2015/03/10(火) - 13:57
プロ車いすアスリートとして活躍する廣道純(ひろみち じゅん)選手。高校一年生のときの事故で車いす生活となるが、持ち前のメンタリティですぐに気持ちを切り替え、車いす競技の道へと進む。ある日、車いすマラソンの世界チャンピオンに会いたいとの一心で渡米し、憧れの彼に会うことを叶えた。そして、彼にそこで掛けられた一言がその後の進路を決定づけた。
「100のうち50は残った!」 不思議とそんな風に考えることができたおかげで、落ち込むことなく、生きていることに喜びを感じ、第2の人生「車いす生活」がスタートした。
そのお陰でリハビリもほとんど必要なく、すぐに車いすで自由を取り戻したことで、リハビリ担当の先生に車いすマラソンの世界を紹介してもらう。
退院後、すぐに練習を始めるも、しかし最初は全く進まず、まるで子供の頃に補助輪付きの自転車でヨタヨタしていたイメージだった。それでも少しずつコツをつかみ、徐々に走れるようになると、目の前の目標をどんどん追いかけていった。
デビュー戦から全国の先輩ランナーたちに名前を覚えてもらうようになり、当時17歳という若さも手伝って、いろんな人たちに可愛がってもらえたことで成績もぐんぐん上がった。
「こうなったら日本一を目指そう!」。初めて「日本一になる」という大きな目標を定める。
走り出した頃は、何となく自分より速い先輩を追いかけて走っていた。追いつくと次の速い人、また次に速い人、と。でも、日本一の選手にはなかなか追いつけなかった。
そこで思いついたのが、もっと速い選手を目標にしよう!ということ。20歳の時にいきなり世界チャンピオンに会うためにアメリカへ飛ぶ。当時、世界記録を持っていたのはアメリカのジム・クナーブ。ボストンマラソンも5回優勝している強者だ。ボストンマラソンに出場すればジムに会えるかも? 会いたい! という一心でアメリカ行きを決断する。しかし、海外なんて行ったこともなければ英語も話せない。世界チャンピオンが出場するかどうかもわからないまま飛行機に飛び乗った。
でも、ちゃんと神様が導いてくれたのか、世界チャンピオンのジム・クナーブに出会うことができた。レースが終わって仲間と談笑しているチャンピオンの元へ行き、カタコトの英語で挨拶。どうしても会いたかったこと、弟子にして欲しいことを、なんとか伝えることができた。するとジムは名刺を差し出し、「帰国したら英語を勉強して連絡して来なさい」と。
「よしっ、これで世界チャンピオンと友だちになれた!」そう喜んで帰国すると、すぐ英会話の学校に入学。英語なんて絶対必要がないと思っていたのに、自らお金を払って勉強する事になるとは...。
「車いすレースで日本一になりたい!」「世界チャンピオンとコミュニケーションが取りたい!」ー そう思えば苦手な勉強もガンガンできた。やがてFAXでのやり取りが始まり、世界一の練習メニューが届くようになる。そして今度は「練習のためにホームステイしないか?」との誘いが。
アメリカまで練習に行く? 当時、ほとんどの日本選手が海外に出ていかなかった時代に、試合ではなく練習で行くというのはとても勇気のいることだった。しかし、世界チャンピオンからの誘いなので行ってみることにした。
ジムからは本当に多くの事を学んだ。速くなるための練習やレース中の考え方、負けたあとの気持ちの切り替え方、プロになるためのスポンサーの見つけ方…。そしていちばん衝撃を受けたのは、その学んだことすべてを独り占めするな、ということ。
「日本に帰ったら日本の選手たちにすべて伝えるんだ!」と、帰国する直前に彼から言われた。「そうすることで日本全体のレベルが上がる。その中で更に努力して1位になることで、世界でも通用する選手になるんだ!」と。そう教えられて日本に戻った翌年、初めてマラソン日本一になることができた。
その結果、2000年シドニーパラリンピックに初出場し、800mで銀メダルを獲得することができた。実はこの時、金メダルでもなく、銅メダルでもない銀メダルというのが、今もなお現役生活を23年も続けている大きな要因になっている。
アトランタの落選があり、「シドニーには絶対に出場する!メダルを持ち帰る!」という目標を4年間持ち続けていたので、絶対に金メダルを獲るとの思いでスタートラインに並んでいた。レース中も前半3番手をキープし、ラストで捲れば金メダルが獲れると確信していた。しかし、ラスト250mで突然、後方の選手に追い抜かれ、4番手に転落。その瞬間、「メダルを逃してしまう....」とネガティブな考えに。
