2013/12/27(金) - 12:37
2013年限りで選手を引退した福島晋一氏は、今後監督としての道を歩むべくフランスへ修行の旅に出る。選手として輝かしい実績を積み上げる中で得た貴重な経験は、必ず彼の携わるチームに活かされていくに違いない。
では、数多くのチームの勝利に貢献し、喜怒哀楽を積み重ねてきた監督たちは次に何を求めるのだろう。
例えば宇都宮ブリッツェンの前監督、栗村修氏はレース運営側の道を選んだ。氏は監督としての経験と、選手時代からの強い想いを胸に自転車レース界の先を見据えて新たな世界に飛び込む。
私が宇都宮ブリッツェンに加入したのは、チーム発足2年目となる2010年シーズン。2002〜2007年の6シーズンをチームミヤタで、2008〜2009年の2シーズンをシマノレーシングで、それぞれ監督およびコーチという肩書きで過ごした後の移籍でした。
ここだけの話、当時は2010年シーズンもシマノレーシングとの契約は延長していただける方向ではあったのですが、あえて宇都宮ブリッツェンという新しいチームを選択し、異なる可能性へと一歩を踏み出すことになったのです。
私が宇都宮ブリッツェンに加入した理由はいくつかありますが、その中で最も大きな原動力となったのが、“これしかない” という、ある意味での消去法的な感情でした。
私が自転車競技(ロードレース)をはじめた頃というのは、各自転車関連メーカーなどが丸抱えする形で運営する“実業団チーム”が主流の時代であり、選手たちは皆社員で、半日もしくはフルタイムで仕事をしている形態がほとんどだったと思います。
それでもアルバイトをしながら選手として食いつないでいる身としては十分に憧れの存在であり、ミヤタやシマノというチームが一つの目標となっていたことは事実であります。
時が経ち、幸運にも自分自身がこれらのチームに加入できるチャンスが訪れますが、チームミヤタは親会社の業績不振により活動休止に陥り、親会社の業績には心配のないシマノレーシングでも、次第にチーム(現場)としての向上心と企業理念というものの間に壁を感じるようになります。
もちろん企業チームには企業チームの良さがあります。それは、親会社の業績さえ良ければお金の心配はそれほど気にせずに(予算の範囲内で)チーム運営に集中できるという部分と、スポンサーである親会社の理解を得られれば、比較的自由に活動内容を選択できるという点です。
しかし、これらが逆に働くとデメリットへと変わってしまいます。親会社の業績が低下すればチームの成績や現場の意思に関係なく、チームはいとも簡単になくなってしまいますし、チームの意向と親会社の意向が一致しなければ、現場のモチベーションが活動内容に反映されることが難しくなります。
また、これらは各親会社の社内規程などによって違いはあるでしょうが、そもそも外部のスポンサーを獲得して年間の運営費を稼ぐ(プラス)ことが許されていないパターンもあります。
“実業団方式”のチーム運営というのは、親会社の価値観に同意し、その予算内での活動に満足するならば、ある意味最も安定した形式ですが、ひとたびチーム(現場)が大きな目標と意思を持ち、そこからチーム規模の拡大を志した場合は一定の問題が生じることになります。
更に、“国内にチーム数を増やしていく”という概念で考えた場合、実業団チームを新たに創るということはとても困難な作業といえます。
現在、国内の実業団チームでも大きなところではその予算規模は恐らく5000万円以上に達しているでしょう。
一方で、現在の国内ロードレース界(海外で活動したとしても)が生み出している費用対効果は限りなくゼロに近く、よっぽど特殊な需要が見込める企業でない限り、年間5000万円以上のお金を“広告効果”という手段で回収できる見込みはほぼゼロに近いといえます。
現状の国内実業団チームというのは親会社の黒字に完全に依存した、大規模な“企業のスポーツクラブ”というのが実態です。このこと自体は世の中がこういったチーム形態をこの先も認めてくれて、継続性があり、今後も必要とされるのならば決して悪いシステムではありません。
ただ、私自身はチームミヤタという老舗の実業団チームが、チーム自体は好成績を残している状況下で活動停止となったことを経験し、更に自転車業界では間違いなくダントツに資金を持っているはずのシマノ社が、シマノレーシングの存続意義というのを社内の一部で協議しているという事実を目の当たりにし、実業団チームという形式が「未来ある選択肢」だとはとても考えられなくなってしまいました。
