2016年シーズン、圧倒的な力でJBCFエリートツアーをねじ伏せ、2017年より宇都宮ブリッツェンに加入した岡篤志。かつてJプロツアーで2位を獲得、欧州レースで優勝に迫ることもあった程の実力派が、実業団レースを走ることになった背景を語る。

引き籠った少年時代

自転車競技とは一切縁のない、ごく普通の家庭で育った僕にとって、自転車に出会えたことはこの上ない幸運だったと思う。小学校3年まではサッカークラブでサッカーに明け暮れ、小学校4年の時に親の転勤で京都に引っ越してからは、陸上部で毎朝7時から朝練で走り込むなど、スポーツにはいつも本気で、1番にならないと気が済まなかった。サッカーも陸上も、同学年では1番だったので、運動神経は良い方だったと思う。

小学3年生まではサッカーに明け暮れていた小学3年生まではサッカーに明け暮れていた (c)Atsushi Oka毎朝7時から走り込んだ陸上部時代毎朝7時から走り込んだ陸上部時代 (c)Atsushi Oka

その一方で、ノミの心臓だった私は、些細なことで学校に行けなくなることがしばしばあった。中学校に上がる年、再びつくばへ引っ越すことになり、京都の北桑田高校に進学が決まった3つ上の兄を京都に残し、つくばへ。偶然にも自転車部の名門校に入学した兄は、何故か自転車部に入部し、競技生活をスタートさせていた。

対して私はというと、暗黒時代の始まりだった。完全に学校に行けなくなってしまったのである。理由は今となっては良くわからないが、中学校には最初の3日しか行っていない。そんな生活に罪悪感を感じないメンタルも持ち合わせていなかったので、自己嫌悪で拒食気味になり、精神的に病んでしまった。両親には本当に迷惑をかけ、今思い出すと本当に申し訳ない。そんな引き籠り少年を外に連れ出すために、父や兄は僕を時々サイクリングに連れ出してくれた。これが自転車と出会った最初のきっかけだろう。

SPACEと筑波高校に育まれた自転車生活

中学3年生の終り頃、松戸の実業団チーム「SPACE」で走ることになった兄に連れられ、その練習会に参加する事になった。そこには当時シマノレーシングの鈴木真理選手もいた。まともに練習もしていなかった僕は当然あっけなく千切れたが、SPACEの店長だった佐藤成彦監督に才能を見込まれたのか「本気でやってみようぜ」と誘われ、何度か練習会に参加するうち、自分もとうとうSPACEで競技を始めることになる。

3つ年上の兄とともにスペースゼロポイントで走った3つ年上の兄とともにスペースゼロポイントで走った (c)Atsushi Oka2012年いわきクリテリウムでは、チームメイトの小室雅成が優勝、2位に岡篤志が入りワンツーフィニッシュを決めた2012年いわきクリテリウムでは、チームメイトの小室雅成が優勝、2位に岡篤志が入りワンツーフィニッシュを決めた photo:Hideaki.TAKAGI

いわきクリテリウムで集団を牽引する岡篤志いわきクリテリウムで集団を牽引する岡篤志 photo:Hideaki.TAKAGI
「僕の学力でも入れるだろう」という安易な理由で選んだ高校は偶然にも筑波山の麓にあり、朝6時から筑波山を登ってジャージのまま登校できる最高の練習環境に恵まれた。校長にお願いして部室まで用意してもらう。その甲斐があり僕は短期間で急成長し、1年後にはジュニアの代表に選ばれ、初めての海外遠征を経験。初めて走るネイションズカップは本当に刺激的で、その舞台に立てた喜びと、味わったことのない激しいレースに、当時の僕は痺れた。

引き籠りだった中学時代からは想像もつかないほど世界は広がり、自分に自信がついた。そして将来はヨーロッパでプロになりたいとこの時思った。日本では高校2年生からJPTチームのcannondale spacezeropointに加入することになり、憧れの真理選手のチームメイトに。実力も順調すぎるほどに伸び、その年のいわきクリテリウムでは小室雅成選手とワンツーを決めた。

高校3年生になり進路を決める年。卒業後はヨーロッパに行きたいと思っていた僕は、佐藤監督やJBCFの計らいで、2週間のフランス遠征に行けることになった。運よくフランスで活動経験のあった元選手がSPACEにいたので、その方に連れられてフランスのアマチュアレースに参戦。レースではまずまずの結果を残せたので、フランスチームとの交渉を成立させて帰国した。今になってその方が監督を務めるチームで走ることになるとは知る由もなく(笑)