目の前の3番手の選手を抜くことに気持ちが行ってしまい、すぐ前を行く2選手のマークを外す。ラスト100mで3番手になり、前の2人に目をやると、明らかに失速している感じ。「まだ行ける!」そう思い、本当のラストスパート! ゴール前5mで2番手に上がるも、1位の選手まで0.2秒(約50cm)及ばずの銀メダル。レース後は、あとちょっとで金が獲れたとの思いから、悔しさの方が先だった。
一瞬でも「3位で良い」と思ってしまった自分の弱さに腹がたったし、その一瞬の判断ミスでレースの結果は決まってしまうということを知った。2度とあんな思いはしたくないと思い、それ以来、どんなレースでも最後まで精一杯力を出し切るレースを心がけている。「あの時こうすれば良かった」という後悔だけはしたくない。そして、身体が動く限りは何歳になっても走り続けようと思う。師匠のジム・クナーブは心臓を悪くしてスポーツが出来なくなったので、彼の分までまだまだ走り続けたい。
ジムからもらったいろいろな情報を、彼との約束通り日本のみんなに伝えたことで私自身も日本一になることができた。そしてパラリンピックで2度もメダルを手にすることができた。そして、後輩の選手たちも世界に出て戦う楽しさを知り、また世界で活躍するようになったのだ。恐らく20年前にジム・クナーブが思い描いていた景色はこうだったのだろうと、今、改めて思う。
「どんなことでもイメージし、そこへ向かって努力していけば、必ずイメージ通りになる」ということを、20年経った今、証明したような気分だ。まだまだ世界へ挑戦し戦い続けることができると、しっかりイメージできている。これからもパナレーサーのタイヤとともに世界への挑戦を続けていきたい。
廣道純選手も使用するパナレーサーの車いす用チューブラータイヤシリーズ、ウルティマとラピーデ。車いすマラソン競技用のウルティママラソンプラスは、トレッド面をスリックとし転がり抵抗の低減を図りながら、長距離レースに対応するためケーシングを強化。一方のウルティマトラックプラスは車いすトラック競技用で、トレッド面をスリックとする事に加え軽量化する事で、トラックレースで求められる反応スピードの速さに重点を置いた。
ラピーデプラスは20~27インチまで、サイズを豊富に取り揃える車いす競技用チューブラーの定番。ラピーデプラスライトはラピーデシリーズの軽量タイプで、インナーチューブにウルティマシリーズと同じくウレタンチューブを使用している。
マイナスではなく、ゼロからの出発
突然の事故により、車いす生活の宣告を受ける。普通なら取り乱したりふさぎ込んでも仕方がないような、人生の中での大事件を高校1年生で経験した。誰もがマイナスだと感じる出来事。しかし、もし死んでいたら…100ある体が0になっていたはず。それなのに上半身は丈夫なまま残っている。「100のうち50は残った!」 不思議とそんな風に考えることができたおかげで、落ち込むことなく、生きていることに喜びを感じ、第2の人生「車いす生活」がスタートした。
そのお陰でリハビリもほとんど必要なく、すぐに車いすで自由を取り戻したことで、リハビリ担当の先生に車いすマラソンの世界を紹介してもらう。
退院後、すぐに練習を始めるも、しかし最初は全く進まず、まるで子供の頃に補助輪付きの自転車でヨタヨタしていたイメージだった。それでも少しずつコツをつかみ、徐々に走れるようになると、目の前の目標をどんどん追いかけていった。
デビュー戦から全国の先輩ランナーたちに名前を覚えてもらうようになり、当時17歳という若さも手伝って、いろんな人たちに可愛がってもらえたことで成績もぐんぐん上がった。
人生で初の表彰台を経験
子供の頃からやんちゃ坊主だったので、何かで表彰されるという経験がまったく無かったが、車いすレースに出るようになってからは、全国のいろいろな大会で上位入賞できるようになった。北海道の全国車いすマラソン大会で初めて3位に入り、人生初のトロフィーも手にする。「こうなったら日本一を目指そう!」。初めて「日本一になる」という大きな目標を定める。
走り出した頃は、何となく自分より速い先輩を追いかけて走っていた。追いつくと次の速い人、また次に速い人、と。でも、日本一の選手にはなかなか追いつけなかった。