「ある実業団チームが無くなるかもしれない」という噂を聞くことがあっても、「どこそこに新しい実業団チームが生まれるようだ」という話を聞くことはもはや皆無となっています。ということは、いち早く行動を起こさなければ、既存の実業団チームの数が徐々に減っていくのを黙って受け入れていくしかない、という結論に辿り着いてしまうのです。
日本初の本格的な地域密着型プロチームとして2008年10月に発足。その後、国内主要レースを中心に活動を続け、2012年には発足当初からの目標だった国内最高峰のシリーズ戦である「Jプロツアー」を完全制覇します。
また、国際レースにおいても2010年の「ツール・ド・熊野」でステージ優勝を飾るとともにリーダージャージを獲得し、2012年の「ツール・ド・北海道」では名誉ある団体総合優勝を獲得しました。
そして、国内の頂上決戦である「全日本選手権」においては、2012年に2位と4位のリザルトを残し、日本チャンピオンのタイトルまであと一歩に迫りました。国内シリーズ戦だけではなく、各国際レースでもその存在感を示した宇都宮ブリッツェンは、発足5年にして国内有数のロードレースチームへと成長を果たしました。
完全なる独立採算制で運営会社がチームを“経営”する宇都宮ブリッツェンは、何もしなければ1円たりとも活動資金を得ることができず、逆にお金を集めるということはそれに見合った価値をチームが身につけていかなくてはいけません。地域貢献活動やプロモーションなどに力を入れ、それらがチームバリューを高めていき、その上で成績を残すことで、地元メディアを中心に露出機会が徐々に増えていき、チームの年間予算も向上していきました。
スタッフ一人一人のアイデアや行動、そして選手たちの日々の努力というものが積み重なっていき、それらが実体経済のなかに受け入れられて社会的に“実存する”存在へと進化していったのです。
まさに自分自身が昔から描いていた理想(本来)の姿が宇都宮という奇跡の地でカタチになっていきました。
しかし、次第に日本という自転車競技(ロードレース)後進国の中にあって、チームという器ができることの限界を感じるようになっていきます。
それでは更にここから先へ進むためにはどうすれば良いのか? それは全体を司る階層で見た場合、チームという存在の上にくる環境の整備を進める必要があるという結論にたどり着きます。
チームの上にくる階層とは…。それは「レース」であり、レースというものをまとめる「リーグ」の様な存在の構築となります。
その結果、成績的に自分たちが苦境に陥ることすらありましたが、「全体の発展を求めることこそが宇都宮ブリッツェンにとってのメリット」という感覚を皆が共有できていたので、目先の利益にとらわれずに全体の発展に力を入れてこれたのです。
宇都宮ブリッツェンが描く理想の世界とは、国内サッカーのトップリーグである「Jリーグ」の様な、広くてしっかりとした発掘システムを底辺に持ち、その一方で世界最高峰のレースでの優勝を狙う組織を頂点に持つ大きなピラミッドを国内に創りあげていくことです。
下部育成組織(ブラウ・ブリッツェン)を持つ宇都宮ブリッツェンの活動をマニュアル化し、全国各地に地域密着型チームの設置を進めていく。
サッカーのJリーグやプロ野球の選手たちというのは、全てが世界的な能力を持った選手たちではないが、世界的には中レベルの実力だったとしても「プロ」という活動を国内で進めることで、子供たちの憧れや目標を育み、身近な場所に入口と育成システムが設けられ、世界で戦える選手の発掘が可能となる。
そして、自転車ロードレースというスポーツに熱狂するファンを育てていき、この世界全体での事業=雇用を増やして経済的価値を大幅に高めていくことが可能となる。
サッカーの日本代表チームのような意味合いを持つ、日本自転車ロードレース界のシンボル的存在。現在、国内の有力各チームは様々な目標と活動場所を選択しており、規模の小さな活動をバラバラに行っている状況。
元々、日本国内では実業団スポーツが基板となって発展してきた実態があるだけに、横の繋がり(例えばチーム同士の合併や経済的協力)には少なからず障害が存在している。
「地域密着型チーム」という企業の縛りのない形態(ヨーロッパのチームのような基本形態)を持つ宇都宮ブリッツェンの活動をベースとして、「世界を目指す」という明確かつ共通の目標をチーム間の垣根を超えて共有し、リーグや各チームが出資し合って創る、まさに夢のナショナルプロチームの構築を目指す。宇都宮ブリッツェンの理想というのは、いちチームの活動範囲を大きく超越しており、「2」については国内主要連盟や主要レースオーガナイザーとの横の繋がりを構築してマクロな視点を持ってこれまでの日本にはなかったような巨大組織の構築を目指していきたいと考えています。
