2014/02/14(金) - 19:46
いよいよソチ冬季オリンピックが始まった。選ばれた選手達による白熱した競技展開を見ていると思わず引き込まれて時を忘れる。オリンピック、パラリンピックは夏季と冬季で種目は違えど、その競技に対する選手の情熱は同じ。代表になるまでに積み上げられた苦労は計り知れないものだろう。
その大変な苦労の末に、夏季と冬季、共に日本代表として選ばれ、喜びを噛み締めた選手がいる。おそらく皆さんの脳裏に浮かぶのは、今回のソチオリンピック日本選手団の橋本聖子団長に違いない。
だが実はパラリンピックでもこの快挙を成し遂げた選手がいる。土田和歌子選手だ。彼女は夏季・冬季両方のパラリンピックを経験しただけでなく、パラリンピックで天国と地獄を味わったアスリート。そんなすべての経験を糧とし、リオでの金メダルを目指した彼女は、東京マラソンで14年のスタートを切る。
車いすスポーツに打ち込み、これまで数々の偉業を達成してきた土田和歌子(サノフィ アベンティス)
私は17歳の時、交通事故に遭い、脊髄損傷という怪我を負い車いす生活となりました。脊髄損傷とは背骨を骨折し、そのときに神経までもが損傷すると、両下肢の自由を奪われるといった障害です。
医師から『もうあなたは歩くことが出来ませんよ』と宣告を受けたときはさすがにショックを受けましたが、入院し治療を受けていた病院は脊髄損傷の怪我を負った患者さんの専門病棟がある病院でしたので、カラフルな車いすでリハビリをする若い患者さんたちの姿を見て、私も早く同じように車いすで自由に動けるようになりたいと思えたことが、自分自身の障害を受け入れるきっかけとなりました。
入院中、生活に必要な筋力強化や車いす操作の練習、リハビリの一環として始めた車いすスポーツに楽しさを感じ、もっとうまくなりたいという気持ちが、退院後に私をアスリートの道へと導いて行きました。
長野パラリンピックで金2銀2のメダルを獲得した土田は、その後本格的に車いすマラソンへのチャレンジを始める 入院中につながった指導者との出会いもあって、退院後は競技スポーツに興味を持ち、取り組みました。
当時の指導者の勧めもあって、1998年長野パラリンピック開催を視野に選手と指導者の育成のため、長野県で開催されたアイススレッジ(氷上でおこなうスケート競技)の講習会に参加したことがきっかけで、当時日本には全く歴史のなかったこの競技で1994年のリレハンメルパラリンピックに出場しましたが結果は惨敗…。
その結果が、また新たな「長野」という目標へと自分を突き進めました。
この頃には選手の強化体制も整ってきて、苦楽を共にした日本チームはメダルを量産し、自国開催に恥じない結果を残すことができました。私自身も1000mと1500mで金メダル、100mと500mで銀メダルを獲得しました。
この時、夏の強化として車いす陸上にも取り組んでいたことと、アイススレッジスピードレースが次回のパラリンピックで競技種目から除外されたことで、次は夏季のパラリンピックを目指したいと自然に思うようになりました。
挫折を味わいながらも、国際大会で活躍を続け、2011年のボストンマラソンでは5連覇を達成
長野からの2年間は、死に物狂いで夏季の出場権を取り、シドニーへ出場しました。シドニーでは4種目にエントリーしましたが、最高でマラソンの銅メダルという結果に終わりました。その悔しさあって次なる目標をアテネでの金メダル獲得と位置づけて、まずは全面的に競技に専念できる環境改善が必要だと感じました。
しかし、まだまだ障害者のスポーツ文化が進行していない国内で、安定した活動をおこなえる選手は当時ほんの一部であり、それぞれの選手の悩みも尽きないといった現状を抱えている中、障害者スポーツのプロとして取り組んでいく将来性や生活を考えると、踏ん切りがつかない自分がそこにいました。
ボストン5連覇を達成し、優勝トロフィーを手に喜びを表す土田 そんな時、当時、研究所の上司であった今も尊敬する女性に言われた一言が、私の中で決断するに至った後押しとなりました。
「もう、ここにはあなたの居場所はないですよ」。
この一言だけをご紹介すると酷い方と思われるかもしれませんが、この方は今でも私を応援してくださっている力強いサポーターであり、職場でも本当に多くのご理解とご協力をしてくださいました。
いつも仕事を終えた後、練習に向かう私に、買っておいてくださったパンをそっと冷蔵庫へ入れてくださっていて、「私はパン屋さんに行くと、食べなくてもどうしても買っちゃう癖があるのよ。悪いけど手伝ってね」と、気を遣わせないために放つ一言に、この方の温かみを感じ、今でも思い出すと涙が出そうなくらい、その気持ちがありがたいものでした。
