2016/12/22(木) - 12:10
今シーズン、女子3名体制でスタートしたチーム「ライブガーデン・ビチステンレ」は、開幕戦である宇都宮クリテリウムでチームプレーの末にワン・ツーフィニッシュ、国内女子ロードレースの新たな幕開けを予感させた。レースを重ねるほどその存在感が増すなか、しかしプレイングマネージャーとしてチームを牽引する針谷千紗子は、人知れず葛藤していた。そしてそれは「今年のジャパンカップを最後に、選手を引退する」という答えとなって我々に伝えられた。今、その真意を語ってもらう。
そんな中、兄が出場する自転車レースを観に行き、優勝した姿と表彰台の1番上に上がった兄の嬉しそうな姿を見て、一瞬にして「やってみたい!自分もあんな思いをしてみたい!」と思った。早速、帰りの車の中で父に「私も自転車をやりたい」と伝えた時、最初に父が発した言葉は「中途半端な気持ちでやるなら最初からやるな。やるからには全国で1番になれ。」だった。
それでもその時、私の意思はブレず、「やる!」の即答で、そこから私の自転車競技がスタートした。そして父が競技用のロードレーサーを用意してくれるまでは一瞬だった。まだ中学生だった私は、冬に吹奏楽部を引退して自転車の練習をスタート。学校が終わったらすぐ家に帰り、3本ローラーの乗り方から父に教えてもらい、毎日ストップウォッチを持つ父に決められたメニューをこなした。元々かなりの負けず嫌いだった私は、メーターに表示されるスピードを見ながら、昨日よりも最高スピード出せるように頑張ろう!と、ただただ毎日ペダルを踏む事に無我夢中だった。
いま思えば、当時すぐ自転車を用意してもらい、家にはトレーニングできる部屋があったなんて特殊だったなと思う。学校が無い週末には、兄と作新学院の自転車部の練習に混ぜてもらい、高校に入学する前から監督の山本先生にはお世話になった。
高校での成績はずっと右肩上がりだった。自転車を始める時に目標とした全国高校選抜自転車競技大会のロードレースで1年生の時に優勝し、2年生の時に2連覇することができた。全日本ロードレースでも優勝、そこからはナショナルチームにも選ばれるようになり、日本代表としてアジア選手権やジュニア世界選手権などにも参戦するようになった。
しかし、世界に出てからの壁は高く、良くて4位入賞と表彰台には上がることはできず、ジュニアを卒業した。
そんな練習が実ったのが、2008年に福井県丸岡町で開催された実業団レース。今まで足元にも及ばなかった選手にも勝ち、優勝した!
それから勝つことも増え、2008年のジャパンカップでは、当時イタリアのプロチームに所属していた沖美穂さん、現プロチームに所属している萩原麻由子さんに続く3位で表彰台に上がった。自分でもそんな成績を収められるなんて思っていなかったので本当に嬉しかったし、自分の成長を更に感じられたレースだった。レースがとても楽しく、「早くレースを走りたい!」、毎日がそんな気持ちだった。
またジャパンカップがきっかけでオリンピックを意識するようになり、エリートに上がってからもナショナルチームで沢山の国際レースを走った。ステージレースも経験し、とにかく強くなって世界に通用する選手になろうと、ただただ必死だった。
そんな時、廣瀬佳正さんから「来年(2009年)、栃木にプロチームをつくるから入らないか?」との誘いを頂き、国内で唯一、男子プロチームに女子一人が所属という環境で走ることが決まった。宇都宮ブリッツェンは日本初の地域密着型のプロチームということもあり、当時とても注目を浴びていた。私にとってはお給料を頂いて走る事も初めてで、その時は「ただ嬉しい」そんな感情だけであり、その本当の意味を分からぬまま過ごしていた。
また女子ひとりだったため至れり尽くせりで、人一倍優しさを頂き「感謝しています」と言い続けていたが、しかし今思えばそれは単なる「言葉」でしかなかったのかもしれない。ワガママ言い放題だったし、周りの方がどれだけ動いてくれて、どれだけ苦労されているかなど、知る由もなかった。ただプロになれたということに浮かれていたように思う。
そんな1年間を過ごし、後半は怪我にも悩まされ、膝の手術を受けた。次年度はブリッツェンを離れ、あさひレーシングチームに移籍が決まった。