また、「3」についても、リーグの上部組織としての位置付けではあるものの、結局は国内の各チームが共通の目標とそこに向かうための手段を共有しなければならず、全てに於いて宇都宮ブリッツェンというチームが、「理念」、「目標」、「活動」などのハブとなっていく必要があると考えています。
規模が大きくなり、難易度も増していく挑戦なので、これまでよりも長い時間軸で物事を進めていく必要があるでしょう。既に水面下では数え切れないほどのトライ・アンド・エラーが繰り返されていますが、いずれ一歩ずつ具体的な取り組みというものが生まれてくると信じています。
これまで監督やコーチとして、ミヤタ、シマノ、宇都宮ブリッツェンというチームを歴任してきましたが、自分のなかでは一貫した道のりを進んでいるという自覚があります。そして、2014年からの挑戦というのも、自分自身が選手時代から抱いてきた想いの延長上にあることを強く意識しています。
今後もくじけることなく、粘り強く進み続けていきたいと思います。
では、数多くのチームの勝利に貢献し、喜怒哀楽を積み重ねてきた監督たちは次に何を求めるのだろう。
例えば宇都宮ブリッツェンの前監督、栗村修氏はレース運営側の道を選んだ。氏は監督としての経験と、選手時代からの強い想いを胸に自転車レース界の先を見据えて新たな世界に飛び込む。
最後の希望となる地域密着型チームへ加入
2013年シーズンをもって、4年間務めた宇都宮ブリッツェンの監督職を退任しました。2014年は同チームのテクニカルアドバイザーに就任します。私が宇都宮ブリッツェンに加入したのは、チーム発足2年目となる2010年シーズン。2002〜2007年の6シーズンをチームミヤタで、2008〜2009年の2シーズンをシマノレーシングで、それぞれ監督およびコーチという肩書きで過ごした後の移籍でした。
ここだけの話、当時は2010年シーズンもシマノレーシングとの契約は延長していただける方向ではあったのですが、あえて宇都宮ブリッツェンという新しいチームを選択し、異なる可能性へと一歩を踏み出すことになったのです。
私が宇都宮ブリッツェンに加入した理由はいくつかありますが、その中で最も大きな原動力となったのが、“これしかない” という、ある意味での消去法的な感情でした。
私が自転車競技(ロードレース)をはじめた頃というのは、各自転車関連メーカーなどが丸抱えする形で運営する“実業団チーム”が主流の時代であり、選手たちは皆社員で、半日もしくはフルタイムで仕事をしている形態がほとんどだったと思います。
それでもアルバイトをしながら選手として食いつないでいる身としては十分に憧れの存在であり、ミヤタやシマノというチームが一つの目標となっていたことは事実であります。
時が経ち、幸運にも自分自身がこれらのチームに加入できるチャンスが訪れますが、チームミヤタは親会社の業績不振により活動休止に陥り、親会社の業績には心配のないシマノレーシングでも、次第にチーム(現場)としての向上心と企業理念というものの間に壁を感じるようになります。
もちろん企業チームには企業チームの良さがあります。それは、親会社の業績さえ良ければお金の心配はそれほど気にせずに(予算の範囲内で)チーム運営に集中できるという部分と、スポンサーである親会社の理解を得られれば、比較的自由に活動内容を選択できるという点です。
しかし、これらが逆に働くとデメリットへと変わってしまいます。親会社の業績が低下すればチームの成績や現場の意思に関係なく、チームはいとも簡単になくなってしまいますし、チームの意向と親会社の意向が一致しなければ、現場のモチベーションが活動内容に反映されることが難しくなります。
また、これらは各親会社の社内規程などによって違いはあるでしょうが、そもそも外部のスポンサーを獲得して年間の運営費を稼ぐ(プラス)ことが許されていないパターンもあります。
“実業団方式”のチーム運営というのは、親会社の価値観に同意し、その予算内での活動に満足するならば、ある意味最も安定した形式ですが、ひとたびチーム(現場)が大きな目標と意思を持ち、そこからチーム規模の拡大を志した場合は一定の問題が生じることになります。
更に、“国内にチーム数を増やしていく”という概念で考えた場合、実業団チームを新たに創るということはとても困難な作業といえます。
現在、国内の実業団チームでも大きなところではその予算規模は恐らく5000万円以上に達しているでしょう。
一方で、現在の国内ロードレース界(海外で活動したとしても)が生み出している費用対効果は限りなくゼロに近く、よっぽど特殊な需要が見込める企業でない限り、年間5000万円以上のお金を“広告効果”という手段で回収できる見込みはほぼゼロに近いといえます。