2001年からは様々な方のお力添えを頂き、プロ選手として競技活動を行う環境が整いました。そこでは専門的な知識を持つ大学教授に外国人選手に打ち勝つためのパワーを生み出すために必要な肉体改造の指導を仰ぎ、競技用車いすの改良など勝つために必要なものを取り揃えていったのです。
その結果、2004年のアテネ5000mで金メダル、マラソンで銀メダルを獲得する事が出来ました。
特に出産では命の素晴らしさに直面することができました。神秘的な瞬間に、人間の能力とは本当に計り知れないものだと感じさせられました。
産後、競技に復帰できるかという不安はありましたが、私にはどうしても果たしたい目標がありました。
それはアテネで獲れなかったマラソンでの金メダルです。
しかし、今まで自分のためだけにあった時間は限られたものとなり、「子育て」にはイレギュラーなこともたくさんでてきて、決して計画通りに物事が運ぶわけではありませんでした。私たち夫婦は、この時それ以外にも多くのことに直面しましたが、北京までの厳しい道のりを沢山の方々に支えられ、何とか乗り切ってきました。
車いすマラソンのトップ選手の平均時速は30km/h超、下りでは50km/hを超えることもある。脚ではなく、腕を使ってこの速度を出すのは並大抵のことではない
初日のレース5000mのラスト500mで先頭を行く選手の車いすの操作ミスによって、真後ろに位置していた私を含めほとんどの選手が転倒。転倒した私に更なる追い討ちをかけたのが、後続にいた選手に追突されたことで大怪我を負ってしまい、その後の再レース、そしてマラソンも走れる状況になく、棄権。寝たまま搬送され帰国し、そのまま入院という状況になってしまったことです。
ニューヨークシティマラソン2013を走る土田。3輪仕様の競技用車いすは、コーナーなどで重心が不安定になる場面もあり、車体コントロールにも熟練した技術が必要とされる
約2ヶ月の入院生活で治療をしながら、今後どのように進むべきか、自分の気持ちと向き合い、そして主人ともたくさん話し合いました。それでも自分を突き動かすものがあり、次なるロンドンを目指しました。
2012年のロンドン大会は選手団の主将という大役も担い出場。5000mでは6位に終わりましたが、マラソンのスタートラインに立った時は心身共に最高の状態でした。
しかし、23km地点の左カーブで前の選手が大きく膨らんできたのを回避しようとした時、またしても転倒。
ニューヨークシティマラソン2013で過去最高の2位を獲得し、笑顔の土田 競技役員から『リタイヤするか?』と尋ねられましたが、その時は何としてもゴールしようという強い気持で立ち上がり、走りました。
沿道の声援が地鳴りのように響き、私に力を与えてくれましたが、結果は5位に終わり、またしても目標は達成できませんでした。
ロンドン後は正直、「引退」という言葉も意識しましたが、まだ競技者として自分の可能性を信じられる自分がいた事で競技を続行しました。
2013年シーズンには世界選手権のマラソンで銀メダルを獲得。10月の大分国際では12年振りの世界記録更新。11月のニューヨークシティマラソンでは過去最高の2位という結果も残すことができました。
そして今、2016年のリオが視野に入ってきました。
私自身、このスポーツから人の輪がつながり、多くのことを学ばせて頂いています。選手として世界の舞台で挑戦し、競技を極めたいという高い目標を掲げつつ、私は世界を目指したいという一人でも多くの選手の活躍の場が広がることを願っています。
大分国際車いすマラソンで世界記録を更新して優勝。パナレーサー「ウルティママラソンプラス」が彼女の走りを支えた 本格的に陸上競技に転向した2002年シーズンからパナレーサーのタイヤをサポートして頂いており、10年以上の長期に渡りお世話になっております。
レースでは主に一昨年のリニューアルで安心感が加わったタイヤ「ウルティママラソンプラス」を使用しており、世界の道を駆け抜けてきました。
これからもパナレーサーのタイヤで挑戦していきます。
1998年 長野パラリンピック 100m・500m 銀メダル
1000m・1500m 金メダル
【陸上競技】
2000年 シドニーオリンピック 公開競技800m 銀メダル
2000年 シドニーパラリンピック マラソン 銅メダル
2004年 アテネパラリンピック 5000m 金メダル マラソン 銀メダル
2010年 ベルリンマラソン 優勝
2010年 ロンドンマラソン 優勝
2007年~2011年 ボストンマラソン 5連覇
2008年~2013年 東京マラソン 6連覇中
2013年 大分国際車いすマラソン 1時間32分07秒 世界新記録更新!
