2009/12/24(木) - 12:01
「引退」
「熱い男」。レースや競技に対する姿勢や展開から、誰もが岡崎和也のことを親しみを込めてこうに呼んできた。ストイックに自分を鍛え上げ、その力を惜しみなくチームに捧げる彼の姿は、きっとファンの目に焼きついていることだろう。そんな彼が09全日本ロード終了と共に突然レースの舞台から去った。その潔すぎる引き際に込められた本心を、今自らここに明かす。「立つ鳥跡を濁さず」
引退を発表してからいくつかインタビュー取材のお話をいただいたが、すべて断ってきた。10年に及ぶプロロードレーサーとしての生活が終わったという事実を、自分の中で消化しきれず、何を話せばいいのかわからなかった。また去りゆくものは御託を並べるべきではないとも思っていたからだ。しかし、最後のレースから早5ヶ月が過ぎ、こうして機会をいただいたので、今考えていることを書いてみようと思う。
「負けたら辞める」
年齢を重ねるにつれ選手を続けるのは難しくなる。しかしそれ以上に「引き際」を見極めるのはもっと難しい。いつかは辞めなければいけないという現実から目を背け、なんとか現状維持でずるずると選手を続けることはできたかもしれない。だが、「負けたら辞める」と決めていた。勝てないベテランは引退し、後進に道を譲るべきだと。
勝負をかけた6月14日の全日本選手権タイムトライアル。愛三工業の盛一大選手に敗れ4位に。完敗だった。昨年は1秒差で辛くも手にした4度目のタイトルだったが、もはやそこは自分の走る場ではなくなっていた。
盛選手とは、2006年のドーハ・アジア大会のチームタイムトライアルを、広瀬敏選手、阿部良之選手らと共に走り、銅メダルを獲得した。あのレースは本当に苦しかった。生涯忘れられないだろう。
そして、ゴール後ガードレールにしがみついてペダルから足を外せずにいた盛選手の姿がいまだに目に焼き付いている。そこまで追い込める選手をかつて見たことがなかった。
「ヨーロッパで学んだこと」
選手生活の後半はヨーロッパを中心としたものだった。レースを始めたばかりのまだ20歳そこそこの頃、先輩たちから盛んに「ヨーロッパに行け。本場で走れ。」と言われた。しかし、まだ自分の力が海の物とも山のものともつかないのに海外に行く自信がなかったし、現実問題として資金もなかった。
「国内で実力をつけてから海外へ」と考えていたので、29歳で初めてヨーロッパに渡った。選手としてはかなり遅い。活動国は2003〜2004年がイタリア。2005〜2006年がイタリアとベルギー。2007〜2009年がフランス。特に思い出深いのは2004年。どっぷりと1シーズン、イタリアで生活を送った。
当時インターナショナルだったチームの選手構成はカルチャーショックの連続。言葉の壁や文化の違いによる意見の相違。それはもう日常茶飯事だった。同じ屋根の下に住んではいたが、チームメイトはみなライバルでもあった。
他人を蹴落として這い上がってこそのプロ。シーズン半ばで去っていく選手は一人二人ではなかった。そんな彼らと寝食を共にする時間は、日本に残してきた家族とは比べ物にならないほど長く濃いものだった。この生活で得たものは本当に大きい。
私は今年で37歳。結婚してから8年が過ぎた。ヨーロッパに行き始めた時期と結婚した時期が重なったこともあって、家族のことをおざなりにしてきた。特に文句を言われたのではないが、今年の初めくらいから何とはなく申し訳なく思うようになってきた。
己の道をただひたすらに追求することが果たして正しいことなのかどうなのか。もう十分ではないのだろうか?。家族への思いが引退を決めた一因であることは否めない。
話は前後するが、私は25歳でサラリーマンを辞め、自転車一筋の生活に入った。それまでは海外旅行の経験は全くなかったが、引退までに遠征や個人旅行で25カ国を周った。
アフリカ大陸中部で夜行列車に乗り、無賃乗車の喧嘩に巻き込まれたり、チェコの高速道路でパトカーに追いかけられてピストルを向けられたり、モンゴルの砂漠横断レースでは転倒し、膝の皿を割ったまま1週間放置されたり。一筋縄ではいかない出来事を数多く体験した。
