2016/10/12(水) - 20:44
今季、弱虫ペダルレーシングチームで選手/コーチ兼任のプレイングコーチとして競技の世界へと戻ってきた唐見実世子。Jフェミニンツアーでの他を寄せ付けぬ強さを見れば、その気持ちが決して中途半端なものではなかった事は証明されている。そんな彼女にアテネ五輪代表にまでなり、欧州でもレース活動を行っていたその時とその後、そして現役復帰を決めた今の心境を振り返ってもらった。
それもそのはず、当時の日本には自転車ロードレースというスポーツに触れ合う機会が無さ過ぎた。当時、自転車といえば競輪だった。ロードレーサーに乗っていたら、十中八九「競輪選手ですか?」と聞かれるほどだった。練習していても、ロード選手と出会う事はほとんどなかった。
子供の頃は、週末ともなると父の漕ぐママチャリで広島競輪場に連れていかれ、大男達が迫力のある走りをするほんの少しの時間以外は、うどんを食べるか、父がどの車券を買うかであれこれと悩んでいるのを傍でぼーっと待っているという退屈な時間が、唯一自転車競技と触れ合う時間だった。自転車の魅力を感じるには、競輪のルールすらわからない当時の私にとってあまりにも酷すぎた。
大学は体育大学を選んだ。体育の先生になろうと思ったからだ。運動能力に優れている訳でもなく、何かのスポーツにひたむきに取り組んだ経験もないので、体育大生の実技には、いつも目を見開いた。どの種目をしても自分が目立つ事はなかった。
大学二年生の時にトライアスロンと出会った。今まで何をやっても平凡だった自分が、トライアスロンでは違っていた。練習するという行為はやはりあまり得意ではなかったが、それでもそこそこの成績は残す事ができた。すぐに県の強化選手に選ばれるようになり、望めば同年代のオリンピック強化選手とトレーニングさせてもらえる環境があった。そんな有望選手と一緒にトレーニングさせてもらえる時間が自分にとってあまりに貴重で、人生の中で最もエキサイティングな時間だった。
強い選手は芯が強かった。好調な時もそうでない時もぶれなかった。私のようなポッと出の、海のものとも山のものとも分からない選手にさえ、決して爪弾きにすることなく対等に接してくれた。そうして彼らはいつも底抜けに明るかった。その時に「将来どんな職業に就いたとしても寛容でいられるように努めよう」と誓った。彼らと流した汗は、いつも純粋でキラキラしていて、この経験が今の自分のベースとなった。
ドラフティングするとありえないスピードで長時間走る事が出来るという事を体感した。集団でのレース経験がなかったが、オーストラリアやニュージーランドのレースを走る機会も与えて頂き、日本人女子としては初のワールドカップ完走も果たせた。そしてその半年後には、日本代表に選ばれ、アジア選手権で表彰台に乗るレベルにまでなった。
しかし、そんな自転車三昧の日々も長くは続かなかった。チームの規模は年々縮小し、2000年シドニー五輪にチームから誰も選ばれる事がなかった事もあり、チームは解散する事となった。その頃から、競技に携わった時の「ぶれない精神」というのを忘れてしまっていた。相変わらず自転車は好きだったが、腐ってしまった。
2005年からは自転車の本場、イタリアに行くようにと言われた。信じてもらえないかもしれないが、当時の私はイタリアなどには行きたくなかった。日本が良かったし、本場ヨーロッパのレースにあまり興味がなかった。監督にも、「行きたくないです」と言ったが許してはもらえず、世界チャンピオンやナショナルチャンピオンが在籍するSAFI Pasta ZARA(サフィ・パスタザーラ)というチームに加入が決まった。
2005年3月、渡欧してすぐにレギュラー争いが始まった。ワールドカップやステージレースへのエントリーは各チーム6名。みんなその枠に入りたがっていた。だが、イタリア語の分からない私には理解が出来なかった。
チームで練習したり、ドメスティックレースを戦ううち、自分は強くはないが決して弱くはないということだけは分かった。