Panaracer「ULTIMA MARATHON Plus」
Panaracer「ULTIMA TRACK Plus」
中野浩一氏が世界選手権でも使用したタイヤ「ULTIMA」をベースに、車いすマラソン競技用として「ULTIMA MARATHON」、車いすトラック競技用として「ULTIMA TRACK」に進化。
「ULTIMA Plus」シリーズは、2012年からケーシングを改良して転がり抵抗をさらに軽減したリニューアルバージョン。
その大変な苦労の末に、夏季と冬季、共に日本代表として選ばれ、喜びを噛み締めた選手がいる。おそらく皆さんの脳裏に浮かぶのは、今回のソチオリンピック日本選手団の橋本聖子団長に違いない。
だが実はパラリンピックでもこの快挙を成し遂げた選手がいる。土田和歌子選手だ。彼女は夏季・冬季両方のパラリンピックを経験しただけでなく、パラリンピックで天国と地獄を味わったアスリート。そんなすべての経験を糧とし、リオでの金メダルを目指した彼女は、東京マラソンで14年のスタートを切る。
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交通事故から車いす生活へ
思い起こせば、障害をもって始めた競技活動も早20年になります。冬季では94年リレハンメル、98年長野の2回、夏季競技では2000年シドニー、2004アテネ、2008年北京、2012ロンドンの4回、合わせて6回のパラリンピックを経験させて頂き、それぞれ違った意味合いで、多くのことを学ばせて頂きました。私は17歳の時、交通事故に遭い、脊髄損傷という怪我を負い車いす生活となりました。脊髄損傷とは背骨を骨折し、そのときに神経までもが損傷すると、両下肢の自由を奪われるといった障害です。
医師から『もうあなたは歩くことが出来ませんよ』と宣告を受けたときはさすがにショックを受けましたが、入院し治療を受けていた病院は脊髄損傷の怪我を負った患者さんの専門病棟がある病院でしたので、カラフルな車いすでリハビリをする若い患者さんたちの姿を見て、私も早く同じように車いすで自由に動けるようになりたいと思えたことが、自分自身の障害を受け入れるきっかけとなりました。
入院中、生活に必要な筋力強化や車いす操作の練習、リハビリの一環として始めた車いすスポーツに楽しさを感じ、もっとうまくなりたいという気持ちが、退院後に私をアスリートの道へと導いて行きました。
リハビリから競技スポーツへ
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当時の指導者の勧めもあって、1998年長野パラリンピック開催を視野に選手と指導者の育成のため、長野県で開催されたアイススレッジ(氷上でおこなうスケート競技)の講習会に参加したことがきっかけで、当時日本には全く歴史のなかったこの競技で1994年のリレハンメルパラリンピックに出場しましたが結果は惨敗…。
その結果が、また新たな「長野」という目標へと自分を突き進めました。
この頃には選手の強化体制も整ってきて、苦楽を共にした日本チームはメダルを量産し、自国開催に恥じない結果を残すことができました。私自身も1000mと1500mで金メダル、100mと500mで銀メダルを獲得しました。
この時、夏の強化として車いす陸上にも取り組んでいたことと、アイススレッジスピードレースが次回のパラリンピックで競技種目から除外されたことで、次は夏季のパラリンピックを目指したいと自然に思うようになりました。
冬季競技から夏季競技(陸上)への転向
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長野からの2年間は、死に物狂いで夏季の出場権を取り、シドニーへ出場しました。シドニーでは4種目にエントリーしましたが、最高でマラソンの銅メダルという結果に終わりました。その悔しさあって次なる目標をアテネでの金メダル獲得と位置づけて、まずは全面的に競技に専念できる環境改善が必要だと感じました。
しかし、まだまだ障害者のスポーツ文化が進行していない国内で、安定した活動をおこなえる選手は当時ほんの一部であり、それぞれの選手の悩みも尽きないといった現状を抱えている中、障害者スポーツのプロとして取り組んでいく将来性や生活を考えると、踏ん切りがつかない自分がそこにいました。
