2015/12/08(火) - 10:26
2015年のツール・ド・北海道は、残念ながら手首の骨折という形でリタイアを余儀なくされた宇都宮ブリッツェンの阿部嵩之。北海道生まれの彼にとって、それが特別なレースであることは間違いない。今回はそんなツール・ド・北海道への思いを綴ってもらった。
神恵内村で生まれ幼少期を過ごし、余市町で小学生になった私。楽しい学校生活を満喫していたある日、「嵩之、ツール・ド・北海道を見に行くぞ」と父に誘われ、一緒に観に行ったのがロードレースとの出会いだ。
目の前を通る選手達のスピード、ホイールの音、声、変わった臭い? そして巻き起こる風。一瞬で消えていったのに、ずっと残っている記憶。カッコいいと感動した僕は、その帰り道「自転車選手になる」と言っていたとは父の談。しかしそれから僕はロードレースに接することなく、学校のクロスカントリースキー少年団に所属した。
ポールで雪面を押し、スキーを滑らせ、一定距離のタイムを競うこの競技は、自転車と同じぐらいの運動強度と言われるスポーツだ。冷たい空気の中、一人黙々と走る時間が好きだった。
結局、大学生まで続けたわけだが、今思えば、これが僕の基礎になっている。その後、なんやかんやで自転車を始め、ツール・ド・北海道に参戦することになるのだが、特に思い出深い年の話をしたいと思う。僕はツール・ド・北海道に7回参戦しているが、先ずは初参加の2006年の話を。
自転車を始めたばかりの年であり、時速30km/hすら維持出来ない状態から、たった3ヶ月で予戦レースを迎えることになった。辛いトレーニングだったが、選抜メンバーに選ばれて嬉しかったなぁ。
9月のツール・ド・北海道が帯広スタートだったのを覚えている。河川敷のプロローグ。スタート台の上で、これから始まる未知のステージレースの不安は相当なものだった。実際、レースでは集団の密集度、スピード、サコッシュでの補給等、すべてが新しい経験で驚きだった。
何もせず、何も出来ず、ついて行くだけの毎日だったが、日を追う毎に調子が良くなっていく感覚もあり、最終日の大通り公園クリテリウムでは、区間新人賞を獲ることが出来たのが良い思い出だ。
この年は調子が良く、第4ステージで逃げに乗ることが出来た。前年のレースで逃げる経験はしていたが、不安だった。自分が何処まで走れるか未知だからだ。レース後半にある狩勝峠に備えるためにも、力を使わないように逃げる事に集中しながらのレースは、良い経験となった。
問題の狩勝峠を越え、集団に捕まるのが濃厚になった時、逃げ集団には諦めムードが漂っていた。しかし「諦めるのはもったいない」と、下りでアタックする。そこから井上選手、野寺選手(現シマノ監督)と僕、3人で残り5km程まで逃げたが捕まってしまった。
成績は残らなかったが、少しの達成感があった。ゴール後、沢山の声をかけてもらった時、嬉しかったな。後で聞いた話だが、この走りが栗村さん(元シマノSD)の興味を引き、シマノ入りのきっかけになったみたいだ。チャンスはいつ目の前に来るか分からない。そう思った。
翌2009年。シマノレーシングの選手として走った年。選手として順調にスタートした年、それなりの自信を持ってレースをスタートしたが、チームとしても個人としても全く奮わないまま最終日を迎えていた。モエレ沼公園クリテリウムのステージ、作戦を思い出すことは出来ないが、全く違う単独逃げをして無線で怒られた記憶がある。『お前一人で逃げても仕方ないんや!』『戻って来い!』だった気がする。
せっかく逃げたのだから、と走り続けると『しゃーない。逃げとけ!』と監督。何度目かのスプリントポイントを通過した後、オーストラリアの選手と鈴木真理選手が追いついてきた。キツイ状態だったが調子が良く、逃げ切るために全力を注いだ。結果、鈴木選手がステージ優勝し、総合でもジャンプアップを果たした。僕の走りは作戦とは違ったが、真理選手が上手く使ってくれたから良かった、良かった。
『3歳児かぁ? お前はぁ』。この時から冷静とは程遠い存在だったのかもしれない。こんな裏事情があったのだが、両親や店長、地元のチーム員の前で成長した姿を見せられたのではないかなと思う。それから3年は渡欧により参加できなかった。
1日目、スキーのトレーニングでも縁あるニセコの山を越え、以前住んだ留寿都村を通る初日、山岳賞狙いで飛び出して、ニセコの1級ポイント、留寿都村付近の3級ポイントの2つを獲り、山岳賞を獲得できた。ゴール後の表彰式でリーダージャージに袖を通した時の気分は良いものだった。