しかし想像していた選手生活とは違っていて、1年目は仕事とトレーニングのバランスが中々うまくとれなかった。また、エントリーされているものだと思っていた全日本選手権ではまさかのエントリー忘れ。今まで何もかも誰かにやってもらっていたツケが回ってきたと思った。
勤務はあるものの、トレーニングやレースを優先する生活。プロのような位置付けにいたことから、「成績は残して当たり前」というプレッシャーも初めて知り、押しつぶされそうにもなった。2年目にはチームに吉川が加わり3名体制となった。
2年目が過ぎた頃には鎖骨骨折を3回経験していた。体型の事を言われる事も多かったため、いつしか「痩せている=走れる」という思考に陥り、食べ物を口にするのもしんどくなっていた。とにかく太ることがものすごく怖かったので、トレーニング中も捕食は摂らなかった。拒食症になり始め、そして過食嘔吐。生理も来なくなった。3年目に入ってからは外にも出たくなくなり、夜もなかなか寝付けず、朝起きた時にはよく分からない嫌悪感に襲われた。
ボロボロな状況であったが、誰にも打ち明ける事ができず、ただただ苦しい毎日が続いた。親に告白したのは、どうにもならなくなってから。時には「死にたい」とまで言っていたのを覚えている。告白してからは母が栃木から頻繁に会いに来てくれるようになり、朝連絡したら仕事を休んでその日のうちに駆けつけてくれた時もあった。
「この環境のままでいたら、本当に壊れてしまう・・・」と思うようになり、栃木に戻ることを決めた。
「一緒に乗りに行こう!」と誘ってくれる人が周りに沢山いてくれたおかげで、久しぶりに自転車に乗ることの楽しさを思い出させてくれた。その時、また選手としてしっかり納得するまで頑張りたいと思い、父に自転車を用意して欲しい、と頼んだ。
選手を続けるには自身で走る環境を整えなければいけなかったため、分からないなりにも手探りで色々学んだ。ネット検索したり、聞いたりと、見様見まねでスポンサー探しに明け暮れ、足りない分は家族に助けてもらい、自分の貯金を切り崩し、何とか1年間活動できる環境を整えた。応援してくださる企業は全て栃木の企業であり、自転車に理解のある地域に住んでいて本当によかったと思った。
また、身体の状態に加え、精神面でも自分一人でやっていくことに限界を感じていたので、以前、膝を故障した時にお世話になった齋藤さんに、パーソナルで面倒を見てもらえないかと相談し、状況をすべて話した上で、一緒に頑張って行くことになった。その4年後に控えたリオオリンピックに向けて。
私の状況は、しかし自分が思っているよりもかなり深刻だったようだ。齋藤さんの最初の言葉は「普通の人になろう」だった。
栃木に帰ったことで色んなものから解放され、これからは良くなるだけ。思う存分練習して、たくさんレースに出て、たくさん成績を残して、と理想ばかりが先行して期待でいっぱいだった。
まずは管理栄養士に付いていただき、食事の見直しと過食症の改善。生理が来ていないことから定期的な血液検査とホルモン療法、また骨粗鬆症にもなってしまっているので骨密度の改善でカルシウムを毎食意識して取り入れること。選手以前に病人みたいなことから始まった。
それからは、ホルモン療法と競技を並行して3年間過ごした。ホルモン療法は想像を超えるほど辛く、副作用からまったく動けなくなり、身体に力が入らずベッドの上から一日降りれない日も。酷い頭痛や目眩もあった。身体はパンパンに浮腫み、自転車を全力で漕いでも30km/hも出ない。これでまたレースに出られるようになるのか?。毎日毎日不安に押しつぶされそうな日々が続いた。
それでも体調と相談しながら試行錯誤してトレーニングを継続したが、思うように走ることもできず、成績も出せない。そんな折、トレーニング中に腰を痛めてしまい、約2ヶ月間動けない状態になってしまった。その時「これでちょっと休めるかな」と思ってしまう自分がいた。悔しいはずなのに、知らないうちに、また全てがいっぱいいっぱいになってしまっていた。
トレーニングが再開できる頃には、少しずつ気持ちも整理され、この後、リオのオリンピック選考までホルモン療法は中止して競技を優先していこうと決めた。そんな時、吉川美穂と伊藤杏菜の2人から「来年の走る環境が無いから一緒のウェアで走らせて欲しい」との連絡があった。こんなタイミングで、それも2人からあるなんて。これは逆に自分が変わるためにも、そうなるべきだと思った。そして一人で走るのではなく、チームにする事を決めた。