そこで思いついたのが、もっと速い選手を目標にしよう!ということ。20歳の時にいきなり世界チャンピオンに会うためにアメリカへ飛ぶ。当時、世界記録を持っていたのはアメリカのジム・クナーブ。ボストンマラソンも5回優勝している強者だ。ボストンマラソンに出場すればジムに会えるかも? 会いたい! という一心でアメリカ行きを決断する。しかし、海外なんて行ったこともなければ英語も話せない。世界チャンピオンが出場するかどうかもわからないまま飛行機に飛び乗った。
でも、ちゃんと神様が導いてくれたのか、世界チャンピオンのジム・クナーブに出会うことができた。レースが終わって仲間と談笑しているチャンピオンの元へ行き、カタコトの英語で挨拶。どうしても会いたかったこと、弟子にして欲しいことを、なんとか伝えることができた。するとジムは名刺を差し出し、「帰国したら英語を勉強して連絡して来なさい」と。
「よしっ、これで世界チャンピオンと友だちになれた!」そう喜んで帰国すると、すぐ英会話の学校に入学。英語なんて絶対必要がないと思っていたのに、自らお金を払って勉強する事になるとは...。
「車いすレースで日本一になりたい!」「世界チャンピオンとコミュニケーションが取りたい!」ー そう思えば苦手な勉強もガンガンできた。やがてFAXでのやり取りが始まり、世界一の練習メニューが届くようになる。そして今度は「練習のためにホームステイしないか?」との誘いが。
アメリカまで練習に行く? 当時、ほとんどの日本選手が海外に出ていかなかった時代に、試合ではなく練習で行くというのはとても勇気のいることだった。しかし、世界チャンピオンからの誘いなので行ってみることにした。
世界一の練習を本場のカリフォルニアで体験
朝に軽く40km、ランチのあとに昼寝、夕方は登りの練習、夜はBarに行って友人達と楽しく過ごす。そんな夢のような生活を、世界チャンピオンのジム・クナーブは送っていた。当時、日本ではプロ車いすランナーは存在しなかった。クナーブに仕事を尋ねると「走ることだ」と答えた。初めて彼がプロ車いすランナーだと知り、同時に車いすでもプロの世界があると知った。ジムからは本当に多くの事を学んだ。速くなるための練習やレース中の考え方、負けたあとの気持ちの切り替え方、プロになるためのスポンサーの見つけ方…。そしていちばん衝撃を受けたのは、その学んだことすべてを独り占めするな、ということ。
「日本に帰ったら日本の選手たちにすべて伝えるんだ!」と、帰国する直前に彼から言われた。「そうすることで日本全体のレベルが上がる。その中で更に努力して1位になることで、世界でも通用する選手になるんだ!」と。そう教えられて日本に戻った翌年、初めてマラソン日本一になることができた。
同時期に人生で一番の挫折を味わう
日本一になった年に行われたパラリンピック・アトランタ大会には、前年度の成績により選出されずに落選していた。悔しい思いと申し訳ない思いでジム・クナーブに連絡すると、「終わったことは気にするな。次を狙え!」と言われた。そのお陰で気持ちを切替えることができ、4年間、落選した悔しさを忘れることなく、ジムへの恩返しのつもりで頑張る事ができた。その結果、2000年シドニーパラリンピックに初出場し、800mで銀メダルを獲得することができた。実はこの時、金メダルでもなく、銅メダルでもない銀メダルというのが、今もなお現役生活を23年も続けている大きな要因になっている。
アトランタの落選があり、「シドニーには絶対に出場する!メダルを持ち帰る!」という目標を4年間持ち続けていたので、絶対に金メダルを獲るとの思いでスタートラインに並んでいた。レース中も前半3番手をキープし、ラストで捲れば金メダルが獲れると確信していた。しかし、ラスト250mで突然、後方の選手に追い抜かれ、4番手に転落。その瞬間、「メダルを逃してしまう....」とネガティブな考えに。
目の前の3番手の選手を抜くことに気持ちが行ってしまい、すぐ前を行く2選手のマークを外す。ラスト100mで3番手になり、前の2人に目をやると、明らかに失速している感じ。「まだ行ける!」そう思い、本当のラストスパート! ゴール前5mで2番手に上がるも、1位の選手まで0.2秒(約50cm)及ばずの銀メダル。レース後は、あとちょっとで金が獲れたとの思いから、悔しさの方が先だった。