4月には私達は行先も告げられず、チームバスに乗った。ヨーロッパU23 チャンピオンの女の子が泣いていた。着いた先はベルギーのフランドルだった。しかし、当時の私は最高峰のクラッシックレースであるツール・デ・フランドル(ロンド・ファン・フラーンデレン)の存在すら知らなかった。
延々と続くパヴェ、壁のような坂、強風、密集度の高い集団、全てが初めてだった。完走は果たしたが、アシストとして何の役にも立たなかった。一週空いてフレーシュ・ワロンヌだった。すでにその時には、チームバス恐怖症になっていた。今度はどんな地獄が待っているのだろうかと...。
フレーシュ・ワロンヌのゴール後、ちょっとしたサプライズがあった。女子は男子のレースの前座的な位置づけだったので、スタートゴール地点には男子のチームバスが軒を連ねていた。その辺りから日本語が聞こえてきたと思ったら、リクイガスでマッサーをされていた中野喜文さんだった。
当時はPC環境もさほど整っておらずSNSなどもなかったので、今よりも日本が遠かった。だから日本語が聞けるというのは、貴重な事だった。中野さんに日本語で労って頂けたことがすごく嬉しかった。
そんな過酷極まりないイタリア生活も3年目に入る頃には大好きになっていた。文化にも慣れ、片言ではあるが言葉も話はじめていた。レースも見え始め、やっとロードレースというものが理解できるようになった。
女性版ジロ・デ・イタリアの「ジロ・ドンナ」も走った。だがその時すでに33歳。翌年ヨーロッパのチームで納得のいく契約をもらえるほど世間は甘くなかった。
そこからは完全に腐った。帰国し、いくつかのレースを走らせてはもらったものの、残念すぎる走りだった。
自転車に乗っても、以前のように気分が高揚する事はなくなった。そうして一般的な30代として地元で仕事するようになった。それからというもの、あれだけ多くの経験をさせてくれて、私の事を育ててくれた自転車を見たくなくなった。インターネットも雑誌も、自転車と名の付くものは見ないようにした。そうやって目を閉じて、たくさんの子供達と触れ合う仕事をしていたら、あっという間に時が過ぎた。
その頃には仕事を通して、環境、縁、スポーツに耐えられるだけの健康的な脳と身体を兼ね備えて生まれてきた事への感謝する気持ち、そして自分の得意分野で勝負するという事が、どれだけ特別で貴重な事なのかが理解できるくらいの最低限の経験をさせてもらっていた。
「弱虫ペダルサイクリングチーム」 私の知らない間に、日本ロードレース界に旋風を巻き起こすほどの漫画が出版され、それが母体となるチームだった。日本特有の漫画文化がヨーロッパ発祥のスポーツをも題材にして、ヨーロッパへ逆輸入されるほどの勢いを持っていた。日本人の才能は素晴らしいと思った。間違いなく日本でしか成りえないであろうチーム。だからこそ、海外でもひるむ事なく日本人として誇りを持って戦っていけるようなチームになってもらいたいと思う。
日本人だって、ヨーロッパでも世界でも戦える。すでにその事は先駆者達が経験済みなのだから、その先へ目が向けられるようなチームになって欲しいと願っているし、そのための踏み台であるならば、いくらでもなろうと思っている。もちろん踏み台のステップだって、日に日に進化させていくつもりである。
主な戦績
さらに待望のロードチューブレスタイヤ(700-23C、25C)をラインナップに追加。クリンチャーシリーズには新たに700-28Cサイズも追加されている。2016年4月にはRACE A EVO3 TUBULARをベースに、サイド部の耐パンク性能を強化した『RACE D EVO3 TUBULAR』も発売。ProTite Shield構造としたことで、サイド部のカットパンクを防ぐ。
はじまりはトライアスロン
なぜ自転車競技をはじめたのですか?と今まで数えきれないほど質問されてきた。しかし、その明確な答えは見当たらず、「成り行きから」とか「誘われたから」と答えてきた。それもそのはず、当時の日本には自転車ロードレースというスポーツに触れ合う機会が無さ過ぎた。当時、自転車といえば競輪だった。ロードレーサーに乗っていたら、十中八九「競輪選手ですか?」と聞かれるほどだった。練習していても、ロード選手と出会う事はほとんどなかった。