2日目は僕が生まれた神恵内村で折り返すルートだ。山岳賞を確定したかったので、スタート直後からアタックをして、逃げに乗ってタイム差を稼いでいく。雨が降る一日だった上、集団落車もありタイム差が広がったおかげで冷静に山岳ポイントを加算して、総合山岳賞を確定することが出来た。
山岳賞のプレッシャーがなくなった時点で、逃げ切りに挑戦する。2人だったのが5人になり、最後の登りへ。余力がなかった僕が真っ先に遅れ、5位でフィニッシュ。優勝が見える範囲だっただけに、ただただ悔しかった思い出だ。
3日目、現在も両親が住む赤井川村を通過し、幼少期を過ごした余市町をかすめ、青春時代を過ごした小樽市にフィニッシュするルート。この日も雨だった。レインジャケットを纏っても寒かったこの日、身体も心も疲労していて身体の動きが悪く、逃げる作戦だったが失敗し、チームは後手を踏んでしまう。
『アンカーと共に集団を引いてくれ』という監督からの指示を受け、アンカーの初山選手と伊丹選手、チームメイトの大久保選手とローテーションを繰り返した。
赤井川村を通過するときの先頭は僕だったはずだ。村の皆に見てもらえて誇らしい気持ちだったが、誰が誰だか見分けがつかなかったみたいだから勝手に誇らしい気持ちになっていたみたいだけど。
赤井川村と小樽市とを結ぶ毛無峠までに、タイム差を1分まで削る指示だったため、重い脚を動かし続けた。指示通り1分まで削り、峠に入ったと同時に脚の動きは更に悪くなる。こうなると、戦う相手は選手から制限時間になり、マイペースを維持した。
小樽望洋台シャンツェ(ジャンプ台)のフィニッシュラインまでが遠く感じたが、通過した瞬間は達成感と安堵感に包まれた。
『いつまで待っても帰って来ないから心配したわ』。『仕事が終わってもちゃんと集団に付いてきなさいよ』。暖かくも厳しい家族の言葉に複雑な気分になったのはココだけの話だ。表彰式で改めて山岳ジャージを着用したときの気持ちを忘れることはないだろう。
そして2015年の今年。宇都宮ブリッツェンの選手になり2度目の北海道。5月の怪我も回復し、気合も入っていた。旭川鷹栖の公園をスタートし、パレード区間。いつもと変わらず集中できていたのだが...。
パレードが終わり、アタック合戦が始まる。少し静観したあと、そこに加わって直ぐだったと思う。ガシャン、ガシャンと隣の選手が排水溝の段差をものともせずに脇から上がってくる。「大丈夫かなぁ」と考えていた矢先、自分も転んだ。
自転車が目の前に滑る。と同時に後輪が浮きあがり前転する。手がブラケットから外れ、右回りで地面を転がり、立ち上がった。後方から来る選手たちに轢かれないように歩道の方へ。倒れていた自転車を起こした瞬間に痛みが走った。左手首がゴキゴキ鳴る。嫌な感覚だ。
想像以上のスピードで駆けつけたメカニックによりバイクのチェックは終了して再スタートしてみるが、ハンドルに手を置けない。メディカルカーにテーピングと痛み止めの処置をしてもらい、集団に追いついたが、痛みは引かなかった。
集団の最後尾、前ブレーキを掛けられない状態で葛藤もあった。意気込み、リスク、痛み、責任。迷ったけれど、弱気になったら簡単には戻らない。結局僕は補給所でリタイアし、病院へと向かった。
「TFCC骨折」。聞き慣れない言葉だが、骨折だった。僕は今まで、ツール・ド・北海道でリタイアしたことがなかった。そのことに価値はないかもしれないが、僕にとっては初めての経験だ。悔しかった。
さて、つらつらと過去を振り返るように綴ってきたこの記事、どのように締めようか。
僕の目標には常に、ツール・ド・北海道でのステージ優勝がある。この目標はまだ達成されていない。僕が自転車選手である限り、このレースが続く限りは、この目標に向かって走り続けたいと思う。そして、この目標に向けて走る姿を観た子ども達が、「自転車選手になる。」と夢を抱いてくれたら僕は嬉しい。僕が夢を抱いたように。
主な戦績
ツール・ド・北海道、ロードレースとの出会い
ツール・ド・北海道が僕に夢をくれた。ツール・ド・北海道が選手になるきっかけをくれた。神恵内村で生まれ幼少期を過ごし、余市町で小学生になった私。楽しい学校生活を満喫していたある日、「嵩之、ツール・ド・北海道を見に行くぞ」と父に誘われ、一緒に観に行ったのがロードレースとの出会いだ。