現状の国内実業団チームというのは親会社の黒字に完全に依存した、大規模な“企業のスポーツクラブ”というのが実態です。このこと自体は世の中がこういったチーム形態をこの先も認めてくれて、継続性があり、今後も必要とされるのならば決して悪いシステムではありません。
ただ、私自身はチームミヤタという老舗の実業団チームが、チーム自体は好成績を残している状況下で活動停止となったことを経験し、更に自転車業界では間違いなくダントツに資金を持っているはずのシマノ社が、シマノレーシングの存続意義というのを社内の一部で協議しているという事実を目の当たりにし、実業団チームという形式が「未来ある選択肢」だとはとても考えられなくなってしまいました。
「ある実業団チームが無くなるかもしれない」という噂を聞くことがあっても、「どこそこに新しい実業団チームが生まれるようだ」という話を聞くことはもはや皆無となっています。ということは、いち早く行動を起こさなければ、既存の実業団チームの数が徐々に減っていくのを黙って受け入れていくしかない、という結論に辿り着いてしまうのです。
宇都宮ブリッツェンの歩み
そんな中で宇都宮に生まれたのが『地域密着型プロチーム』というキャッチフレーズを身にまとった宇都宮ブリッツェンでした。日本初の本格的な地域密着型プロチームとして2008年10月に発足。その後、国内主要レースを中心に活動を続け、2012年には発足当初からの目標だった国内最高峰のシリーズ戦である「Jプロツアー」を完全制覇します。
また、国際レースにおいても2010年の「ツール・ド・熊野」でステージ優勝を飾るとともにリーダージャージを獲得し、2012年の「ツール・ド・北海道」では名誉ある団体総合優勝を獲得しました。
そして、国内の頂上決戦である「全日本選手権」においては、2012年に2位と4位のリザルトを残し、日本チャンピオンのタイトルまであと一歩に迫りました。国内シリーズ戦だけではなく、各国際レースでもその存在感を示した宇都宮ブリッツェンは、発足5年にして国内有数のロードレースチームへと成長を果たしました。
完全なる独立採算制で運営会社がチームを“経営”する宇都宮ブリッツェンは、何もしなければ1円たりとも活動資金を得ることができず、逆にお金を集めるということはそれに見合った価値をチームが身につけていかなくてはいけません。地域貢献活動やプロモーションなどに力を入れ、それらがチームバリューを高めていき、その上で成績を残すことで、地元メディアを中心に露出機会が徐々に増えていき、チームの年間予算も向上していきました。
スタッフ一人一人のアイデアや行動、そして選手たちの日々の努力というものが積み重なっていき、それらが実体経済のなかに受け入れられて社会的に“実存する”存在へと進化していったのです。
まさに自分自身が昔から描いていた理想(本来)の姿が宇都宮という奇跡の地でカタチになっていきました。
しかし、次第に日本という自転車競技(ロードレース)後進国の中にあって、チームという器ができることの限界を感じるようになっていきます。
それでは更にここから先へ進むためにはどうすれば良いのか? それは全体を司る階層で見た場合、チームという存在の上にくる環境の整備を進める必要があるという結論にたどり着きます。
チームの上にくる階層とは…。それは「レース」であり、レースというものをまとめる「リーグ」の様な存在の構築となります。
宇都宮ブリッツェンの理想
宇都宮ブリッツェンというチームの思考は、発足当初から「自分たちのチーム」という範疇を大きく超越している部分がありました。チームとして、そしてチームに在籍する各個人として、新たなチームが生まれる際には様々な支援などを行なってきました。その結果、成績的に自分たちが苦境に陥ることすらありましたが、「全体の発展を求めることこそが宇都宮ブリッツェンにとってのメリット」という感覚を皆が共有できていたので、目先の利益にとらわれずに全体の発展に力を入れてこれたのです。
宇都宮ブリッツェンが描く理想の世界とは、国内サッカーのトップリーグである「Jリーグ」の様な、広くてしっかりとした発掘システムを底辺に持ち、その一方で世界最高峰のレースでの優勝を狙う組織を頂点に持つ大きなピラミッドを国内に創りあげていくことです。
1.ピラミッドの底辺
日本中から多くの可能性を持った優れた人材(才能)を見つけ出し、ロードレースというスポーツの基本を効率よく教育していくための育成プログラムを地域密着型チームという器を使って構築していく。下部育成組織(ブラウ・ブリッツェン)を持つ宇都宮ブリッツェンの活動をマニュアル化し、全国各地に地域密着型チームの設置を進めていく。
2.ピラミッドの中腹
