2016/05/12(木) - 12:08
友人の一言から始まったジャパンカップへの関わり。いつか自転車選手になるのだと決意したのは、宇都宮ブリッツェン廣瀬佳正選手(現ゼネラルマネージャー)が古賀志林道の頂上で両手を上げた瞬間だった。
生まれも育ちも宇都宮。僕が選手を目指したのは、それ以上でもそれ以下でもない。
小学校で陸上、中学校でサッカーを部活動でやっていて運動が好きだった。高校は進学校へ。将来の夢も決まらず、ただアルバイトして友達とワーキャー騒ぐどこにでもいる高校生だったと思う。
自転車との出会いは高校2年生だった。バイト代をためてロードバイクを買った。でもロードレースとか言うレベルでもなく、ツールドフランスさえ知らなかった。ただ流線形で速そうでかっこいいハンドルに一目ぼれし、自転車に乗ることが好きだったから買った。それだけのことだった。それからはママチャリよりも圧倒的にスピードと爽快感があるこの乗り物に魅せられていった。
きっかけはアルバイト先の友人の一言だった。
「自転車好きな友人がいるが、ジャパンカップの手伝いをやらないか?」
初めは自転車競技に興味がなかったが、この年(2009年)に宇都宮に自転車チームができるのは小耳に挟んでいて、ロードレースの国際大会が宇都宮で開催されているのも知った。それがジャパンカップだった。一度観てみたい。その想いで友人の誘いを快諾した。
2009年のジャパンカップはまだクリテリウムがなかった。ジャパンカップ本戦が行われる古賀志林道まで自転車で行き、スタートゴール地点のターミナルにあるブリッツェンのブースへ。そこにいた友人の友人で、僕にジャパンカップの手伝いを進めてきた奴こそ、今もブリッツェンでメカニックをやっているタムラなのだが、この話をするとエンドレスなので割愛する(笑)。
手伝いとは、ジャパンカップ初出場である宇都宮ブリッツェンのフライヤー配りだった。そして僕にとってレースを観戦するのは初めてだった。目の前すれすれを飛ぶように走る選手たち。車輪の風切り音、集団が過ぎていった後の風圧。すべてが新鮮で、「こんな世界があるんだ」と、釘づけになった。そして山岳賞がかかった6周目。宇都宮ブリッツェンの廣瀬佳正選手(現ブリッツェンGM)が集団から飛び出し、独走で古賀志林道を駆け上がる。
大歓声に迎えられ、頂上で両手を挙げる廣瀬選手。自分の中に稲妻が落ちるような衝撃が走った。そしていつか自分も、と。この日以来、僕は自転車選手になるべき道を歩む。
僕は進学校にいて、周りの友人のほとんどが大学へ進学する。進路希望の用紙には ”自転車選手になる” とそのまま書いて、先生に「競輪選手になりたいのか?」と何度も言われた。何の根拠もないが、絶対になれると思っていて、何を言われようがロードレーサーになると貫き通した。学校が始まる前に4時に起きて50km乗り、終わってからも夕暮れまで乗り回った。
そんなある日、ブリッツェンのホームページに”下部育成チーム ブラウブリッツェントライアウト参加者募集”のバナーが。何の迷いもなく、即応募した。
そしてトライアウトに合格した。それからはチームとして活動し、たまには柿沼さん(現ブリッツェン社長)に呼ばれてチーム練習にも参加した。憧れのブリッツェンの選手たちと走れることは、この上ない喜びだった。でもやっぱりプロの選手達のフィジカルにはなかなかついていけず、めちゃくちゃキツかった覚えがある。ただこの時、高いレベルで走っていたおかげで、レース感覚は全くなかったけれどもレースで走れたのだと思う。
2011年からレース活動がスタートした。自分が主戦場とするのはJエリートツアーだ。上からE1、E2、E3に分けられており、その上にJプロツアーがあった。