目の前を通る選手達のスピード、ホイールの音、声、変わった臭い? そして巻き起こる風。一瞬で消えていったのに、ずっと残っている記憶。カッコいいと感動した僕は、その帰り道「自転車選手になる」と言っていたとは父の談。しかしそれから僕はロードレースに接することなく、学校のクロスカントリースキー少年団に所属した。
ポールで雪面を押し、スキーを滑らせ、一定距離のタイムを競うこの競技は、自転車と同じぐらいの運動強度と言われるスポーツだ。冷たい空気の中、一人黙々と走る時間が好きだった。
結局、大学生まで続けたわけだが、今思えば、これが僕の基礎になっている。その後、なんやかんやで自転車を始め、ツール・ド・北海道に参戦することになるのだが、特に思い出深い年の話をしたいと思う。僕はツール・ド・北海道に7回参戦しているが、先ずは初参加の2006年の話を。
自転車を始めたばかりの年であり、時速30km/hすら維持出来ない状態から、たった3ヶ月で予戦レースを迎えることになった。辛いトレーニングだったが、選抜メンバーに選ばれて嬉しかったなぁ。
9月のツール・ド・北海道が帯広スタートだったのを覚えている。河川敷のプロローグ。スタート台の上で、これから始まる未知のステージレースの不安は相当なものだった。実際、レースでは集団の密集度、スピード、サコッシュでの補給等、すべてが新しい経験で驚きだった。
何もせず、何も出来ず、ついて行くだけの毎日だったが、日を追う毎に調子が良くなっていく感覚もあり、最終日の大通り公園クリテリウムでは、区間新人賞を獲ることが出来たのが良い思い出だ。
大学を中退し、夢を追う
その2年後、2008年は大きな動きのあるレースとなった。自転車選手になる夢を追うと決め、25歳まで選手になれなければ辞めると約束し、大学を中退したのが夏。レースでは何かを残したいと考えていた。この年は調子が良く、第4ステージで逃げに乗ることが出来た。前年のレースで逃げる経験はしていたが、不安だった。自分が何処まで走れるか未知だからだ。レース後半にある狩勝峠に備えるためにも、力を使わないように逃げる事に集中しながらのレースは、良い経験となった。
問題の狩勝峠を越え、集団に捕まるのが濃厚になった時、逃げ集団には諦めムードが漂っていた。しかし「諦めるのはもったいない」と、下りでアタックする。そこから井上選手、野寺選手(現シマノ監督)と僕、3人で残り5km程まで逃げたが捕まってしまった。
成績は残らなかったが、少しの達成感があった。ゴール後、沢山の声をかけてもらった時、嬉しかったな。後で聞いた話だが、この走りが栗村さん(元シマノSD)の興味を引き、シマノ入りのきっかけになったみたいだ。チャンスはいつ目の前に来るか分からない。そう思った。
翌2009年。シマノレーシングの選手として走った年。選手として順調にスタートした年、それなりの自信を持ってレースをスタートしたが、チームとしても個人としても全く奮わないまま最終日を迎えていた。モエレ沼公園クリテリウムのステージ、作戦を思い出すことは出来ないが、全く違う単独逃げをして無線で怒られた記憶がある。『お前一人で逃げても仕方ないんや!』『戻って来い!』だった気がする。
せっかく逃げたのだから、と走り続けると『しゃーない。逃げとけ!』と監督。何度目かのスプリントポイントを通過した後、オーストラリアの選手と鈴木真理選手が追いついてきた。キツイ状態だったが調子が良く、逃げ切るために全力を注いだ。結果、鈴木選手がステージ優勝し、総合でもジャンプアップを果たした。僕の走りは作戦とは違ったが、真理選手が上手く使ってくれたから良かった、良かった。
『3歳児かぁ? お前はぁ』。この時から冷静とは程遠い存在だったのかもしれない。こんな裏事情があったのだが、両親や店長、地元のチーム員の前で成長した姿を見せられたのではないかなと思う。それから3年は渡欧により参加できなかった。
地元での山岳賞
シマノからチームUKYOに移籍した2013年の9月。ツール・ド・北海道は3日間と縮小傾向にあるが、設定されたルートは僕の生まれた土地や住んだことのある土地がほとんどで、一段と強い思いで臨んだレースだった。1日目、スキーのトレーニングでも縁あるニセコの山を越え、以前住んだ留寿都村を通る初日、山岳賞狙いで飛び出して、ニセコの1級ポイント、留寿都村付近の3級ポイントの2つを獲り、山岳賞を獲得できた。ゴール後の表彰式でリーダージャージに袖を通した時の気分は良いものだった。
