2020/12/28(月) - 18:30
チャンピオンシステムが東京オリンピックに向けた次世代型スキンスーツ「AERO PROJECT SPEED SUIT」を発表した。特殊素材の投入や、度重なる風洞実験を経て生まれた超高性能ウェアを、開発現場訪問や国内外トップ選手のインプレッション、そして実測データを元に紐解いていきたい。1着20万円オーバーの"勝つため"の1着がもたらすメリットとは。
もしあなたが、全日本トラック選手権の会場に足を運んでいたならば。もしあなたが選手たちの機材に注目していたならば。女子中長距離種目に出場した上野みなみ(シエルブルー鹿屋)が着用したスキンスーツに目が留まった方も少なくないだろう。
彼女が今年秋ころから練習に投入し、選手間でも話題となったこのスーツの正体は、チャンピオンシステムが新開発したAERO PROJECT SPEED SUIT(エアロプロジェクトスピードスーツ)だ。東京五輪を走るアスリートのために開発され、長期開発期間を経てようやく形となった、正真正銘の「勝つためのウェア」。チャンピオンシステムの、そして香港ナショナルチームの威信をかけ制作されているという。
「このスーツを作るきっかけとなったのは、弊社がサポート契約を締結しているニュージーランドや、本社母国の香港といったトラック強豪国からアプローチを受けたことでした。オーダーはオリンピックで勝つために、他国に対してアドバンテージとなるようなウェア。どちらもメダル獲得の可能性が高い国ですから、我々にとっても最速ウェア開発は使命でした」と語るのは、チャンピオンシステム・ジャパン代表の棈木亮二氏。
香港ナショナルチームには言わずと知れた女子短距離界のスター選手、李慧詩(リー・ワイジー)が所属しており、リオ五輪の旗手を務めた彼女の金メダル獲得は国を挙げての悲願。スピードスーツの開発に対しては潤沢な資金投資が行われ、空力研究の権威である香港科技大学の張教授を招聘して自転車専用の風洞実験施設を作るなど、従来から飛躍した開発が行われている。
スピードスーツは素材の使用場所や面積を変更した4バリエーションが用意され、トラックの短・中・長距離、またはロードレースのタイムトライアルなど使用用途(競技)によって、そして着心地の好みで選ぶことが可能だ。完全オーダーメイドによる市販も行われるが、あくまでトップ選手供給を主眼に置いた製品であるため大量生産ができず、通常ラインナップには載ることもない。1着21.5万円(ただし、チャンピオンシステムでの計測料混み)というプライスタグは、スピードスーツに費やされた膨大な開発期間とコストを裏打ちするものだ。
チャンピオンシステムのデータによれば、新型スピードスーツは従来の同社製スキンスーツに対し、平均して2.5%以上のパワーセーブが可能だ。体重70kgのライダーが体重の4倍、つまり280ワットを維持して40kmの個人タイムトライアルを行った場合、従来のスキンスーツで53分56秒を要するのに対し、スピードスーツは同条件で53分26秒と、30秒、もしくは8ワットをセーブする計算だ。
また、20m/s(約70km/h)で走行する際、従来のスキンスーツが864ワットを要するのに対し、スピードスーツを着用した際の消費パワーは843ワット。21ワットという差は、瞬間的に勝敗が決まるトラック短距離種目において全くもって無視できない。生地の溝パターンは全てチャンピオンシステムが特許を持つオリジナルだ。
そして注目すべきは、これらデータがタデイ・ポガチャル(スロベニア、UAEチームエミレーツ)をツール・ド・フランス制覇に導いたAPEXサマースキンスーツとの比較数値であることだ。
「通常のジャージ+ビブショーツや一般的なスキンスーツとの比較ではなく、UAEが2019年初頭に行ったテストで他社製品より速いと証明された製品との比較です。確かな比較実験もせず"〜分速くなるウェア"とPRするウェアブランドもありますが、チャンピオンシステムはそうではありません。我々は嘘のPRをすることはありません。スピードスーツのデータは、シミュレーションや風洞実験を繰り返して得られた実際の数値なのです」と、チャンピオンシステムの開発メンバーは胸を張る。