初戦はE3の広島でのロードレース。ラストラップでの登りで数人が飛び出し、最後もアタックして独走で優勝した。このレースの結果を経てE2に昇格。次戦、栂池ヒルクライムでも優勝して昇格。次の富士ヒルクライムでも入賞して、3戦でJプロツアーを走る権利を得た。
そしてこの年の10月の輪島ロードでブリッツェンとして走り、2012年から宇都宮ブリッツェンの一員としてチームと契約を交わした。嬉しくてたまらなかったし、まだまだ自分は上に行けるという野心もあった。
しかしここまでは壮絶な前フリに過ぎない(笑)。ここから始まるプロ生活は、もう本当に地獄だった。
完全復帰した2013年。並々ならぬ想いで臨んだ年だった。表彰台に立つことはできたが、勝つにはまだまだ遠いな、と思った。
2014年。この年チームは総合優勝し、自分もU23ランキングのトップに贈られるピュアホワイトジャージに袖を通した。先頭集団で走れる手ごたえを感じた年だった。
2015年。いよいよ勝利をつかむ年。開幕前にタイで合宿を行い、乗り込んだ。しかし帰国戦前に落車して鎖骨を骨折。帰ってきて臨んだ沖縄合宿でも落車して骨折。シーズン半分を棒に振った。それからも目立つ活躍はできなかった。
2016年。昨シーズンからウエイトトレーニングを重ね、フィジカル強化に励んだ。そして練習レースとして出た3月のチャレンジロード。終盤4名の逃げ集団で展開し、最後の登りゴールスプリントでオスカル・プジョル選手を差し切って優勝した。練習レースとはいえ久しぶりの勝利に雄叫びをあげ、喜んだ。
そういえば2010年のジャパンカップクリテリウムでゲストとして呼ばれていたプジョル選手(当時サーヴェロテストチームに所属)をホテルの前で出待ちしていたあの時を思い出した。
僕の原点はもちろんジャパンカップであり、宇都宮ブリッツェンだ。そして、宇都宮で育っていなかったら間違いなく自転車選手を目指すことにはならなかったと思う。
ロードレースが僕の人生を変えた。今度はレーサーとして、誰かの心を動かしたい。そう、あの日の僕のように。
パナレーサーのロード用レーシングタイヤ「RACE」シリーズに、高剛性化を図ったプロスペックのチューブラーモデル「RACE TEAM Edition 1」が数量限定で登場。現行の「RACE EVO3」シリーズをベースに、構造を見直すことで、レースシーンで求められるあらゆる性能を高めている。
この「RACE TEAM Edition 1」は、パナレーサーのロード用レースタイヤのスタンダードである「RACE EVO3」シリーズをベースに、更なる高性能化を図ったプロスペックのチューブラータイヤ。宇都宮ブリッツェンをはじめとしたサポートライダーからのリクエストに応えるべく、使用する素材をそのままに、構造を見直している。
フルリニューアルされたサイト内には、パナレーサーのタイヤづくりへのコダワリがよくわかるプロモーションムービーが閲覧できるほか、新たに設けられた「メディアコンテンツ」ページには、新製品情報やサポート選手、チームからのレポートなどが随時公開される。また、タイヤ装着方法を紹介する動画も掲載されるなど、タイヤに関するノウハウを知りたいユーザーにも嬉しいサイトとなっている。アクセスは下のボタンから。
生まれも育ちも宇都宮。僕が選手を目指したのは、それ以上でもそれ以下でもない。
小学校で陸上、中学校でサッカーを部活動でやっていて運動が好きだった。高校は進学校へ。将来の夢も決まらず、ただアルバイトして友達とワーキャー騒ぐどこにでもいる高校生だったと思う。
ジャパンカップの衝撃
自転車との出会いは高校2年生だった。バイト代をためてロードバイクを買った。でもロードレースとか言うレベルでもなく、ツールドフランスさえ知らなかった。ただ流線形で速そうでかっこいいハンドルに一目ぼれし、自転車に乗ることが好きだったから買った。それだけのことだった。それからはママチャリよりも圧倒的にスピードと爽快感があるこの乗り物に魅せられていった。