子供の頃は、週末ともなると父の漕ぐママチャリで広島競輪場に連れていかれ、大男達が迫力のある走りをするほんの少しの時間以外は、うどんを食べるか、父がどの車券を買うかであれこれと悩んでいるのを傍でぼーっと待っているという退屈な時間が、唯一自転車競技と触れ合う時間だった。自転車の魅力を感じるには、競輪のルールすらわからない当時の私にとってあまりにも酷すぎた。
大学は体育大学を選んだ。体育の先生になろうと思ったからだ。運動能力に優れている訳でもなく、何かのスポーツにひたむきに取り組んだ経験もないので、体育大生の実技には、いつも目を見開いた。どの種目をしても自分が目立つ事はなかった。
大学二年生の時にトライアスロンと出会った。今まで何をやっても平凡だった自分が、トライアスロンでは違っていた。練習するという行為はやはりあまり得意ではなかったが、それでもそこそこの成績は残す事ができた。すぐに県の強化選手に選ばれるようになり、望めば同年代のオリンピック強化選手とトレーニングさせてもらえる環境があった。そんな有望選手と一緒にトレーニングさせてもらえる時間が自分にとってあまりに貴重で、人生の中で最もエキサイティングな時間だった。
強い選手は芯が強かった。好調な時もそうでない時もぶれなかった。私のようなポッと出の、海のものとも山のものとも分からない選手にさえ、決して爪弾きにすることなく対等に接してくれた。そうして彼らはいつも底抜けに明るかった。その時に「将来どんな職業に就いたとしても寛容でいられるように努めよう」と誓った。彼らと流した汗は、いつも純粋でキラキラしていて、この経験が今の自分のベースとなった。
ロードレースへの本格参戦
そんな中、イノアック・デキというロードレースチームが女子チームを立ち上げるというので、私にも白羽の矢が立った。スイムパートが苦手でいつも足を引っ張っていた事もあり、自転車競技に絞るというのは、自分にとっても好都合だった。二つ返事で承諾させて頂いた。既にトレーニングの一環としてロードレースを走っていたが、ドラフティングを感じるレベルですらなく、ひたすら先頭を引きまくり、最後に刺されて終了するくらい無知だった。チームに加入させてもらってからは、男子トップレベルの選手達と練習する環境が用意されていた。ドラフティングするとありえないスピードで長時間走る事が出来るという事を体感した。集団でのレース経験がなかったが、オーストラリアやニュージーランドのレースを走る機会も与えて頂き、日本人女子としては初のワールドカップ完走も果たせた。そしてその半年後には、日本代表に選ばれ、アジア選手権で表彰台に乗るレベルにまでなった。
しかし、そんな自転車三昧の日々も長くは続かなかった。チームの規模は年々縮小し、2000年シドニー五輪にチームから誰も選ばれる事がなかった事もあり、チームは解散する事となった。その頃から、競技に携わった時の「ぶれない精神」というのを忘れてしまっていた。相変わらず自転車は好きだったが、腐ってしまった。
イタリアでの戦い
2001年から4年間は、石川県内灘町にあるカツリーズサイクルにお世話になった。国内レースはリザルトが残らないにも関わらず、実業団のBR-2カテゴリーでわがままを言って走らせて頂いた。冬は、オーストラリア遠征に行かせてもらって、クリテリウムを走ったり、ステージレースやワールドカップを走る環境も与えてもらえた。楽しかった。でもプロではなかった。その素晴らしい環境が当たり前で、甘えていた。石川県での生活の最後の年にアテネ五輪があった。何とか代表に選ばれ、オリンピックに出場し、面目だけは保てた。2005年からは自転車の本場、イタリアに行くようにと言われた。信じてもらえないかもしれないが、当時の私はイタリアなどには行きたくなかった。日本が良かったし、本場ヨーロッパのレースにあまり興味がなかった。監督にも、「行きたくないです」と言ったが許してはもらえず、世界チャンピオンやナショナルチャンピオンが在籍するSAFI Pasta ZARA(サフィ・パスタザーラ)というチームに加入が決まった。