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「もう、ここにはあなたの居場所はないですよ」。
この一言だけをご紹介すると酷い方と思われるかもしれませんが、この方は今でも私を応援してくださっている力強いサポーターであり、職場でも本当に多くのご理解とご協力をしてくださいました。
いつも仕事を終えた後、練習に向かう私に、買っておいてくださったパンをそっと冷蔵庫へ入れてくださっていて、「私はパン屋さんに行くと、食べなくてもどうしても買っちゃう癖があるのよ。悪いけど手伝ってね」と、気を遣わせないために放つ一言に、この方の温かみを感じ、今でも思い出すと涙が出そうなくらい、その気持ちがありがたいものでした。
2001年からは様々な方のお力添えを頂き、プロ選手として競技活動を行う環境が整いました。そこでは専門的な知識を持つ大学教授に外国人選手に打ち勝つためのパワーを生み出すために必要な肉体改造の指導を仰ぎ、競技用車いすの改良など勝つために必要なものを取り揃えていったのです。
その結果、2004年のアテネ5000mで金メダル、マラソンで銀メダルを獲得する事が出来ました。
環境の変化
アテネを終えてからは、環境・心境の変化もあり、2005年に結婚。そして2006年には出産という、女性においての一大イベントも経験させて頂きました。特に出産では命の素晴らしさに直面することができました。神秘的な瞬間に、人間の能力とは本当に計り知れないものだと感じさせられました。
産後、競技に復帰できるかという不安はありましたが、私にはどうしても果たしたい目標がありました。
それはアテネで獲れなかったマラソンでの金メダルです。
しかし、今まで自分のためだけにあった時間は限られたものとなり、「子育て」にはイレギュラーなこともたくさんでてきて、決して計画通りに物事が運ぶわけではありませんでした。私たち夫婦は、この時それ以外にも多くのことに直面しましたが、北京までの厳しい道のりを沢山の方々に支えられ、何とか乗り切ってきました。
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北京とロンドン
そのような中で迎えた北京でしたが…。初日のレース5000mのラスト500mで先頭を行く選手の車いすの操作ミスによって、真後ろに位置していた私を含めほとんどの選手が転倒。転倒した私に更なる追い討ちをかけたのが、後続にいた選手に追突されたことで大怪我を負ってしまい、その後の再レース、そしてマラソンも走れる状況になく、棄権。寝たまま搬送され帰国し、そのまま入院という状況になってしまったことです。
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約2ヶ月の入院生活で治療をしながら、今後どのように進むべきか、自分の気持ちと向き合い、そして主人ともたくさん話し合いました。それでも自分を突き動かすものがあり、次なるロンドンを目指しました。
2012年のロンドン大会は選手団の主将という大役も担い出場。5000mでは6位に終わりましたが、マラソンのスタートラインに立った時は心身共に最高の状態でした。
しかし、23km地点の左カーブで前の選手が大きく膨らんできたのを回避しようとした時、またしても転倒。
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沿道の声援が地鳴りのように響き、私に力を与えてくれましたが、結果は5位に終わり、またしても目標は達成できませんでした。
ロンドン後は正直、「引退」という言葉も意識しましたが、まだ競技者として自分の可能性を信じられる自分がいた事で競技を続行しました。
2013年シーズンには世界選手権のマラソンで銀メダルを獲得。10月の大分国際では12年振りの世界記録更新。11月のニューヨークシティマラソンでは過去最高の2位という結果も残すことができました。
そして今、2016年のリオが視野に入ってきました。
私自身、このスポーツから人の輪がつながり、多くのことを学ばせて頂いています。選手として世界の舞台で挑戦し、競技を極めたいという高い目標を掲げつつ、私は世界を目指したいという一人でも多くの選手の活躍の場が広がることを願っています。
パナレーサーのサポート