そもそもなぜ、各国が同じタイミングで新型スーツを要求し、そしてスピードスーツが作られたのか。その理由はUCI(国際自転車競技連合)が公式レースウェアに対するラテックス系素材の部分的使用を認めたことにある。チャンピオンシステムは10年以上前にオールラテックス製のスーツを制作したが、あまりにも有利だったことから禁止され、長い時を経て部分的な緩和をみた。これがスピードスーツ開発着手の経緯だ。
シクロワイアード取材班はチャンピオンシステムの全面協力を得て、2019年末に香港トラックワールドカップが開催されたタイミングで一路香港へと赴き、本社代表のルイス・シー氏や香港科技大学への訪問、そして李慧詩などスピードスーツを着用してレースを走ったトップ選手に話を聞くことができた。そこから1年の秘匿期間を経ていよいよ情報公開となった今、その様子をレポートする。
ケンブリッジ大学で流体力学の博士号を取得したアジア屈指の同権威。25年に渡る研究成果はエアバス社の航空機騒音技術センター設立に繋がり、同ディレクターを兼任。航空宇宙はもちろん自動車産業、香港政府など様々な分野で要職に就く。これまで発表した論文は200以上。空力について一度語り出すと決して止まらない熱さを秘めた研究者。
空気力学と空力音響学、特に航空機の空気力学と騒音に関する研究を専門とし、学内のスポーツ空力研究プロジェクトを率いる張教授は、スピードスーツの研究開発に関わった中心人物。開発にあたっては香港ナショナルチームをサポートする大企業から600万香港ドル(日本円で8000万円以上)の寄付を受け、学内に自転車専用の風洞実験を製作して実験を繰り返した。張教授の引率で、学舎内の広大なスペースを使い設置された、真新しい風洞に足を踏み入れることもできた(その多くは撮影NGだったが)。
「我々の持つ風洞施設の特徴は、何と言っても自転車専用に設計した低速風洞だということです。一般的な風洞施設は100〜200km/h、もしくはそれ以上のスピードを出す自動車や航空機用に作られたものですから、自転車の速度域では少なからず数値の正確性や再現性に不安要素が残ってしまう。そこで我々は試験設定速度を時速100km/h以下とし、その部分を飛躍的に改善しました。風を起こすプロペラをサークル(科技大学の風洞は回流型)の反対側に設置し、ライダーに視覚的な不安を与えない配慮もしています。風洞と言えばプロペラのイメージがありますが、あれはライダーに恐怖を感じさせ、測定のバラつきを生み出す要素にもなるのです」と張教授は誇らしげに言う。
シミュレーションが発達した今現在であっても、リアルを可視化する風洞施設の重要度は薄れていない。生地の選定や配置、向きのパターンのデータ取得や人間を乗車させてのテスト、あるいはトップ選手のダミー人形を製作した上でテストを行うなど、スピードスーツ開発における風洞実験は数百時間に達したという。
「素材を数パターン絞り込んだ後は100%ラテックス生地のスーツ(UCIレース使用は禁止)作成とデータ収集。次にUCIルールに則った部分的にラテックスを使用したスーツを何十パターンも作成しました。どの素材をどの場所に配置した時に最も効果的かを判断し、それらをさまざまな速度域でテストするという微調整を繰り返したんです。度重なる実験の中でラテックス生地を配置した方が速い場所、そして逆にラテックス生地を配置した方が遅くなる場所も発見したのですが、これは私自身大きな驚きでした」。
「例えば、トラックのチームパシュートやチームスプリントなど、複数人で走る競技の場合、1走と2走、そして3走と選手それぞれに適したスーツを着用するとアドバンテージが生まれます。短距離と長距離では速度域はもちろん身体の動かし方も異なりますので、それを配慮して4バリエーションのスーツを作り出しました(張教授)」。
風洞を自由に使えるメリットを活かしたことで1年を要さずひな型が生まれ、さらに通気性やラテックス素材への印刷技術の確立など、チャンピオンシステムのノウハウも取り込まれたことで完成をみた4種類のスピードスーツは、2019年末のUCIトラックワールドカップで実戦デビュー。その現場でUCI公認を取得し、晴れて東京五輪で使う道が拓けたのだった。
次章では、実際にスピードスーツを着用してレースを走った上野みなみ(シエルブルー鹿屋)の空力データやインプレッション、トラックワールドカップでトップ選手に聞いた使用感、オーダー時のタイムフローを確認していく。
秘匿期間を経てデビューするAERO PROJECT SPEED SUIT