一瞬でも「3位で良い」と思ってしまった自分の弱さに腹がたったし、その一瞬の判断ミスでレースの結果は決まってしまうということを知った。2度とあんな思いはしたくないと思い、それ以来、どんなレースでも最後まで精一杯力を出し切るレースを心がけている。「あの時こうすれば良かった」という後悔だけはしたくない。そして、身体が動く限りは何歳になっても走り続けようと思う。師匠のジム・クナーブは心臓を悪くしてスポーツが出来なくなったので、彼の分までまだまだ走り続けたい。
世界チャンピオンとの約束
ジムからもらったいろいろな情報を、彼との約束通り日本のみんなに伝えたことで私自身も日本一になることができた。そしてパラリンピックで2度もメダルを手にすることができた。そして、後輩の選手たちも世界に出て戦う楽しさを知り、また世界で活躍するようになったのだ。恐らく20年前にジム・クナーブが思い描いていた景色はこうだったのだろうと、今、改めて思う。
「どんなことでもイメージし、そこへ向かって努力していけば、必ずイメージ通りになる」ということを、20年経った今、証明したような気分だ。まだまだ世界へ挑戦し戦い続けることができると、しっかりイメージできている。これからもパナレーサーのタイヤとともに世界への挑戦を続けていきたい。
プロフィール
Panaracer 車いす用チューブラータイヤシリーズ
廣道純選手も使用するパナレーサーの車いす用チューブラータイヤシリーズ、ウルティマとラピーデ。車いすマラソン競技用のウルティママラソンプラスは、トレッド面をスリックとし転がり抵抗の低減を図りながら、長距離レースに対応するためケーシングを強化。一方のウルティマトラックプラスは車いすトラック競技用で、トレッド面をスリックとする事に加え軽量化する事で、トラックレースで求められる反応スピードの速さに重点を置いた。
ラピーデプラスは20~27インチまで、サイズを豊富に取り揃える車いす競技用チューブラーの定番。ラピーデプラスライトはラピーデシリーズの軽量タイプで、インナーチューブにウルティマシリーズと同じくウレタンチューブを使用している。
サイズ | カラー | 重量 | 価格 | |
ウルティママラソンプラス | 27×18㎜ | 黒/黒、赤/黒 | 190g | オープンプライス |
ウルティマトラックプラス | 27×18㎜ | 黒/黒 | 170g | オープンプライス |
ラピーデプラス | 27×18㎜ | 青/黒 | 230g | オープンプライス |
26×18㎜ | 黒/黒 | 210g | オープンプライス | |
24×18㎜ | 黒/黒 | 190g | オープンプライス | |
20×18㎜ | 黒/黒、赤/黒 | 160g | オープンプライス | |
18×18㎜ | 黒/黒 | 140g | オープンプライス | |
ラピーデプラスライト | 27×18㎜ | 黒/黒 | 170g | オープンプライス |
Panaracer 2014年度サポート情報 廣道純選手 | |||||||||||||||
2014年4月 長野車いすマラソン大会 | |||||||||||||||
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2014年6月 日本身体障害者陸上競技選手権 | |||||||||||||||
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2014年7月 種子島サンセット車いすマラソン | |||||||||||||||
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2014年9月 ジャパンパラ陸上競技大会 | |||||||||||||||
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2014年10月 アジアパラ競技大会 | |||||||||||||||
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2014年11月 大分車いすマラソン | |||||||||||||||
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2015年1月 シドニートラックミート | |||||||||||||||
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提供:パナソニック ポリテクノロジー株式会社