栃木に帰ってきて4年、今年は1番いいトレーニングをすることができ、いい状態で開幕戦を迎えた。その反面、地元宇都宮で行われる開幕戦は、新しい体制となったチームのお披露目でもあり、またスポンサーの方やサポーターの方々が応援に来てくれることもあって、かなりのプレッシャーがあった。
表彰台はマストだと思っていたし下手な走りは出来ない。今まではそれを一人で抱えて迎えていたレースも、しかしチーム員がいることでその緊張を共有することができ、前日には3人でしっかり作戦を話し合い「一緒に頑張ろう!」と、いい緊張に変えてくれた。
スタートラインに並んだ時、オーガナイズでチームの事を紹介していただき、スタートする前から地元開催の特権を感じつつ走り出した。私はとにかくミーティング通り、積極的に攻撃し逃げを試みる。攻撃をしかけ人数を出来るだけ減らす事が私の役目。
ラスト2周を切ってからはゴールスプリントに備え、位置取りだけは何が何でも死守。コーナーを吉川→針谷の順で先頭のまま抜け、スプリントを開始。絵に描いたようなミーティング通りの走りで、ワン・ツーのゴール。
最初は「勝っちゃった…」と信じられない気持ちだったが、ゴール先にいた父の溢れんばかりの嬉しそうな顔を見てハイタッチした時、勝ったことと同じくらい嬉しくて嬉しくて…「やっと喜ばせる事が出来た」と。
実はその時、父は体調がかなり悪く、会場に来ることさえもしんどかったはず。そして母にも、やっと私の思いっきり走っている姿を見せる事ができ、少し安心させてあげる事が出来たかな、と。それと同時に、スポンサーの方やサポーターの方々にチームの事を認めてもらえたかな、とホッとした気持ちにもなった。
次戦でも、吉川の地元である岬町で開催されたクリテリウムでワン・ツーをとり、いいスタートを切ることが出来た。チームにして良かった、この選択は間違ってなかったのだと確信した瞬間だった。
それからはチームとして多くの表彰台に上がることができ、成績は右肩上がりだった。そんなとき、定期的な血液検査で病院に行った際、先生から「このまま治療せずに競技を続けるのはリスクが出てくる」と言われた。
これからチームで頑張って行こうと思っていた矢先の話だったので、正直動揺せずにはいられなかった。でも、とにかくその時は「今シーズンはまだまだ頑張らなきゃいけない」と思い、その事は少しずつ考えて行こうと、答えを先送りにした。
それからは可能な限りレースに出場し、優勝を目指して走ったが、どのレースも2位か3位。結局1番上には立つことができず、ジャパンカップを迎えた。
引退を報告したあとは、事前の取材などで何度も何度も涙してしまうくらい、12年間続けていた事の重みを実感した。
ジャパンカップ当日は、いつも通りのスタイルで準備をし、スタートに備えた。沢山の方から声をかけて頂き、何とか有終の美を飾って終わりたいと思いスタートラインへ。走っている最中、作新学院自転車部の同期がボードまで作って応援に駆けつけてくれるのを見つけた。彼氏と彼氏の家族、親戚、友達まで、大応援団でグッズを作って来てくれているのを見つけた。多くのスポンサーの方やサポーターの方が来てくれて応援して下さり、いっぱいいっぱい伝わってきた。
結果、着に絡むことはできなかったけれど、最後まで選手を全うし、全力で走り抜くことができた。こんなにも沢山の声援の中、最後のレースをチームメイトと一緒にジャパンカップという大舞台で走る事が出来て幸せだった。
その後もサプライズで両手いっぱいの花束をもらった。自転車競技をしていなかったら、こんなに幸せなことって感じれなかったよね。正直、辛いことの方が多かった選手生活だったけれど、その辛さや経験をこれから活かしていきたい。今度はチームの選手たちへ、これまで私が与えてもらった多くの幸せを伝えることができたらと思うのです。
それと、今まで支えてくれた父と母にありがとう。
一息つく暇もなく、すでに来シーズンに向けて動き出しています。国内女子のロードレース界を盛り上げていくために、新しい事にどんどん挑戦あるのみです!!