その一方で、国内ロードレース界が世界へ挑戦していくために必要な経済的基盤や受け皿を創りあげていくため、国内プロリーグをピラミッドの中腹に設定し、多くのメディア、スポンサー、ロードレースファンなどが集えるビジネス的価値のあるコミュニティ構築に力を注いでいく。サッカーのJリーグやプロ野球の選手たちというのは、全てが世界的な能力を持った選手たちではないが、世界的には中レベルの実力だったとしても「プロ」という活動を国内で進めることで、子供たちの憧れや目標を育み、身近な場所に入口と育成システムが設けられ、世界で戦える選手の発掘が可能となる。
そして、自転車ロードレースというスポーツに熱狂するファンを育てていき、この世界全体での事業=雇用を増やして経済的価値を大幅に高めていくことが可能となる。
3.ピラミッドの頂点
ピラミッドの上部を担うのが、世界最高峰の自転車ロードレース「ツール・ド・フランス」での総合優勝を狙うナショナルプロチームの運営となる。サッカーの日本代表チームのような意味合いを持つ、日本自転車ロードレース界のシンボル的存在。現在、国内の有力各チームは様々な目標と活動場所を選択しており、規模の小さな活動をバラバラに行っている状況。
元々、日本国内では実業団スポーツが基板となって発展してきた実態があるだけに、横の繋がり(例えばチーム同士の合併や経済的協力)には少なからず障害が存在している。
「地域密着型チーム」という企業の縛りのない形態(ヨーロッパのチームのような基本形態)を持つ宇都宮ブリッツェンの活動をベースとして、「世界を目指す」という明確かつ共通の目標をチーム間の垣根を超えて共有し、リーグや各チームが出資し合って創る、まさに夢のナショナルプロチームの構築を目指す。
また、「3」についても、リーグの上部組織としての位置付けではあるものの、結局は国内の各チームが共通の目標とそこに向かうための手段を共有しなければならず、全てに於いて宇都宮ブリッツェンというチームが、「理念」、「目標」、「活動」などのハブとなっていく必要があると考えています。
宇都宮ブリッツェンの次の取り組み
来季、私が監督を退任して「ツアー・オブ・ジャパン」の副イベントディレクターに就任することや、栃木県を1周する国際レース「ツール・ド・とちぎ」構想が具体化していることが示すように、“チーム”という存在の上の階層へとチャレンジしていくことになります。規模が大きくなり、難易度も増していく挑戦なので、これまでよりも長い時間軸で物事を進めていく必要があるでしょう。既に水面下では数え切れないほどのトライ・アンド・エラーが繰り返されていますが、いずれ一歩ずつ具体的な取り組みというものが生まれてくると信じています。
これまで監督やコーチとして、ミヤタ、シマノ、宇都宮ブリッツェンというチームを歴任してきましたが、自分のなかでは一貫した道のりを進んでいるという自覚があります。そして、2014年からの挑戦というのも、自分自身が選手時代から抱いてきた想いの延長上にあることを強く意識しています。
今後もくじけることなく、粘り強く進み続けていきたいと思います。
プロフィール
栗村 修 くりむら おさむ
1971年12月30日生(42歳)神奈川県出身
1971年12月30日生(42歳)神奈川県出身
宇都宮ブリッツェン テクニカルアドバイザー
J SPORTS サイクルロードレース解説者
ツアー・オブ・ジャパン 副イベントディレクター
1989年、高校を中退し、17歳で自転車の本場フランスにロードレース修行を敢行。帰国後は実業団チームで実績を積み重ね、1998年にポーランドのプロチーム「MROZ」と契約。
その後はチームミヤタで活躍し、現役を引退してからは、チームミヤタで監督、シマノレーシングでスポーツディレクターを務めた後、宇都宮ブリッツェンの監督に就任する。
2014年からは12年間続けてきた現場の仕事を一旦卒業し、レース運営の仕事を勉強しながら今後の発展を模索していく。
J SPORTS サイクルロードレース解説者
ツアー・オブ・ジャパン 副イベントディレクター
1989年、高校を中退し、17歳で自転車の本場フランスにロードレース修行を敢行。帰国後は実業団チームで実績を積み重ね、1998年にポーランドのプロチーム「MROZ」と契約。
その後はチームミヤタで活躍し、現役を引退してからは、チームミヤタで監督、シマノレーシングでスポーツディレクターを務めた後、宇都宮ブリッツェンの監督に就任する。
2014年からは12年間続けてきた現場の仕事を一旦卒業し、レース運営の仕事を勉強しながら今後の発展を模索していく。
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