きっかけはアルバイト先の友人の一言だった。
「自転車好きな友人がいるが、ジャパンカップの手伝いをやらないか?」
初めは自転車競技に興味がなかったが、この年(2009年)に宇都宮に自転車チームができるのは小耳に挟んでいて、ロードレースの国際大会が宇都宮で開催されているのも知った。それがジャパンカップだった。一度観てみたい。その想いで友人の誘いを快諾した。
2009年のジャパンカップはまだクリテリウムがなかった。ジャパンカップ本戦が行われる古賀志林道まで自転車で行き、スタートゴール地点のターミナルにあるブリッツェンのブースへ。そこにいた友人の友人で、僕にジャパンカップの手伝いを進めてきた奴こそ、今もブリッツェンでメカニックをやっているタムラなのだが、この話をするとエンドレスなので割愛する(笑)。
手伝いとは、ジャパンカップ初出場である宇都宮ブリッツェンのフライヤー配りだった。そして僕にとってレースを観戦するのは初めてだった。目の前すれすれを飛ぶように走る選手たち。車輪の風切り音、集団が過ぎていった後の風圧。すべてが新鮮で、「こんな世界があるんだ」と、釘づけになった。そして山岳賞がかかった6周目。宇都宮ブリッツェンの廣瀬佳正選手(現ブリッツェンGM)が集団から飛び出し、独走で古賀志林道を駆け上がる。
大歓声に迎えられ、頂上で両手を挙げる廣瀬選手。自分の中に稲妻が落ちるような衝撃が走った。そしていつか自分も、と。この日以来、僕は自転車選手になるべき道を歩む。
僕は進学校にいて、周りの友人のほとんどが大学へ進学する。進路希望の用紙には ”自転車選手になる” とそのまま書いて、先生に「競輪選手になりたいのか?」と何度も言われた。何の根拠もないが、絶対になれると思っていて、何を言われようがロードレーサーになると貫き通した。学校が始まる前に4時に起きて50km乗り、終わってからも夕暮れまで乗り回った。
トライアウトからプロへ
そうこうするうちに高校生活が終わり、僕は満を持してフリーターになった。それでも尽きることのない夢への情熱でペダルを回し続ける毎日だった。そんなある日、ブリッツェンのホームページに”下部育成チーム ブラウブリッツェントライアウト参加者募集”のバナーが。何の迷いもなく、即応募した。
そしてトライアウトに合格した。それからはチームとして活動し、たまには柿沼さん(現ブリッツェン社長)に呼ばれてチーム練習にも参加した。憧れのブリッツェンの選手たちと走れることは、この上ない喜びだった。でもやっぱりプロの選手達のフィジカルにはなかなかついていけず、めちゃくちゃキツかった覚えがある。ただこの時、高いレベルで走っていたおかげで、レース感覚は全くなかったけれどもレースで走れたのだと思う。
2011年からレース活動がスタートした。自分が主戦場とするのはJエリートツアーだ。上からE1、E2、E3に分けられており、その上にJプロツアーがあった。
初戦はE3の広島でのロードレース。ラストラップでの登りで数人が飛び出し、最後もアタックして独走で優勝した。このレースの結果を経てE2に昇格。次戦、栂池ヒルクライムでも優勝して昇格。次の富士ヒルクライムでも入賞して、3戦でJプロツアーを走る権利を得た。
そしてこの年の10月の輪島ロードでブリッツェンとして走り、2012年から宇都宮ブリッツェンの一員としてチームと契約を交わした。嬉しくてたまらなかったし、まだまだ自分は上に行けるという野心もあった。
しかしここまでは壮絶な前フリに過ぎない(笑)。ここから始まるプロ生活は、もう本当に地獄だった。
苦難のプロ生活、そして勝利
