、1967年ブエルタ・ア・エスパーニャ&1968年ツール・ド・フランス総合優勝のヤン・ヤンセンと、1979年ブエルタ&1980年ツール総合優勝のヨープ・ズートメルクに続く3人目、5度目。ジロの総合表彰台は1987年総合3位と1988年総合2位のエリック・ブロイキンク以来となる。歴史を作ったデュムランだが、相変わらず記者会見では冷静さを保っていた。繰り返したのは「自分は自分でありたい」という言葉。インデュラインやウィギンズと比べられることやスーパースターとして扱われることを嫌い、マリアローザを着ながらも地に脚をつけている感じ。
予想外のトラブル(あれです)を乗り越えたデュムランが今大会最も強かったことは誰もが認めるところ。近い将来デュムランがマイヨジョーヌを争っている姿は容易に想像できる。そして、主催者RCSスポルトは来年以降よりクライマーに有利なコースに設定するんじゃないかと予想してしまう。ピンクや金、紫、青、白の紙吹雪に覆われたドゥオーモ広場で、長くて濃いジロが終わった。
text&photo:Kei Tsuji in Milano, Italy