主な戦績
さらに待望のロードチューブレスタイヤ(700-23C、25C)をラインナップに追加。クリンチャーシリーズには新たに700-28Cサイズも追加されている。2016年4月にはRACE A EVO3 TUBULARをベースに、サイド部の耐パンク性能を強化した『RACE D EVO3 TUBULAR』も発売。ProTite Shield構造としたことで、サイド部のカットパンクを防ぐ。
兄の姿を見て自転車競技を始める
自転車を始めたきっかけは、中学生の時に応援に行った自転車競技大会で、兄が優勝する姿を見たこと。それまで私は吹奏楽部に所属しており、スポーツとは無縁の生活を送っていた。吹奏楽部ではコンクールに出て成績を求めていたが、人が評価することからどうしても審査員の好みが影響することや、結果がはっきりと目に見えるものではないため、何処か物足りなさを感じていた。そんな中、兄が出場する自転車レースを観に行き、優勝した姿と表彰台の1番上に上がった兄の嬉しそうな姿を見て、一瞬にして「やってみたい!自分もあんな思いをしてみたい!」と思った。早速、帰りの車の中で父に「私も自転車をやりたい」と伝えた時、最初に父が発した言葉は「中途半端な気持ちでやるなら最初からやるな。やるからには全国で1番になれ。」だった。
それでもその時、私の意思はブレず、「やる!」の即答で、そこから私の自転車競技がスタートした。そして父が競技用のロードレーサーを用意してくれるまでは一瞬だった。まだ中学生だった私は、冬に吹奏楽部を引退して自転車の練習をスタート。学校が終わったらすぐ家に帰り、3本ローラーの乗り方から父に教えてもらい、毎日ストップウォッチを持つ父に決められたメニューをこなした。元々かなりの負けず嫌いだった私は、メーターに表示されるスピードを見ながら、昨日よりも最高スピード出せるように頑張ろう!と、ただただ毎日ペダルを踏む事に無我夢中だった。
いま思えば、当時すぐ自転車を用意してもらい、家にはトレーニングできる部屋があったなんて特殊だったなと思う。学校が無い週末には、兄と作新学院の自転車部の練習に混ぜてもらい、高校に入学する前から監督の山本先生にはお世話になった。
作新学院自転車競技部に入部
高校に入学してからすぐ自転車競技部に入部した。当時、部には女子部員はおらず私一人。3年生に兄が居たので、家から片道30km、学校まで毎日自転車で通っていた。兄との練習も、部活の男子選手とのトレーニングもとても辛く、遅れてしまうことがほとんどだったが、その度、悔しくて一人居残ってトレーニングしていたことを覚えている。とにかく男子選手にも負けたくなかった。高校での成績はずっと右肩上がりだった。自転車を始める時に目標とした全国高校選抜自転車競技大会のロードレースで1年生の時に優勝し、2年生の時に2連覇することができた。全日本ロードレースでも優勝、そこからはナショナルチームにも選ばれるようになり、日本代表としてアジア選手権やジュニア世界選手権などにも参戦するようになった。
しかし、世界に出てからの壁は高く、良くて4位入賞と表彰台には上がることはできず、ジュニアを卒業した。
自転車一本の生活から栃木のプロチームへ
高校を卒業し、周りが大学へと進学していくなか、自転車一本の生活を選択した。それは少しでも自転車に集中できる環境を整え、世界と戦えるようになりたいと思ったからだ。家族の理解もあり、それからの毎日は一日中自転車に乗る生活が続いた。その時の練習を振り返ると、早朝4時から薄暗い中、父のバイクペーサーで70kmの朝練に行き、10時からはジャパンカップのコースで登りのインターバル。夕方は部活に混ぜてもらい夜までバンクでスピード練習。週に一度のOFF日以外はその練習が毎日だった。自分でもよくやっていたな、と思う。そんな練習が実ったのが、2008年に福井県丸岡町で開催された実業団レース。今まで足元にも及ばなかった選手にも勝ち、優勝した!