テレビで見る華やかなロードレースと現実は大きく違い、ヨーロッパ僻地を周る経験は大きなチームにいなかったからこそできたことだと思う。
また、ヨーロッパのロードレーサーたちは驚くほど安い給料で走っている。UCIカテゴリー1クラスで優勝する選手でも、収入は同年代のサラリーマン並み。それでも選ばれた者の誇りやステータスが彼らの原動力だ。
この誇りや自覚が日本のロードレーサーに欠けている部分だと最近強く思う。歯がゆくて仕方のない気持ちだ。
今、日本のレース界を見渡すと、ヨーロッパで十分にやっていける力のある選手は私から見て5人はいる。あえて名前は出さないが、もったいない。日本の中だけで走っているようでは所詮、井の中の蛙。「ロードレーサーかぶれ」にすぎない。
機会を逃さずに是非チャレンジして欲しい。たとえ結果が思うように出なかったとしても、人としての「引き出し」は確実に増える。挑戦した経験は、必ずやその後の人生の肥やしになるはずだ。
「そして今」
現在の私はレースの世界からは離れ、ビジネスとして自転車に携わっている。6月14日に引退を決意し、選手最後のレースを6月28日、広島で行われる全日本選手権ロードにすると決めた。「今シーズンを走り切ってから」などとは考えもしなかった。そして、辞めると決めた次の日から就職活動を始めた。立ち止まってなどいられなかった。次の一歩をすぐに踏み出さないと、動けなくなりそうな焦りや恐れがあった。
そんな中、旧知の中田真琴氏の紹介で、コルナゴ正規代理店(株)エヌビーエスの彼と同じ部署に就職することができた。
ロードレース一筋でやってきた私を快く迎えてくださった筒路社長、道をつけてくださった中田氏に対する感謝の気持ちはとうてい言葉では言い尽くせない。
社会人として歩みだしたと同時に、競技者として新たな挑戦も始めた。
これまでのキャリアがある部分では活かせるとはいえ、その種目では1からのスタート。師から学ぶべきこと、やるべきことは山のようにあり、来年6月の初試合に向けて日々鍛錬を続けている。
当たり前のことかもしれないが、決まった時間に起き、決まった電車に乗り、毎日会社に通っている。
選手の時には体の調子と相談しながらメニューを作り、トレーニングをし、必要ならば休養をとり、結果さえ出せばある意味何をやってもいいという生活を続けてきた。大げさでなく生活は180度変わり、正直最初の1か月は辛かった。しかし、今は徐々に仕事も覚え、更に交友関係も増え、毎日がとても充実している。
「最後に」
終わりにあたり、故郷に錦を飾ることができなかったが、地元広島の後援会の皆様には心から感謝している。そして、シーズン半ばで自転車を降りる私の決意を理解し、受け入れてくださったエキップアサダの浅田監督、お世話になったすべての方々にこの場を借りてお礼を言いたい。
今まで本当にありがとうございました。
プロフィール
岡崎 和也 おかざき かずや
1972年生 37歳
1972年生 37歳
高校3年の夏にツール・ド・フランスをテレビで見て自転車に興味を持つ。25歳で脱サラし、単身広島から大阪へ移住し自転車競技に打ち込む。実業団チームを経てプロに上り詰め、個人の力量が問われる全日本選手権タイムトライアルでは4回優勝。熱血感あふれる男気のある走りで日本のレースシーンを熱くした彼の功績は大きい。
戦歴
02、03、07、08全日本選手権個人TT優勝(通算4勝)
01世界選手権個人TT出場
02アジア選手権個人TT優勝
03ツール・ド・おきなわ優勝
06全日本実業団選手権ロード優勝
06アジア大会 チームTT銅メダル
ツール・ド・北海道ステージ通算4勝
戦歴
02、03、07、08全日本選手権個人TT優勝(通算4勝)
01世界選手権個人TT出場
02アジア選手権個人TT優勝
03ツール・ド・おきなわ優勝
06全日本実業団選手権ロード優勝
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■Panaracerサポートチーム情報
「TEAM NIPPO」 2010体制 発表される
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