ナショナルチームで初めてネイションズカップを経験したナショナルチームで初めてネイションズカップを経験した (c)Atsushi Oka現・宇都宮ブリッツェンの清水監督とともにフランス遠征を決行した現・宇都宮ブリッツェンの清水監督とともにフランス遠征を決行した (c)Atsushi Oka

しかし暫くして、残念なお知らせが届いた。来年走ると約束したチームが無くなるというものだった。チームを選ばなければ行く当てもあったろうが、ただでさえ不安があった僕にとって、全くサポート体制や雰囲気の分からないチームで走るのはハードルが高い。そして結果的に選んだのは、日本代表監督を務める浅田顕監督のチーム「EQA U23」だった。

苦戦を強いられた欧州遠征

卒業式を待たずして、エキップアサダの拠点である南フランスへ渡り、欧州遠征がスタート。がむしゃらに走ってきたこれまでとは違い、浅田監督の指導の下でレースの戦略やテクニックなどのノウハウを学び、沢山経験を積むことができた。浅田監督の予想は驚くほどよく当たり、渡仏して1か月、優勝の一歩手前まで行けるようになってきた。U23のナショナルチームでもエースを任されるようになり、代表遠征が始まった。

EQA U23時代は優勝の一歩手前まで実力をつけたEQA U23時代は優勝の一歩手前まで実力をつけた (c)Atsushi Okaしかし、ここからまた暗黒時代が再来。練習もまともに出来ないほどの不調に陥り、ほとんどのレースを完走できなくなってしまったのだ。進学でも就職でもない道を選んだ以上、U23のうちにプロ(プロコンチネンタルチーム以上のクラス)として走れる見込みがなければ辞めようと決めていた僕は、焦り始めていた。焦れば焦るほどに状況は悪化し、負のスパイラルでメンタル的にも落ち込む日々が続いた。

しかしまだ挑戦は1年目、もう1年チャレンジしようと決め、2015年も同じ環境で闘うことに。何度か良い走りはできたものの、調子の波が激しく、サイクリングも辛い時期が多々あった。始めた当初はただ楽しかった自転車だが、やがて重みに感じるようになり、世間の批判から逃げるように「自転車はもう続けられない」そう監督に話し、チームを去った。

離れて、別の世界から見えたもの

フィットネススタジオ「パワープレートつくば」で働きながら、エリートツアーに参戦するフィットネススタジオ「パワープレートつくば」で働きながら、エリートツアーに参戦する (c)Atsushi Okaとは言ったものの、これまで打ち込んできた自転車を失って、次はこれを目指そう!というものがあったわけでもなかった。しばらく迷走した挙句、自宅近くのフィットネススタジオ「パワープレートつくば」で働くことになる。佐藤監督にも近況を伝えようと連絡を取った。そして焼き肉屋で食事をしながら、魂の抜けた抜け殻のような僕に、佐藤監督は「プレッシャーとか忘れて、エリートツアーで走ってみないか?」と声をかけてくれた。

今までのプライドもあり「そんなアホな…」と思ったのは言うまでもないが、こうなりゃ自転車を思いっきり楽しんでやろうと決め、高校時代からお世話になっていた弱虫ペダルの渡辺先生率いるチーム「弱虫ペダルサイクリングチーム」で走ることになった。

仕事の方も初めての事だらけで苦戦したが、指導資格を取りトレーナーとしてデビューした。1日6~9時間、週4前後で働きながら、体やトレーニングについても考えながら練習し、当然と言われればそれまでだが、多くのレースを勝つことができた。そして色々考えるうち、これまでの失敗の原因や、改善方法も見えてきた。「まだ強くなれるな…」そう思えるようになった。これが選手として復帰する1番の起爆剤だった。

そしてこれまで、自分の結果のためだけに走ってきたが、色々な世界を見ることで価値観も変化してきた。まず一つは「自分で飯が食えなければ選手は続けられない」ということ。そのためには「もっと多くの人から応援される、価値のある選手になりたい…」

実業団レースに参加した岡篤志は圧倒的な力を見せつけ、年間総合リーダーを獲得した実業団レースに参加した岡篤志は圧倒的な力を見せつけ、年間総合リーダーを獲得した photo:Satoru.Katoジャパンカップ2016のステージにて宇都宮ブリッツェンか加入が発表されたジャパンカップ2016のステージにて宇都宮ブリッツェンか加入が発表された photo:Makoto.AYANO