それから勝つことも増え、2008年のジャパンカップでは、当時イタリアのプロチームに所属していた沖美穂さん、現プロチームに所属している萩原麻由子さんに続く3位で表彰台に上がった。自分でもそんな成績を収められるなんて思っていなかったので本当に嬉しかったし、自分の成長を更に感じられたレースだった。レースがとても楽しく、「早くレースを走りたい!」、毎日がそんな気持ちだった。
またジャパンカップがきっかけでオリンピックを意識するようになり、エリートに上がってからもナショナルチームで沢山の国際レースを走った。ステージレースも経験し、とにかく強くなって世界に通用する選手になろうと、ただただ必死だった。
そんな時、廣瀬佳正さんから「来年(2009年)、栃木にプロチームをつくるから入らないか?」との誘いを頂き、国内で唯一、男子プロチームに女子一人が所属という環境で走ることが決まった。宇都宮ブリッツェンは日本初の地域密着型のプロチームということもあり、当時とても注目を浴びていた。私にとってはお給料を頂いて走る事も初めてで、その時は「ただ嬉しい」そんな感情だけであり、その本当の意味を分からぬまま過ごしていた。
また女子ひとりだったため至れり尽くせりで、人一倍優しさを頂き「感謝しています」と言い続けていたが、しかし今思えばそれは単なる「言葉」でしかなかったのかもしれない。ワガママ言い放題だったし、周りの方がどれだけ動いてくれて、どれだけ苦労されているかなど、知る由もなかった。ただプロになれたということに浮かれていたように思う。
そんな1年間を過ごし、後半は怪我にも悩まされ、膝の手術を受けた。次年度はブリッツェンを離れ、あさひレーシングチームに移籍が決まった。
あさひレーシングチームに加入 そして体調不良に陥る
当時あさひレーシングチームは、ナショナルチームでも一緒に走った故・山島由香さん(急性骨髄性白血病のため2010年に永眠)や、萩原麻由子さんが所属しており、強くなるためにはとてもいい環境に行くことが出来ると期待でいっぱいだった。それと同時に、トレーニングだけの生活から、勤務とトレーニングを両立し、社会人として自立することも自分にとって必要だと思っていた。しかし想像していた選手生活とは違っていて、1年目は仕事とトレーニングのバランスが中々うまくとれなかった。また、エントリーされているものだと思っていた全日本選手権ではまさかのエントリー忘れ。今まで何もかも誰かにやってもらっていたツケが回ってきたと思った。
勤務はあるものの、トレーニングやレースを優先する生活。プロのような位置付けにいたことから、「成績は残して当たり前」というプレッシャーも初めて知り、押しつぶされそうにもなった。2年目にはチームに吉川が加わり3名体制となった。
2年目が過ぎた頃には鎖骨骨折を3回経験していた。体型の事を言われる事も多かったため、いつしか「痩せている=走れる」という思考に陥り、食べ物を口にするのもしんどくなっていた。とにかく太ることがものすごく怖かったので、トレーニング中も捕食は摂らなかった。拒食症になり始め、そして過食嘔吐。生理も来なくなった。3年目に入ってからは外にも出たくなくなり、夜もなかなか寝付けず、朝起きた時にはよく分からない嫌悪感に襲われた。
ボロボロな状況であったが、誰にも打ち明ける事ができず、ただただ苦しい毎日が続いた。親に告白したのは、どうにもならなくなってから。時には「死にたい」とまで言っていたのを覚えている。告白してからは母が栃木から頻繁に会いに来てくれるようになり、朝連絡したら仕事を休んでその日のうちに駆けつけてくれた時もあった。