2日目は僕が生まれた神恵内村で折り返すルートだ。山岳賞を確定したかったので、スタート直後からアタックをして、逃げに乗ってタイム差を稼いでいく。雨が降る一日だった上、集団落車もありタイム差が広がったおかげで冷静に山岳ポイントを加算して、総合山岳賞を確定することが出来た。
山岳賞のプレッシャーがなくなった時点で、逃げ切りに挑戦する。2人だったのが5人になり、最後の登りへ。余力がなかった僕が真っ先に遅れ、5位でフィニッシュ。優勝が見える範囲だっただけに、ただただ悔しかった思い出だ。
3日目、現在も両親が住む赤井川村を通過し、幼少期を過ごした余市町をかすめ、青春時代を過ごした小樽市にフィニッシュするルート。この日も雨だった。レインジャケットを纏っても寒かったこの日、身体も心も疲労していて身体の動きが悪く、逃げる作戦だったが失敗し、チームは後手を踏んでしまう。
『アンカーと共に集団を引いてくれ』という監督からの指示を受け、アンカーの初山選手と伊丹選手、チームメイトの大久保選手とローテーションを繰り返した。
赤井川村を通過するときの先頭は僕だったはずだ。村の皆に見てもらえて誇らしい気持ちだったが、誰が誰だか見分けがつかなかったみたいだから勝手に誇らしい気持ちになっていたみたいだけど。
赤井川村と小樽市とを結ぶ毛無峠までに、タイム差を1分まで削る指示だったため、重い脚を動かし続けた。指示通り1分まで削り、峠に入ったと同時に脚の動きは更に悪くなる。こうなると、戦う相手は選手から制限時間になり、マイペースを維持した。
小樽望洋台シャンツェ(ジャンプ台)のフィニッシュラインまでが遠く感じたが、通過した瞬間は達成感と安堵感に包まれた。
『いつまで待っても帰って来ないから心配したわ』。『仕事が終わってもちゃんと集団に付いてきなさいよ』。暖かくも厳しい家族の言葉に複雑な気分になったのはココだけの話だ。表彰式で改めて山岳ジャージを着用したときの気持ちを忘れることはないだろう。
2015年は無念のリタイア しかし変わらぬ目標で未来へ臨む
そして2015年の今年。宇都宮ブリッツェンの選手になり2度目の北海道。5月の怪我も回復し、気合も入っていた。旭川鷹栖の公園をスタートし、パレード区間。いつもと変わらず集中できていたのだが...。
パレードが終わり、アタック合戦が始まる。少し静観したあと、そこに加わって直ぐだったと思う。ガシャン、ガシャンと隣の選手が排水溝の段差をものともせずに脇から上がってくる。「大丈夫かなぁ」と考えていた矢先、自分も転んだ。
自転車が目の前に滑る。と同時に後輪が浮きあがり前転する。手がブラケットから外れ、右回りで地面を転がり、立ち上がった。後方から来る選手たちに轢かれないように歩道の方へ。倒れていた自転車を起こした瞬間に痛みが走った。左手首がゴキゴキ鳴る。嫌な感覚だ。
想像以上のスピードで駆けつけたメカニックによりバイクのチェックは終了して再スタートしてみるが、ハンドルに手を置けない。メディカルカーにテーピングと痛み止めの処置をしてもらい、集団に追いついたが、痛みは引かなかった。
集団の最後尾、前ブレーキを掛けられない状態で葛藤もあった。意気込み、リスク、痛み、責任。迷ったけれど、弱気になったら簡単には戻らない。結局僕は補給所でリタイアし、病院へと向かった。
「TFCC骨折」。聞き慣れない言葉だが、骨折だった。僕は今まで、ツール・ド・北海道でリタイアしたことがなかった。そのことに価値はないかもしれないが、僕にとっては初めての経験だ。悔しかった。
さて、つらつらと過去を振り返るように綴ってきたこの記事、どのように締めようか。
僕の目標には常に、ツール・ド・北海道でのステージ優勝がある。この目標はまだ達成されていない。僕が自転車選手である限り、このレースが続く限りは、この目標に向かって走り続けたいと思う。そして、この目標に向けて走る姿を観た子ども達が、「自転車選手になる。」と夢を抱いてくれたら僕は嬉しい。僕が夢を抱いたように。
プロフィール
阿部嵩之 あべ たかゆき
1986年6月12日生
北海道古宇郡神恵内村 出身
1986年6月12日生
北海道古宇郡神恵内村 出身