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レースでは主に一昨年のリニューアルで安心感が加わったタイヤ「ウルティママラソンプラス」を使用しており、世界の道を駆け抜けてきました。
これからもパナレーサーのタイヤで挑戦していきます。
プロフィール
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土田 和歌子(つちだ わかこ)
1974年10月15日生
1974年10月15日生
日本人初の夏・冬パラリンピック金メダリスト。
車いすマラソン世界記録保持者。高校2年生の時に、友人とドライブ中、交通事故に遭い車いす生活となる。
1993年アイススレッジの講習会に参加したことがきっかけで、日本で最初にアイススレッジスピードレースを始める。1998年長野冬季パラリンピックでは1500mで自己の世界記録を更新し金メダルを獲得。1000mでも金メダルを獲得し2冠を達成。100m、500mでも銀メダルを獲得した。
1999年からは陸上競技に転向。2004年アテネ夏季パラリンピックでは5000mで金メダル、マラソンで銀メダルを獲得し、日本人史上初の夏・冬パラリンピック金メダリストとなった。
2012年ロンドンパラリンピックでは日本選手団主将として出場。2013年10月には12年ぶりに公認世界記録を更新。現在は海外メジャーマラソンレースを中心に活動中。
車いすマラソン世界記録保持者。高校2年生の時に、友人とドライブ中、交通事故に遭い車いす生活となる。
1993年アイススレッジの講習会に参加したことがきっかけで、日本で最初にアイススレッジスピードレースを始める。1998年長野冬季パラリンピックでは1500mで自己の世界記録を更新し金メダルを獲得。1000mでも金メダルを獲得し2冠を達成。100m、500mでも銀メダルを獲得した。
1999年からは陸上競技に転向。2004年アテネ夏季パラリンピックでは5000mで金メダル、マラソンで銀メダルを獲得し、日本人史上初の夏・冬パラリンピック金メダリストとなった。
2012年ロンドンパラリンピックでは日本選手団主将として出場。2013年10月には12年ぶりに公認世界記録を更新。現在は海外メジャーマラソンレースを中心に活動中。
主な戦歴
【アイススレッジスピードレース】1998年 長野パラリンピック 100m・500m 銀メダル
1000m・1500m 金メダル
【陸上競技】
2000年 シドニーオリンピック 公開競技800m 銀メダル
2000年 シドニーパラリンピック マラソン 銅メダル
2004年 アテネパラリンピック 5000m 金メダル マラソン 銀メダル
2010年 ベルリンマラソン 優勝
2010年 ロンドンマラソン 優勝
2007年~2011年 ボストンマラソン 5連覇
2008年~2013年 東京マラソン 6連覇中
2013年 大分国際車いすマラソン 1時間32分07秒 世界新記録更新!
Panaracer「ULTIMA Plus」シリーズ
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中野浩一氏が世界選手権でも使用したタイヤ「ULTIMA」をベースに、車いすマラソン競技用として「ULTIMA MARATHON」、車いすトラック競技用として「ULTIMA TRACK」に進化。
「ULTIMA Plus」シリーズは、2012年からケーシングを改良して転がり抵抗をさらに軽減したリニューアルバージョン。
サイズ及び重量 | 「ULTIMA MARATHON Plus」 | 27×18mm(ave:190g)カラー:ブラック、レッド/ブラックサイド |
「ULTIMA TRACK Plus」 | 27×18mm(ave:170g)カラー:ブラック |
Panaracer 2014年度サポートチーム&選手情報 | ||
宇都宮ブリッツェン(ロードレース) | ||
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2014 La Paz PATCO Triathlon Pan American Cup(トライアスロン) | ||
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