2005年3月、渡欧してすぐにレギュラー争いが始まった。ワールドカップやステージレースへのエントリーは各チーム6名。みんなその枠に入りたがっていた。だが、イタリア語の分からない私には理解が出来なかった。
チームで練習したり、ドメスティックレースを戦ううち、自分は強くはないが決して弱くはないということだけは分かった。
4月には私達は行先も告げられず、チームバスに乗った。ヨーロッパU23 チャンピオンの女の子が泣いていた。着いた先はベルギーのフランドルだった。しかし、当時の私は最高峰のクラッシックレースであるツール・デ・フランドル(ロンド・ファン・フラーンデレン)の存在すら知らなかった。
延々と続くパヴェ、壁のような坂、強風、密集度の高い集団、全てが初めてだった。完走は果たしたが、アシストとして何の役にも立たなかった。一週空いてフレーシュ・ワロンヌだった。すでにその時には、チームバス恐怖症になっていた。今度はどんな地獄が待っているのだろうかと...。
フレーシュ・ワロンヌのゴール後、ちょっとしたサプライズがあった。女子は男子のレースの前座的な位置づけだったので、スタートゴール地点には男子のチームバスが軒を連ねていた。その辺りから日本語が聞こえてきたと思ったら、リクイガスでマッサーをされていた中野喜文さんだった。
当時はPC環境もさほど整っておらずSNSなどもなかったので、今よりも日本が遠かった。だから日本語が聞けるというのは、貴重な事だった。中野さんに日本語で労って頂けたことがすごく嬉しかった。
そんな過酷極まりないイタリア生活も3年目に入る頃には大好きになっていた。文化にも慣れ、片言ではあるが言葉も話はじめていた。レースも見え始め、やっとロードレースというものが理解できるようになった。
女性版ジロ・デ・イタリアの「ジロ・ドンナ」も走った。だがその時すでに33歳。翌年ヨーロッパのチームで納得のいく契約をもらえるほど世間は甘くなかった。
そこからは完全に腐った。帰国し、いくつかのレースを走らせてはもらったものの、残念すぎる走りだった。
自転車に乗っても、以前のように気分が高揚する事はなくなった。そうして一般的な30代として地元で仕事するようになった。それからというもの、あれだけ多くの経験をさせてくれて、私の事を育ててくれた自転車を見たくなくなった。インターネットも雑誌も、自転車と名の付くものは見ないようにした。そうやって目を閉じて、たくさんの子供達と触れ合う仕事をしていたら、あっという間に時が過ぎた。
その頃には仕事を通して、環境、縁、スポーツに耐えられるだけの健康的な脳と身体を兼ね備えて生まれてきた事への感謝する気持ち、そして自分の得意分野で勝負するという事が、どれだけ特別で貴重な事なのかが理解できるくらいの最低限の経験をさせてもらっていた。
競技への復帰、弱虫ペダルレーシングチームへ
そんな中、またしてもロードレースへ復帰するチャンスを頂いた。「弱虫ペダルサイクリングチーム」 私の知らない間に、日本ロードレース界に旋風を巻き起こすほどの漫画が出版され、それが母体となるチームだった。日本特有の漫画文化がヨーロッパ発祥のスポーツをも題材にして、ヨーロッパへ逆輸入されるほどの勢いを持っていた。日本人の才能は素晴らしいと思った。間違いなく日本でしか成りえないであろうチーム。だからこそ、海外でもひるむ事なく日本人として誇りを持って戦っていけるようなチームになってもらいたいと思う。
日本人だって、ヨーロッパでも世界でも戦える。すでにその事は先駆者達が経験済みなのだから、その先へ目が向けられるようなチームになって欲しいと願っているし、そのための踏み台であるならば、いくらでもなろうと思っている。もちろん踏み台のステップだって、日に日に進化させていくつもりである。