ブリッツェン1年生の岡篤志ブリッツェン1年生の岡篤志 photo:Hideaki TAKAGI
そんな折、宇都宮ブリッツェンの廣瀬佳正GMからオファーを受ける。日本一応援され、強い走りを見せていたそのチームは、今の僕にとって願ってもない話だった。他にもいくつかの選択肢はあったかもしれないが、僕は迷いなく加入を決めた。

ここまでが僕のストーリー。まだサクセスストーリーには程遠い人生であるが、決して強くはない人間だった自分も、ようやくスタートに立てたと思う。ここからどこまで行けるかは自分次第、これからは立ち止まらずに前だけを見て、行けるところまで突き進んでいきたい。

プロフィール
岡篤志岡篤志 (c)Tatsuya.Sakamoto/STUDIO NOUTIS
岡篤志 おかあつし
1995年9月3日生
茨城県つくば市 出身
15歳からSPACEで自転車をはじめ、高校2年から「cannondale spacezeropoint」でJプロツアーを走る。高校卒業後はEQA U23でヨーロッパを中心に活動し、昨年2016年は弱虫ペダルサイクリングチームに所属し、現在の宇都宮ブリッツェンへ加入。

主な戦績
2012年 いわきクリテリウム(JPT) 2位
2013年 全日本選手権個人タイムトライアル・ジュニア 優勝
2014年 全日本選手権個人タイムトライアル・エリート 5位
2015年 Trofeo Almar(U23ネイションズカップ) 19位
2016年 ジャパンカップ・オープン 優勝


Panaracer 「RACE EVO3」

2015年10月に発売されて以来、高評価を得ている「RACE EVO3」シリーズ。グリップ力と耐パンク性能に優れたハイバランスレーシングタイヤの「RACE」シリーズが耐貫通パンク性能をさらに強化してEVO3へと進化した。従来のケーシング補強材「PT」よりもさらに高い耐貫通パンク強度を誇る「ProTite」を採用、重量・基本性能はそのままに耐貫通パンク性能を24%向上させた。

さらに待望のロードチューブレスタイヤ(700-23C、25C)をラインナップに追加。クリンチャーシリーズには新たに700-28Cサイズも追加されている。2016年4月にはRACE A EVO3 TUBULARをベースに、サイド部の耐パンク性能を強化した『RACE D EVO3 TUBULAR』も発売。ProTite Shield構造としたことで、サイド部のカットパンクを防ぐ。

RACE EVO3シリーズ ラインナップ

RACE D EVO3 チューブラーRACE D EVO3 チューブラー
RACE A EVO3 チューブラーRACE A EVO3 チューブラー (c)PanaracerRACE A EVO3 チューブレスRACE A EVO3 チューブレス (c)Panaracer

RACE A EVO3 クリンチャーRACE A EVO3 クリンチャー (c)PanaracerRACE C EVO3 チューブラーRACE C EVO3 チューブラー (c)Panaracer

RACE D EVO3 クリンチャーRACE D EVO3 クリンチャー (c)PanaracerRACE L EVO3 クリンチャーRACE L EVO3 クリンチャー (c)Panaracer

チューブラー RACE D EVO3 700×23mm 黒/黒 290g \10,734(税抜)
RACE A EVO3 700×23mm 黒/黒 270g \9,420(税抜)
RACE C EVO3 700×23mm 黒/黒 270g \9,420(税抜)
700×26mm 黒/黒 310g \9,420(税抜)
チューブレス RACE A EVO3 700×23C 黒/黒 280g \7,860(税抜)
700×25C 黒/黒 330g \7,860(税抜)
クリンチャー RACE D EVO3 700×23C 黒/黒、黒/茶 230g \6,173(税抜)
700×25C 黒/黒、黒/茶 250g \6,173(税抜)
700×28C 黒/黒、黒/茶 270g [サイズ追加] \6,173(税抜)
RACE A EVO3 700×23C 黒/黒、黒/青、黒/赤 210g \5,410(税抜)
700×25C 黒/黒、黒/青、黒/赤 240g \5,410(税抜)
700×28C 黒/黒、黒/青、黒/赤 250g \5,410(税抜)
RACE L EVO3 700×20C 黒/黒 175g \5,410(税抜)
700×23C 黒/黒 180g \5,410(税抜)
700×25C 黒/黒 200g \5,410(税抜)
700×28C 黒/黒 220g \5,410(税抜)

提供:パナレーサー株式会社 編集:シクロワイアード