2012年Jプロツアー初戦、下総クリテリウム。予選で隣の選手が自分のホイールに突っ込み、派手に前転する大落車。左腕はへの字に曲がっていた。長期入院生活をへて、復帰した広島ロードでも落車して右腕を骨折。2012年のブリッツェンはチーム総合優勝、個人優勝というダブルタイトルを取ったのにもかかわらず、貢献できなかった。完全復帰した2013年。並々ならぬ想いで臨んだ年だった。表彰台に立つことはできたが、勝つにはまだまだ遠いな、と思った。
2014年。この年チームは総合優勝し、自分もU23ランキングのトップに贈られるピュアホワイトジャージに袖を通した。先頭集団で走れる手ごたえを感じた年だった。
2015年。いよいよ勝利をつかむ年。開幕前にタイで合宿を行い、乗り込んだ。しかし帰国戦前に落車して鎖骨を骨折。帰ってきて臨んだ沖縄合宿でも落車して骨折。シーズン半分を棒に振った。それからも目立つ活躍はできなかった。
2016年。昨シーズンからウエイトトレーニングを重ね、フィジカル強化に励んだ。そして練習レースとして出た3月のチャレンジロード。終盤4名の逃げ集団で展開し、最後の登りゴールスプリントでオスカル・プジョル選手を差し切って優勝した。練習レースとはいえ久しぶりの勝利に雄叫びをあげ、喜んだ。
そういえば2010年のジャパンカップクリテリウムでゲストとして呼ばれていたプジョル選手(当時サーヴェロテストチームに所属)をホテルの前で出待ちしていたあの時を思い出した。
僕の原点はもちろんジャパンカップであり、宇都宮ブリッツェンだ。そして、宇都宮で育っていなかったら間違いなく自転車選手を目指すことにはならなかったと思う。
ロードレースが僕の人生を変えた。今度はレーサーとして、誰かの心を動かしたい。そう、あの日の僕のように。
プロフィール
Panaracer「RACE TEAM Edition 1 TUBULAR」
パナレーサーのロード用レーシングタイヤ「RACE」シリーズに、高剛性化を図ったプロスペックのチューブラーモデル「RACE TEAM Edition 1」が数量限定で登場。現行の「RACE EVO3」シリーズをベースに、構造を見直すことで、レースシーンで求められるあらゆる性能を高めている。
この「RACE TEAM Edition 1」は、パナレーサーのロード用レースタイヤのスタンダードである「RACE EVO3」シリーズをベースに、更なる高性能化を図ったプロスペックのチューブラータイヤ。宇都宮ブリッツェンをはじめとしたサポートライダーからのリクエストに応えるべく、使用する素材をそのままに、構造を見直している。
Panaracer「RACE TEAM Edition 1 TUBULAR」スペック
形式 | チューブラー |
トレッド | マイクロファイルパターン |
コンパウンド | ZSGデュアル |
耐パンクベルト | ProTite belt |
インナーチューブ | R’AIR(2ピース仏式/バルブ長52mm) |
サイズ / 重量 | 700Cx23mm / 260g(平均) |
カラー | ブラック |
限定数 | 150セット |
価格 | 26,500円(前後セット販売、税抜) |
パナレーサーの公式サイトがフルリニューアルオープン
去る4月20日、パナレーサーの公式サイトがリニューアルした。日本国内に生産拠点を置くタイヤブランド、Panaracer(パナレーサー)のテーマは「R&D(製品開発)」と「日本でのモノづくり」。フルリニューアルされたサイト内には、パナレーサーのタイヤづくりへのコダワリがよくわかるプロモーションムービーが閲覧できるほか、新たに設けられた「メディアコンテンツ」ページには、新製品情報やサポート選手、チームからのレポートなどが随時公開される。また、タイヤ装着方法を紹介する動画も掲載されるなど、タイヤに関するノウハウを知りたいユーザーにも嬉しいサイトとなっている。アクセスは下のボタンから。
提供:パナレーサー株式会社 編集:シクロワイアード