もしあなたが、全日本トラック選手権の会場に足を運んでいたならば。もしあなたが選手たちの機材に注目していたならば。女子中長距離種目に出場した上野みなみ(シエルブルー鹿屋)が着用したスキンスーツに目が留まった方も少なくないだろう。
彼女が今年秋ころから練習に投入し、選手間でも話題となったこのスーツの正体は、チャンピオンシステムが新開発したAERO PROJECT SPEED SUIT(エアロプロジェクトスピードスーツ)だ。東京五輪を走るアスリートのために開発され、長期開発期間を経てようやく形となった、正真正銘の「勝つためのウェア」。チャンピオンシステムの、そして香港ナショナルチームの威信をかけ制作されているという。
「このスーツを作るきっかけとなったのは、弊社がサポート契約を締結しているニュージーランドや、本社母国の香港といったトラック強豪国からアプローチを受けたことでした。オーダーはオリンピックで勝つために、他国に対してアドバンテージとなるようなウェア。どちらもメダル獲得の可能性が高い国ですから、我々にとっても最速ウェア開発は使命でした」と語るのは、チャンピオンシステム・ジャパン代表の棈木亮二氏。
香港ナショナルチームには言わずと知れた女子短距離界のスター選手、李慧詩(リー・ワイジー)が所属しており、リオ五輪の旗手を務めた彼女の金メダル獲得は国を挙げての悲願。スピードスーツの開発に対しては潤沢な資金投資が行われ、空力研究の権威である香港科技大学の張教授を招聘して自転車専用の風洞実験施設を作るなど、従来から飛躍した開発が行われている。
従来製品に対して2.5%のパワーセーブを可能に
スピードスーツは素材の使用場所や面積を変更した4バリエーションが用意され、トラックの短・中・長距離、またはロードレースのタイムトライアルなど使用用途(競技)によって、そして着心地の好みで選ぶことが可能だ。完全オーダーメイドによる市販も行われるが、あくまでトップ選手供給を主眼に置いた製品であるため大量生産ができず、通常ラインナップには載ることもない。1着21.5万円(ただし、チャンピオンシステムでの計測料混み)というプライスタグは、スピードスーツに費やされた膨大な開発期間とコストを裏打ちするものだ。
チャンピオンシステムのデータによれば、新型スピードスーツは従来の同社製スキンスーツに対し、平均して2.5%以上のパワーセーブが可能だ。体重70kgのライダーが体重の4倍、つまり280ワットを維持して40kmの個人タイムトライアルを行った場合、従来のスキンスーツで53分56秒を要するのに対し、スピードスーツは同条件で53分26秒と、30秒、もしくは8ワットをセーブする計算だ。
また、20m/s(約70km/h)で走行する際、従来のスキンスーツが864ワットを要するのに対し、スピードスーツを着用した際の消費パワーは843ワット。21ワットという差は、瞬間的に勝敗が決まるトラック短距離種目において全くもって無視できない。生地の溝パターンは全てチャンピオンシステムが特許を持つオリジナルだ。
そして注目すべきは、これらデータがタデイ・ポガチャル(スロベニア、UAEチームエミレーツ)をツール・ド・フランス制覇に導いたAPEXサマースキンスーツとの比較数値であることだ。
「通常のジャージ+ビブショーツや一般的なスキンスーツとの比較ではなく、UAEが2019年初頭に行ったテストで他社製品より速いと証明された製品との比較です。確かな比較実験もせず"〜分速くなるウェア"とPRするウェアブランドもありますが、チャンピオンシステムはそうではありません。我々は嘘のPRをすることはありません。スピードスーツのデータは、シミュレーションや風洞実験を繰り返して得られた実際の数値なのです」と、チャンピオンシステムの開発メンバーは胸を張る。
香港のスピードスーツ開発現場を訪ねる
そもそもなぜ、各国が同じタイミングで新型スーツを要求し、そしてスピードスーツが作られたのか。その理由はUCI(国際自転車競技連合)が公式レースウェアに対するラテックス系素材の部分的使用を認めたことにある。チャンピオンシステムは10年以上前にオールラテックス製のスーツを制作したが、あまりにも有利だったことから禁止され、長い時を経て部分的な緩和をみた。これがスピードスーツ開発着手の経緯だ。