「この環境のままでいたら、本当に壊れてしまう・・・」と思うようになり、栃木に戻ることを決めた。
ひとりでの挑戦
栃木に戻ってからは少しゆっくりしようと思っていたのに、見たくなくなっていた自転車に自然とすぐに跨っている自分がいた。「一緒に乗りに行こう!」と誘ってくれる人が周りに沢山いてくれたおかげで、久しぶりに自転車に乗ることの楽しさを思い出させてくれた。その時、また選手としてしっかり納得するまで頑張りたいと思い、父に自転車を用意して欲しい、と頼んだ。
選手を続けるには自身で走る環境を整えなければいけなかったため、分からないなりにも手探りで色々学んだ。ネット検索したり、聞いたりと、見様見まねでスポンサー探しに明け暮れ、足りない分は家族に助けてもらい、自分の貯金を切り崩し、何とか1年間活動できる環境を整えた。応援してくださる企業は全て栃木の企業であり、自転車に理解のある地域に住んでいて本当によかったと思った。
また、身体の状態に加え、精神面でも自分一人でやっていくことに限界を感じていたので、以前、膝を故障した時にお世話になった齋藤さんに、パーソナルで面倒を見てもらえないかと相談し、状況をすべて話した上で、一緒に頑張って行くことになった。その4年後に控えたリオオリンピックに向けて。
私の状況は、しかし自分が思っているよりもかなり深刻だったようだ。齋藤さんの最初の言葉は「普通の人になろう」だった。
栃木に帰ったことで色んなものから解放され、これからは良くなるだけ。思う存分練習して、たくさんレースに出て、たくさん成績を残して、と理想ばかりが先行して期待でいっぱいだった。
まずは管理栄養士に付いていただき、食事の見直しと過食症の改善。生理が来ていないことから定期的な血液検査とホルモン療法、また骨粗鬆症にもなってしまっているので骨密度の改善でカルシウムを毎食意識して取り入れること。選手以前に病人みたいなことから始まった。
それからは、ホルモン療法と競技を並行して3年間過ごした。ホルモン療法は想像を超えるほど辛く、副作用からまったく動けなくなり、身体に力が入らずベッドの上から一日降りれない日も。酷い頭痛や目眩もあった。身体はパンパンに浮腫み、自転車を全力で漕いでも30km/hも出ない。これでまたレースに出られるようになるのか?。毎日毎日不安に押しつぶされそうな日々が続いた。
それでも体調と相談しながら試行錯誤してトレーニングを継続したが、思うように走ることもできず、成績も出せない。そんな折、トレーニング中に腰を痛めてしまい、約2ヶ月間動けない状態になってしまった。その時「これでちょっと休めるかな」と思ってしまう自分がいた。悔しいはずなのに、知らないうちに、また全てがいっぱいいっぱいになってしまっていた。
トレーニングが再開できる頃には、少しずつ気持ちも整理され、この後、リオのオリンピック選考までホルモン療法は中止して競技を優先していこうと決めた。そんな時、吉川美穂と伊藤杏菜の2人から「来年の走る環境が無いから一緒のウェアで走らせて欲しい」との連絡があった。こんなタイミングで、それも2人からあるなんて。これは逆に自分が変わるためにも、そうなるべきだと思った。そして一人で走るのではなく、チームにする事を決めた。
宇都宮クリテリウムでワン・ツーフィニッシュ!