プロフィール
唐見 実世子 からみ みよこ
1974年9月6日生
広島県広島市 出身
1974年9月6日生
広島県広島市 出身
高校時代は陸上部に所属しながら、クラブチームでサッカーにいそしむ。大学時代にトライアスロンと出会い、ロードバイクを購入。ロード競技に転向してからは、ワールドカップ、アジア選手権、アテネオリンピック等に出場し、イタリアへ。一度競技から退いていたものの、今シーズンから、弱虫ペダルサイクリングチームのプレイングコーチとして現役復帰。現在、シスターローズジャージ着用中。
主な戦績
2001〜2002 全日本シクロクロス優勝
2004〜2005 全日本個人タイムトライアル優勝
2004 アテネオリンピック個人ロードレース完走
2005 世界選手権個人ロードレース完走
2007 ジロローザ完走
2016 現役復帰〜Jフェミニンツアー選手ランキング1位(10/10時点)
2004〜2005 全日本個人タイムトライアル優勝
2004 アテネオリンピック個人ロードレース完走
2005 世界選手権個人ロードレース完走
2007 ジロローザ完走
2016 現役復帰〜Jフェミニンツアー選手ランキング1位(10/10時点)
Panaracer 「RACE EVO3」
2015年10月に発売されて以来、高評価を得ている「RACE EVO3」シリーズ。グリップ力と耐パンク性能に優れたハイバランスレーシングタイヤの「RACE」シリーズが耐貫通パンク性能をさらに強化してEVO3へと進化した。従来のケーシング補強材「PT」よりもさらに高い耐貫通パンク強度を誇る「ProTite」を採用、重量・基本性能はそのままに耐貫通パンク性能を24%向上させた。さらに待望のロードチューブレスタイヤ(700-23C、25C)をラインナップに追加。クリンチャーシリーズには新たに700-28Cサイズも追加されている。2016年4月にはRACE A EVO3 TUBULARをベースに、サイド部の耐パンク性能を強化した『RACE D EVO3 TUBULAR』も発売。ProTite Shield構造としたことで、サイド部のカットパンクを防ぐ。
RACE EVO3シリーズ ラインナップ
チューブラー | RACE D EVO3 [新製品] | 700×23mm 黒/黒 290g | ¥10,734(税抜) |
RACE A EVO3 | 700×23mm 黒/黒 270g | ¥9,420(税抜) | |
RACE C EVO3 | 700×23mm 黒/黒 270g | ¥9,420(税抜) | |
700×26mm 黒/黒 310g | ¥9,420(税抜) | ||
チューブレス | RACE A EVO3 [新製品] | 700×23C 黒/黒 280g | ¥7,860(税抜) |
700×25C 黒/黒 330g | ¥7,860(税抜) | ||
クリンチャー | RACE D EVO3 | 700×23C 黒/黒、黒/茶 230g | ¥6,173(税抜) |
700×25C 黒/黒、黒/茶 250g | ¥6,173(税抜) | ||
700×28C 黒/黒、黒/茶 270g [サイズ追加] | ¥6,173(税抜) | ||
RACE A EVO3 | 700×23C 黒/黒、黒/青、黒/赤 210g | ¥5,410(税抜) | |
700×25C 黒/黒、黒/青、黒/赤 240g | ¥5,410(税抜) | ||
700×28C 黒/黒、黒/青、黒/赤 250g [サイズ追加] | ¥5,410(税抜) | ||
RACE L EVO3 | 700×20C 黒/黒 175g | ¥5,410(税抜) | |
700×23C 黒/黒 180g | ¥5,410(税抜) | ||
700×25C 黒/黒 200g | ¥5,410(税抜) | ||
700×28C 黒/黒 220g [サイズ追加] | ¥5,410(税抜) |
提供:パナレーサー株式会社 編集:シクロワイアード