6歳からクロスカントリースキーを始め20歳の時、リハビリをきっかけにロードレースを始める。積極的な走りが目に止まり、シマノレーシングチームでデビュー。1年間のJツアー、オランダ派遣を3年間経験。後にチームUKYOに移籍。再度、Jツアーに主戦場を移す。2014年より宇都宮ブリッツェンに在籍。2015年は怪我に泣かされたシーズンとなったが、翌シーズンは再起をはかる。
主な戦績
2009年
ツール・ド・おきなわ総合2位
J Tour飯田ロードレース優勝
シマノ鈴鹿国際ロードレース 2位
2011年
JPT輪島ロードレース優勝
2012年
Molenbeek-Welsbeek優勝
Wiererweekend Buchten優勝
ツール・ド・おきなわ総合2位
J Tour飯田ロードレース優勝
シマノ鈴鹿国際ロードレース 2位
2011年
JPT輪島ロードレース優勝
2012年
Molenbeek-Welsbeek優勝
Wiererweekend Buchten優勝
2013年
JPT 南紀白浜TTT 優勝
JPT 石川ロードレース優勝
ツール・ド・北海道 山岳賞
2014年
西日本チャレンジ 優勝JPT 南紀白浜TTT 優勝
JPT 湾岸クリテリウム 優勝
JPT 知多半島?美浜クリテリウム 優勝
ジャパンカップ山岳賞
JPT 南紀白浜TTT 優勝
JPT 石川ロードレース優勝
ツール・ド・北海道 山岳賞
2014年
西日本チャレンジ 優勝JPT 南紀白浜TTT 優勝
JPT 湾岸クリテリウム 優勝
JPT 知多半島?美浜クリテリウム 優勝
ジャパンカップ山岳賞
Panaracer 新製品「RACE EVO3」
耐貫通パンク性能を向上した「RACE EVO3」シリーズが10月末から発売。
グリップ力と耐パンク性能に優れたハイバランスレーシングタイヤの「RACE」シリーズが耐貫通パンク性能をさらに強化してEVO3へと進化。従来のケーシング補強材「PT」よりもさらに高い耐貫通パンク強度を誇る「ProTite」を採用、重量・基本性能はそのままに耐貫通パンク性能を24%向上させた。
さらに待望のロードチューブレスタイヤ(700-23C、25C)をラインナップに追加。クリンチャーシリーズには新たに700-28Cサイズも追加されている。
グリップ力と耐パンク性能に優れたハイバランスレーシングタイヤの「RACE」シリーズが耐貫通パンク性能をさらに強化してEVO3へと進化。従来のケーシング補強材「PT」よりもさらに高い耐貫通パンク強度を誇る「ProTite」を採用、重量・基本性能はそのままに耐貫通パンク性能を24%向上させた。
さらに待望のロードチューブレスタイヤ(700-23C、25C)をラインナップに追加。クリンチャーシリーズには新たに700-28Cサイズも追加されている。
新RACE EVO3シリーズ ラインナップ
チューブラー | RACE A EVO3 | 700×23mm 黒/黒 280g | ¥9,420(税抜) |
RACE C EVO3 | 700×23mm 黒/黒 280g | ¥9,420(税抜) | |
700×26mm 黒/黒 320g | ¥9,420(税抜) | ||
チューブレス | RACE A EVO3 [新製品] | 700×23C 黒/黒 280g | ¥7,860(税抜) |
700×25C 黒/黒 340g | ¥7,860(税抜) | ||
クリンチャー | RACE D EVO3 | 700×23C 黒/黒、黒/茶 230g | ¥6,173(税抜) |
700×25C 黒/黒、黒/茶 250g | ¥6,173(税抜) | ||
700×28C 黒/黒、黒/茶 270g [新サイズ] | ¥6,173(税抜) | ||
RACE A EVO3 | 700×23C 黒/黒、黒/青、黒/赤 210g | ¥5,410(税抜) | |
700×25C 黒/黒、黒/青、黒/赤 240g | ¥5,410(税抜) | ||
700×28C 黒/黒、黒/青、黒/赤 250g [新サイズ] | ¥5,410(税抜) | ||
RACE L EVO3 | 700×20C 黒/黒 175g | ¥5,410(税抜) | |
700×23C 黒/黒 180g | ¥5,410(税抜) | ||
700×25C 黒/黒 200g | ¥5,410(税抜) | ||
700×28C 黒/黒 220g [新サイズ] | ¥5,410(税抜) |
提供:パナレーサー株式会社