シクロワイアード取材班はチャンピオンシステムの全面協力を得て、2019年末に香港トラックワールドカップが開催されたタイミングで一路香港へと赴き、本社代表のルイス・シー氏や香港科技大学への訪問、そして李慧詩などスピードスーツを着用してレースを走ったトップ選手に話を聞くことができた。そこから1年の秘匿期間を経ていよいよ情報公開となった今、その様子をレポートする。
「世界で数少ない自転車専用の風洞施設を建設」
新型スピードスーツの開発が進められたのは、香港の中心地区から少々離れた場所にある、アジア屈指の学力を誇る香港科技大学。チャンピオンシステム代表のルイス氏の案内で学内の一室に入ると、空気力学の権威である張欣(ジャン・シン)教授が迎えてくれた。張欣(ジャン・シン)教授プロフィール
ケンブリッジ大学で流体力学の博士号を取得したアジア屈指の同権威。25年に渡る研究成果はエアバス社の航空機騒音技術センター設立に繋がり、同ディレクターを兼任。航空宇宙はもちろん自動車産業、香港政府など様々な分野で要職に就く。これまで発表した論文は200以上。空力について一度語り出すと決して止まらない熱さを秘めた研究者。
空気力学と空力音響学、特に航空機の空気力学と騒音に関する研究を専門とし、学内のスポーツ空力研究プロジェクトを率いる張教授は、スピードスーツの研究開発に関わった中心人物。開発にあたっては香港ナショナルチームをサポートする大企業から600万香港ドル(日本円で8000万円以上)の寄付を受け、学内に自転車専用の風洞実験を製作して実験を繰り返した。張教授の引率で、学舎内の広大なスペースを使い設置された、真新しい風洞に足を踏み入れることもできた(その多くは撮影NGだったが)。
「我々の持つ風洞施設の特徴は、何と言っても自転車専用に設計した低速風洞だということです。一般的な風洞施設は100〜200km/h、もしくはそれ以上のスピードを出す自動車や航空機用に作られたものですから、自転車の速度域では少なからず数値の正確性や再現性に不安要素が残ってしまう。そこで我々は試験設定速度を時速100km/h以下とし、その部分を飛躍的に改善しました。風を起こすプロペラをサークル(科技大学の風洞は回流型)の反対側に設置し、ライダーに視覚的な不安を与えない配慮もしています。風洞と言えばプロペラのイメージがありますが、あれはライダーに恐怖を感じさせ、測定のバラつきを生み出す要素にもなるのです」と張教授は誇らしげに言う。
シミュレーションが発達した今現在であっても、リアルを可視化する風洞施設の重要度は薄れていない。生地の選定や配置、向きのパターンのデータ取得や人間を乗車させてのテスト、あるいはトップ選手のダミー人形を製作した上でテストを行うなど、スピードスーツ開発における風洞実験は数百時間に達したという。
「素材を数パターン絞り込んだ後は100%ラテックス生地のスーツ(UCIレース使用は禁止)作成とデータ収集。次にUCIルールに則った部分的にラテックスを使用したスーツを何十パターンも作成しました。どの素材をどの場所に配置した時に最も効果的かを判断し、それらをさまざまな速度域でテストするという微調整を繰り返したんです。度重なる実験の中でラテックス生地を配置した方が速い場所、そして逆にラテックス生地を配置した方が遅くなる場所も発見したのですが、これは私自身大きな驚きでした」。
「例えば、トラックのチームパシュートやチームスプリントなど、複数人で走る競技の場合、1走と2走、そして3走と選手それぞれに適したスーツを着用するとアドバンテージが生まれます。短距離と長距離では速度域はもちろん身体の動かし方も異なりますので、それを配慮して4バリエーションのスーツを作り出しました(張教授)」。
風洞を自由に使えるメリットを活かしたことで1年を要さずひな型が生まれ、さらに通気性やラテックス素材への印刷技術の確立など、チャンピオンシステムのノウハウも取り込まれたことで完成をみた4種類のスピードスーツは、2019年末のUCIトラックワールドカップで実戦デビュー。その現場でUCI公認を取得し、晴れて東京五輪で使う道が拓けたのだった。
次章では、実際にスピードスーツを着用してレースを走った上野みなみ(シエルブルー鹿屋)の空力データやインプレッション、トラックワールドカップでトップ選手に聞いた使用感、オーダー時のタイムフローを確認していく。
提供:チャンピオンシステム、text&photo:So Isobe