リハビリを始め、ホルモン療法を辞めてからは薬の副作用もなくなり、乗れるようになってからは1ヶ月で自分でもびっくりするほど走れる様になった。沖縄で合宿した時には、思いっきりペダルを踏んで追い込めることが本当に嬉しかった。栃木に帰ってきて4年、今年は1番いいトレーニングをすることができ、いい状態で開幕戦を迎えた。その反面、地元宇都宮で行われる開幕戦は、新しい体制となったチームのお披露目でもあり、またスポンサーの方やサポーターの方々が応援に来てくれることもあって、かなりのプレッシャーがあった。
表彰台はマストだと思っていたし下手な走りは出来ない。今まではそれを一人で抱えて迎えていたレースも、しかしチーム員がいることでその緊張を共有することができ、前日には3人でしっかり作戦を話し合い「一緒に頑張ろう!」と、いい緊張に変えてくれた。
スタートラインに並んだ時、オーガナイズでチームの事を紹介していただき、スタートする前から地元開催の特権を感じつつ走り出した。私はとにかくミーティング通り、積極的に攻撃し逃げを試みる。攻撃をしかけ人数を出来るだけ減らす事が私の役目。
ラスト2周を切ってからはゴールスプリントに備え、位置取りだけは何が何でも死守。コーナーを吉川→針谷の順で先頭のまま抜け、スプリントを開始。絵に描いたようなミーティング通りの走りで、ワン・ツーのゴール。
最初は「勝っちゃった…」と信じられない気持ちだったが、ゴール先にいた父の溢れんばかりの嬉しそうな顔を見てハイタッチした時、勝ったことと同じくらい嬉しくて嬉しくて…「やっと喜ばせる事が出来た」と。
実はその時、父は体調がかなり悪く、会場に来ることさえもしんどかったはず。そして母にも、やっと私の思いっきり走っている姿を見せる事ができ、少し安心させてあげる事が出来たかな、と。それと同時に、スポンサーの方やサポーターの方々にチームの事を認めてもらえたかな、とホッとした気持ちにもなった。
次戦でも、吉川の地元である岬町で開催されたクリテリウムでワン・ツーをとり、いいスタートを切ることが出来た。チームにして良かった、この選択は間違ってなかったのだと確信した瞬間だった。
それからはチームとして多くの表彰台に上がることができ、成績は右肩上がりだった。そんなとき、定期的な血液検査で病院に行った際、先生から「このまま治療せずに競技を続けるのはリスクが出てくる」と言われた。
これからチームで頑張って行こうと思っていた矢先の話だったので、正直動揺せずにはいられなかった。でも、とにかくその時は「今シーズンはまだまだ頑張らなきゃいけない」と思い、その事は少しずつ考えて行こうと、答えを先送りにした。
引退を決め、ジャパンカップへ
そして迎えた全日本選手権はDNFという結果に終った。またホルモンバランスの崩れから体調を崩す事も増え始めた。コーチとは「ジャパンカップまで頑張って身体をちゃんと治そう」という決断になり、そして引退までのカウントダウンが始まった。それからは可能な限りレースに出場し、優勝を目指して走ったが、どのレースも2位か3位。結局1番上には立つことができず、ジャパンカップを迎えた。
引退を報告したあとは、事前の取材などで何度も何度も涙してしまうくらい、12年間続けていた事の重みを実感した。
ジャパンカップ当日は、いつも通りのスタイルで準備をし、スタートに備えた。沢山の方から声をかけて頂き、何とか有終の美を飾って終わりたいと思いスタートラインへ。走っている最中、作新学院自転車部の同期がボードまで作って応援に駆けつけてくれるのを見つけた。彼氏と彼氏の家族、親戚、友達まで、大応援団でグッズを作って来てくれているのを見つけた。多くのスポンサーの方やサポーターの方が来てくれて応援して下さり、いっぱいいっぱい伝わってきた。
結果、着に絡むことはできなかったけれど、最後まで選手を全うし、全力で走り抜くことができた。こんなにも沢山の声援の中、最後のレースをチームメイトと一緒にジャパンカップという大舞台で走る事が出来て幸せだった。
その後もサプライズで両手いっぱいの花束をもらった。自転車競技をしていなかったら、こんなに幸せなことって感じれなかったよね。正直、辛いことの方が多かった選手生活だったけれど、その辛さや経験をこれから活かしていきたい。今度はチームの選手たちへ、これまで私が与えてもらった多くの幸せを伝えることができたらと思うのです。
それと、今まで支えてくれた父と母にありがとう。
一息つく暇もなく、すでに来シーズンに向けて動き出しています。国内女子のロードレース界を盛り上げていくために、新しい事にどんどん挑戦あるのみです!!
プロフィール
針谷 千紗子 はりがい ちさこ
1989年12月25日生
栃木県宇都宮市 出身
1989年12月25日生
栃木県宇都宮市 出身
チームLiveGARDEN BiciStelleの発起人。高校時代は全国高校選抜大会ロード2連覇、2009年の全日本実業団ロードレースでは優勝、地元宇都宮で開催されるジャパンカップでは優勝経験はないものの、3位表彰台を3回経験した実力を持つ。2015年までの約9年間はロードナショナルチームメンバーとして数々の海外レースを経験してきた。そして今シーズン(2016年)をもって現役引退を表明、今後はマネージャー兼スタッフとして、選手を支える立場でロードレースに関わっていく。また4年後の東京オリンピック出場を目指し、チーム内の選手を強化していくと共に、女子ロード界の環境作りにも力を入れる。
主な戦績
2006年 全国高校選抜大会女子個人ロードレース 優勝
2007年 全国高校選抜大会女子個人ロードレース 優勝(2連覇)
2008年 修善寺カップ女子オープン 総合優勝
2009年 全日本実業団対抗サイクルロードレース 優勝
2016年 ジャパンカップを最後に引退
2007年 全国高校選抜大会女子個人ロードレース 優勝(2連覇)
2008年 修善寺カップ女子オープン 総合優勝
2009年 全日本実業団対抗サイクルロードレース 優勝
2016年 ジャパンカップを最後に引退
Panaracer 「RACE EVO3」
2015年10月に発売されて以来、高評価を得ている「RACE EVO3」シリーズ。グリップ力と耐パンク性能に優れたハイバランスレーシングタイヤの「RACE」シリーズが耐貫通パンク性能をさらに強化してEVO3へと進化した。従来のケーシング補強材「PT」よりもさらに高い耐貫通パンク強度を誇る「ProTite」を採用、重量・基本性能はそのままに耐貫通パンク性能を24%向上させた。さらに待望のロードチューブレスタイヤ(700-23C、25C)をラインナップに追加。クリンチャーシリーズには新たに700-28Cサイズも追加されている。2016年4月にはRACE A EVO3 TUBULARをベースに、サイド部の耐パンク性能を強化した『RACE D EVO3 TUBULAR』も発売。ProTite Shield構造としたことで、サイド部のカットパンクを防ぐ。
RACE EVO3シリーズ ラインナップ
チューブラー | RACE D EVO3 | 700×23mm 黒/黒 290g | ¥10,734(税抜) |
RACE A EVO3 | 700×23mm 黒/黒 270g | ¥9,420(税抜) | |
RACE C EVO3 | 700×23mm 黒/黒 270g | ¥9,420(税抜) | |
700×26mm 黒/黒 310g | ¥9,420(税抜) | ||
チューブレス | RACE A EVO3 | 700×23C 黒/黒 280g | ¥7,860(税抜) |
700×25C 黒/黒 330g | ¥7,860(税抜) | ||
クリンチャー | RACE D EVO3 | 700×23C 黒/黒、黒/茶 230g | ¥6,173(税抜) |
700×25C 黒/黒、黒/茶 250g | ¥6,173(税抜) | ||
700×28C 黒/黒、黒/茶 270g [サイズ追加] | ¥6,173(税抜) | ||
RACE A EVO3 | 700×23C 黒/黒、黒/青、黒/赤 210g | ¥5,410(税抜) | |
700×25C 黒/黒、黒/青、黒/赤 240g | ¥5,410(税抜) | ||
700×28C 黒/黒、黒/青、黒/赤 250g | ¥5,410(税抜) | ||
RACE L EVO3 | 700×20C 黒/黒 175g | ¥5,410(税抜) | |
700×23C 黒/黒 180g | ¥5,410(税抜) | ||
700×25C 黒/黒 200g | ¥5,410(税抜) | ||
700×28C 黒/黒 220g | ¥5,410(税抜) |
提供:パナレーサー株式会社 編集:シクロワイアード